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つれづればなhttp://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-99.htmlより転載
わが国において「自由」という言葉が湯水の如く使われているため、その語意について疑いの目が向けられることは少ない。必要さえ見当たらない。
おおよその解釈は、「自らの選択で行動あるいは思考することができる状態、しかしそれは他人に迷惑をかけない範囲でのこと」、または単に「束縛や強制を受けていない状態」である。
これは近代とともにわが国に定着した言葉であるが古来はほとんど使われた形跡がなく、あったにせよ今とはだいぶ違う意味で使われていた。古くは日本書紀に見られ後の徒然草にも現れる「自由」は、「傍若無人」「我儘勝手」といった悪い形容に使われるのみであった。
ひとまず話を近代以降に絞るとする。
「生」に対し「死」があるように、「天」に対し「地」があるように、「自由」の対極には「不自由」がある。つまり自由が存在するためには不自由がなければならない。
現実の不自由が支配や拘束や虐待などの形でまず存在し、そこからの脱却によってもたらされるのが自由である。
これとは別に他者に現実におこった「不自由」を見てしまうか、話に聞くか、学校で教わるか、テレビのCGに吸い込まれるかして疑似体験した「「不自由」に恐怖、戦慄し、それから逃れることを「非・不自由」すなわち「自由」と定義してしまっている。
たとえば非民主主義国である某国には人権など存在せず非道が横行しているが民主国家である某某国国民は自由に生きている、結婚して子供ができると家庭生活に全てを注ぎ込むことになるが独身でいれば自由に生きられる、あるいは原発がなくなると景気が落ち込み身動きができなくなるが原発さえあればバブルの頃のような自由な暮らしがもう一度やってくる…
さまざまな権利が確立した(はずの)今日の日本では前者(不自由からの脱却)はもはや当然、いまさら「自由」などとは呼ばないほど軽んじられているかのように思える。むしろ日本を闊歩する「自由」とは後者(具現化された不自由から逃避)のほうではないか。
明治までの日本は封建制度と後に呼ばれる枠組みがあり人々はその枠組みの中で生きていた。武家に生まれたものは武士となり、職人の子は親の職を継ぎ、農村に生まれれば百姓となるのが普通だった。百姓の数が減ることは国の衰退につながる一大事、そのため公儀の許しなく農村を離れることは罪とされた。逆に武士として生まれた者がその身分を捨てることも武家社会の体面を傷つけるものとして制限されていた。身分の自由と呼べるものはなかった。
もちろん例外はある。江戸や大阪で労働力が必要になると農村の男たちが駆り出されそのまま人足や職人として都市に居つくこともあり、商才があれば商売をはじめることも稀ではなく中には豪商にのし上がる者まであった。貧農に生まれた河村瑞賢は江戸で人足をしながら商売を覚え材木商となり財を成した。そして後に幕府の公共工事に関わるようになるとさらにその才覚をあらわし多くの御用を預かった。淀川の治水工事、航路開拓など、その功績を以って晩年にはその名を旗本に列ねるまでとなった。吉原での豪遊ぶりも紀伊国屋文左衛門とともに今に語られている。
しかしこれは例外中の例外、多くの人にとって生まれを越えることなど夢にも勝る絵空事、それを受け入れて生きていた。
同じ頃の西洋。航海航路の開拓から通商がおこり流通業と金融業が発達した。当然生まれる摩擦により武器の需要も跳ね上がり、喉から手が出るほど兵器が欲しい王侯貴族たちにカネを貸付る金融業者は資本を確立し、現代に至るまで世界を支配する資本主義経済がここに芽生える。
キリスト教社会では金融につきものの「利息」はもともと禁忌でありカネを扱う金融業を忌み嫌う風潮が強かった。そのため銀行も両替商も「ベニスの商人」のシャイロックのような特殊な人種に任されていた。専横されていたとも言える。教会や王侯貴族たちは富をいつのまにか金融業者たちに吸い上げられやがて衰退していった。
しかし世の実権を誰が握ろうと民衆の暮らしは変わらずに困窮を極め、とうとう18世紀の終わりには革命の火がつき、炎となって専制制度を焼き落とした。虐げられる民衆が「自由」を手に入れつつあった。
われわれ日本人が学校で習う「自由」のお手本はフランス革命である。専制主君から政治を奪い取り議会を立ち上げ、憲法を作り、周辺諸国ともども産業革命の波に乗って近代社会を築いてゆく流れを自由と呼ばせている。ただし民衆からむしりとったものが王侯貴族を経由してどこに行ったのか、または欧州の奴隷や農奴を開放する傍らで新航路の果てにある国の肌の色の違う人々を捕まえ苦しめたことからは意図的に目を逸らし、産業革命がもたらしたのは軍事産業ではなく豊かで便利な暮らしと教えている。いずれも中世から近代に移行する折に浮き出た錆を覆い隠すに便利な言葉、それが「自由」であった。
本稿は「ほんとうの自由とは」などを熱く語るものではない。むしろそのようなものはどこにもないことを申し上げたい。
人は生まれながら自由などではない。空気と水がなければ一刻とて生きて入られない。生まれる国を、家を、親を選べない。男は男として、女は女として生きることを余儀なくされている。あめつちとわたつみの恵みに養われ、そしてあるひ必ず死ぬ。生まれたそのときに死の宣告をうける。これを覆そうとすれば必ず恐ろしい罪を犯すに至るであろうことは、われわれ日本人であればなぜが、教わらずとも知っている。それを忘れさせるために外からに押し付けられているのが「自由」なる言葉である。
日本人に「自由」をもたらしたのが明治維新、それに先行する「不自由」を因習ずくめの悪しき時代である江戸時代と見立ててのことである。しかし江戸時代がそんなに悪い時代だったかは評価が分かれる。そして明治から今に至る近現代がそんなに薔薇色の時代であるかどうかも然り。
黒い船に乗ってやってきた西洋人が我々に「自由」もたらしたのは親切心からではなくあくまで経済戦略である。日本の黄金、生産力と労働力、蒸気船を稼動するための豊富な森林資源を狙うもので、日本は世界の経済を牛耳るための重要な足がかりであった。特に日本人の器用な手指と勤勉さは工業生産の担い手として好都合と考えられ、また航海術にも武術にも秀でた日本人は武力で殲滅するより仲間として懐に抱えるべきと判断された。ともあれ日本には選択肢などなかった。黒船以前から日本に外国船が近寄っては通称を求められていがその都度やんわり拒んできた幕府であるが、とうとう江戸前に陣取る艦隊に大砲を構えられ、アヘン戦争後の清国の惨状を知ったうえでは「降伏」するしかなかった。
貿易の障害になるものを取り払い自由に取り引きできるようにすれば当然力の強いものが上に立つことになる。この場合の力とは競争力のことを指すのであろうが結局は腕力につながる。つまり武力を笠にきていくらでも弱いものいじめをすることができる。それを自由経済という。「鎖国」という障壁を取りはらわされた後、露骨な不平等条約を呑まされながらも勤勉に働き続けた日本人は条約改正にまで漕ぎ着けるが、そのころには完全な軍国となり常に欧米の切り込み役を買っていた。気がつけば極東の大悪党にされていた。
やや遅れて日本と似たような道を歩んだのがオスマントルコ帝国である。内から病み、外から攻められて崩壊しつつあった国を救ったとされるケマル・アタテュルクは「自由」の象徴として、逆に旧帝国は暗黒時代の象徴として定義された。第二次大戦後、欧州は足りなくなった労働力をトルコからの移民で補った。欧州の復興に大きな役割を果たしたトルコ人労働者が祖国に持ち帰ったのは外貨、そして欧州至上主義であった。「悪い皇帝を追っ払ったアタテュルク、自由をくれたアタテュルクばんざい」ほんの数年前まで子供たちはこんな歌を音楽の授業で歌わされていた。西欧列強は自らに都合のよい傀儡を送り込み古い政権を悪者に仕立て上げることでこの国の人心を改造した。
市井の人々を含む国民の識字率と書物の量、ともにずば抜けて高かったのが江戸時代の日本とオスマン帝国時代のトルコである。人々の闊達で明るい暮らしぶりは文学や絵画から知ることができフランス革命のころの欧州とは比較の余地はない。欧州で相次いだ革命の背景に似たものは日本にもトルコにもなかった。だがそれでも近代は、甘く芳しい「自由」という言葉をつれて訪れた。世界の中心を作り出すために。
いわば「自由」とは軍事・経済用語のひとつである。それを芸術や思想や教育の世界に持ち込んでしまったのはこの言葉に幻想を抱いた我々の勝手な思い違いからである。
心の内側から迸るものを形や色彩で、旋律や調べ、時には文字をちりばめて外に訴える、それは何者からも制限を受けることのない思いのままの世界である。それを自由と言はずしてなんと言う、そう問われるだろう。あるいは世のしがらみから自らを解き放ち、裸足で波と戯れ、ひとり風に身を任せることができたのならばそれを自由と呼ばずして、いったい何と呼ぶべきか。
「自在」という日本語があったことを思い出そうではないか。辞書にある言葉の意味こそは「自由」とかわらぬものの本来は別のことばである
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