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(画像はパロディスト、マッド・アマノ氏の作品です)
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2013年6月16日 神州の泉
テレビが一億総白痴化を招来しているという見方はかなり昔かあるが、30年ほど前からその傾向は強くなっている。それは第一次漫才ブーム辺りからであろう。
テレビのお笑い番組の歴史は、例えば神州の泉が覚えている限りでは、小学生時代にNHKの「お笑い 三人組」がある。当時はモノクロであったが、昭和30年代の楽観的な空気が反映されていて、いい思い出の一コマとなっている。
それが終わった辺りであっただろうか、日本テレビ系で立川談志が司会を務めた長寿番組「笑点」が始まって今日に至っている。これらの二つの番組は常識的な意味における“公序良俗”を踏んでいて、健全なお笑い文化を茶の間に提供していた。
もっとも政府が公序良俗などと言い出すとろくなことはないのだが、これら民間感覚から自発的に出てきたお笑い番組は、映像文化の一種のコンテンツであるから何の問題もない。
ところが、1980年ごろから始まった“前衛的”な漫才ブームやお笑い番組は、現在放映されている大多数の俗悪お笑い番組の先駆けとなっている。とくに第一次漫才ブームを築いたお笑い芸人たちによる文化棄損の罪は重い。
そもそも観客や聴衆を対象とするお笑いとは何であろうか。それはお金をもらって他者を笑いに誘うプロ(職業)である。当然、これらの興業には営利的な社会活動の一環としてのモラルが介在することになっている。
ところが大衆を笑わせるネタ元は基本的に政治や著名人の風刺にある。したがって、風刺を芸として発表するときに、モラルとインモラルの境界線をどこに設定するかは、当事者判断としてはかなり難しい面もあると思う。
政治問題を風刺する場合に、下手な表現を行うとあまりにも深刻になり過ぎてお笑いの世界から遠ざかってしまうが、こういうのも“滑った”の典型だろう。その意味でディープな政治風刺を万人向けに無難にこなせるエンターティナーは、相当の熟練と創造的な技量を持つ者に限られる。
NHKのようにお笑い番組に決して政治を持ち込まないことは、主宰者側にとっては無難だろうが、確実にお笑いの要素は逓減(ていげん)する。
その意味で、お笑いの基本である社会風刺は既存勢力の考え方や体制批判をベースにしなければ面白くない。これは芸人が“やり過ぎて”当局に睨まれるくらいのエネルギーを持つことが期待される。
ところが、ビートたけしや島田洋七などが登場してから燎原の火のように拡大した漫才ブームは、それまでの伝統的なお笑いとは明らかに質が変化している。この変遷を的確に象徴するものは、コロンビア・トップ・ライトのお笑い芸と、ビートたけしのそれを比較すれば一目瞭然である。
コロンビア・トップとビートたけしはともに毒舌芸で知られるが、この両者のお笑い源には決定的な差異がある。コロンビア・トップは漫才ネタや漫談ネタにも、公然と政治権力を批判して笑いに持っていったが、ビートたけしは政治ネタはほとんどやらず、やっても体制擁護の立場から弱者を弄(もてあそ)ぶ芸に徹している。
コロンビア・トップの芸は、基本的には強者(権力)を攻撃する芸であったが、ビートたけしの芸はその反対に嗜虐(しぎゃく)的に弱者をいたぶる芸に徹している。さんまの芸は伝統芸を踏襲しているから、たけしとは異なる。この他者を軽んじ、貶める芸風は戦後の日本文化を下劣な方向へ向かわせた。この捉え方は決して時代の新旧の問題ではない。お笑い芸人の世界観の問題である。
原子力村の寵児であるビートたけしを重用し、原発を推進する電力会社をスポンサーとする我が国の民放テレビ文化は世界の恥である。また、当たり障りのない報道ばかりして肝心なニュースを伝えないNHKも同罪である。
テレビやラジオなどは報道公器と呼ばれるが、実際は“愚民化公器”と呼んだ方が正しい。小泉政権以降は、お笑い番組を通じて人々の愚民化を加速する番組がテレビの主流になった感がある。
それを如実に実感したのは、3・11以降、数日を経てからテレビはいっさいの原発事故報道を自己規制し、朝から晩まで愚にも付かないお笑い番組(過去の収録番組)ばかり流していたからだ。NHKは津波災害報道は少し流したが、原発事故は民放同様に不自然に自粛している。
それを見ていて、報道公器としてのテレビは完全に終わったことを知った。2011年3月にテレビは報道公器としての属性を完全に放棄したのである。
古いネタで申し訳ないのだが、爆笑問題の太田光氏が起こしたあるエピソードを取り上げる。これは、現今テレビ番組の“本流”を形成するお笑い番組が、ある種の政治誘導になっていることをく表している。
今から2年ほど前、太田光が司会を務めるバラエティ番組に出演した横粂勝仁議員は、杉村太蔵氏を冗談で「芸人の太蔵さん」と表現した。これに司会の太田光がブチ切れ噛み付たことがある。
ことの発端は、横粂氏が女子アナ2名のうち、どちらが好みかと尋ねられて、「僕は真面目なので、そういうことは芸人の杉村太蔵さんに聞いてください」と発言したことだった。これを受けて、太田は「芸人なめてんのか!ふざけんじゃねえよ!何さまなんだよお前は。」と異常な剣幕で怒鳴った。
太田は横粂議員に“バカヤロウ”と何度か怒鳴っていたようだが、横粂氏が杉村太臓氏を“芸人”と呼んだのはごく自然な表現だった。杉村氏は小泉チルドレンになった時期から、多くの珍奇な言動でマスコミにもてはやされ、“タイゾー現象”と呼ばれるブームを作っている。
杉村太臓氏は間違いなく“芸人”なのである。太田が横粂氏の発言を芸人差別の文脈で怒ったのは見当違いである。しかも、ここまで激怒することは芸人の許容範囲を逸脱していて、“人気のある芸人はエラいんだぞ”という傲慢な意識の表れとしか見えない。
たしかに芸人世界の出世競争で言うならエラいのかもしれないが、世間の常識から言うなら、芸能人の歴史は昔の河原乞食(かわらこじき)や河原者(かわらもの)に由来していて、それほどエラいということはない。テレビで人気が出ると市民権を得た思いがあるのだろうが、芸能界の歴史は差別史でもあり、それなりの悲しいものがある。
民主主義で言うなら、芸能人も政治家も職業上の貴賤はないが、テレビで売れていることを社会的ステータスとして、重要な政治番組に起用することは間違っているというよりも危険であろう。
太田光はビートたけしと同様に、テレビの政治バラエティ番組の司会を務める役割が多くなっている。この二名に象徴されるお笑いの質は他者棄損と侮蔑であり、日本文化を低劣なものにしている。
要素は3S(セックス、スクリーン、スポーツ)から成り立っていて、国民の耳目を嘲笑的な笑いに惹きつけながら、政治に対する思考停止状態をつくる。これが原子力発電の固定化や新自由主義の敷設に好都合なのである。
考えなくても、彼らお笑い芸人が政治番組を司会して、政治話題を誘導することはかなり異様であることに気づく。お笑いで有名になれば政治番組のMCを務められるという図式自体がテレビ界の異常性の一つである。
ここに働いている力学を冷静に鑑みると、それは芸人の知名度と人気が最も効果的な政治誘導を起こせるからに他ならない。つまり、ビートたけしや太田光が司会を務める政治バラエティ番組は、明らかに米官業利権複合体のために、彼らの人気度を利用して、都合の良い政治方向に誘導する目的がある。
そういう番組は池上彰の知ったかぶり政治解説と同様に、フリードマン主義に取り込まれている既得権益層を利する政治言論を発することが目的になっている。もう一つはお笑い芸人に政治番組を担当させることで、政治に低次元なお笑いの要素をまぶしながら視聴者を幻惑し、彼らの望む方向へ持って行きやすいようにする。
政治をテレビショー化することで、国民を愚民化するとともに、大衆の意識下に既得権益層の都合の良い政治政策をさりげなく刷り込んでいる。このような愚民化お笑い政治ショーが、テレビのゴールデン枠を占有したこと自体が、フリードマン主義による国民政治の無力化を助長する。
お笑い芸人が政治を論議すること自体は全く問題はない。彼ら特有の社会風刺・人物風刺の嗅覚は世人のそれを越えている部分があるから、面白い話が展開されるだろう。問題は彼らを政治誘導の道具に起用することが、大衆支配の一つのツールと化している現実なのである。
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