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http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130424-00000000-sundaym-pol&p=1
サンデー毎日 4月24日(水)17時0分配信
◇岩見隆夫(いわみ・たかお=毎日新聞客員編集委員)
いつのまにか、テレビの悪口を言い合うのが家族間の癖になった。それなら見なければいいのだが、見てしまうのも癖になっている。
先日も朝の民放テレビ情報番組を見ていて驚き、さっそく家族に告げ口した。
「女性のコメンテーターが『私は文学少女だったので……』と言ったんだよ」
「そんなこと言うはずないでしょ。『私は美少女だったので』と言ってるようなものなんだから」
「しかし、言ったんだ。だから、ギクッとして……」
「ジョークじゃないの」
「いや、結構大まじめで」
「ふーん」
テレビから流れでてくる大量の日本語のなかに、えっと思う言い回しなどが多くなった。特にお笑いタレントはめちゃくちゃである。めちゃくちゃをウリにしているのだろうが、与える影響は小さくない。
しかし、「文学少女」発言にしても、知人に同じ話をしたら、どうしてそれが問題なのかという顔をされた。文学好きの少女だった、と自己紹介して何がおかしいか、というのである。日本語感覚が急速に変わってきたのだろう。私たちが恥ずかしいと思う表現法でも、あとの世代はそう思わない。
もうひとつ、テレビを視聴していて最近気にさわって仕方ないのが、民放のアナウンサー、特に女性アナの発声、アクセント、イントネーション(抑揚)である。地声で、しかも自前の調子で平然としゃべっていて、聞き苦しい。プロとしての修練のあとがまったく感じ取れない。
NHKはどんな教育をしているのか知らないが、明らかに違う。NHKのアナは安心して聞けるが、民放は総じて泥臭いのだ。そのことに民放首脳もアナ本人も気づいていないらしいのが、実は重大問題で、テレビ界が弛緩している端的なあらわれではないか。
NHKにもいろいろある。民放化という指摘は相当以前からあった。民放化というのは、民放の視聴率競争による俗悪なところが伝染してきたことを批判しているわけで、その傾向は進行している。NHKは品が悪くなった。
ところで、先日、『テレビの未来と可能性−−関西からの発言−−』という新刊本をお送りいただいた。高橋信三記念放送文化振興基金が編者で、基金二十周年の事業として編まれたものだ。
高橋信三さん(一九〇一−八〇年)は新聞人を経て六十年前、民間放送の立ち上げに奔走し、日本放送界の興隆期を背負ったリーダーだった。「毎日放送」の社長、会長をつとめ、豊かな識見と放送事業改革への情熱は高く評価されている。七五年一月、『毎日新聞』に寄せた一文では、
〈ラジオやテレビが情報メディアとしてさらに役立つためには、まず司会者やキャスターたちがもっともっと勉強しなければならない。現在はいたずらに大衆に迎合したり、雷同したりすることが民主的だと考えているような人がいないだろうか〉
と苦言を書いている。いまに通じることではないだろうか。
◇やばっ、めっちゃ、ウッソー 日本語の劣化はやめて
本書を上梓したのは、監修者の辻一郎さん(元毎日放送報道局長)によると、
〈残念ながら、テレビ局は優等生ぞろいの手堅いサラリーマン社会に変貌した。それとともに、視聴者にとっての魔法の箱だったテレビは、ただの箱に変質し、単なる時間潰しの道具になった。この現状をどう見るか。ここから脱却しテレビを再び蘇生させるには、何をどうすることが必要なのか〉(あとがき)
という問題意識からだ。
本書で発言しているのは、識者、メディア研究者、番組制作者ら総勢六十七人、三〇〇ページに及んでいる。悲観論が目立つが、テレビこそ、と復権をめざす声も少なくない。シンポジウムで関西テレビ宣伝部長の老邑敬子さんは、
「『いま、テレビは慌てています。けれども、わくわくしています』っていうのが、私が日々感じていることです」
と現場の不安と息吹を語っている。だが、
「単なる時間潰しの道具」
になりかけているという辻さんの現状認識は当たっていると思われる。この点をもっとも痛烈に突いているのが、社会学者、加藤秀俊さん(元学習院大教授)のアンケートに対する答えだ。
〈いまテレビは日本だけでなく世界的に「荒野」どころか「砂漠」になった。文明史的にいっても、まったく不毛な荒涼たる時空間をテレビはつくった。その不気味な砂漠を跳梁跋扈するのは「タレント」という名のえたいの知れない人間たち。かれらが空虚な音声と身ぶり手ぶりで飛んだり跳ねたり、食べたり飲んだり、なにがなんやらわからない。要するにナンセンスの世界である。虚そのものである。もう、ここまで堕ちたら、堕ちようがないところまでテレビは堕ちた〉
しかし、テレビはなくならない、タダで流れてくるテレビは貧者にとっての文化的空気のようなもの、虚であっても、いや虚であるがゆえに、その存在は永遠なのである、と加藤さんは続ける。
では、どうなるか。結局のところ、言語世界、とりわけ文字世界への回帰以外に、われわれの情報生活の未来はありえない、要するに、新聞、雑誌を〈読む〉こと、それ以外に世間の動きを知る手だてはない、というのが加藤さんの結論だ。
私もそう思う。新聞はいずれ消える、という論が少なくないが、ネット社会になって部数は減っても新聞は残る、活字は残る。テレビの早朝情報番組でも、スタジオに新聞各紙を張り出し、情報源にしているではないか。
とりあえず、テレビにお願いしたいことは、日本語の劣化に手を貸してほしくない。「やばっ」「うまっ」「すごっ」「めっちゃ」「ウッソー」……。やめてもらいたい。「やばい」は犯罪者の符丁である。
なお『テレビの未来と可能性』の注文は大阪公立大学共同出版会(TEL072−251−6533)まで。
<今週のひと言>
ボストン・テロは、日本でも起こると思ったほうがいい。
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