12. ろうし力学 2012年9月29日 17:07:41
: riuSNxeQ9qjU6
: wk1s0je0oA
宮島鹿おやじ様お返事を頂きまして、ありがとうございます。 それにしましても、今までは言わぬようにしておりましたが、安芸ガラス様の彗眼に接し、当方はなんともつまらないゴタクを並べて児戯に等しい奴…と感じるのですが、しかし実際児戯であるのは真実な故、開き直ってしゃべくります(笑) さて、おやじ様がいらっしゃることが自体が当方には素晴らしき、有り難きことですのですが、更に語りかけて頂きまして、重ね重ね感謝致します。 以下、論考です。 >そのメカニズムとは何であるかと時々考えます。 >今、はっきり言えることは、明らかに人間のエゴ(煩悩、欲望)が心を支配すると>きに堕落していくのだろうと漠然と考えています。 この人間が自滅の方向性に誘引されていってしまうメカニズムを見つめ考えることが、非常に重要な行い(その逆が思考停止)ではないかと当方も思っています。 その正反対を進めば、人間はその原点(※いつか論じますね)へ、回帰すると思うのです。唯物論者でも、本心は自滅したいというわけではないと考えます。 一部の唯物論者は、なんとか自分の自滅(消滅)を回避せんと、あらゆる悪魔的所業に走る(不老不死など)のを、歴史に見て取れます。大概は諦めてめちゃくちゃに突っ走るようですが。 >ところで、「直達正観」という概念についてですが、初めて伺う言葉なのですが、>よろしければもう少し詳しくお話しいただけるでしょうか。 この言葉にまとわりついてくる概念もグチャグチャしており、日蓮聖人だと記憶していますが、ここでは日蓮さんの関連でなく、文字通り文字を言霊に即して論考します。 とは言っても単純明快(だから直達正観なのですが…)、直接達し、あるがまま(正)に観る、ということで使っています。(創○学会の人なら、その解釈はなんだかんだ…となりますね^^;) 直接、とは、視覚において、プリミティブということで、そのまんまですね。 何も概念的手垢がついていないから直に、ということです。 達す、とは何に自分のプリミティブな視覚が達するのか、というと、これまた単純明快、目の前そのもの、知覚正面です。 「正」を、あるがままと言っているのは、後々論じますが、正しいとはどういう意味かということでもあるのですが、「まさ」と読むことからも、「まさに」という使い方からあるがまま、その本来の、ということになります。そして、日本人は五を数える時にこの字を使いますが、宇宙の基本システムを言い表している、とここでは書いておきますが、その意味においてあるがまま、となります。 観、そのまま観る。見る視ると書かずに観るですが、観賞、には楽しむという解釈がつきまとっておりますように、芸術を観賞するというときに、美は評価するのではなく、まさに感じ取るものですから、そこに働くのは思考や頭脳と言ったことではない、感性、精神、魂で受け取る、という観るです。 ですから、直達とは、全く俺が俺がという「自分」を廃して目の前をそのまま観る、正観、正しく観るですから、脚色をしない、宇宙が用意した現象そのものを捉える、ということになります。 直達正観とは、世界を受け取る(宇宙からのギフトを受け取る)時には、そこにそのまま存在の真理が描かれ埋め込まれているのですから、人間の浅知恵を持ち出さず、解釈や脚色を思考や概念に持たずに、あるがままに観るならば、眼前の現象には法則そのものが、十分に語られているから、人間は「事実」から全部理解出来るようになっているから、ゼロ(空・タオ)になって知覚正面に自身を投じなさい(警戒せずに溶け込みなさい)、という事になります。 武士道の求道における到達点として、「無為自然(むいじねん)」という境地が達人によって語られています。 無為とは、ゼロ、空、我がタオ(道)となりきる、自然とは、自らが然るという如く、自分が本来あるように、という事になります。 自然(じねん)が現在自然(しぜん)と読まれるように、大自然と一体化する境地とも読めます。 眼前の世界と自己の境界が(概念として)なくなる境地ですから、「肉体人間(物質主導)としてああだこうだ(理屈・理を屈せすさす)を一切廃するのが無為、そうなりなることは即ち自然(世界と一体化)につながる、というわけです。 まるで意味は同じであります。眼前の世界と我を断絶していない状態、これは人類が全員例外なく、胎児〜1歳児の三年間(さんさいごころ)には、(前世の要素を加味しなければ)思い込みを持っていない精神の状態を有しておりました。我々全員が。 >>如何にして現在の我々「大人」は、世界に奥行きを与え、空間を空っぽの容器だと概念し、 >>その絶望的に広大な空の容器のなかに、自らの感受性が寄って立つところの「肉体」を、 >>一塊のモノ扱いし、眼前の世界と切り離して、世界との関係を絶ってしまったのか。 この状態にある人間の世界認識は、直達にはない、正観でない認識の状態です。 後々論じますが、『自らの感受性が寄って立つところの「肉体」を、一塊のモノ扱いし』というのは、つまり 「自分とは肉体である」という、唯物還元論者の常套句でありましょう。 その思考、記憶、感情とは、神経組織の電気的科学反応の結果に過ぎません。 人間存在とは、原子の偶然の産物であり、その行末は「無」、完全なる消滅であり、人間とはなんと無意味で無価値で無力なものであり、己のことを考えただけで、実に空虚であり、絶望的なものが己の生であると、そこには意味など生じる余地がなく、いつ何時己が消滅するやもしれぬ恐怖に最悩まれる、それが人間である、と。 他方、安芸ガラス様と宮島鹿おやじ様は、量子力学の知見に明るいので、既に理解されていることですが、「観察者が観察を行うことによって、確率は収縮し、現実の事象となる」わけですから、「世界は自分で出来ている」ことを示しています。 見える世界、見る世界は、ワタシが「見るからある」わけであって、観察者の意識と切り離して現象が独立して存在している訳がありません。 唯物還元論者は、そこが受け入れられないんですよね。観察の主体である「我」を見ていない。 世界を考える時に、世界は自分が居なくても世界だ、と考えることは、世界と自分とは絶望的にまでに断絶しています。 その思考が寄って立つのが、「肉体がようするに自分だろ」という認識です。 しかし「科学的に(笑!)」、観察者の意識と眼前に広がる世界とは、表裏一体というか、むしろ世界そのものが自分であり、世界という自分自身が対象としての肉体を配している構図があって、何故かその肉体(本来それは、意識体としての我と、物質としての世界の接点であるのですが)、が「自分」だと『解釈され』たまま、見ている世界と自分は絶望的な距離を、後天的に持ってしまった。 モノゴゴロとは物(物質)という認識(心)であり、それ以前には、世界と自分とは切り離されていないのが事実ですし、まだ5歳ほどでは見ていない世界=「背後」は概念の中に明確に存在していません。(赤ん坊にとっては、常に正面しかない) 背後空間を概念化(実際背後は見える人は一人も居ない)することで、自分(肉体)を空間がぐるっと取り囲んでいる、という状態を概念化し(後ろは存在しないにも関わらず)、半径百五十億光年という途方も無い空っぽの容器に、余りにも余りにも小さい矮小で無力な「自分」観が出来上がってくるのが、人間としての第一関門(この先に、それからの脱却の道がが待っている)だと考察しています。 >>実際の恐竜は現状のコンセンサスに在るようなああいうことではなかったと思っているのです。
社会的生物学的コンセンサスは、ジェラシック・パークよろしく、ドシンドシン、ギャオー、ガツガツガツ、という巨大生物が熱帯地球環境をのし歩くイメージに固定化されていると思います。だからジェラシック・パークなのですが… しかし、実際我々が目撃するのは、化石として「骨」がそこにあるという事です。 では我々が、自分の、でもいいし象のでもいいですが、地中深き闇の中に埋めれば、数十万年、数億年の時間が経過することで、埋めた肉体が骨の形態だけを留めて、他の物質へと置き換わるでしょうか? 誰も証明できない過去と未来なので、無責任に言い放ちますが、それは「出来ない」と断言します。 しかし、実際に骨の形態をかたどった化石が見つかる事実は在るわけです。 ここで、量子力学の視点から、全ての事象は、意識の反映である(これは「解釈」になっていますが)ならば、地中深く闇に埋め込まれて、現代の人間に観察されるに至った化石とは、かつての人間の意識の反映物であろう、という推論です。(すみません、ここは意識的にズバッとは論じていませんので、わかりにくいと思います。) ちょこっと言えば、現在の地球を覆い尽くす「ワレヨシイマヨシ」で進められる核分裂の搾取利用、その原動力は人間の「強欲」ですが、その強欲(業想念)の形態化が化石だと思っているというところで、今は留めておきます。 |