91. 2013年3月25日 12:42:21
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1965年、CIA による インドネシア大虐殺 http://www4.kcn.ne.jp/~yoitiro/hatena/cyrano/massacre.1.html http://www4.kcn.ne.jp/~yoitiro/hatena/cyrano/massacre.2.html 1965年、CIA による インドネシア大虐殺 マリオ・サントス[the Socialism and Liberation Magazine original article] 初出: the Socialism and Liberation Magazine Vol.3 No.1 (2006年 1月) これは、サンフランシスコで 2005年 12月 6日に 開かれた ANSWER (Act Now to Stop War and End Racism) 主催の フォーラムにおいて 話された スピーチからの 抜粋である。 マリオ・サントスは、AJLPP (the Alliance for a Just and Lasting Peace in the Philippines) の スポークスマンであり、また ANSWER International 北カリフォルニア 運営委員会の 一員でもある。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 私は、インドネシアにおける 1965年の CIA による 大虐殺と、今日の世界に 続く その影響について、今夜 みなさんに 話す機会を 与えてくれた ANSWER の 尊敬する 同僚たちに 感謝したい。 40年前の、数百万人の インドネシア人大虐殺という 恐ろしい悲劇を ふりかえることは、われわれにとって、U.S.帝国主義 - 世界一の テロリストにして、人間の権利の 侵害者である - という 怪物に 終止符を うつため 闘っている、われわれの 立場を 再確認する よい機会である。 20世紀は、世界中の 弱小国に 対し、U.S.が 侵略と 血まみれの 戦争を 仕掛けた、絶後の記録が 打ち立てられた 世紀である。 これらの戦争は、U.S.帝国主義に、世界中に その独占資本を 移動させる 特権的な 自由、植民地を もち、そこから 安価な 原材料を 吸い上げ、その市場へは 高額な 完成品を 投げ入れる 自由を 与えた。 これこそが、U.S.政府 および 歴代の 大統領 - とりわけ ウィリアム・マッキンレィ 以降の - が、「自由」と その民主主義体制について、なぜ 常時 発言しているのかの 理由なのだ。 アジアにおける U.S.の 犯罪 40年前に 起こったことは、20世紀に U.S.帝国主義が アジアで 犯した 極悪犯罪の、年代順に いえば、その 4番目に あたる。 その最初は、1世紀以上も前、1898年から 1916年までの、私の祖国 フィリピンの、残忍な 再植民地化と 占領である。 この占領の 結果、約 140万人、当時の 国の人口の 約 5人に 1人が 死亡した。 フィリピン人を 「文明化し、キリスト教化」した 戦争は、太平洋を U.S.の 一つの 湖であると みなした 侵略戦争であり - U.S.帝国主義にとっては、U.S.本土以外に 植民地を 占領したことで、一人前の 帝国主義勢力に なったことを 告げる 最初の 礼砲であった。 2番目の 犯罪が、60年前の 広島・長崎の 市街への、原子爆弾 投下であり、一瞬にして 日本の 民間人 数十万人を 殺害した。 戦争で どの国も 使わなかった 核兵器を 最初に 使用したのだ。 アジアでの 3番目の U.S.の 犯罪は、朝鮮人民に 対する 戦争であり - この 戦争で 3年間に 約 300万人の 朝鮮人が 死亡し、国土は 今日まで 北緯 38度線に 沿って 分割されている。 そして インドネシアである。 ベトナムの前に インドネシアが あったのだ。 U.S.の 軍隊が、約 100万の 兵で、ベトナム人民の 英雄的な 抵抗を 打ち砕こうと、ベトナム南部を 占領しに来る その前に、CIA は、インドネシアで 血まみれの 大虐殺を 指揮したのだ。 民族解放の 世紀 インドネシアの悲劇を 理解するため、そこに 至った 世界の情勢を 振り返ってみよう。 第二次世界大戦の後、とりわけ アジアと アフリカでは、民族が その独立を 勝ち取る 熱狂的な 時代が もたらされた。 民族は 解放を 求め、人々は 植民地圧制者の 手から 彼ら自身を 解放するため、革命的抵抗を 挑んだ。 毛沢東と 中国共産党による 賢明で 有能な 指導のもと、数億の 中国人民は 立ち上がり、植民地的・封建的束縛と 蒋介石の 腐敗した 国民党政権を 捨て去った。 1949年10月 1日、中国人民は、外国の 帝国主義支配と 買弁支配からの 自由を 宣言し、社会主義建設への 道を 歩みはじめた。 続く、1950年から 1953年に わたる 朝鮮での 戦争は、民族解放の もりあがる 潮流を くい止め、東洋から 一掃するための、U.S.軍隊に 率いられた 帝国主義者たちによる 襲撃であった。 朝鮮人が、彼らの祖国を 防衛するため 耐えなければならなかった 莫大な 損失にも かかわらず、帝国主義者は、中国人や ソビエト人民に ささえられた、英雄的な 朝鮮人民を 打ち負かすことが できなかった。 U.S.の 侵略戦争と 占領による 荒廃から、朝鮮民主主義人民共和国 (DPRK) は、その解放された 北部に 生き残った。 ほぼ 同じ頃、ベトナム人民は、フランス植民地圧制者の 面目を 失わせ、彼らを ディエン・ビエン・フー 峡谷で 決定的に 打ち破り、1954年には その国土の 北半分で、ベトナム民主共和国 (DRV) が 支配権を 確立した。 フランスへの、U.S.の 武器供給と 軍事顧問派遣も、彼らの勝利を くい止めることは できなかった。 民族から 民族へ 次々と、アジアと アフリカの 人々は、その民族の自由を 闘い取っていった。 植民地勢力は、彼らの 弾圧から 自由になるため 闘い、民族の独立を なしとげようとする 植民地や 半植民地の 支配を 維持しようと もがいていた。 インドネシアの 民族解放 インドネシアは、1949年に 宗主国 オランダの 国王から、彼らの 独立を 勝ち取った。 インドネシア共和国が 生まれたとき、Achmed Sukarno という 人望のある 熱烈な 民族主義者が、共産主義者や 社会主義者 それに 他の民族主義者の 後押しによって、大統領に 選ばれた。 インドネシアは、経済的・軍事的には その後も 依然 その支配下にあったが、政治的には 植民地支配者からの 独立を 果たした。 スカルノのもとで、インドネシアは、経済においても 植民地支配の 全ての痕跡を、他の 文化面と 同様、克服する 手段を 確実に つかみ始めていた。 1957年 12月、スカルノは、オランダ所有の 石油プラントの施設を 国有化する 政策を とった。 この間、彼の 同盟者である、Dipa Nusantara Aidit 率いる インドネシア共産党は 党員 300万人という、ソビエト連邦と 中国を 除くと、世界最大の 共産党へと 成長した。 その影響下にある 大衆団体は、優に 1000万人 近くに 達していた。 スカルノ、あるいは ブン・カルノ - 支持者は 彼を 親しく こう 呼ぶ - は、アジア、アフリカ および ラテンアメリカの 帝国主義に 対する 発展途上国の 動きに、卓越した 役割を 演じはじめていた。 1955年には、スカルノは、バンドンで 開催された アジア・アフリカ会議での 司会を つとめた。 続いて、スカルノは、多くの 政治家、人民中国の 周恩来、インドの ジャワハルラル・ネルー、エジプトの ガマール・アブドゥユ・ナセル、そして チトー元帥として 知られている ユーゴスラビアの ヨシフ・ブロズらと、非同盟国の運動を つくりあげるため 協力した。 これは、植民地統治から 新しく 独立した 国々の 集まりであり、国際社会での 帝国主義との 結びつきを 拒み、新植民地主義と 帝国主義者からの 解放を その運動の 指針とした。 インドネシアによる、帝国主義の 統轄と支配からの 偉大な 独立のため 闘っている 社会主義者や 第三世界の 国々との、幅広い 国際的な 統一戦線を つくりあげる 動きは、U.S.帝国主義を 激怒させた。 この怒りには、次の 諸事実が 複合している。 1つ目は、スカルノのもと、すでに、インドネシアは 地球上で 最大の イスラム国家で あったこと。 2つ目は、インドネシアが 膨大な 原油資源を 所有していたこと。 国有化された 石油産業によって、スカルノは、より安い石油を 中国、インド、北朝鮮、北ベトナムや 他の 非同盟諸国に 供給することが できた。 3つ目に、世界の 貿易の 多くの部分が、すでに マレーシア半島と インドネシアの 間の マラッカ海峡を 航行していたこと。 手始めとして、独占資本の 支配から その事業を 切り離し、あるいは 提携を 断ったことが、すでに United States と 他の 資本主義者勢力とに、「竹のカーテン」内の すべての国、人民中国、北ベトナム および 北朝鮮が、残りの 「自由」アジアを 取り囲み、その上に 襲いかかるかのような 決めつけへと 駆り立てた。 これらの 人民共和国と インドネシアとの 連帯は、当時の さらに粗野な 帝国主義者の 主張では、「自由」な資本主義世界の 残りが 今にも 共産主義者の 手中に 落ちる という もう一つの 「ドミノ」理論を 意味していた。 スカルノは、インドネシア人民の 世論と その伝統に もとづいた、政府の 政策決定 - "Guided Democracy" を 提唱した。 彼は、NASACOM と 呼ばれる - インドネシアを、帝国主義者の 強圧から よりいっそう 独立させるための、民族主義者、宗教信仰者、社会主義者 および 共産主義者を 含んだ - 統一戦線と ともに 歩んだ。 PKI が 優れた 役割を 演じた、インドネシア人民の 行動により、インドネシアの社会は 大きな 一歩を 踏み出したが、インドネシアという国は、依然、一つの ブルジョア国家であり、いまだ それは 働く 民衆の 手に しっかりと つかまれているとは いえなかった。 スカルノは 愛国的では あったが、しかし、民族主義ブルジョアジーの 一代表以外の 何者でも あり得なかった。 U.S.に 支援された 騒乱 PKI は、その巨大な 党員数と 影響力にも かかわらず、唯一 その勢力を、非武装の、平和的な 議会制の 進路を 通って、社会主義を 追求するという 方針に 限っていたため、合法的な 民主主義の 枠内に 留まっていた。 このことは、現実には、彼らに 対し 際限のない 暴力を ふるおうと 待ち構えていた 仇敵たちに とって、御しやすい 獲物であることを 意味していた。 そのため、U.S.政府は まず、インドネシア軍の 養成、より一層の 軍備、それに 「援助」と 「軍事顧問」の 提供を はじめた。 最初 U.S.政府は、スカルノ政権を 倒すため、外部からの 破壊活動に 乗り出した。 U.S.帝国主義者は、その下劣な 謀略機関である 中央諜報局 (CIA) を 通じ、同盟者である フィリピン軍の 手引きによる、いくつかの 失敗に 終わった クーデターを 実行した。 1958年に、CIA は、スマトラと ジャワにおいて、右翼反共主義者の 謀議による 反乱を 煽動した。 この反乱は、人々の 支持を 欠いたために、失敗に 終わった。 そこで、United States と 英国は、1963年、挑発するように、英国統治領である ボルネオ島 北部の サバ、サラワクを、同じく 植民地領の マレーシア半島 および シンガポールと 結びつける、いわゆる マレーシア連邦を つくりあげた。 彼らは、インドネシア領 北部ボルネオにおいて、その傀儡による 暴動を 計画した。 しかし スカルノは、彼に 忠実な 軍隊によって、これを 鎮圧することが できた。 ボルネオ島に おいて、インドネシアは、隣国の - 親英国である - マレーシアと、Konfrontasi と 呼ばれた、武力と 外交上の 衝突に はいった。 United States と 英国は、例のように、インドネシア国内での 反スカルノ勢力を 組織化した だけでなく、反スカルノ 武装行動の 煽動にも、彼らの 衝突を 利用した。 最終的には、この問題は 外交的に 解決された。 しかし、インドネシアが 左傾化するに つれて、U.S.政府は、その インドネシアに 対する 陰謀 および 破壊活動と、経済制裁とを、さらに 押し進めていった。 ペンタゴンも また、その援助を 増強し、インドネシア軍内部には、彼らの 勢力が 不気味に 成長してきた。 CIA 工作員たちも、民間に おいて、破壊活動を 助長する 目的の 組織化を 始めた。 血まみれの クーデターへ 至る 序幕として、イエズス会の 司祭であり、また CIA の 諜報員でもあった Jose Blanco 神父が、インドネシア 学生団体の KAMI を 結成し、ジャカルタや インドネシア 各地において 反共産主義デモを 開始した。 このとき、インドネシア軍 上層部の 将軍たちは、Nasution 将軍を 別に 考えると、全体としては 親スカルノ派であった。 その 彼らを 一掃し、同時に、PKI に 対し 血まみれの 大虐殺を 実行するため、CIA は、Untung 大佐という 名前の 男に 率いられた、いわゆる 9.30 Movement (Gestapu) を 動かして、1965年 9月 16日、彼らに 対する クーデターを 敢行、7人の 将軍と 他に 数人を 殺害した。 このことは 直ちに、PKI へ その責任が 転嫁されたが、無論、Untung 大佐には、彼を ささえる 人民の 活動など なかった。 そして、PKI 指導部は、その潔白を 法的な 手続きに 委ねることを 決定し、それゆえ、人々を 武装させることは なかった。 スカルノに 対する クーデター これは、Abdul Harris Nasution 将軍と Mohamed Suharto に 率いられた、U.S.に 養成された 右翼に、スカルノ政権を 倒すための 反クーデターを 仕組む 口実を 与えた。 「インドネシアを 救うためには、それを 撲滅しなければ ならない」 これは、第2次世界対戦中、ナチスや 日本人に 対し、無差別爆撃を 実行したとき、U.S.政府が くり返し 採用した 論法である。 また これは、第2次世界大戦で、ペンタゴンが、ワルシャワ以後 2番目の 規模で、マニラを 爆撃、市街を 壊滅させたときに 使われた 論法であり、その結果 10万人以上が 死亡した。 U.S.帝国主義は、その 傀儡である Nasution と Suharto とに 働きかけ、加えて CIA の 手法を 用いることで、インドネシアにおいて、最終的には 150万から 300万に のぼる 生命を 奪った、恐るべき 大量殺人へと 駆り立てた。 KAMI 集団は、この 1965年の 反共主義者による 大虐殺において、重要な 位置を 占めていた。 スカルノ時代、中国系 インドネシア人に 認められていた 平等の 権利を 破壊するため、反共主義者の 軍の殺人者たちは、反中国人ヒステリーと 人種差別主義者の 狂乱を 駆り立て、それは、インドネシア群島の 村から 村、島から 島を 一気に 押し流し、彼らの 誰一人として、この 虐殺から 逃れることは できなかった。 CIA が 用意した 死のリストを 手に、反共主義の 殺戮者たちは、PKI の 党員 もしくは その支持者である 容疑の かかった 者を、一人残らず 捕まえ、そして 即座に 殺害した。 数十万という 無防備な 人々の血で、河は、文字どおり、赤く 染められた - 労働者、農民、また 同じく 知識階級の メンバー、男女 子どもを 問わず、無差別に 虐殺が おこなわれた。 PKI の 存在は、この地表上から、ほぼ 完全に 抹殺された。 軍に 殺されなかった 数万を 越える 人々は、苦役の 待つ 牢獄へと 引きたてられ、沈黙のうちに 朽ちはて、忘れ去られた。 多くの人が その後 そこで 亡くなり、生き残った者は、35年間 投獄されたままであった。 インドネシア人民の 運動と その知識階級の すべての 痕跡が 抹殺されたことによって、その後 多くの 年月に わたって、スハルト政権は、公務員不足から 政府運営が 困難に 陥るという 時期を もつことと なる。 彼らは、そのため、教師と 公務員とを フィリピンから 輸入することに したのだ ! 帝国主義者による 恥知らずな 侮辱が、それへの 否認であった。 ソビエト連邦、中国、社会主義諸国、それに 新しく 独立した 国々からなる 非同盟ブロックからの、激しい 憤慨と 抗議とを 除けば、1965年 インドネシアで 起こった 大虐殺の 悲劇についての 広範な 抗議は、United States や ヨーロッパには、ほとんど 見られなかった。 U.S.政府は 陰謀に 深く 加担していたが、英国と 西ドイツも、より 少ない 規模だが、同じく、インドネシア軍に 武器を 調達していた。 マスメディアは、この件に 対しては、まったく 注目することは なかった。 U.S.政府は、一貫して、関与の 否定を 装い、「国家の安全」を 理由に これを 機密扱いと した。 U.S.民衆に とって、なぜ これが 探求すべき ことと なるのだろうか ? 共産主義への 恐怖と 無知 ... 圧迫されている 民族が、彼ら自身の 独立のために 闘うという ことは、西側の 人々の 記憶に 留めるべき もので あった。 奇妙な ことに、無自覚な 冷淡さと、偽善による 恥知らずとが、勝ち誇っている。 当時の 「共産主義者という 亡霊」は、今日では、「テロリストという 亡霊」である。 この事実を、われわれの 友人である 反戦運動に 携わっている 平和主義者たちは 気づいてほしい。 旧い 支配階級の 組織的な 抵抗や 武力衝突も なく、社会変革への 道が 達成できるという 錯覚を 抱いている 者は、誰であれ、インドネシアで 何が 起きたかを、詳細に 見てみるべきだ。 インドネシア人民の 運動に 対する 大虐殺は、その独占 - 資本主義者による 弾圧から、圧迫された 人々が 抜け出すのを、U.S.帝国主義者が、阻止するために 行動した その範囲の 極限を 示した、恐ろしい 警告であるのだ。 あなたたちが、U.S.占領軍の 手中にある イラクの、数十万の 死者について 考えるとき、U.S.の 代理人である 殺人者の 手にある 数千の ハイチの 人々について、あるいは、U.S.が 援助している シオニストの 手にある パレスチナの 人々について、あるいは、フィリピン人 活動家や リーダーに 対する、U.S.に 養成され、U.S.に 武器を 与えられ、U.S.から 援助された、フィリピンの 軍人や 民兵殺人集団の 手による 殺害が 増えていることに ついて 考えるとき、インドネシアを 思い出すことだ。 U.S.帝国主義によって、極悪 きわまりない 暴力や 虐殺が 実行へと 移されることを、くり返しては ならない。 われわれは、帝国主義者の テロルに 曝されている 民族と 人民が、その自由を 勝ち取るための、そして 断固として 彼ら自身を 守るための、その正当な 権利を、勇気を もって、支持し 擁護しなければ ならない。
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