| 12.  地には平和を 2012年9月02日 14:53:38
: inzCOfyMQ6IpM
: Seni0xKm2s >09. 2012年9月01日 16:49:49 : YbYX3W9Fww
 >07さん なんで日本がいつまでも罪悪感を持ち続けなければならないのか、歴史をさかのぼれば、アジア諸国を植民地にして搾取してきたのは、英国、仏、蘭らであろう
 もちろん、欧米帝国主義の批判は必要です。アメリカの日本支配からの独立も必要です。問題は領土問題が東アジアでの戦争を目的として出されてきているであろう事です。領土問題は国際司法裁判所で決着を付けていただきそれに従うという事でいいんじゃないですか?こんな事でいつまでももめているのは戦争屋があえて火種を残したせいでしょう。こんなものにまんまと騙されるようでは情けないですよ。 >米国はイデンを虐殺し、土地を略奪し、ハワイを占領し、日本に触手をのばし>た。ロシアの南下でやむなく日本も安全保障上、朝鮮に出ざるをえなかった歴史があるわけである。 日本も帝国主義の仲間入りをしたかっただけでしょう。 >大東亜戦争の勝者の欧米の過去は裁かれず、敗者日本が一方的に裁かれ、いっま>でも謝罪させられているわけ。 欧米の過去の批判と戦争裁判は必要ですよ。 >過去に米英がしたことは不問か、米は今も侵略まがいの戦争を続けている、力あ>るものはなにしても不問。 いや、批判をしましょう。イラクやアフガンに対する侵略行為をね。シリアに対しても戦争を仕掛けていますよね。内乱を装って。 >日本が大東亜戦争で戦ったからインド、東南アジア諸国が植民地状態から独立で>出来たので、負けたけれど、植民地解放の貢献もした。 それは結果論であって大日本帝国が望んだ事なのかは不明ですよね?大日本帝国は東南アジアを資源獲得の為に植民地支配しようとしたのだと思いますよ。インドネシアの石油を得ようとしたのでしょう。そんな事までして石油を得なければならないなんて完全に政策ミスでしょう。 http://okwave.jp/qa/q5058813.html 太平洋戦争中、石油はどこから調達してましたか? 戦争中、米英連合国によりあらゆる対日輸送ルートは遮断されていたそうです。ガソリン一滴は血の一滴といわれていたとか。
 現実には、石油はどうやって調達していたのでしょうか?
 中国や満州にあったのでしょうか。
 よろしくお願いします。  投稿日時 - 2009-06-20 04:43:16 連想キーワード:日本人 昭和20年 スマトラ ボルネオ島 マレーシア 通報するQNo.5058813
  yoshinobu_09
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 質問者が選んだベストアンサー太平洋戦争初期の最大の目標は
 蘭印(オランダ領インドネシア)の石油です。 そのために、ジャワ、ボルネオ島上陸作戦、バレンバン油田への空挺降下それに先立つオランダ艦隊との数度の海戦が
 行われました。
 また、英東洋艦隊空爆、マレー上陸作戦は英軍に、それを邪魔させないため、
 真珠湾奇襲、フリッピン占領は
 米軍に、それを邪魔させす、原油を
 日本本土に運ぶ海路を安全にするため。
 初期の作戦は、全て蘭印の石油確保のために、ありました。
 当時、中東油田は開発途上で、北樺太や日本国内の油田では
 とうてい間に合わず、
 当時世界最大の油田
 ソ連のバクー油田は独ソ戦で機能停止、
 しかも日本は、日本の最大の石油供給源である
 アメリカと対立して石油を禁輸されるという
 戦略的ミスを犯し、開戦を決意したのです。
 
 ※最大の原油生産地は スマトラ
 南方(ボルネオ、ジャワ、スマトラ) の原油生産量は、開戦前年の昭和15年 度には17.8万バレル/日(年1,033万キ ロリットル)であったが、日本軍が上 陸・占領した昭和17年度は7.1万バレ ル/日(年412万キロリットル)と、対 15年比39.8パーセントになっていた。 石油部隊の活動により、昭和18年度に は13.6万バレル/日(年788万キロリッ トル) 、対15年比76.7パーセントと、占
 27. 目的を達したかに見 えた石油資源の確保
 昭和14年8月から開戦直前の昭和16年 11月まで、陸軍軍務局軍務課に高級課 員として勤務し、武藤章軍務局長の下 で開戦前の日米交渉、国策決定方針の ほぼすべてに関与した石井秋穂大佐は、 戦後、太平洋戦争の開戦目的について 次のように述べている。 「大東亜共栄圏の確立と言った見方を 声高に説く論者もいるが、私は当時の 開戦名目案の骨子を作った者としてそ れは違うと言いたい。開戦目的はあく までも自存自衛であり、日本は国家と して石油の備蓄が無くなり、南方に頼 らざるを得なかったと言うことである。 あの時の国家政策に携わった者は、石 油が無くなったらどうしようと言う恐 怖感が大きかったと言う認識で一致し ていた。 」
 ( 「陸軍良識派の研究」 、保阪正康、光人社)
 出され、石井大佐は後者を推していた。 この対立調整のため陸軍省の武藤軍務 局長が現地に入り、最終的には昭和17
 70,000 65,100 (1,033) 60,000
 単位:1,000バレル/年(万キロリットル)
 50,000 40,000 40,000 25,917 (412) 6,100 15,697 19,000 630 9,600 0 (昭 1 9和 4 15 0年 )度 (昭 1 9和 4 17 2年 )度
 49,614 (788)
 36,916 (586) 32,079 22,321
 30,000
 スマトラ ジャワ ボルネオ
 20,000
 3,650 13,885 (昭 1 9和 4 18 3年 )度
 2,830 11,765 (昭 1 9和 4 19 4年 )度
 10,000
 6,545 (104) 5,020 313 1,210 (昭 1和 9 4 20 5年 )度 4 〜 7 月 末
 出所:米国戦略爆撃調査団石油報告
 南方原油の生産量のピークは昭和18 年第3四半期(10〜12月)で、14.6万バ レル/日と開戦前の82パーセントにま で回復していた。高品位の石油製品の 生産が期待されたパレンバンの第1製油 所は、昭和17年5月には航空ガソリン (オクタン価87)の生産を開始してい る。第1製油所は昭和17年9月に、第2製 油所は、昭和18年1月に部分操業を開始 した。 なお、中部スマトラでは昭和19年9 月、帝国石油隊により戦後インドネシ ア最大の油田となるミナス油田(カル テックス鉱区)が発見されている。 ロリットル、昭和18年度27.1万キロリ ットル、昭和19年度26.7万キロリット ル、昭和20年度24.3万キロリットル 坑井は140坑、これが昭和16年度、17年 度には零、昭和18年度20坑、昭和19年 度90坑、昭和20年(4〜9月)128坑とな っている。輸送ルートの途絶による南 方石油の還送量減少と共に、再度国内 生産増に方針が変更され、昭和19年度 以降の掘削坑井数が急増している。 ・しかし、タンカーの多くが、戦争後半には、米潜水艦に撃沈され、日本本土では松根などから油を抽出するなど、絶望的な状態に、おちいりました。 投稿日時 - 2009-06-20 06:13:29
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