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この本は、講談社の『日本の歴史』全26巻の第00巻として書かれ、「『日本』という国号は、いつどのようにして決まったのか。その根拠は何か。『日本は均質で、孤立した島国』なのか。『日本は農業社会で、百姓はすべて農民』なのか。これまでの国家像・国民像を検証し直し、その虚構を覆す。『百姓』の多様な生業、海民の実態、琉球、アイヌとの結びつき、東と西の地域的差異と交流など、東アジア世界に開かれた日本列島の多様性をダイナミックに提示」するのが意図である。
著者は、「日本」について『東と西の語る日本の古代史』や『日本論の視座』などの議論を提示してきた。展開される「日本」観は一貫して、「日本列島が一つである」という発想を批判する。日本は単一民族ではないということを次のように強調する。
「あらためて強調しておきたいのは、『日本人』という語は日本国の国制の下にある人間集団をさす言葉であり、この言葉の意味はそれ以上でも以下でもないということである。」(p.87)「はるか昔から日本列島には日本民族と称すべき民族が住んでいた」ということはあり得ないと説いた。当たり前である。
氏の主張は、日本史の教科書に書かれている「日本人の起源」という発想方法を否定する。一例をあげると「聖徳太子は倭人であり、日本国の成立以前であるから厳密には日本人ではない」という。その背後にあるの「日本」と呼ばれる国には成立した過程があり、「日本」という孤立した島国はない。また、「日本人」は国の成立後にその概念ができたものであり、決して均質ではないのである。
「日本人は単一どころか、近畿人・北九州人と朝鮮半島人とは強い親近性を持つことになり、その差異は関東人と近畿人の差異よりも小さいことになるのである。」(p.41)さらに、列島社会の交易を軸に辿ることで、北方、南島との交流をひろいあげ、海を中心とした人々の広がりを見いだすことができる。水田の稲作はこの海のルート抜きにはでは考えにくい。半島から伝わったにしても、半島に持ち込んだのは海に漕ぎ出した人達である。交易も船なしでは人や物の往来はあり得ない。
百姓=農民と安易に読み替えられてしまう状況は、日本が農業国であり、人口の90パーセントが農民だという「定説=思い込み」が背景にある。史料と実地での調査では百姓と区分けされた家が農業ではなく魚の商売をしていたという事実も分かり、農業を営むのに難しい場所で多くの人が百姓と区分けされている例もあり、多様な生業に従事する人たちが百姓(=農民)となっていることも突き止めた。
こうした事例をさまざまに収集して、「日本」が古くから続いてきたかのような錯覚を排し、日本社会の豊かな多様性を取り上げ、これまで省みられなかったものまで見直そうと言うことである。「貧しい漁村」という通念と「へんぴで貧困な山奥の村」のイメージが海と山の豊かさを過小評価し、「瑞穂国」の稲作文化により高い価値を置くのは偏見であると主張する。
日本列島と同じような地理のブリテン島(イギリス)には、ヨーロッパ大陸から度重なる異民族の侵入があった。その度に先住民と戦い、殺戮、追放、同化を繰り返した。「イベリア人」の侵入(BC3000頃)を始め、順に「ビーカー人」(BC2400年頃)、「ケルト人」(BC700年頃)、「ローマ人」(BC54年ローマ属領)、「サクソン人」(400年前後)、「アングル人、ジュート人」(5世紀の半ば)、「ノルマン人」(1066年)、最後はウィンザー家(ザクセン=コーブルク=ゴータ家のドイツ名を変更)がイギリス王家になった。
実際に、日本列島を含む広域の東アジアでは漢の安定期を除き戦国時代から隋・唐による統一までは、中国大陸と韓半島には多くの民族が入り乱れていた。当然、日本列島に住む人々にも大きく影響を与えたと考えられる。今の日本人の顔を見ても、縄文系や弥生系に限らず、南アジア系の顔も多い。秋田美人はコーカサス系が入っていると思えるような顔立だ。大和王朝の歴史だけとは考えにくい。錯綜する人の流れがあって当然だと思う。
資料の点検とその手堅い検証方法には、歴史学者の第一人者の厚みがある。著者の調べる資料の膨大な量とその質の高さには圧倒される。
矢津陌生ブログ http://yazumichio.blog.fc2.com/blog-entry-262.html より転載
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