http://www.asyura2.com/12/hihyo13/msg/877.html
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朝日新聞が報道 「平和甦る南京」の写真特集 (田中正明)から
http://www.history.gr.jp/~nanking/peace.html
いわゆる「南京大虐殺30万」などは全くの虚構で、中国の作り話にすぎない。
だが、このえん罪は日本民族永久の恥辱であり、ぬぐいがたい歴史的汚点である。
当時朝日新聞が報道した数々の写真や記事は、南京占領当時のありのままの姿を映した第一級史料である。
しかるに、戦後「朝日」は一転して「南京大虐殺」をはやしたて、ついに小・中・高校の教科書にまで掲載されるに至った。
真実は1つしかない。「朝日」よ、売国的改ざんはやめよ。
“朝日新聞が報道「平和甦る南京」の写真特集”表紙
東京裁判から始まった事件
大虐殺は作り話『聞き書き・南京事件』
被殺害者数のデタラメ
『中国の旅』の影響とその背景
暴かれた本多ルポの正体
日本人の創作・脚色による“大虐殺”
5回にわたる写真特集
平和よみがえる南京
「きのうの敵に温情」
「南京は微笑む=城内点描」
「兵隊さんは子供と遊ぶ」
「手を握り合って越年」
五色旗の下に《南京復興の足取り》
敵にはあれど我が武士道
南京市民三千数百人の旗行列
読者の皆様へ
東京裁判から始まった事件
いわゆる「南京大虐殺」、中国の言う「南京大屠殺」事件なるものは、中学校、高等学校の歴史教科書はもとより小学校の教科書まで載るようになり、世界大百科事典や外交辞典など権威ある辞書にも掲載されており、もはや動かしがたい歴史的事実のごとく宣伝されている。
しかし、南京に何十万もの大虐殺があったという事件が一般に知らされたのは、旧日本軍が南京を占領した昭和12年12月から約9年間をすぎて日本が敗北し、占領国によって、国際法まで無視した無法な極東国際軍事裁判(俗称「東京裁判」)が開かれ、その裁判の渦中で、突然、降ってわいたように宣伝されてからである。
それまでは一般国民はもとより、この南京戦に参加した数万の日本軍将兵も、取材に当たった約120人の新聞・雑誌社の特派員やカメラマン、その他、占領直後南京に入城した西條八十、草野心平、大宅壮一、小林秀雄、野依秀一、杉山平助、林芙美子、石川達三といった著名な詩人、評論家、作家の誰一人として、見たこともない、噂にすら聞いたことものない事件であった。
つまり、全くなかった事件だったのである。
しかも、日本人だけではない。
南京は国際都市である。
占領後も残留した50名以上の第3国人(南京安全区国際委員会15名の委員を含む)もおり、揚子江には米英の艦船がおり、そのうえニューヨーク・タイムズ、シカゴ・トリビューンやA・Pの特派員、パラマウントのカメラマン等、外国人記者も5名もいた。かれらも大虐殺など見てもいないし、聞いてもいない。
従ってそれまでは、南京大虐殺などと言うような記事は世界のどこにも流布されていなかったのである。
教科書には「日本国民には知らされなかった」とあるが、当時、政府も軍も、南京での出来事を喋ってはいかん、書いてはならぬ、といった箝口令をひいた訳でもない。
だいたい初めからなかったのだから、箝口令の必要などなかったのである。
大虐殺は作り話「聞き書き・南京事件」
「聞き書南京事件」
俗に「人の口には戸はたてられぬ」と言い、「悪事千里を走る」とも言う。
私は南京戦の翌年の昭和13年8月、従軍記者として武漢攻略戦に従軍するため、南京に約1ヶ月ほど滞在し、南京の治安状況についてつぶさに観察したことがある。
さらに昭和17年に応召、一ッ星の初年兵として上海の中支那野戦兵器廠で訓練を受け、南京、漢口の支廠で勤務し、最後は兵技伍長として無錫の弾薬庫で終戦を迎えた。
従軍記者として南京に滞在した時も、南京支廠に勤務した時も、ずいぶん中国人との交友もあったが、南京城の内外で大虐殺があった、等と言うことは露ほども聞かなかった。
中支那野戦補給廠の戦友会は、毎回100名以上集まり、今年(平成6年)で第41回になるが、その席上でも、事件があったという噂話すら聞いたことがない、と誰もが言い切る。
もしも、何十万もの大虐殺があったとしたら、いくら口止めしようが、臭いモノにフタをしようが、フタのしようもないはずである。
評論家の阿羅健一氏は、産経新聞社の雑誌「正論」に、毎号「聞き書・南京事件」と題
して、前述の南京陥落と同時に入城した新聞社および通信社の特派員、カメラマン等をはじめ上海派遣軍と第10軍の参謀、砲艦「勢多」と「比良」の艦長、当時南京で活躍した企画院事務官、領事館補、松井軍司令官秘書など、広い範囲にわたって35人に直接面接して聞き書をとり、さらに、32人に電話・手紙などで連絡をとり、これを連載した。
のちに単行本として同名で図書出版社から刊行している。(小学館刊「南京事件」48人の証言として復刊)
紙幅の関係で詳述できないのは残念であるが、南京で大量殺戮を見たという人は1人もいないばかりか、東京裁判の検察側証人の言うような、あの狭い南京城内に1万2千もの死体がごろごろ横たわっていたとか、二筋の血の川が流れていた、等と言うことは全くの作り話であり、ましてや「許伝音」証人の言うように、日本軍は隊を組んで、人を見れば射殺し、女を見れば強姦し、物を見れば強奪する、といったような凶暴なふるまいや、残虐な場面など、見た者はいない。
従って阿羅氏が訪問した前述の人びとは、東京裁判で初めて南京事件なるものを聞いて驚いた、というのが異口同音の声であった。
これら67人の人々は、いわゆる南京事件の現場にいた"目撃者"であり、この事件の真相を証言できる生存者である。
いわゆる第一級の証人である。阿羅氏は、その証言の重大さに思いをいたし、この聞き書きの原稿を本人に見せて校閲を経て後に発表した、と言っている。これらの事件現場の目撃者全部が、いわゆる「南京大虐殺」は全くの虚構であり作り話である。と口をそろえて証言しているのである。
被殺害者数のデタラメ
ご存じのように、東京裁判は「偽証罪」のない裁判で、日本および日本軍の罪悪や悪口はどんなにウソであろうが、伝聞、作り話のたぐいであろうが、言いたい放題で、決して罪に問われるようなことがなかった。
その半面、これに対抗してその虚妄を否定し、抗議することは許されなかった。
弁護側が提出した反論、反証はことごとく受理されず、その却下された書類は8千ページ以上にも及んでいると言われる。(本書は、平成7年2月に『東京裁判却下・未提出弁護側資料』として全8巻が図書刊行会から刊行された)
加えて当時、占領軍の厳しい言論統制下にあったマスコミは、南京虐殺事件の検事側証人(米人3、英人1、中国人9)の言い分を、そのまま、あること無いこと、全く聞くに耐えない残虐ぶりを報道したばかりか、NHKラジオ放送は、毎夜、「真相はこうだ!」(のちに「真相箱」)として、日本軍の非人道性を劇的に放送した。
その効果は絶大なモノがあった。
「白髪三千丈」式の誇大形容と宣伝戦にかけては天才的な才能を持つといわれる中国は、東京裁判に備えて急きょ、南京に「南京敵人罪行調査委員会」という組織を作り、軍事委員会、調査統計局、警察庁、弁護士会、医師会、商工会議所、青年団、紅卍字会などの14の団体が集まって、全市あげての大々的調査にのりだした。
だがその調査は、報告書によると、当初、被害を申し出る者も少なく、日本軍による殺害事件の目撃者もいない。
再三、再四、手をかえ品をかえて占領時の日本軍の悪行を申し出るように勧誘するのであるが、一向に反応がない、その状況をこう書いている。
「進んで自発的に殺人の罪行を申告する者甚だ少きのみならず、委員を派遣して訪問せしむる際に於ても冬のセミのごとく口をつぐみて語らざる者、あるいは事実を否認する者、あるいは又自己の体面をはばかりて告知せざる者・・・・等あり。(そこでさらに)種々探索・訪問の方法を講じ、数次にわたり行われたる結果、確定せる被殺害者既に30万に達し、此外尚未だ確証を得ざる者20万を下らざる景況なり」
つまり、「冬のセミのごとく」口を割らなかったが、幾度も幾度も勧誘し調べた結果、その数は合計50万はくだらない数になったというのである。しかも、彼らのまとめた調査報告書は、まことに"文学的"である。
「退去に当り敵軍の掃射を蒙り、哀声地に満ち、屍山を築き、流血膝を没するの惨状を呈し・・・・争いて揚子江に渡り、逃れんとする我が軍はことごとく掃射を受け、屍体は江面を覆い、流水はまた赤くなりたるほどなり」
このような"文学的名文"で、「30万ないし50万の軍民が屠殺せられたり」と言われても信用する事ができるであろうか。
しかも、これは戦闘時の惨劇である。
ともかくこのような経過を経て、委員会が最終的に東京裁判に提出した「被殺害者確定数は34万」であると言うのだ。その内訳は次の通りである。
(以上、東京裁判「速記録」第58号による。)
埋葬場所(証言者名) 埋葬人数
(1)新河鎮地域(廟葬者、盛世徴・昌開運証言) 28,730名
(2)兵工廠および南門外花神廟一帯(埋葬者、丙芳縁、張鴻儒証言) 7,000余名
(3)草鞋峡 (被害者、魯甦証言) 57,418名
(4)漢中門 (被害者、伍長徳・陳永清証言) 2,000余名
(5)霊谷寺 (漢奸高冠吾の碑文により実証) 3,000余名
(6)崇善堂・紅卍字会の埋葬屍体 155,337名
合計253,485名
ところが、トータルは25万3485名で34万人にはならない。
しかも崇善堂の埋葬11万2262体は、崇善堂自体が当時休業状態にあり、埋葬には関係ないことが中国側の資料でのちに判明している。
つまり、この数字は全く架空なのだ。
だいいち2人の人間が2万8730体もの死体をどうやって埋葬したのか?
また1人の人間が5万7000体の以上もある死体をどうやって1の単位まで正確にどうやって数えることができたのか?
この大デタラメな委員会報告を、さすがの東京裁判もそのまま採用しかねて、結局「20万人以上の殺害」と多数判決では言い、松井大将に対する個人判決では、その半分の「10万人以上の殺害」とさらに修正しているのである。
中国側の「敵人罪行調査書」も大デタラメだが、「東京裁判の判決」もまたそれに劣らず大デタラメであることがおわかりと思う。
「中国の旅」の影響とその背景
朝日文庫「中国の旅」(上写真)
広岡知男元朝日新聞社長(上写真)
日本国民の多くは、日本は戦争に負けたことでもあり、東京裁判で東條元首相以下7名が戦争の責任を問われて処刑され、その中に松井大将もいわゆる南京虐殺の責任で加えられた、やむを得ないかもしれない 程度の認識であった。
それから約20余年、人々の南京事件に関する記憶もほとんど薄らぎ、忘れつつあった時、突如として衝撃的なレポートが朝日新聞に連載された。
本多勝一記者による「中国の旅」と題するルポである。
この連載は、昭和46(1971)年8月から12月までの間に《平頂山事件・万人抗・南京事件・三光政策》の順に、4部にわかれて報じられた。
各部はおよそ10回程度、都合40回、いずれも旧日本軍および日本の民間人が戦前・戦中を通じて中国人にあたえた数々の残虐行為の告発である。
そこに描かれた非道な暴虐の数々、その結果生じた途方もない死者の数々・・・・・・・。
「南京大虐殺」の名を一挙に広めたのは、この本多ルポのあまりにも衝撃的な残虐無惨な記述だと言っても過言ではない。
朝日は昭和46年の本多ルポをきっかけに、それ以後はあること無いことを、意図的にニセ写真や兵隊の日記まで偽造して、「南京大虐殺」をあおり立てた。
本多氏はさらに「南京への道」を朝日ジャーナルに連載した。
また朝日は、洞富雄、藤原彰氏らの虐殺派の著書を相次いで発行し、「南京事件を考える会」まで結成した。
異常なまでの熱の入れようである。
私は文藝春秋に「朝日新聞に拒否された五通の反論」と題する一文を草したことがある。(昭和59年6月)。
明らかにそれは事実とは違う、と言って証拠を示して注意し、あるいは私を名指しした投書に反論しても、朝日は一切ノーコメント。
大虐殺があったという記事なら、どんなにまやかしでも嘘いつわりでも大きく取り扱い、これに反する記事はすべて没にする。
抗議には回答しない。
そこには記事の公正も報道倫理も何もない。「朝日は日本のプラウダ」であると言われるゆえんがよくわかった。
すなわち、自社の主張にそったものは取り上げるが、これに反するものは一切取り上げないという方針である。
そうした朝日の背景には何があったか。新聞評論家として著名な片岡正巳氏は次のごとく述べている。
「いかに朝日新聞が、そして時の社長広岡知男氏が、日中国交回復に並々ならぬ思いで尽力したか。
・・・・・・文化大革命を礼賛し、そして昭和45年に広岡社長は、日中関係の改善を胸に抱いて、議長を務めるべき株式総会まですっぽかして1ヶ月も中国に滞在し、そして46年の世界卓球選手権大会、翌年47年の上海バレー団の招待・公演と、朝日はまさに八面六臂の役割を自ら買って演じたのである。
しかもそれは中国の立場を重視し、中国の言いなりに無理をも通したのであった。
・・・・・・そして46年8月からの「中国の旅」の連載であるが、"南京大虐殺"なるものを、中国側の言い分だけでまとめていった理由がここにある。」(『間違いだらけの新聞報道』255貢)
片岡氏は朝日が時の中国政権にすり寄った醜態を暴露し、文化大革命の礼賛、かの有名な林彪の失脚と死亡の否定、そしてついにはありもせぬ南京虐殺をねつ造するまでにいたる経緯を克明に紹介し、朝日の「親ソ反米」「親中反日」の根源を同著の中で鋭く衝いている。
暴かれた本多ルポの正体
朝日文庫「南京への道」(上写真)
しかし、中国側の言い分だけを扇情的に誇大に記録しただけの「中国の旅」も、化けの皮がはがされる時がきた。
例えば本多ルポは、「撫順炭坑には約30の万人抗ができたというから、1つ1万人としても30万人になる。
40年間も日本に占領された炭坑であれば、この数字は決して"白髪三千丈"の次元のものでないことが、大石橋の例からも理解出来よう」と述べ、撫順炭坑でも30万人の虐殺があったと書きたてている。
その他、本多ルポは、コレラ発生で「防疫惨殺事件」なるものを告発し、中国人鉱夫が千人以上も残虐極まる殺され方をして、万人抗に投げ込まれる状況など、とても読むに耐えないような地獄図を、これでもか、これでもかと言わぬばかりに書きつらねている。
そんなことは絶対なかった、だいいち「万人抗」などというものは見たことも聞いたことがない、とんでもない濡れ衣だ、というので、かつて撫順炭坑に勤務していた人々が組織する「撫順会」や元南満鉱業社員の人々が合同し、結束して立ち上がった。
このことは産経新聞にもしばしば報ぜられたが、雑誌「正論」にも「重ねて言う、万人抗はなかった」、さらに代表5人による「私たちは万人抗なんて知らない」「朝日・本多勝一記者の誤報」等々、言論活動を重ねていった。
朝日新聞社への申し入れも行った。
朝日はついに、「万人抗については、本多を含め私どもといたしましても調査を進める必要があると以前から考えています。」と、調査を約束するところまで来た。
肝心の本多記者は、この虚偽の報道について何と言っているかというと、「私は中国側の言うのをそのまま代弁しただけですから、抗議をするのであれば、中国側に直接やってください。」、オレの知ったことではない、文句があるならオレに喋った中国人に言え、オレは聞いたままを書いたにすぎない。―――と言うのである。
なんとも無責任極まる話である。日本人側の取材も意見も聞かず、事実の確認もせず、ウラも取らず、「ただ聞いただけを書く」、それが1人前のレポーターと言えるであろうか?また、それを臆面もなくそのまま40回も連載する新聞社も新聞社である、と言わねばならぬ。
要するに、これによって「中国の旅」の正体があばかれたのである。
すなわち、撫順炭坑、南満鉱業(大石橋)における数十万人におよぶ現地人の虐殺と「ヒト捨て場」万人抗は存在しなかった。
本多ルポは大デタラメのためにする誣言(ふげん)であった、ということが、関係者の長い年月の戦いと努力によって明らかになったのである。(この文は田辺敏雄著「朝日新聞に押しつけられた大量虐殺」を参考とした)
さて、最後に残されたのが、いわゆる「南京大虐殺」事件であるが、これがまた「万人抗」と同様大インチキと見て良い。
日本人の創作・脚色による“大虐殺”
これまで見てきたように朝日新聞は、昭和46年以降は気でも狂ったのではないかと思われるほど、南京に大虐殺が「あった!!あった!!」とあおりたてた。
教科書に「南京大虐殺」が載るようになったのも、昭和50(1975)年からである。
その頃になると、朝日に次いで毎日やNHKなど日本のマスコミや時代におもねる学者、文化人、教育者がこれに追随し、今日の風潮を作ってしまった。
日教組のごときは、南京大虐殺をアウシュビッツの大虐殺と広島・長崎の原爆による大量殺戮とならべて教育の3大重点項目とし、これを明記している教科書を選べ、と指導しているほどである。
昭和62(1987)年、南京事件50周年を期して、南京郊外の江東門に「侵華日軍南京大屠殺記念館」が建設され、入り口正面に中国語・英語・日本語で、「30万遭難者」と大書したが、この記念館の創設を進言したのは、日本社会党の有力者、田辺誠である。
更に、記念館の中に飾られた写真の多くは、日本から持ち出されたものである。
ガラスケースの中に入れられた大量の人骨は、本多記者の言う、「万人抗」や「死体橋」から発掘されたものではなくて(だいたいそんなものは存在してない)、近くの新河鎮の戦闘で戦死した中国兵の遺骨である。
記念館の建設の前後には本多、洞、藤原氏ら、例の虐殺派の「南京事件を考える会」のメンバーがそろって訪中しており、開館式には日本の総評(現、連合の前身)代表2名が参列している。
極端な表現を許してもらうならば、南京戦に参加していない中国共産党政府には、南京の史料などほとんどありようはずがなく、結局、日本人が創作し、日本人の脚色・演出によるシロモノ。
しかも、日中友好協会の孫平化会長いわく、「30万虐殺は政治的に決まっている事実だ。そのために記念館を建ててある。日中共同調査のプロジェクトなど受け入れる余地など無い」と、日本側の提案を峻拒したという。(丹波春喜・京都産業大教授著「孫平化氏との激論3時間」−「正論」昭和63年7月号)。
記念館建設によって30万虐殺は、あった、なかったの問題ではなく、もはや今日では政治的に決定を見ている事件だ、とウソぶくのである。
朝日新聞の広岡社長の「中国の立場を重視し、中国の言いなりに無理をも通した」結果が、ついにここまできてしまった。
5回にわたる写真特集
朝日新聞が急角度に中国寄りの醜態を演じ始め、「親中反日」「親ソ反米」の新聞に偏向したのは、昭和40年代以降のことであるが、それまでの朝日新聞は、戦前・戦中から終戦直後にかけて、日本を代表するクオリティー・ペーパーとしての品位を持つ新聞として、発行部数も首位にあった。
その朝日は、占領直後の南京の情景をどのように描写し、どのように報道してきたか。
そこには日本軍の中国人に対する殺害・暴行・放火・強姦といった巷間伝えられるようないまわしい情景はひとつもないどころか、逆に、日本軍が中国軍民、ことに婦人や子供をいたわっている状況が如実に写真に写され、文章で報じられている。
それも、2度や3度ではなく、あらゆる角度から活写されているのである。
南京占領は、昭和12(1937)年12月13日であるが、それから翌年の正月13日までわずか1ヶ月の間に朝日新聞は実に5回にわたって写真特集を組んでいる。
しかも別掲のごとく、新聞半貢大のスペースに4枚ないし5枚一組の特集である。
そのうえ、占領下の南京の情況をレポートした文章は数回に及んでいる。私は当時の読売新聞・東京日々新聞(現在の毎日新聞)の3紙のコピーをとったが、朝日が一番くわしく、写真の枚数もダントツである。
ここで留意すべきことは、東京裁判及びそれ以降の朝日や毎日がはやしたてた、南京で大虐殺を見たとする証言や記録などは後期史料または戦後史料などと呼ばれているが、私は全然信用していない。
ここに紹介する朝日の5組の組写真やレポートは前期史料であり、完全なる第一級史料である。
裁判で言えば目撃者の証言と、証言としての価値さえ認められない伝聞との違いである。
平和よみがえる南京
写真特集その1
まず、第1回の写真特集から見ていこう。
タイトルは「平和甦る南京《皇軍を迎えて歓喜沸く》」である。
「17日河村特派員撮影」とあるから、南京占領5日目の写真である。
写真説明(1)兵隊さんの買い物(右)
占領5日目に早くも露天商が出て、兵隊が銃も持たないで買い物をしている。
この日は、松井軍司令官を先頭に入場式があった日である。南京攻略戦に参戦された須山道男さん(76)はこの写真を見て「なつかしいですネ、これが本当の占領直後の南京風景です。入城式のあった17日の午後からは、銃も持たずに支那人街の露天をひやかして歩いた経験があります。この写真のように子供も大人も手製の日の丸の腕章をつけて、私たちに近ずいて来ましたよ。」と言う。
写真説明(2)皇軍入城に安堵して城外の畑を耕す農民達。(中上)
南京には城内にも畑や丘がある。この写真を見ただけでも、平和が早くも甦ったという実感が湧くではないか。
(3)皇軍に保護される避難民の群。(中下)
城外のどこかに避難していた市民は、城内がもはや安全とみて続々と帰ってきた。
その市民を誘導している写真である。
ここには護衛の日本兵の姿さえ見えず、市民の表情も明るい。
光華門一番乗りを果たした歩兵36連隊の西坂中さん(78)は言う。
「我々の部隊は占領14日目には南京をあとにして上海に向かったが、その途中続々と南京に帰る避難民に会った。支那人はそうした情報にはすごく敏感だから逃げ足も早いが、安全とみればすぐ帰復します。」と・・・・。
松井石根大将の12月20日の日記には、「尚聞く所によれば、城内残留の内外人は一時多少の不安の情ありしが、我が軍による治安漸次落ち着くと共に漸く安堵し来れり。・・・・・人民も既に多少宛帰来せるを見る」とある。(全文カナ書き、句点・筆者)
C和やかな床屋さん風景。(左)
中華街の名物、街頭床屋である。
子供も大人も手製の日の丸の腕章をして笑っている。占領5日目から床屋も露天商も店を開き、兵隊は武装なしで散歩しているのがわかる。
松井大将の言う「安堵の色」いっぱいである。これが何十万という大虐殺のあった街の風景でしょうか?中国側の公式見解とされる、南京市文史資料研究委員会編「史料選集第四集」(昭和58年刊)の日本語訳「証言・南京大虐殺」(昭和59年青木書店刊)によると、次のように記述している。
<1937年12月13日、日本侵略軍は南京を侵略占領し、南京の人民に対して6週間に及ぶ人事を絶する悲惨な大虐殺を行った。むこの我が同胞で、集団殺戮に会い、死体を焼かれて痕跡をとどめなかった者は19万以上に達し、また個別分散的に虐殺され、死体が慈善団体の手で埋葬された者は15万人以上、死者総数は計30余万人に達した。>
これが中国側の言う30万大虐殺の根拠なのである。
さらに本著はこれに続いて――、
<日本軍は入城後、人を見ると殺し、女を見ると犯し、犯したのちさらに殺し、財物と見れば略奪し、家屋や店舗と見れば焼いた。日本軍の殺人方法は多種多様で、首をはねる、頭をかち割る、腹を切り裂く、心臓をえぐる、生き埋めにする、手足をバラバラにする、生殖器をさく、女性の生殖器や肛門を突き刺す、焼き殺す、水に投げ入れて溺れ殺す、機関銃で掃射する等、狂暴残虐なこと、人類史上においても、まれに見るものであった。>
4ヶ月前、通州で、日本の居留民2百余名が虐殺されたのは、この状態であった。こんな狂暴残虐な殺し方は日本人は絶対にやらない。日本の戦史にもない。「食人風俗(カンニパリズム)」の漢民族のやる殺し方である。自分らがやる殺し方そのままを記述したのだ。ともあれ、こんな恐ろしい地獄のような恐怖の街で、この写真集に見るような風景を撮ることができるであろうか?
きのうの敵に温情
写真特集その2
12月22日の新聞掲載ゆえ、20日ごろの河村特派員の撮影とみられる。(占領8日目)タイトルは「きのうの敵に温情《南京城内の親善風景》」
写真説明(1) 治療を受けている支那傷病兵(右上)
第13師団参謀長中津三夫大佐の東京裁判での陳述によると「南京は11月下旬より遠く東南戦線の戦死死傷者の収容所となり、移転せる政府機関、個人の私邸まで強制的に病室にあてられ、全市医薬の香がび漫したる状態なり。
これにより生ぜし死者もまた少なからず・・・」と。
これを裏付けるように「東京日々新聞」(のち毎日新聞)がスクープした某外人日記にも「25日(11月)、戦死傷者の南京後送で、移転後の政府機関はもちろん、私人の邸宅まで強制的に病室に当てられ、全市医薬の匂いが蔓延し、傷病軍人の町と一変した・・・」とある。
唐生智麾下(きか)の守城軍はこれらの傷病兵を置き去りにして、我先と退却・逃亡したのである。
この中国傷病兵を、日本軍の軍医や衛生兵がねんごろに治療にあたっている写真である。”昨日の敵は今日の友”殺害どころか治療し看病している姿、これが真の日本軍の武士道的姿である。
(2)は皇軍将兵の情に食欲を満たす投降兵(左上)
南京事件の最大の問題は捕虜の殺害の有無に関する争点である。第13師団の山田支隊(山田梅二少将)麾下の歩兵第65連隊が幕府山付近で捕らえた捕虜は1万4千にもおよぶ大量のものであった。
「「南京大虐殺」のまぼろし」の著者、鈴木明氏も、わざわざ仙台におもむき、山田少将ほか関係者数名を訪ねてその真相を究明しており、私も福島に飛び、この捕虜事件に関係した第65連隊の連隊砲小隊長・平林貞治氏(当時少尉)から事件の真相を聴取した。
その真相は、自衛隊戦史室編の「支那事変陸軍作戦(1)」にある内容とほぼ同様であった。
すなわち、彼らの食料に困惑し、約半数の非戦闘員を釈放した。
翌日ボヤが起き、その混乱に紛れてその又半数が逃亡しヤレヤレと思った。
残りの4千名を、彼らのはいている巻き脚絆で数珠つなぎにした。
巻き脚絆だからしばってもしばったことにならないが、ともかく揚子江支流の中州へ釈放すべく連行した。
その時、どこかで銃声がした。それをきっかけに、突如、捕虜の逃亡・反乱が起き、日本側も将校1、兵10数名の死傷者を出した。
捕虜千ないし2千が銃殺、他は全員逃亡するという事件があった。
捕虜の逃亡・反乱はその場で射殺という掟は国際法の認めるところである。
しかし日本軍は、従順な捕虜に対しては、この写真のように温情が施されたのである。
(3)は砲撃やんだ南京城内に描かれた親善風景(中央)、
(4)は山田部隊長と語る敵の教導総隊参謀、沈博施小佐(右下)
教導総隊は雨花台、紫金山で戦ったもっとも抗日意欲旺盛な、日本軍を悩ませた部隊でもあった。その沈少佐はのちに、汪兆銘の南京政府に起用されている。
(5)は南京城内の親善風景(左下)
手製の日の丸の腕章をつけた大勢の市民が、いかにもくつろいだ風情で、道路いっぱいにひろがり交歓している様子がうかがえる。(河村特派員撮影)
ここで読者に特に知って頂きたいことは、南京の総面積は城外の下関や江東門を含めても東京・世田谷区よりも狭い街であるということだ(約40平方キロ)加えて当時の支那人は情報に対しては極めて敏感で、長年の内乱の経験から、身の危険な場所には寄りつかないばかりか、逃避は実に敏捷・敏感である。
東京裁判の検察側の証人によると、この狭い城内に1万2千の死体が横たわり、累々たる死体は山をなし、血は川をなし、膝を没するほどだったと言う。(だがこんな情況は誰も見た者がない。従って写真もない。)
しかも、「大混乱の群衆や敗残兵に向かって、日本軍は、機関銃・小銃・手榴弾などを乱射した。
飢えた軍用犬も放たれ、餌として食うために中国人を襲った。
2つの門に通じる中山北路と中央路の大通りは、死体と血におおわれて、地獄の道と化した。」と本多勝一氏の「中国の旅」(230ページ)は言う。
これがいかに大デタラメか、この写真を一見すれば了解されよう。
以下略
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