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万葉集の初期の歌の解読はむずかしいです。学者さんの解読は「ちんぷんかんぷん」であるのが殆どです。以下のブログを手がかりにするとなにやら見えてきます。
二つの鍵があります:
1.初期万葉集の舞台は奈良ではなく九州である;
2.巧みな言葉遊びに留意
以下はその例です。尚この解読は渡辺豊和氏の古代史仮説を前提にしています(「扶桑王国、蘇我一族の真実 飛鳥ゾロアスタ教伝来秘史」、新人物往来社、2004)
ブログ:法螺と戯言より
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/
サカから蘇我へ(10、万葉集八十五歌(二)、素人の万葉集解読法の例)
万葉集二巻八十五歌について、吉村山口大学教授が付した訓読に従えば、この歌の『意』は
「貴方は行ってしまった。気長に時間をかけて はるばる 山を訪ねて 迎えに行こうかしら それとも 何時までも 待つべきかしら」
と、解されます。久松潜一氏は「万葉集歌(一)」(講談社学術文庫、2001)で、「貴方が旅に行かれてから日が長くたってしまいました。山を訪ねてお迎えにまいろうか、お待ちしようか」と、解読しています。字の使い方の比較などを経て、この歌が磐姫ではなく衣通郎女(輕大郎女(古事記)、軽大娘皇女(日本書紀))の作であろうと結論しています。多くの万葉学者が久松氏と同様にこの歌が磐姫御製ではないとしているようです。
さて、私には万葉集の一歌−二十八歌の解読作業から掴み取った解読法があります。それは、歌の読み手が漢字を音訓取り混ぜ誠に巧みに使いこなしていることに注意する事です。大変わかりやすい例が一巻二十二歌です(2009年8月7日記事)。
%%%%%過去記事再掲
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51301983.html
この歌は原文そしてそこに使われている漢字をじっくりと眺めていると、歌の意が自ずと浮かび上がってきます。
原文は:
河上乃 湯津盤村二 草武左受 常丹毛冀名 常處女煮手
です。
いきなり、場所の名前が出現しているのです。「河上」は、「川の上流」ではなく、場所の名前なのです。三歌の解読で、斎明天皇の五年正月の記事を引用しました(当ブログ4月15日、4月17日)。あの記事で引用されている「川上」が、この「河上」です。そして九歌の現場「都渡城」もまたこの「河上」のすぐ東です(当ブログ6月28日)。有明海に注ぐ嘉瀬川を遡上すると、大和町に達します。そのすぐ北に川上峡温泉があるのです。この歌を詠んだ場所はここである事はまちがいありません。
というわけで、繰り返しになりますが、場所は嘉瀬川の東岸と言う事になります。
九歌の解釈で書きましたが、ここは温泉地なのです。「湯津盤村二」と続きます。「湯」という漢字が使われています。温泉ですから赤味をおびた硫黄質の蒸気の噴出で草は生えないのです(草武左受=くさむさず)。「常丹毛」の「丹」は赤色、「毛」は「(湯)気」を意味するのでしょう。
湧き出る水は温かいんですね。だから、「常處女煮手」(何時ものところで、あの女(ひと)が)この暖かい湯に手を浸して手を温めているのです。それが、あたかも「手を煮ている」ようだと情景描写をしているのです。見事としか表現しようがないほどの巧みな歌であると私は思います。
この「煮手」を、誰か歌の読み手(音声を出して歌を読み上げる人)が抑揚をつけて読み上げたとしても、聴衆に情景が伝わってきません。横に板にでも記したこの文字列を見てこそ、「湯に手を浸している」情景が思い浮かんでくるのです。万葉集は、耳だけでなく、目でも味わうものなのです。
%%%%%過去記事転載おわり
この歌は「煮手」で締めくくられています。従来、これは「(どこそこ)にて」の当て字であろうとされ、考察の対象になってきませんでした。因みに私が上に書いた解読は万葉集研究者の其れとは全く異なります。研究者による初期万葉集歌の解読は意味不明のものが殆ど。それは、万葉集が詠まれた舞台は奈良盆地周辺であると思い込んでいるからです。
日本列島原住民の言葉遣いの巧みさに目をつけたのが、東北日本から移住してきた高氏率いるサカ族であったと思います。とすれば、この磐姫の歌もそうした視点から読みとるべきなのです。
原文 君之行 氣長成奴 山多都祢 迎加将行 <待尓>可将待
私は原文の「氣長成奴」に着目します。「気」は「き」とも「け」とも音します(「学習漢和大字典」藤堂明保編)。「きなが」を「けなが」と音するなら、それは「毛長」ですから、まさに九州日向での仁徳天皇の浮気相手そして結果として妃にしてしまった「髪長媛」を、歌に読み込んでいるのです。 「貴方は、髪長姫のところに行ってしまった』との辛い気持ちをこめて「気長にまつべきか」にかけつつ、自問しているのです。この歌がどうして衣通王の歌でありえましょうか?これが、この歌が磐姫の歌であることの私の証明です。それにしても、こうした言葉遣いの巧みさを、研究者は見ようとしないのです。
そこで、この歌の経緯・状況について”下種(げせわ)“な想像をしておきます:
既に書きましたが、仁徳天皇とその一統は東北日本に渡来後、南下し、福島県天栄山の東麓で陣屋を構えることとなった。奥方は言うまでも無く現地の女性・磐姫だ。大変な美貌の女性ではあったが、なにせ悋気が激しい。それを古事記が書いています:
其大后石之日賣命。甚多嫉妬。故天皇所使之妾者。
文意:磐姫皇后ははなはだ嫉妬深かった。そんなわけで天皇の居場所の妾に使いを出した。
仁徳天皇は端(はな)から天栄山の麓に永住するつもりは無い。程なく南進することとなった。その際、磐姫皇后には「”奥よ!、私は、すぐに戻るから、お前はここで待っておれ」と、言い置いて、先ずは茨城県の鹿島に出た。そこから船を仕立て、日本列島の太平洋岸沿いに南下し、やがて現在の鹿児島に到着。そこを「高・一統の島」を意味する「高島(かがしま)=(現在の)鹿児島」と命名した。その後北上し、有明湾に侵入。現在の福岡県内で髪長姫を見初め后とし、そこに腰を落ち着けてしまった。しかし、女性に「まめ」な仁徳天皇、天栄山に遺してきた磐姫皇后も捨てがたく、部下を遣って近況を伝えさせた。しかし、そのメッセージには「奥よ!お前もこっちに来い」はなかった。旦那があちらの土地で女のとりこになった。天栄山に帰ってくるや否やも分からない。そこで磐姫は一首読み、使者に其れをもたせた。
おおよそ、こんな筋立てであろうと思います。文才があれば、TVドラマ用のシナリオに仕立て上げたいところです。
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