05. 2012年10月23日 11:26:32
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軍人さんが強制連行した事をペラペラ話しちゃったんだから、今更否定するのは無理だよ: 林博史関東学院大学教授は十七日、外国特派員協会での記者会見で「従軍慰安婦」問題についての新資料七点を発表しました。一九四六?四八年の東京裁判でオランダ、フランス、中国の検察団が提出した尋問調書や陳述書などです。これらは、同裁判で検察陣を構成した各国の政府機関が作成し、裁判の証拠書類として採用された公文書です。「慰安婦」が日本軍によって強制的に連行され、性行為を強要されたことを示しています。
林博史『極東国際軍事裁判に各国が提出した日本軍の「慰安婦」強制動員示す資料(7点)』
http://space.geocities.jp/ml1alt2/data/data5/data5-04.htm#02 林博史・関東学院大教授が米国の新聞で発表した論文である。
それによると、第二次世界大戦直後の東京裁判において、オランダ、フランス、中国などが提出した資料に、日本軍に強制的に連行され、従軍慰安婦として働かされたことを示す資料がたくさんあるということだ。それによると、地元警察に捕まってそのまま日本の収容所に連れて行かれて慰安婦にされた話や、現地の女性を拘留した理由として、売春宿に入れるための口実だったと日本軍が答えた調書などが数多く残されているとのことだ。 ここでのポイントは二つある。まず、東京裁判での資料なのだから、これは公文書だということ。そしてもう一つは、日本はサンフランシスコ講和条約によって東京裁判を受け入れたということだ。つまり日本は、従軍慰安婦の強制連行を公式に認めていたわけだ。 http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/a/78/index2.html
林博史『極東国際軍事裁判に各国が提出した日本軍の「慰安婦」強制動員示す資料(7点)』 既報のように、日本軍による「従軍慰安婦」の強制動員を示す資料が確認された。
関東学院大学の林博史教授が4月17日、日本外国人記者協会で会見を行い 公表した資料は、極東国際軍事裁判(東京裁判)にオランダ、中国、フランスの検察団が提出、受理された公文書で、現在、東京大学社会科研究所図書館に所蔵 されている。 以下、資料の内容を紹介する 【資料1】(PD5330/EX1702) インドネシア・ボルネオ島(カリマンタン)ポンティアナック 日本海軍占領期間中蘭領東印度西部ボルネオに於ける強制売淫行為に関する報告 一九四六年七月五日 一九四三年の前半にポンチアナック海軍守備隊司令海軍少佐ウエスギ・ケイメイ(同人は一九四三年八月頃日本に帰国したり抑留を要求し置けり)は日本人はインドネシヤ或は中国の婦人と親密なる関係を結ぶべからずといふ命令を発しました。当時全ての欧州婦人と事実上全ての印度系欧羅巴婦人は抑留されて居ました。彼は同時に公式の慰安所(official brot-hel)を設立するやう命令を出しました。是等の性慰安所(brothel)は二種に分類することになって居ました。即ち三ヶ所は海軍職員専用、五、六ヶ所は一般人用で其の中の一ヶ所は海軍民政部の高等官用に当てられました。 海軍職員用の性慰安所は守備隊が経営しました。司令の下に通信士官海軍大尉スガサワ・アキノリが主任として置かれ日常の事務は当直兵曹長ワタナベ・ショウジが執って居ました。日本人と以前から関係のあった婦人達は鉄条網の張り廻らされた是等の性慰安所に強制収容されました。彼女等は特別な許可を得た場合に限り街に出ることができたのでした。慰安婦をやめる許可は守備隊司令から貰はねばなりませんでした。海軍特別警察(特警隊)が其等の性慰安所に慰安婦を絶えず補充するやうに命令を受けていました。此の目的の為に特警隊員は街で婦人を捕へ強制的に医者の診察を受けさせた後彼等を性慰安所に入れました。是等の逮捕は主としてミヤジマ・ジュンキチ、コジマ・ゴイチ、クセ・カズヲ、イトウ・ヤスタロウ各兵曹長によって行はれました。 一般用の性慰安所は南洋興発株式会社支配人ナワタ・ヒサカズが経営しました。守備隊司令は民政部に命じて之を監理させました。民政部は此の経営を報国会(日本人実業家の協会)に依嘱してナワタが報国会の厚生部の主任であったので是等一般人用の性慰安所の主任に任ぜられました。彼は帳簿をつけたりするやうな事務的仕事には彼の会社の使用人を使用しました。毎朝、夜間の収入は南洋興発会社の出納係キタダ・カゲタカに引渡されました。是等の慰安所に対する婦人達も亦特警隊の盡力によって集められました。 其等の性慰安所に充てられた家屋は敵産管理人から手に入れ家具は海軍用性慰安所にあっては海軍が支給し一般人用にあっては報国会が支給しました。遊客は原住民である傭人に(海軍の場合には其の階級に従って)金を支払はねばなりませんでした。又その傭人は其の金を毎日当直兵曹長又は南洋興発の出納係に引渡しました。両者の場合共三分の一は諸経費、家具、食物等を支弁する為保留され、三分の二が当該婦人の受取勘定に繰り入れられました。此の中から婦人達は随時彼等各自の用に充てる為其の一部を引出すことが出来ました。毎月の計算書は民政部の第一課に提出せねばなりませんでした。 特警隊は婦女を捜すに当り民政部及日本人商社の全婦人職員に特警隊に出頭するやうに命じその婦人達の何人かを真裸にし日本人と関係していたとなじりました。次いで医師が検診をしましたが数人は処女であったことが判りました。是等の不幸な婦人達の中何人が性慰安所に強制的に送られたか確実には判りません。婦人達は性慰安所から敢て逃げ出さうとは致しませんでした。と言ふのは彼女等の家族が特警隊に依って直ちに逮捕されて非道く虐められるからでした。一例として此の様な事の為当の少女の母親が死んだ事があります。 幸にも占領期間中引続き診療に従事することを許された、在ケタパンのインドネシヤ人軍医ルフリマ博士は特警職員の命令で彼の行った是等婦人の検診に関し宣誓供述をする事が出来ました。 彼の証言に依ると婦人達は強制的に売淫させられたのであります。上記の報告は日本人戦犯者の訊問から得た報告と本件関係者の宣誓陳述とから輯録されたものであります。 私は上記の事実は真実に上述の報告書に相違する点のない事を情報将校及日本語通訳として誓って断言致します。 バタビヤ 一九四六年七月五日 ジェー・エヌ・ヘイヂブロエク J.N.Heijbroek陸軍大尉 蘭印軍情報部 (訳注)「蘭印軍情報部の公式記録より採られたもの」と記された、蘭印軍情報部戦争犯罪課長チャールズ・ヨンゲテル陸軍大尉の署名付「証明書」も付けられている。「慰安婦」と訳されている箇所は英文では(women)のみ。
【資料2】(PD5326/EX1701A) インドネシア・ボルネオ島(カリマンタン)ポンティアナック ポンテヤナック虐殺事件に関する一九四六年三月一三日付林秀一署名付訊問調書 調書 本日、一九四六年三月一三日容疑者林秀一は在ポンチヤナック臨時軍法会議予審委員たる予、即ちメーステル・イエ・ベ・カンの面前に出頭した。 問 君の氏名、年齢、住所及職業を私に言ひなさい。 答 林秀一、二十四歳、日本石川県生れ、海軍軍属。 一九四三年七月十三日私はポンチヤナックに到着して警備隊長上杉ケイメイ大尉のところに出頭しました。ポンチヤナックでは私は私が設置したハナ機関の地方部長となりました。このハナ機関は海軍の情報機関でありました。(略) [証人ラフィアの訊問調書が容疑者に提示され、これについて訊問がなされた] 答 この婦人がポテム及アミナと共に上杉より訊問を受けたことは本当であります。その場合私は馬来語通訳として立会ひました。上記婦人は日本人と親密にしたと云ふので告訴されたのです。日本人と親密にすることは上杉の命によって許されていなかったのであります。私は上記の婦人を平手で打ったことを認めます。又彼等の衣服を脱がせたことも認めます。之は上杉の命令で行ったのであります。かくて三人の少女は一時間裸で立たなければなりませんでした。 問 これは日本で婦人を訊問する時の慣習か。 答 それは私は知りません。 問 君は部下の巡査ではない。併しポンチヤナックで独自に仕事をして居るスパイである。故に上杉のかくの如き命令に従ふ必要はない。 答 私はこの婦人たちが脱衣して裸にならなければならなかったことを承認しました。私は此の婦人たちは実際は罰すべきでなかったと信じます。併し彼等を抑留したのは彼等を淫売屋(brothel)に入れることが出来る為の口実を設けるために上杉の命令でなされたのであります。 脱衣させたのは彼等が日本人と親密になったことを彼等に認めさせることを強ひるためでありました。結局その婦人たちは淫売屋へは移されませんで、上杉の命令で放免されました。何故だか私は知りません。 問 幾日間その婦人たちは特警隊の建物の中にいたか。 答 私の思ふのには五日乃至六日間でした。彼等は建物の後の監房の一つにいました。 (以下、略。現地住民や中国人、ヨーロッパ人らの大量逮捕、虐殺の話になる。) (訳注)上杉大尉やハナ機関などには漢字が当てられているが、「音訳」と但し書きがついているものはカタカナ表記に直した。 【資料3】(PD5591/EX1794) インドネシア・モア島 オハラ・セイダイ陸軍中尉の宣誓陳述書 一九四六年一月一三日 問 貴方の氏名、年齢は? 答 シメイはオハラ・セイダイ、年齢は二十七才。 問 貴方の所属部隊は? 答 タナカ部隊ハヤシ隊 (略) 問 一九四四年九月に於けるモア島の指揮官は誰でしたか。 答 私でありました。 問 一九四四年九月中にモア島で土民が殺されたことがありますか、又その人数は? 答 セルマタ島及ロエアン島で約四十名の土民が捕虜となり且殺されました。 問 何故殺されたのですか。 答 土民達がセルマタ及ロエアン島の憲兵隊を攻撃したからです。 問 誰がその殺すことを命令したのですか。 答 タナカ将軍は土民達を司令部へ送るやう命じました。然し土民達がモアを出発する前に右命令は変更され私がモアで彼等を殺し土民の指導者三、四名をタナカ部隊に送るやうにと命ぜられました。 問 貴方は自分でその土民達を殺しましたか。 答 いえ、私は唯その殺すのを監督したのです。 問 誰が貴方の手助をしたのですか。 答 ウド曹長、トヨシゲ軍曹、マツザキ軍曹及二十一名の他の兵卒達です。 (略) 問 どんな風にして土民達は殺されたのですか。 答 彼等は三人宛途上縦隊を作って整列させられました。それから前に述べた二十一人の兵達は銃剣で彼等を突刺し一度に三人を殺しました。 問 或る証人は貴方が婦女達を強姦しその婦人達は兵営へ連れて行かれ日本人達の用に供せられたと言ひましたがそれは本当ですか。 答 私は兵隊達の為に娼家(brothel)を一軒設け私自身も之を利用しました。 問 婦女達はその娼家に行くことを快諾しましたか。 答 或者は快諾し或る者は快諾しませんでした。 問 幾人女がそこに居りましたか。 答 六人です。 問 その女達の中幾人が娼家に入る様に強ひられましたか。 答 五人です。 問 どうしてそれ等の婦女達は娼家に入る様強ひられたのですか。 答 彼等は憲兵隊を攻撃した者の娘達でありました。 問 ではその婦女達は父親達のした事の罰として娼家に入る様強ひられたのですね。 答 左様です。 問 如何程の期間その女達は娼家に入れられていましたか。 答 八ヶ月間です。 問 何人位この娼家を利用しましたか。 答 二十五人です。 (以下略) (訳注)オハラの階級について、陸軍中尉が、海軍大尉と後から直されているが、経歴を見ると陸軍なので、陸軍中尉のままにした。
【資料4】(PD5770/EX1725) インドネシア・ジャワ島マゲラン イエ・ベールマンの尋問調書 一九四六年五月一六日
私は一般被抑留者としてムテラン(Moentilan)収容所に抑留されました。一九四四年一月二十八日、私は吾が婦人部指導者レイツスマ夫人から日本軍俘虜収容事務所へ出頭する様にと云はれました。此処で私は爪哇人の一警視を見ました。彼は私を他の六人の婦人や少女等と一緒に連れて収容所の外側にあった警察署へ連れて行った。連行された人々の名前は(略)。 私達が爪哇人警視に案内されて収容所へ帰へって鞄に所持品を充めた後に其警視は私等を日本軍俘虜収容所事務所へ連れて行きました。此処で私等は三人の日本人に引渡されて三台の私有自動車でマゲラン(Magelang)へ輸送され午後四時に到着しました。我々はテウグラン(Teogoeran)と称せられ十四の家屋から成っていた小さい収容所へ連れて行かれました。一九四四年一月二十五日、私達の収容所から連行された婦人や少女等の一団と此処で会ひました。 (略) 一九四四年二月三日、私達は再び日本人医師に依って健康診断を受けました。此間は少女達も含んで居ました。其処で私達は日本人向き娼楼(brothel)に向けられるものであると聞かされました。其日の晩に娼楼が開かれる筈でした。帰宅後ブレッカー夫人と私は凡ゆる戸や窓を閉めました。午後9時頃戸や窓を叩く音がありました。私達は戸も窓も開け、閉さしてはならぬと命ぜられました。寝室だけは戸を錠で閉して私は其処へ閉ぢ籠りましたが他は其通りにしました。 私は是を二月五日 日曜日まで継続しました。其日にも亦日本軍兵卒等が収容所へ入って来ました(以前は日本軍将校のみでした)。是等兵士の幾らかが這入って其の中の一人は私を引張って私の室へ連れて行きました。私は一憲兵将校が入って来るまで反抗しました。其憲兵は私達は日本人を接待しなければならない。何故かと云へば若し吾々が進んで応じないならば、居所が判っている吾々の夫が責任を問はれると私に語りました。この様に語った後、憲兵は其兵士と私とだけ残して立去りました。其時ですらも私は尚ほ抵抗しました。然し事実上私はやられてしまいました。彼は衣服を私の身体から裂き取りました。そして私の両腕を後に捻りました。そこで私は無力となり、その後で彼は私に性交を迫りました。私は此の兵卒は誰であったか又其憲兵将校の姓名を知りません。 此の状態が三週間継続しました。労働日には娼楼は日本将校のために日曜日午後は日本下士官達のために開かれ日曜日の午前は兵卒等のために保留されました。娼家へは時々一般日本人が来ました。私は常に拒絶しましたが無効でありました。 一九四四年二月の終り頃か三月の始頃に私は事務所へ出頭する様に命じされました。其処にはタキグチと言ふ日本の一将校が居ました。彼は私が受けた待遇に関して私の訴を根拠として事件を調査すると約束しました。彼は亦私達を抑留者収容所へ送還するために極力努力することを約束しました。彼は兵卒や下士官や一般日本人に対して娼家を閉館して私達のために直に情況を改善して呉れました。 (訳注)証言者は、証言時、27歳。
【資料5】(PD5806/EX1792A) ポルトガル領チモール(東チモール) ルイス・アントニオ・ヌメス・ロドリゲスの宣誓陳述書 一九四六年六月二六日 一九四二年二月二一日、私は、日本軍がディリの中国人やその他の家々に押し入り掠奪をおこなうのを見ました。 日本軍があちこちで族長らに対して、日本軍慰安所(brothel)に現地の少女たちを提供するように強制したことを私は知っています。その際に、もし少女らを提供しなければ、日本軍は族長らの家に押しかけて、慰安所に入れるために近親の女性たちを連れ去るぞ、と言って脅迫しました。 (訳注)この宣誓陳述書の中で、日本軍が族長に命じて、労働力を提供させたことなども述べられており、族長に強制して提供させる手法がとらえていたことがわかる。なおこの宣誓陳述書には、連合軍東南アジア司令部の戦争犯罪捜査将校とポルトガル領チモールの行政官のサインが付されており、ポルトガル当局が捜査に協力していることがわかる。
【資料6】(PD2772E-5/EX2120) ベトナム・ランソン ニェン・ティトンの口述書抜粋 四日間自由であった後、私は街で日本人に逮捕され印度支那保安隊の病院の後方にある憲兵隊に引致されました。(中略)私は八日間、日本憲兵隊に監禁された後放免されました。其後私は数回逮捕され乱暴に殴られました。日本人等は私の仏人との交際を咎めたのでありました。 (略) ランソンに於ける捜査の間、日本人等はフランス兵と一緒に生活していた私の同国人数名に彼等/日本人等/が光安(Tienyen)に設けた慰安所(broth-el)へ一緒に行くやう強制しました。私は巧い計略の結果、彼等から免れることが出来ました。 (訳注)証言者は一九一五年生まれ、住所はハノイ。
【資料7】(PD2220/EX353) 中国桂林 軍事委員会行政院戦犯罪証拠調査小隊「桂林市民控訴 其の一」 一九四六年五月二七日
敵軍の我が桂林を侵略せしは一年間にして其の間姦淫、捕虜、略奪等為ささる処無く長縄大尉なる日本福岡県人は敵復興支部長の職を担当し、人と為り陰険悪毒にして桂林市に有る偽新聞社並びに文化機関をして自己の支配下に置き其等を我が民衆の懐柔並びに奴隷化の中心機関とし且又偽組織人員を利用し工場の設立を宣伝し四方より女工を招致し、麗澤門外に連れ行き強迫して妓女として獣の如き軍隊の淫楽に供した。 長縄の秘書即ち鈴木華□(日本女性)は彼の行為を幇助し、更に甚しきは此の敵が楽群路に在った李子園に憲兵隊を設立し、(以下略) http://space.geocities.jp/ml1alt2/data/data5/data5-04.htm#02 東ティモールにおける日本軍性奴隷制 四半世紀にわたるインドネシア支配の陰で、封印されてきたもうひとつのの占領の記憶がある。それは1942年2月から1945年8月までの日本軍占領期の歴史、特に「慰安婦」という名の性奴隷にされた東ティモール人女性の体験である。 ■証言
1942年から1945年の間に慰安所はポルトガル領ティモール全土に設置された。関係者の証言や東ティモールに駐留した部隊の記録によって現在までに確認された慰安所の所在地は、ボボナロのメモ村、ウアタ村、マロボ村、オアト村、バウカウのティリロロ村、アイレウ、サメのキラス、クレディリ、アラス、オッス、バギア、アビス、ラウテンそしてディリである。 日本軍は、リウライと呼ばれる伝統社会の王や村長に命じて少女や女性を集めさせた。彼らは反抗すれば殺されると脅された。また多くの住民が日本軍の治安管理を助ける「ポムベラ」として使われた。 ◇エスメラルダ・ボエさんの話
ある日、私が兄と畑でタピオカを収穫していると、日本軍の兵士が5人やってきて、何か言いあいながら私の腕を取り、首を締め、彼らの家に引きずっていった。そこからシモムラ(Shimomura)という司令官の家に連れていかれ、そこで私はシモムラに強姦された。私はその後解放されて家に戻り、両親に自分の身に何が起きたか告げた。両親は村長に相談した。村長は両親を「逆らうと殺される」と諭した。当時私は12、3歳ぐらいで初潮もむかえてなかった。 それから夕方になるとシモムラがやって来て、私を家に連れていき強姦した。こうして約2年間私はシモムラの相手をさせられた。シモムラが去るとシモムラと同じ家にいたカワノ(Khawano)の相手をさせられた。カワノの次はハルカ(Haruka)だった。兵舎にいる一般の兵士のために女性たちが連れて来られているのも見たが、別の村の女性たちなので誰が誰かわからなかった。 性の相手をさせられる以外に農作業もさせられた。働きが悪かったり疲れて休んだりすると、その場で殴られたり、厳しい罰が待ち受けていた。私は日本の歌を憶えさせられて日本軍の娯楽のためによく歌わされた。私は3人の司令官の名前と何度も歌わされた日本の歌を決して忘れない。 東ティモールに侵攻した日本軍はすべてを破壊した。私たちの牛や豚や鶏を奪い、男や女を殺害した。多くの女性が慰安婦にされた。ティモール人はみな重労働を強いられた。農作業も木材伐採も道路や橋の建設も全部ティモール人の仕事だ。 午後、外の仕事が終わると男は家へ帰されるが、女性は慰安所で働かされた。女を求めて兵士が村へやってくることもあった。少女が家から引きずり出され、慰安所に連行され、強姦された。そうした少女の中には死んだ者も重い病気になった者もいる。強姦された後殺されて山の中に捨てられた者もいる。私とマルタがこうして生きていられるのは幸運だ。生きてこうして話ができるのはありがたいことだ 。 私の兄のひとりは日本軍に殺された。兄は逆さ吊りにされて喉を切られた。死体は埋葬されなかった。埋葬されるどころか吊るされたまま火がつけられた。なぜ兄がこんな目にあったかというと、彼は私の姉と妹を助けようとしたからだ。この姉と妹は10人以上の兵士に強姦されて殺された。彼女たちの遺体は山の中に放置された。 兵士たちは既婚女性の家にも踏み込むことがあった。そこに夫がいても気にせず、その妻を連行し犯した。夫が家にいない時間をみはからって踏み込み、その場で妻を強姦するという場合もあった。日本人は本当にひどい国民だ。既婚の女性に何の敬意も払わないのだから。残虐だよ。あるティモール人の男は日本の憲兵に協力して働いていたのに、日本軍の酒宴に妻を出すことを強要された。 私たちには着る服も与えられなかった。しかたないので米の袋を切って服をつくった。それでもその時着ていた服よりははるかにましだった。私たちの身なりがあまりにみすぼらしい時は、酒席に呼ばれても行く気がしなかった。しかしそんな時でも「お前たちは慰安婦だ。俺達を楽しませるのが仕事だろ」といわれ引きずり出された。 日本軍は私たちから何でも奪った。あらゆる食べ物を奪った。キャッサバ(いも)さえだ。日本は豊かな国だと聞いたが信じられないね。何でも私たちから奪ったんだから。キャッサバさえも。 兵士は私たちの家にやって来て、何か欲しいものを見つけると、金はあるからそれをくれといった。でも金など払ったためしはない。ひと度機嫌を損ねると厳しい罰が待っている。例えば片手に岩を持たせ片足で立たせるとか。疲れて手や足を下ろすと竹の棒で肘や膝をしたたか殴られた。 心の傷が残っているかだって?今でも誰かのおしゃべりが聞こえると「エスメラルダは日本軍の慰安婦だ」って嘲笑されている気がする。思いだす度つらくてこれまで人に話したこともない。でもしゃべってよかったよ。すっきりしたよ。シモムラたちが生きて目の前に現れたら?そうだね、思いきり殴ってやるさ。(2000年12月11日談) ◇マルタ・アボ・ベレさんの話 エスメラルダも言ったが、当時、私たちは日本軍からさまざまな労働を強制された。私たちは、橋や道路や家屋の建設のための労役に従事させられたし、家屋をつくるために必要な竹などの資材を遠くから調達し運搬しなければならなかった。 私はオアト村から温泉のあるマロボに連れて行かれた。マロボには慰安所があり、そこで働かされた。その慰安所で私は毎日10人もの兵士に強姦された。 昼は昼で畑仕事やその他の労働をさせられた。そして夜になると慰安所に戻される。マロボの慰安所で毎日10人もの男性に強姦されて、私は自分が家畜になった気がした。実際私たちは家畜のように働かされた。まるで日本軍に所有された馬だ。昼は戸外で働かされ、夜は兵士に対する性的サービスをさせられた。 あれは動物としての扱いだった。その慰安所にはいくつかの部屋があり、小さめの部屋に5人ほど、中くらいの部屋に7人ほどが入れられた。寝床と寝床の間にはカーテンなどの仕切は一切なく、他の少女たちが犯されるのを見ながらまた自分も犯された。 私たちの性器は彼らのためのものだった。まるで動物の、牛の性器のようだ。ひとり以上の男、十人以上の男に毎日使われて。十人以上の男に強姦された後はもう普通に歩けない。ちゃんと立てなくてこんなふうにしか動けない。でも昼は昼で外で働かされるんだ。私たちはいつも牛の角で作ったメガフォンで呼び集められた。「さあ出てこい。男も女も。仕事だ、仕事だ」って。 あんたたちは本当に酷いことを私にしたよ。あんたたちは強姦したんだ私を。あの時私たちの性器はすごく痛いんだ。十人以上の男にされたらもう何もできないんだよ。 もし嫌だといったら、仕事を拒もうものなら、逆さ吊りにされて喉をしめられた。怖いよ。すごく怖くて、だから行くしかないんだ。 私たち女性は神様が造られたものだ。でも日本の男たちは女性が神の創造物と考えない。自分たちだって女性から生まれたのに。母親が産んでくれたのに。どうしてこんなふうに女性を扱えるんだろう。私たちだって彼らの母親と同じなのに。 あの男たちだって、疲れれば家に帰り休息を取るだろう。私たち女だって人間なんだから疲れるんだ。男と同じ仕事を昼間して、夜は一晩中セックスの相手をしなければいけない。私たちだって疲れるんだ、人間なんだ。 仕事が終わっても家(宿舎か?)に戻って何か食べてくることも許されない。お腹がすいて死にそうだった。あまりにひもじい時、私は日本軍のために働かされているティモール人の村長に食べ物を取りに家に帰らせてくれと頼んだ。何も食べる物がないと働らけないんだ。(2000年12月11日談) 【補足/マルタ・アボ・ベレさんが慰安婦にされた経緯】
ある日、日本軍の兵士と東ティモール人のガイドが家にきて 「いっしょに行こう。キャッサバを食べに行くのだから怖がらないでよい」 と言った。日本軍のために道路や兵舎をつくる仕事をしろということらしいが、怖かった。しかし、叔母に自分が行かないと両親や叔母が日本兵に殺されるといわれ、しかたなく従った。マロボに連れていかれると、集められた他の少女たちとともに草刈りや道路づくり等をさせられた。しばらくしてそういった仕事が一段落すると、アツァベ出身のドミンゴスという男が適当な少女を選んで慰安所に連れていった。マルタも連行され約3カ月間慰安婦として働かされた。三カ月後病気になり、両親の懇願によりもとの村に帰ることを許された。) ボボナロに駐留した部隊は、1944年3月まで駐留した歩兵第47連隊の第7中隊、 1944年3月に同部隊と交代した台湾歩兵第1連隊の第6中隊、軍用道路の建設に携わった台湾工兵第48連隊などである。 ◇エルメネジルド・ベロさんの話 日本軍がバウカウに来た時、ほとんどの者が山へ逃げた。オーストラリアに避難した者もいる。私の親族にもオーストラリアに逃げた者がいる。しかし私と妻は東ティモールに残り、一旦山へ逃げた。町に戻ってくると自分の家は日本軍に奪われていた。 日本軍が駐留するようになると、彼らは「慰安婦」にする若い女性を求めた。私も日本軍に差し出すための美しい若い女性を捜さなければならなかった。命令に従わなければ殺すと脅された。若い女性を捜すだけでなく、私の家も明け渡せと命じられた。家は大きく慰安所にするのにうってつけだったからだ。家は改造され「ティリロロ慰安所」となった。 ティリロロの慰安所にいるほとんどの女性は17才から20才くらいだった。全員がバウカウ出身というわけではなく、オッスなど他の場所から連れてこられた女性もいた。また、インドネシアのジャワ島のような東ティモール以外から送られてきた女性もいた。ティリロロの慰安所には中国(台湾?)出身の女性もいた。ほとんどが独身の女性だったが、結婚しているのに無理やり夫から引き離された女性もた。ジャワや中国から来た女性たちはずっとその慰安所にいたわけではなく、2、3日あるいは2、3週間で別の場所に移された。 慰安所の女性たちは苦しんでいた。昼間は農場で働かされ、日本兵のために洗濯をし、料理をつくり、夜は性的欲求を満たすことを要求された。もし日本兵に対する性的奉仕を拒否すれば、彼女たちは拷問を受けたり、ひど暴力を受けるのが常だった。あまりの野蛮さに耐えられず逃げ出した女性もいた。 中にはうまく逃げおおせた女性もいた。しかし、例えば、ススディオという女性が逃げた時の話だが、私は罰としてひどい目にあった。ススディオは17才くらいで、褐色の肌をしたとても美しい女性だった。彼女はカイシドゥ・ポボサンというティリロロ村の出身で私が差出した女性だった。日本軍は私がススディオを逃がしたと疑った。日本軍はススディオを見つけることができなかったので、逆上し、私を尋問し暴行を加えた。血だらけになった私は馬の背に括りつけられて家へ返された。 私のいとこのアナシタシアは慰安婦にされる前、カルロス・レモスという男性と暮らしていた。彼女も日本軍の慰安婦にさせられた。自由の身になった後、二人は別れた。その後アナスタシアは今日まで結婚せずひとりで生きてきた。彼女が二度と結婚しなかったのはこの時経験した心の痛み故だ。 ブランカという女性はポルトガル人ピレス中尉の妾のひとりだった。ピレス中尉はかつてバウカウの警備隊長だった。彼は日本軍侵攻時に一旦オーストラリアへ避難したが、その後東ティモールに潜入し、しかし結局日本軍に捕らえられてディリに護送された。ピレス中尉が逮捕されるとブランカは日本軍に連行され慰安婦にされた。 日本軍のある軍曹の「妻」にされたエルダ・サルダーニャは既に亡くなっているが、その軍曹との間に娘がいる。その軍曹の「妻」にされる前、彼女は結婚していた。彼女の夫は日本軍に殺害されていた。(2001年1月2日談) 【補足/エルメネジルドさんの記憶にある慰安所設置の責任者の名前及び階級は、捜索第48連隊所属のある将校の名前及び階級と一致した。さらにエルメネジルドさんは多数の将校写真の中からその人物を特定した。】 ◇クレメンティーナ・カルドゾさんの話 私はスアイのティリマールのワラ村の出身だ。ある時、日本軍の命令を受けたジョン・オリベイラというリウライ(村長?)の指示で、村の者は男性も女性もズマライに行かされ、軍用道路建設の人夫をさせられることになった。ズマライでは、村の男性と女性は分けられ、別々の住まい(小屋)をあてがわれた。日本軍の兵士は女性たちの住まいから気に入った女性を次々とバラック(兵舎)に連行し、性の相手をさせた。これらの女性たちは昼間はその他の村人とともに肉体労働に従事させられた。 当時、私は17、8歳で結婚していた。私も軍のバラックに連れていかれ、慰安婦をさせられた。そのバラックにはたくさん、そう60名ぐらいの少女たちがいた。私は一度女性たちの小屋に戻された。二度と連れていかれたくなかったので、夜中に密かに男性小屋へ行き、夫に事情を打ち明け、助けを求めた。夫はその時まで私の身の上に起きていたことを知らなかったので、非常に怒った。 その後夫は女性小屋までやってきて、日本軍の兵士が私を連れていこうとするのにはむかった。兵士が夫に向かって武器を振り上げたのを見て、私は夫をかばおうとして抱きついた。兵士は抱きついた私ごと夫を殴った。夫は死んだ。 私はこの時に右手首を骨折した。大怪我だったので、その時は兵舎に連れていかれなかった。傷は薬草で癒したが、私の右手首は折れたまま二度と動くことはなかった。その後も日本兵は私を慰安婦にしようと連れにやってきたが、 「夫が死んだのだから命は惜しくない。連れていくなら死んでやる」 と叫び、抵抗し続けた。夫の死後、私が慰安婦として働かされることはなかった。私の知るかぎり、自分の意思で慰安婦になった女性などいないし、また女性たちに報酬など一切支払われていない。 (2001年3月26日談) ◇リム・ファ・ニエさんの話 私はアイリウの出身だ。アイリウには日本軍の中枢があった。ある日、中国人のポンベラが家にやってきて日本軍のために働けといった。14歳か15歳の頃だった。 母親が死んでから父親は病気がちだった。それから二年間は飯炊きとして働かされた。この時未婚の少女が3人とティモール人の男性3名がいっしょに働いていた。ポンベラが来た時自分はまだ幼かったが、ポンベラたちは 「しばらくすれば使いものになるだろう」 と言った。二年たつと、慰安所(小さなホテル)に移された。その慰安所には中国人の少女だけが集められていた。アイナロやボボナロ出身の女性もいた。アイナロ出身のある女性は、日本軍によって夫を殺された後、連行されたと言っていた。 慰安所で私はハナコと呼ばれた。アイリウは軍事拠点でアイリウの兵営にはヘリコプター、タンクその他様々な兵器・機器が置かれており、兵士は夜間それらの警備を行なうため、私たちが慰安所で兵士の相手をさせられたのは朝から夜までだった。相手をさせられた兵士の数は1日20人ぐらいだったと思う。仕事が終わると立って歩くこともできなかった。兵士はコンドームを着用していた。性病検査はなかった。 賃金は一切支払われなかった。すごくつらかったが逃げようとは思わなかった。そんなことをしたら親が殺されると思った。ある中国人(英国人との混血)は娘を差出すのを拒んだため殺されたという話を聞いていた。私が解放されたのは日本軍が撤退する時だった。 その後結婚したが、ある時夫は娘と自分をおいて逃げた。夫には自分が慰安婦にされたことを話していないが、夫はそのことを誰からか聞いて知っていたのかもしれない。夫が逃げたのは自分が慰安婦だったことを知ったためだと思う。 何か、あんたの祖父(だったかもしれない男たち)が戦争中ここでひどいことをして、その孫がその話を聞きに来ているっている感じだね。(2001年3月27日談) ◇ガブリエル・ラランジェラさんの話 私はサメ県バブル村のある慰安所で警備長だった。バブル村には慰安所がみっつあった。慰安所には毎日担当の軍人がやって来て「女たちを清潔にしろ」と私に命令した。私は部下に命じて女性たちを水浴びさせ、よごれがないかチェックさせた。その軍人はこういう時にも現れ、慰安婦たちの身体を検査し、例えば足の指に泥がついたままだったりすると私たちを叱りつけた。 一日の終わりには女性たちの部屋の床は使用済みのコンドームでいっぱいだった。私たちは毎日その掃除をした。寝台の間に仕切はなかった。慰安婦たちは穴のあいたボロボロの服を着ていた。いくらさがしても布らしきものは穀物袋だけ。女性たちはそれらを利用して服を縫った。女性たちへの報酬はなかった。もし彼女らが金をもらってたら、あんなボロを身にまとったりしないだろう。 日本軍の将校は村の女性を気に入ると、その女性が既婚者でもかまわずに、性欲を満たそうとする。ある女性が所望された時、その夫婦は困ってリウライに相談した。リウライはその女性を自分の娘だと偽って、その将校とかけあったが、無駄だった。言うことを聞かなければ妻も夫も殺すと脅された。結局、その将校はその女性を思いのままに扱い、事が済むと家へ返した。 慰安婦たちに食事は支給されなかった。だから親が食料を運んだり、女性たちが食料をもらいに家に戻ることもあった。だからといってそれが逃亡の機会にはならない。女性たちは自分たちが逃げたら身内にどんな害が及ぶか理解していた。逃げ切れないことも知っていた。あの状況で日本軍の意向に逆らえる者などいなかった。(2001年3月30日談) http://www.asahi-net.or.jp/~ak4a-mtn/news/quarterly/number3/sexslavery3.html 従軍慰安婦強制連行 白馬事件 現在、国際的に「従軍慰安婦」関係の責任者処罰が問題になっています が、過去にグアム島やジャワ島などでは「従軍慰安婦」の関係者である日本軍 人や民間人が処罰されたケースがありました。中でもジャワ島での事件は規模 も大きく、別名「白馬事件」とも呼ばれていました。今回はこれらを紹介しま す。
最近、この裁判記録が発掘(92.7.21 朝日)され、ついでオランダ政府 の報告書(94.1.24 )が公表されました。さらに慰安婦にされたオランダ女性 の手記が発表され、その全容がかなり明らかになりました(オフェルネ著「レ イプされた女の叫び」、『福音宣教』47巻5号、1993年5月)。 ことの始まりは日本軍のジャワ島占領にさかのぼります。占領後、日本 軍は旧宗主国のオランダ人などヨーロッパ系住民を敵国人として抑留所に拘束 しました。 そのかたわら、日本軍はここの占領地でも慰安所を設けました。しかし 「性病管理がなされている軍慰安所」の数が不足気味だったためか「駐屯軍に 性病が広がって」しまいました。 また一方、占領地では例によって「駐屯軍の住民に対する行為がすでに 住民の反感を買って」いたため(裁判記録)、日本軍は新たに本格的な軍慰安 所を1944年2月に設けました。場所はジャワ島中部の州都スマランです。 日本軍はこの軍慰安所開設に必要な慰安婦を集めるのですが、その対象 として手っ取り早く目をつけたのが抑留しているオランダ人女性でした。その 際、軍司令部は自由意志の慰安婦だけ雇うように指示を出しましたが、それに 反して、担当の南方軍幹部候補生隊は17歳以上の女性を無理やり連行してし まいました。 その連行された一人が、先ほどの手記を書いたオフェルネさんです。彼 女は修道女になるためにフランシスコ会の教育大学で学んでいるとき、抑留所 に拘束されました。 彼女によれば、抑留所は悪臭・汚物・ネズミ・下水などにまみれるなど 環境は劣悪で、その上、飢え・暴力・病気、さらには重労働が横行するひどい 所でした。 さて、強制連行された彼女たちは、すぐ慰安所に送られました。そこの 食堂で恐怖にうち震え泣き叫んでいた少女たちはやがて一人ずつ無理矢理引き ずり出されていきました。彼女たちは激しく抵抗しましたが屈強な軍人たちの 力には到底かなうはずがありません。 オフェルネさんも自分の番が来たとき、激しくもがき抵抗しました。し かし「蹴っても、叫んでも、抵抗しても無駄」でした。そうした彼女の「反抗」 に業を煮やした軍人は刀を抜いて彼女の身体に突きつけ、彼女を裸にし、刀で 身体を撫でまわしました。 こうした人間を世間ではよく「ケダモノ」と言いますが、これは適当で はないと思います。ケダモノは強姦はしません。相手が合意しないと最終的に はあきらめます。ケダモノは人間のようにレイプなどの恥ずべき行為は決して しません。 余談はさておき、ここの軍慰安所にいたヨーロッパ系の女性2ー300 人中少なくとも65名は「売春を強制された」とオランダ政府報告書は結論づ けました。 ところで、この軍慰安所はわずか2ヶ月で閉鎖になりました。閉鎖は、 この慰安所に娘をとられた抑留所のリーダーのねばり強い努力のたまものです。 たまたま視察に来た日本陸軍省の大佐に彼が直訴したのが功を奏しました。し かし、このときは関係者の処罰は行われませんでした。日本軍の明確な指令違 反は黙認されたままでした。兵士たちに性のはけ口を提供するという行為は当 時にあっては戦意高揚のために軍律違反でも容認されたものと思われます。 しかし、こうした日本軍本位の行為は国際的に許されるはずはありませ ん。終戦後、関係者の軍事裁判がオランダにより1948年バタビヤで開かれ ました。中心人物の陸軍少佐が死刑になった他、10人が懲役刑になりました。 しかし、裁判ではアジア人慰安婦に対する罪は裁かれませんでした。あくまで もオランダ人などヨーロッパ系の女性に対する罪のみを対象にしました。(吉 見著「従軍慰安婦」、岩波新書 1995) インドネシア人や朝鮮人慰安婦に対する罪まで範囲を広げると問題が大 きくなり過ぎるため自制したのでしょうか。それとも、自国民の権益しか眼中 になくアジア人を軽視したためでしょうか。ちょっと惜しい機会を逃したよう です。
他方、グアム島での裁判資料は、95年11月に「朝鮮人強制連行真相 調査団」によりアメリカの国立公文書館で発見されました。その記録によると、 処罰されたのは日系の民間人で、当時、日本軍が占領していたグアム島で19 42年2月、現地の女性二人に 「本人の同意を得ることなく売春を強制した」 というものでした。この被告は反逆罪にも問われており判決は死刑でした。 これに対応する関連資料が法務省で発見されました。それによると同被 告の起訴理由は「婦女を慰安婦として日本軍にあっせんした」と記され、慰安 婦の強制が日本軍のためであったことが確認されています(共同通信ニュース 速報、95.11.27)。 http://www.han.org/a/half-moon/hm011.html#No.108 『軍司令部は自由意志の慰安婦だけ雇うように指示を出しましたが、それに 反して、担当の南方軍幹部候補生隊は17歳以上の女性を無理やり連行してし まいました。』 要するに、強制連行が昭和天皇の指示だというのがわかると後で問題になるので、担当の南方軍幹部候補生隊に自己責任で強制連行しろと命令したという意味でしょう。 慰安婦にされた女性たち−オランダ 旧オランダ領東インドは今日のインドネシアです。太平洋戦争で、日本軍はこの地を1942年に占領し、オランダ人を抑留・捕虜にしました。民間人9万人、軍人4万人が収容所にいれられたのです。
一部の日本軍関係者は、収容所に抑留されたオランダ人女性と混血女性を慰安所に強制的に連行して、そこで日本の将兵に対する性的奉仕を強いました。その代表的な事例がスマラン慰安婦事件です。基金の資料委員会の報告書に収められた論文によれば、1944年初頭中部ジャワのアンバラワとスマランにあったアンバラワ第4または第6収容所、アンバラワ第9収容所、ハルマヘラ収容所、ゲンダンガン収容所からオランダ人と混血女性約35人が連行され慰安婦にされました。これを推進したのは南方軍幹部候補生隊の将校たちでした。 アンバラワ第4または第6の収容所から連行された女性の証言によると、ここでは、1944年2月23日、収容所中庭に17歳から28歳までの女性全員が並ばされ、その後1人づつ収容所事務所に出頭させられました。翌24日、20人が事務所に呼び出されました。その上で2月26日、17人が選び出され、スマラン市内の建物に連れて行かれ、同意書に署名を強要されました。同意書は日本語で書かれていましたので、署名した人には何もわかりませんでした。ハルマヘラ収容所では、11人が連行されましたが、3名が返されました。ゲンダンガン収容所では、年上の女性たちが志願することで、若い女性たちが選ばれるのを免れたようです。約35人の女性は、2月26日ないしはその2−3日後、スマラン市内の4箇所の慰安所に送り込まれたのです。それは、日の丸、青雲荘(または双葉荘)、スマラン倶楽部、将校倶楽部の4つです。
これらの収容所以外では、オランダ人側が強く抵抗し、若い女性たちが連行されるのを防いだということが知られています。 スマランの事件は、東京から収容所を視察に来た将校が、オランダ人から訴えをうけ、女性たちが意思に反して慰安婦にさせられていることを知って、報告したことで、軍上層部が知るところとなりました。ジャカルタの軍司令部の命令で、慰安所は営業開始2ヶ月で閉鎖され、女性たちは解放されました。しかし、慰安所のいくつかはその後混血女性を使って同じ場所で再開されました。 これより先、1943年12月ないし44年1月には、同じ中部ジャワのムンティラン女子収容所からも、日本軍関係者はマゲランにある慰安所に女性を集める行動に出ていました。収容所のオランダ人リーダーにバーで働くのにふさわしい若い娘の名簿を作成させました。1月25日、日本人はこの名簿の女性たちを集めて、身体検査をし、15名を選び出し、連行しました。しかし、オランダ人側が強く抵抗したため、日本側は身代わりになる志願者を出すようにいい、その結果、元売春婦であったという評判の女性たちが志願しました。再選考がおこなわれて、13人が慰安所に送られたのです。 戦後、収容所のオランダ人を強制的に慰安所に連行していった日本軍将校たちはBC級戦犯裁判で裁かれました。1948年2月14日バタビヤ臨時軍法会議はスマラン慰安婦事件の被告13人のうち、岡田陸軍少佐に対して死刑、11人に最高20年、最低2年の禁固刑を言い渡しました。ムンティランの事例は検察側が訴追しようとしましたが、成功せず、不問に付されました。 オランダ政府は1993年に「日本占領下オランダ領東インドにおけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書調査報告」を出しています。(全文はこちら)それによると、日本軍の慰安所で働いていたオランダ人女性は200人から300人に上るが、うち65人は売春を強制されたことは「絶対確実である」とのことです。 http://www.awf.or.jp/1/netherlands.html 憲兵が連行、売春強制 慰安婦でオランダ新史料 '07/5/11 【ベルリン11日共同】太平洋戦争時の従軍慰安婦問題で、日本占領下のインドネシアで憲兵らが直接、女性を連行して慰安所で売春を強制したことを記述 したオランダ政府の公文書が十日までに見つかった。旧日本軍による「狭義の強制性」を否定した安倍晋三首相の発言の矛盾を裏付ける新史料として注目され る。 公文書は、戦争犯罪問題を調査しているベルリン在住ジャーナリストの梶村太一郎氏が入手した未公開の約三十点。一九四四年にインドネシアのマゲランや フロレス島で起きた集団売春強要事件の被害者の宣誓証人尋問調書に記述されていた。マゲランの事件についてはオランダ政府報告書が「最も悪名高い事件」 と指摘している。 マゲランの事件に関し、東京裁判に証拠として提出された四六年五月の調書では、当時二十七歳のオランダ人女性が、憲兵に衣服をはぎ取られ慰安所に連行 されたと証言。抵抗したが手も足も出ず、売春させられたとしている。 女性抑留所に収容されていた目撃者の四八年三月の調書によると、抑留所を訪れた日本人が少女らを病人に仕立てて診療所に収容するよう指示。そこで選ば れた少女らが慰安所に連行され売春を強要されたと、この目撃者は詳細に証言した。 梶村氏は「被害者は連行され売春させられており、安倍首相の言う『狭義の強制性』の典型的な例だ」としている。 ーーーーーーーーーーーーーーーー TBS http://news.tbs.co.jp/part_news/part_news3559706.html ページ更新時間:2007年05月11日(金) 07時08分 オランダ人慰安婦、被害者証言明らかに
第2次大戦中、日本占領下のインドネシアで、オランダ人女性らが軍の慰安婦とされた問題で、戦後、被害者が裁判で証言した内容などが明らかになりまし た。 これはドイツ・ベルリンに住むジャーナリスト、梶村太一郎さんらの調査で明らかになったものです。 梶村さんらは、1944年、日本占領下だったインドネシアのフローレス島にオランダ人女性らが連行され、慰安所で売春婦として働かされた事件などにつ いて調べていました。 インドネシアでの慰安婦問題は、戦後、オランダ軍による戦犯裁判の記録などから概要は知られていましたが、今回、初めて被害者の尋問調書の内容が明ら かになったということです。 その中には、健康診断という名目で若い女性が集められ、そのうちの17人が軍の慰安所に強制連行されたこと、また、1週間で100人の兵士の相手をし ないと捕まって殴られたなどという証言もあり、梶村さんらは「軍による強制売春だったことをさらに裏付ける史料だ」と話しています。(11日05: 12) http://blog.goo.ne.jp/arai647/e/276b210e841f80912301b4ac2aba3783 「わたしの友人オヘルンの写真があそこにあるね。本当に勇気のある友人だった」
今月8日、オランダのハーグで開幕した「韓国・オランダ・ドイツ性奴隷展」(北東アジア歴史財団主催)を訪れたブルーフさん(86)は、旧日本軍の元慰安婦だ。日本軍がオランダの植民地だったインドネシアを占領した1942年春、ブルーフさんの家族はジャワ島中部のスマランにあった収容所へ連行された。それから2年後のある日、日本軍は 「病院や事務所で働く事務員を募集」するとして、若い女性30人を選んだ。 ブルーフさんはほかの女性14人とともに、上流階級の居住地区にある「仕事場」へ連れて行かれた。そこは日本軍の将官のための公娼街だった。 60年余り前のことだが、ブルーフさんはこの経験を忘れていない。 「日本軍にとっては快楽を求める場所だったが、わたしには恐怖と悲しみ、恥辱(ちじょく)が満ちた地獄以外の何物でもなかった」。 彼女は反抗する意欲も無くし、ただ早く無傷で解放されることを祈るだけだったという。3カ月後、ようやく解放され収容所へ戻った彼女は、着ていた服を収容所へ戻るバスの窓から投げ捨てたという。「自分の体を汚された」というのがその理由だった。 ブルーフさんは長い間、日本軍の慰安婦だったことを誰にも話さなかった。 90年代に入り、まず韓国の元慰安婦たちが立ち上がり、オランダでも友人のオヘルンさんが口を開いたことで、ブルーフさんも勇気を出し告白した。ブルーフさんはオランダの「対日道義的債務基金」(SJE)の助けを借りて証言集を発行し、日本の戦争責任の認定や補償を求める裁判に証人として出廷した。オランダ人の元慰安婦は約300人とされ、このうち10人ほどが生存している。 「日本の人々が過去を反省し、責任を認めることに消極的な様子を見ていると、怒りを覚える」。ブルーフさんは澄んだ目で「わたしが体験した悲劇を繰り返さないためにも、日本が犯した罪について若い世代へ伝えていきたい」と語った。 http://blog.livedoor.jp/newskorea/archives/895782.html 2007/2/9
米国下院外交委員会アジア太平洋地球環境小委が15日、下院で日本軍従軍慰安婦聴聞会を開く。 第2次世界大戦当時、慰安婦として連行されたオランダ人女性が証人として出る。オーストラリアに住むヤーン・ルーフオヘルンさん(84)が主人公だ。彼女は「慰安婦問題に対して日本政府が公開で謝罪しなければならないという内容の慰安婦決議案が米国下院で成立してほしい」とし、下院外交委の証人出席要請を快諾した。 「あのとき、あの恐怖、絶対忘れない」 ヤーンさんは1941年12月、日本が太平洋戦争を起こしたとき、オランダ領東インド諸島(インドネシア)ジャワ島に暮らしていた。日本軍は4カ月後、ジャワを占領し、ヤーンさんの家族を含むオランダ人たちを収容所に入れた。そして2年後21歳のヤーンさんを含むオランダ人女性100人をジャカルタ南ボゴールに連行した。そこで彼女らは日本軍の性の奴隷になるという話を聞いて驚愕した。 ヤーンさんは2001年、オーストラリアABC放送とのインタビューで 「あのとき、私たちが『ジュネーブ協定違反』と叫ぶと日本軍はにやにや笑った」 と回想した。ヤーンさんらはそのとき、日本式の名前を1人ずつ与えられた。ヤーンさんには何かの花の名前が付けられたが、記憶から消してしまった。彼女は過去を隠して暮らした時代、花が嫌いだった。慰安婦生活を思い浮かべるからだ。英語が分からなかった2人の娘に、誕生日のプレゼントとして花をくれると言われても素直に笑えなかった。ヤーンさんは慰安所に入ってから少し立って髪の毛をすべて刈ってしまった。 「はげ頭のように見えれば日本軍が嫌がるだろう」 と思ったからだ。しかし日本軍はそんな姿にもっと好奇心を感じたようだと彼女はABC放送で明らかにした。それとともに 「あのときのあの恐怖を絶対忘れることができない」と話した。 ヤーンさんは92年、慰安婦出身韓国人女性3人が日本政府に公開謝罪を要求したのをテレビで見て、自分も過去を明らかにして闘争しなくちゃいけないと決心した。それで同じ年の12月、東京で開かれた日本の戦争犯罪聴聞会に出て証言した。 「証言でおびただしい反響起こす」 ヤーンさんはオーストラリアの放送で
「日本は私たちが死ぬことを願っているが、私は日本政府が慰安婦被害者たちに謝罪と補償をするまで闘争する」 と言った。そんな彼女が米下院で証言すれば波紋は大きく広がるだろう。下院のある関係者は8日 「ヤーンさんと韓国人キム・クンジャ、イ・ヨンスさんが証言すれば米国人は『当時の日本軍はそれほど残忍だったのか』と思うだろう」とし「彼女らの証言で慰安婦決議案の下院成立の可能性は高くなる」と話している。 http://japanese.joins.com/article/460/84460.html?sectcode=&servcode=500 1944年2月、オランダ領東インド(インドネシア)で起りました。事件の首謀者として死刑となった岡田慶治少佐の「青壮日記」と題した獄中日記によれば、州庁で希望者を募って慰安所を作ろうという構想を聞いた熊崎中将が、宮野スラマン州長官に話をつけたと切り出す。熊崎中将がジャカルタの第16軍当局から本人の許諾を条件に構想の認可を得て計画を策定し、岡田は上官の池田大佐や大久保大佐に命じられ実施面を担当したのでした。。 岡田は、州庁が作成した希望者名簿を元に数ヵ所のオランダ人抑留所から35人の女性を連れだし、1944年3月1日、将校用の慰安所を開設した。岡田は、希望者を慰安婦にしたのであって強制連行したのではないと裁判において主張しています。。 しかし、裁判記録によれば、女性たちは「強制連行だった」と証言し、ある抑留所では、リーダーが抵抗して徴集を断念した事例が挙げられてもいます。また、自殺した大久保大佐が、岡田には「若干、強引な言動があった」と遺書に書き記しているのも決定的です。 岡田は、州庁の杜撰な希望名簿を信じて「手違い」が生じたのを、独断先行による「強引な言動」で埋め合わせたのかも知れない。しかし、オランダ人慰安婦たちが戦後、対日協力者のレッテルを張られるのを恐れて告発に回ったとも考えられます。 なお、この裁判は杜撰な点も多く、例えば、その「強制連行」があったとされる期間、東京に出張して不在だった池田省三大佐は、シオウテンという名の検察官らに拷問を加えられて発狂させられたあげく起訴されて、「懲役15年」の判決を受けている。この戦犯裁判は敗者に対する報復裁判の色合いが濃いと言えましょう。 この慰安所はわずか2ヶ月後、第16軍当局の命令で閉鎖となっています。この理由を、94年のオランダ政府報告書は、 「娘を取られた抑留所の親が視察に来た陸軍省の大佐に直訴したため」 と説明しています。しかし、当時第16軍当局で勤務していた鈴木博史大尉は、 「慰安所でひどい悲鳴が聞こえるとの話を聞きこみ、山本第16軍参謀長へ伝えると、山本は『まずい、すぐ止めさせろ』と怒り、翌日に閉鎖命令が出た」 と回想しています。どちらにしても、すでに裁判は終結しており、関係者は処罰されています。 http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4069300.html オランダの軍事裁判の報告を調査した吉見義明によれば、 当時スマランには既に慰安所があったが、性病の蔓延から新たな慰安所の設置が計画された。慰安所設置を要請された幹部候補生隊長は、慰安所には自由意思の者だけ雇うようにというジャカルタの第16軍司令部のガイドラインを無視した。(ガイドラインは未発見であるが証言やスマトラの第25軍の類似の通達からそのように考えられている。) 複数の将校と慰安所業者は、ハルマヘラ抑留所、アンバラワ抑留所、ゲダンガン抑留所から17歳から28歳の合計35人のオランダ人女性を強制的に集め、スマラン市内のカナリ通りの建物で日本語で書いた趣旨書への署名を強制した後、スマランの4つの慰安所(将校倶楽部、スマラン倶楽部、日の丸倶楽部、青雲荘)に連行した。 3月1日から営業を始め、女性達は毎日強姦された。給料は払われず、暴行され、その上、性病を移された者、妊娠した者がいる。週に1度医師の身体検査があったが、充分な治療はほとんど行われず、医師が強姦することさえあった。
しかし自分の娘を連れ去られたオランダ人リーダーが、陸軍省俘虜部から抑留所視察に来た小田島董大佐に訴え、同大佐の勧告により16軍司令部は、1944年4月末に4箇所の慰安所を閉鎖した。(小田島大佐の視察は、事件と前後して抑留所の管理が軍政監部から現地軍司令部に移管したためのものである。)しかしながら、日本軍は、当事者を軍法会議にかける事も処罰も行なわなかった。
終戦後の1948年、バタビア臨時軍法会議でBC級戦犯として11人が有罪とされた。罪名は強制連行、強制売春(婦女子強制売淫)、強姦である。有罪者は、軍人および慰安所を経営していた日本人業者等であり、責任者である岡田慶治陸軍少佐には死刑が宣告された。また、中心的役割をはたしたと目される広島県生まれの陸軍大佐は戦後、日本に帰っていたが軍法会議の終了前に自殺した。裁判では、慰安婦にされた35人のうち25名が強制だったと認定された)。 としている。
一方、オランダ人女性の強力な抵抗により若い女性が連行されることを防いだ抑留所(スモウォノ・バンコン・ランペルサリ)もあった。年上の女性たちが志願することで、若い女性が助かった事例もあった。また、以前に日本人と関係があった「道徳観念に乏しい」女性達のリストを作り若い女性の身代わりとさせたケース等もあり、これらの身代わりとなった女性は「志願者」と呼ばれた(この件では戦犯裁判で無罪)。 1994年のオランダ政府の報告書では、インドネシア各地の慰安所で働いていた200〜300人のオランダ人女性のうち少なくとも65人は絶対確実に(most certainly)強制売春の犠牲者だったとされている。 1990年に対日道義的債務基金(JES)が結成され、日本政府に対し、その法的道義的責任を認めて一人当たり約2万ドルの補償を支払うよう求める運動が始まった。これに対し日本政府は、アジア女性基金により総額2億5500万円の医療福祉支援を個人に対して実施し、2001年オランダ人女性に対する「償い事業」を「終了」した。 しかし2007年、オランダ議会下院で、日本政府に対し「慰安婦」問題で元慰安婦への謝罪と補償などを求める慰安婦問題謝罪要求決議がなされた。2008年に訪日したマキシム・フェルハーヘン外相は「法的には解決済みだが、被害者感情は強く、60年以上たった今も戦争の傷は生々しい。オランダ議会・政府は日本当局に追加的な意思表示を求める」[9]と述べ、日本側の償い事業の継続を求めた。 また同2007年、米国議会での慰安婦聴聞会にこの事件の被害者・証人としてたったジャン・ラフ・オハーンは、 当時19歳だった42年、日本軍占領後、収容所に入れられ、 「日本式の花の名前が入った名前を付けられ、髪が薄い日本軍将校が待つ部屋に連れて行かれた。 彼は刀を抜いて‘殺す’と脅した後、服を破り、最も残忍に私を強姦した。その夜は何度強姦されたか分からない」 「一緒に連行されたオランダ人少女らと3年半、毎日こうした蛮行にあい、飢えて苦しみ、獣のような生活をした」 と証言し、 「日本は95年にアジア慰安婦財団を作って私的な補償をしたというが、これは慰安婦に対する侮辱」とも主張。 「日本は政府レベルで残虐行為を認め、行動で謝罪を立証しなければならず、後世に正しい歴史を教えなければならない」と求めた。 「日本人は私たちが死ぬのを待っているが、私は死なない」とし、日本が正式に謝罪するまで闘争を続けるとした。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%A6%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6 オランダ人慰安婦 http://www.youtube.com/watch?v=FA84tRAG-i0 http://www.youtube.com/watch?v=Bm-QIRhtq-M http://www.youtube.com/watch?v=EOTNQfS23zY ネトウヨはいつも「慰安婦はただの朝鮮人の売春婦だったDEATH〜〜www」なんて言ってますが、皆さんは韓国だけでなく台湾でも対日非難決議が採択されたことを知ってます? 台湾だけでなく中国もフィリピンも東南アジア諸国もオランダも欧米諸国もみんな日本の従軍慰安婦問題を非難しています。なぜならこれらの諸国の女性たちも日本軍性奴隷にされてしまったのが事実なのですから。この時点で既にネトウヨの言う「日本軍慰安婦=朝鮮の妓生」論は破綻していますね。 良識派の皆さんや韓国の皆さんも、さも韓国人女性だけが日本軍慰安婦にされていたかのような誤解を与える言及の仕方をするのは色々な意味でやめましょう。 しかしながら、この期に及んでも都合の悪いことは見えないふり、聞こえないふりしてスルーするのが毎度お馴染みのネトウヨ・クオリティ。それなのに「俺たちは歴史の真実を知っているDEATH〜〜〜wwwww」とかぬかすのは全く片腹痛いですね。ネットで幅を利かせる「Japanese nationalism」がいかに病理に満ちているのかがわかるようですね。 こういうネトウヨみたいなのがいつまでも日本でデカい顔してのさばっているから中国や韓国が反日をやめようとしないのがわからないのかなあ。今後、もし台湾や東南アジア諸国までもが忘れかけていた反日感情をまた思い出したりしたらネトウヨや右翼言論人のせいだな。 以下、ネトウヨがどうしても直視できない現実についてのリンクをいくつか紹介。都合の悪い相手を「在日」と思い込まなければ正気を保てない人たちにはあまりにも残酷な現実でしょうね。 台湾、慰安婦で日本に謝罪要求 - 立法院が決議 http://www.47news.jp/CN/200811/CN2008111101000463.html 憲兵が連行、売春強制 - 慰安婦でオランダ新史料 http://www.47news.jp/CN/200705/CN2007051101000223.html 各国の対日「慰安婦」決議 http://space.geocities.jp/ml1alt2/data/data5/data5-09.htm ネット右翼の妄言録 http://www.geocities.jp/ondorion/now/mougen.html ネットウヨのガセビアを指摘するスレ その5 http://yy31.kakiko.com/test/read.cgi/x51pace/1172996871/ ネトウヨがよくばら撒いている嫌韓コピペのデタラメを指摘。「在日の生活保護がどうたら」とか「日本統治時代の朝鮮の人口がどうたら」とか「ごくごく一部の抵抗はあったが上から下までみんな日本に憧れ、日本人になろうとしたのだ〜」とか。 http://www.geocities.jp/ponnitisuki/copipe.html ちなみにネトウヨの南京大虐殺否定論がどれほどインチキなのかを検証してくれるサイトはこちら。 http://wiki.livedoor.jp/nankingfaq/ http://ameblo.jp/scopedog/entry-10053587358.html 【ネトウヨ涙目】もはや誤魔化せない従軍慰安婦問題の真実 http://www.youtube.com/watch?v=f3YMripanwI
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