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つれづればなhttp://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-94.htmlより転載
原発再稼動に反対する首相官邸前の抗議集会の中継、おなじく大飯町からの中継を見ながら思ったこと、そして脱原発について思うことを書いてみたい。
日本では、反原発を唱えるものは「左翼」の烙印を押されるのが常であった。戦前・戦後を通しての「赤狩り」の恐怖を知るもの、学生運動に加わっることで出世の道が閉ざされる悪夢を知るものには左翼と呼ばれたくない気持ちから「反原発」を遠巻きに見る習慣があった。その時代から遠ざかった今もなおその記憶は消えていないようだ。
いま、日本から原発をなくしたいと真に願う者たちの志しは主義やイデオロギーなどという手製の偶像とは比較にならない。子供たちと、彼らががこの先も生きていくこの国を守らなければならないという必死の思いから湧き出るものだ。
中継画像の横に表示されていたコメントには「革命」「闘争」などの文字で冷かすものが目立った。デモ参加者のなかにも左翼集会と印象づけようとでもしたのかチェ・ゲバラの肖像のブラカードを持ったものが数名放たれていたようだ。何が何でも脱原発をイデオロギー闘争の一種として葬りたいらしい。
しかし「反原発」自体は左翼思想ではない。社会共産主義の元締めだった国は現に原発だらけである。
「右翼」または「保守」の方々は何をおっしゃっているか。相変わらず「放射能ハ愛国者ニ害ナシ」だの「原発ヲ以テ核武装ノ道トス」だのほざいておられる。こういう仕方の無い人たちは別として、残念なのは反TPPの論客であり極めて鋭利な意見の持ち主であるN氏やM氏が原発を肯定的に見ていることである。一方が官僚出身であったり、もう一方がかつて自民党から立候補したという経緯から原発を批判できないのだろうか。
○○主義、○○党、という看板が邪魔をして言いたいことが言えなくなるのか、逆に看板でも背負っていないことには物が言えないのか、どちらにしろまことにお寒い話である。
ではなぜ反原発だと左翼になるのか。何のことは無い、自民党が原発を作ったからだ。
原発の制御は電気仕掛けである。いざ電源が確保できなくなったという時に人力で制御できないのであればもとより制御不能を意味する。
「かわいそうなそう」を思い出してしまった。第二次大戦の戦況が悪化する中、空襲で動物園の檻が壊れて猛獣が逃げ出す危険を防ぐために軍が殺処分を命令、動物園はそれに逆らえるはずも無く動物たちを殺してしまう。東京の真ん中に猛獣を連れてきたという誤り、檻に入れておけば制御できるという理屈の誤り、そして戦争という誤りから生まれた悲しい話である。
しかし今、フクシマで制御に困っているのは象などではない。朽ちかけた檻の中で牙を剝いているのは手負いの核燃料、そしてさらにそれを脅かすのは敵国ではなくいつ起こるかも分からない天災である。
国民の命を守らなければならないはずの政府はこの猛獣を処分する気など毛ほども無く逆にまだまだ増やそうとしている。あろうことかこんな連中に政権を与えてしまったのは国民だった。
今の政権を握る政党は、それ以前の政権政党に嫌気がさしそれを敵視するようになった国民が「敵の敵は味方」の理論に従い捧げた票で政権を獲ったに過ぎない。これは明らかに有権者たちの誤りであるが、その根底には有権者たちがいかに正しい判断をしたところでそれは決して政治に反映されないという枠組みが出来上がっているという現実がある。
政党とは政治に対し同じ志しを持つもの同士が集まり作るものである。しかし、「政権を獲れる政党」に政治家たちが蝿のようにたかるだけの政党にはもとより志しなどあるはずも無い。そのような者たち、そのような政党を寄せ集めた政党政治など所詮お里が知れている。
政治家たちが全身全霊をもって取り組む業務は選挙のみであろう。選挙の資金を集めるために支援者と語らい、企業に便宜を図り、宗教団体にへつらう。そうこうしているうちに解散、また選挙である。大事な取り決めや調整は我々が選んだ覚えの無い官僚たちが行う。「参政権」の名の下に我々が投じている票は政治には掠りもしないところでグルグルと回っているに過ぎない。
では実際に政治に参加している国民はどこかにいるのだろうか。官僚と呼ばれる人間たちがそうなのであろうか。否、官僚とはは分類学上、日本国籍を有する人間に属してはいるが、人間として職務に従事しているわけでなく省内で構築された独自の規律に従い機械の如く仕事を処理するのみ、人としての感情、人としての思考はすでに封じ込めてられているため彼らは「国民」の定義の外にある。つまり日本には政治に携わる「人」がどこにもいない。
このような無人政府から、人心が離れぬはずがあろうか。
筆者が小学生のころ、我が一家は東大の赤門前に棲んでいた。(赤門前の和菓子屋の裏に借家していたのであって路上生活ではない。)前田藩の江戸上屋敷の旧跡である朱塗りの可憐な門。その前にはいつも「闘争」「決起せよ」とかかれた小汚い立て看板が不似合いに置かれていた。子供心に変に思いながらも「頭のいい人たちのやることだから、いい事なのだろう」ぐらいに考えていた。その周辺の電柱には「北方領土を返還せよ」、「愛国反共」とかかれた紙がベタベタ張られていた。「ああ、赤門の前に看板を立てたひとはこの赤尾っていうおじさんかぁ」と勝手に納得したものだった。
当時から多少変わり者だった筆者は学校などで多数決に場面になるといつも損をしていた。そしてそれが「民主主義」だと教わった。で、あるから、民主主義とは少数意見を踏みにじるための方便だということに早くから気がついていた。民主主義などは数の勝負である。中身はともかく数の大きいほうが物をいう、力の強い物が勝つ。少数派は不良品と見なされる。選挙のみならず学校や企業その他あらゆる組織において人を数字でしか評価できない仕組みになっている。この民主主義を支えているのが双子の兄弟の「資本主義」である。こちらのほうはまさに数字、いやカネでしかない。
資本主義は常に拡大することが要される。十九世紀、資本主義帝国がその版図を広げるうちに日本の国も飲み込まれた。
より拡大、より増強するために必要な道具、それは「敵」である。「共産主義」という敵を自ら創意工夫し作り上げた。資本と共産の敵対は世界を東西に割り長きに渡って多くの争いを引き起こした。この長い争いで生まれたのは莫大な資本である。そして他の負の遺産は書けばきりが無い。優れた研究者、識者の知能がこのふざけた争いに注ぎ込まれたこと、殺戮や搾取に反対する良心を正体の無い正義に摩り替えられたこと、カネにふり回されるだけの人生に慣らされたこと、それらは冷戦が終わったとされる今もなお続けられこの世をどこまでも貶める。
その政治指針同様にコロコロと名前を変えつつ最後に落ち着いた民主党の党名は、数の理論で横車を引きそのために数を膨らませる努力はするものの中身は吟味することの無い「民主主義」から採ったのであれば上出来である。名は体を表す。
国の象徴として政権の座に居てもいい。だが何もするな。
集会の中継につけられたコメントも中傷めいたものだけでは無かった。惜しみない賛辞や共鳴の声も多かった。筆者もおなじく、この行動に参加された方々に大きな敬意とともに感謝を表したい。ただ、中近東に身を置く者として言わせてほしい、「アラブの春」にこれを重ね合わせて評価することだけは忌避してほしい。
欧米の石油乞食どもが過去に作った傀儡政権を一新し立て直すための茶番、それがアラブの春である。それに使われたのがフェイスブックとツイッターだった。我々はこの二つを「ソーシャルメディア」と呼びすでに正体の知れた新聞やテレビなどに対抗する新しい情報媒体として歓迎している。一方的な情報受信者でしかなかった我々が同時に発信者となれるかつて無い新しい構造に期待がかけられている。しかしこの媒体の基盤たる「電網」には持ち主がおり、それは誰なのかといえば我々を騙し続けてきた既存のメディアのそれと変わらないのである。そして民衆を扇動するための新たな道具としてこれらソーシャルメディアをを開発したのは世界を牛耳る大国の軍部であったことを忘れてはならない。「敵の敵は味方」、オセロでもない限りこの幼稚な理論は役に立たない。既存のメディアに嫌気がさしたことを理由に新しいものに迎合しきるのは危険すぎる。便利さに骨を抜かれ手足を縛られたその時に、ソーシャルメディアは仮面を脱ぎ捨て我々に襲いかかる事を予期していなければならない。
日本、そして次世代を守ろうと立ち上がる同胞(はらから)たち、これからどんな日本をつくろうか、舵取りをどう行うのか決めるのはあなた達だ。外の国に押し付けられた安物の主義主張は原子炉の中にでも投げ捨ててほしい。そして外の国と競い合うことを忘れてはどうか。外を眺めて追いかけるのではなく、かつての日本人がそうしてきたように、ただひたすらに内を磨いてはどうか。日本人の国は日本人にしか作れないのだから。
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