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私のこれまで言って来た事と現在の言動は一貫性のあるものです
「私とはなにものであるのか」
「あなたとはなにものであるのか」
わたしがこのHNを使うにあたっては最近迄
突如夢に現れたそのシンボルを手に持った私が
私にそのように問いつづけて来ました
そして私はその事が今やはっきりと理解出来た為に
既にもうこのHNを使う理由が思い当たらないのです
そしてまたこのHNを使い続ける事はできません
これは既に古い私であるからです
自我意識は五年で切り替わります
生態系も六年毎に元に戻ります
肉体のすべては七年で完全に新しいものとなります
それでも肉体が良い方向に変化していないのであれば
中身が変わっていないだけです
私が他者を脅威として
また自身の平安な心にとって脅威であると
かように思いつめると云う事は
それはそうしている間はずっと
自身の未来を不安に思い続けるということですから
もうそれは辞めにします
つまりそれは
他者に対してコントロールの必要性をいつまでも感じつづけていく
と云う事になる筈です
私はそのようにして他者を"案じて"今後ずっと世の中を不安に思う事はもうないでしょう
それはつまり自身の未来を不安に思わないということと一緒です
それはなにより他者も又その「無力ではない証」を理解するが故です
他者の未来をもちろん案ずる事は無く自分のそうした信念で「現在」を生き続ける事を誓う
と云う事です
僅かの者だけでも皆がそのように取り組んで歩んでいければ良いと思います
それは例えれば真っ赤なリンゴを黄色いオレンジに変える「タネのないマジック」です
リンゴを象る極微粒子一個もまた人間ひとりと同じように意識を有しています
その微粒子のおおよその意識がリンゴからオレンジに変われば
すべての元素変換は完了です
物体とはそのように出来ています
リンゴを削ってみかんの形にして黄色く色を塗るやり方は私の「好み」ではありません
別段そうしたやり方もひとつの方法です
ですがそれではリンゴにもみかんにもなら無い別のものが現れてるだけでしょう
平素何かを脅威に思うことや
そしてそのようにして日々を連ねて生きる事を
皆さん当たり前のようにしてきています
それが惰性による自分たちを無力なものとして生きるには最適のやり方です
しかし人とは無力故に他者も又無力であり
どうにもならない世の中に縛り付けられている
といった観念がそうさせているだけに過ぎないのです
つまりそのようにして無力感に苛まれたもの同士が
お互いにらみ合い
互いに否定して
そして片方では自分をも否定して生きているのです
他者に対してもコントロール(しいては支配)の必要性を求めるといった
"「望まない姿」を望みつづける"といったバカらしさがどういうことか
それが何を意味して"いく"のかまだ理解出来ないでいるでしょうか
それは自分が「なにものであるか」をその力の所在を満足に理解出来ないということです
それは自分の心を当てになら無いものだと感じて自分の心を信頼できないでいるということです
つまり他者をも信じられない否定性の中に生き続けるということです
本当に自分の可能性を知っていますか
自分の力とは権力を振りかざす事ですか
肉体的に圧倒する力を揮う事でしょうか
目には目をですか
そうではない筈です
私はきょう再び「心のマザー」にお会いしいきました
そして互いの意見を交換してきました
彼女は既に自我が消えているように見え
私も又そのようにして語り合って居りました
「私は今年何かが起きると思って居る」
だが彼女の前には「黒い大きな人陰」が立ちはだかって居り
「説明し難いけれども」とつづけて
今"宿命の壁"というようなものを感じているが
それはもうすぐ解かれるように感じるとも語ってくれました
私もそのような見解の一致を伝え
共に今後の楽しみの為に花を咲かせました
「桜は私は金星のものだと思っている」
「私は金星に行って来た」とも話して下さった
ここでは多くの人間が私の至らない点をよく知り
私にそうした言葉を投げかけてくれましたが
またそれはよく理解する運びとなりました
人との関係を私はどうした場でも楽しんで来れたと云えます
此処で私の謎掛けを通り越して意味不明の暗号も
全くの駄文も私にとってはすべて役立ってくれました
私の代々の自我にも非常によくお世話になった
今日帰りがけ「発見」した事ですが
「あるがままなすがまま」
そのような言葉を聞いても大方ここに居る方々が
もしピンともスンとも感性に引っかかる節がない言葉である事が
重々理解を得た所です
そのように自我が消えた時点での心境から発せられた言葉などは
幾ら仏典に乗った言葉としてありがたがってみても
意味は分からないままでしょう
「瞑想」と云う言葉にしてみても
そこにまつわる観念が人それぞれである限り
議論のしようも無い訳です
まずはそのようになってみなければ
その恩恵を計り知る事は出来ないのでしょう
思考が観念的であればいつまでも観念的な物事に感情は縛り括り続けたままです
自身の心に問いかけたとき
そこにいつでも
非常に自分が頼もしく感じられるような答えが返ってくる事を
皆さんに期待しています
自分を信じられれば他者を信じられます
他者を受け入れられないから本当の自分の姿をも受け入れられないのです
「自分が何ものであるのか」
今のあなたは自分を怖れているような存在なのですか
あなたは誰かに自分はコントロールされなくてはならないと感じている存在なのでしょうか
常に現在の自分の可能性と云うものを否定しない事です
他者から否定されても自分がそのことを"利用して"自分を貶める必要は在りません
周囲を脅威に感じない事です
周囲の人を脅威に感じれば
それだけであなたはその分だけと言わず
追求して次から次へと
自己の可能性や許容力の低さを認める為に必要な観念を呼び寄せる事になり
自分の可能性を単に自分で狭めることになるのです
それは言われて反発する事でもありません
その違いがまだ分からないというのであれば
あなたは自分の本当の姿をしらず
何かから逃れた状態から思考を走らせているに過ぎないと云う事です
矛盾した別の強い信念におんぶにだっこしている状態であるのです
そしてそれが酷くなると自分の力の無さを嘆き
他者の脅威の所為にして言い訳を続けて
そうした弱い自分を正当化する為だけに
あなたはそれをカバーする権力的強さを自分の外に求めるようになります
つまり闘争心だけを磨いていくということです
そんな必要性はない筈なのですが
コンプレックスがそうさせるのです
恥というものを怖れるあまりに
プライドが傷つく事を怖れるあまりに
しかしそれも利用し続ける間はそのような体験を楽しむ事も出来ます
何がしたいかはあなた方の自由です
私はそれをもう否定などはしません
"望んで"望まぬ事をおやりになるあなた方を
誰がどうして止められると云うのでしょうか
あなたはそこで自分の可能性の幅をぐんと狭めていく事になります
自分の可能性を否定し続けると云う事が結果何を齎すかと云うことをただ知るだけです
経験に飽きたらそこに留まる必要性は無い
ただそれだけです
「心のマザー」は
私のやりたいという事を聴いて
「それはむずかしいことだ・・」とつぶやいた
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