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よく「日本人は昔から農耕民族であり・・・」といった話をされる医師や栄養士がおられるのですが、これは事実とは全く異なっています。
すなわち、明白な事実誤認です。
日本列島人類(日本人)は、「狩猟採集時代」のほうが「農耕時代」よりはるかに長い、というのが、論争の余地のない歴史的事実です。
狩猟・採集時代(旧石器時代・縄文時代)が約8万7千年、農耕時代(弥生時代)が約3000年です。
本日は、日本人の「狩猟採集時代」と「農耕時代」を振り返って検討してみます。
<旧石器時代>
日本列島に初めて人類が移住してきたのが約9万年前で、旧石器時代と呼ばれています。
縄文以前の9万年前頃から16000年前の旧石器時代の日本列島では、マンモスやナウマンゾウやニホンシカ、イノシシなど狩猟が生業だったようです。
旧石器時代の人々は、大型哺乳動物を追い、キャンプ生活・遊動生活を営みながら頻繁に移動生活を繰り返してきました。
以下はウィキペディアから、抜粋して転載です。
によれば
【それより以前の日本列島の旧石器時代は、人類が日本列島へ移住してきた時に始まり、終わりは1万6000年前と考えられている。日本列島での人類の足跡も9〜8万年前(岩手県遠野市金取遺跡)に遡る。
日本列島には、幾度となく北、西、南の陸峡(宗谷・津軽・対馬・朝鮮などの海峡)を通って、いろいろな動物が渡ってきて、それらの動物群を追って旧石器人が渡ってきたともいわれている。
2万年以前の日本列島には43万年前にやってきたナウマンゾウなどの中国北部の動物群やそれ以前からいたものが棲息していたが、最終氷期に大陸と繋がった北海道だけはマンモス動物群が宗谷陸橋を渡ってくることが出来たので、それらの混合相となった。
旧石器時代人は、主として狩猟によって食料を得ていた。当時の遺跡からは、野牛・原牛・ナウマンゾウなどの大型哺乳類の骨、ニホンシカ、イノシシ、ノウサギなどの中・小哺乳動物の骨が発見されている。そして、大型哺乳動物を解体する作業場となるキル・サイトも発見されている。このように、旧石器時代人は、大型哺乳動物を追う狩人たちであったと思われる。竪穴住居跡を伴う遺跡がほとんど発見されていないのは、旧石器時代人がキャンプ生活をしながら移動を繰り返していたからだとも推定されている。
漁労の直接的な証拠は発見されていないが、そのような活動があっただろうとは推測されている。まず、伊豆諸島の黒曜石が南関東で出土しており、同諸島で細石刃が発見されている。ここから、旧石器人も何らかの航海技術や海上交通の手段を持っていたことが想像できる。さらに、日本の旧石器文化がシベリアとの強い関連性があることが分かっており、そのシベリアで固定式のヤスや離頭式の銛頭(もりがしら)が見つかっている。日本は酸性土壌のため人骨や獣骨が残りにくいが、日本でも同様の道具を用いて刺突漁を行なっていた可能性がある。
縄文時代の人々にとっては、植物採取が食料獲得の中で大きな比重を占めていたが、旧石器時代の人々にとってはどちらかというと狩猟が主体であったようだ。当時は数百kmにも及ぶ距離を移動していたというから、それは移動性のある動物の行動生態と関連しそうであるし、また彼らの道具を見ると、植物質資源の加工・処理に有利な頑丈なタイプの石器(削器や石斧)よりも、狩猟具に使いそうな先の尖った石器(有背石刃、尖頭器)や壊れ易いが鋭い刃(石刃、細石刃)のある石器というような道具が発達したからである。】
<旧石器から縄文へ>
最終氷期(ウルム氷期)は、約2万年前の最盛期が過ぎると地球規模で温暖化に向かいました。そして温暖化により海位が徐々に上昇していきました。約13000年前には海位は100m以上上昇して、中国大陸と陸続きであったところに現在の日本海が出現し、1万年前に氷期が終わります。
そして、針葉樹林が日本列島全体に生えていたのが、西南日本から太平洋沿岸伝いに落葉広葉樹林が拡がり、北海道を除いて列島のほとんどが落葉広葉樹林と照葉樹林におきかわりました。コナラ亜属やブナ属、クリ属など堅果類が繁茂するようになりました。
また、温暖化による植生の変化は、マンモスやトナカイ、あるいはナウマンゾウやオオツノジカなどの大型哺乳動物の生息環境を悪化させ、約1万年前までには、日本列島から、これらの大型哺乳動物がほぼ絶滅してしまいました。
<縄文時代>
縄文時代は、年代でいうと今から約1万6000年前から約3,000年前であり、世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代です。
縄文時代で最も古い定住集落が発見されているのが九州南部で、およそ1万1000年前に季節的な定住が始まり、1万年ほど前に通年の定住も開始されたと推測されています。 縄文時代ミズナラ、コナラ、クルミ、クリ、トチノキといった堅果類の採集が盛んに行われるようになりました。
狩猟・植物採取・漁労の3つの新たな生業体系が、縄文時代の生産力を発展させました。
<弥生時代>
一般に約3000年前から約1700年前(西暦300年)までが弥生時代とされています。
稲作を中心とする農耕社会が成立し、北部九州から本州最北端以北を除く日本列島各地へ急速に広まりました。
紀元(西暦0年)前後には100くらいの「国」が中国と通交していたとされています。当時の日本列島は中国から倭・倭国と呼ばれていました。
2世紀後半に倭国大乱と呼ばれる内乱が生じ、その後邪馬台国の卑弥呼が倭国王となりました。卑弥呼は魏との通交により倭国連合の安定を図りました。
弥生時代のあとは、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代・・・と続いていきます。
<日本における稲作の歴史>
日本では、弥生時代以降が、稲作中心の農耕時代です。
一方、縄文後期、現在から約4000〜5000年前に、陸稲の栽培されていた可能性が有力となっています。水田の開始は弥生時代で約2500年前です。
本格的な稲作・農耕社会が始まるのは弥生時代ですが、縄文後期には一部地域で陸稲の栽培が行われていたようです。
縄文時代の陸稲は、<狩猟・植物採取・漁労>の3つの生業体系に、プラスαの一部陸稲といった位置づけです。
従いまして、「日本人は農耕民族」といったお話は、「弥生時代」(約3000年前〜約1700年前)以降だけにに言えることです。
そして、「旧石器時代」(約9万年前頃〜約16000年前)はもっぱら狩猟が主たる生業です。
「縄文時代」(約1万6000年前〜約3,000年前)は<狩猟・植物採取・漁労>の3つが主たる生業となります。
最後にもう一度「日本人は昔から農耕民族であり・・・」といった話は、明白な事実誤認であることを強調しておきたいと思います。
本日の原稿は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3
縄文時代 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3
弥生時代 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
日本の歴史 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
を参考にさせていただきました。
ありがとうございました。
江部康二
http://koujiebe.blog95.fc2.com/blog-entry-2200.html
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