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ジャーナリズムの基本原則が日本でも徹底されるために
http://diamond.jp/articles/-/26586
2012年10月18日 週刊 上杉隆 :ダイヤモンド・オンライン
「人間は間違いを犯す動物だ。しかも繰り返し犯す。我々の働く新聞とはしょせんその人間によって作られているものだ。だから新聞は絶対的に間違いから逃れられない。よって、重要なことは、間違いを犯さないことではなく、犯した間違いを率直に認めることだ。そしてそのミスを隠そうとする誘惑に負けてはならない。それは嘘をつくことになる。その瞬間、キミのキャリアは終わりだ」
ニューヨークタイムズで働き始めたばかりの頃、当時のハワード・フレンチ東京支局長にこう言われたことは、いまだ私の脳裏にはっきりと残っている。そしてそれはいまなお私がジャーナリズムについて考える時の重要な指針になっている。
だからというわけではないが、私はミスに関しては、努めて寛容な姿勢を貫いてきた。それは自他を問わない。自分に対してもそうだが、他人を間違いで責め続けるということはまずない。
そうした思考は、ゴルフというほとんどがミスで成立するといっていいストイックなスポーツを30年近く続けてきたことも影響していようが、やはり、フレンチ氏の当時の言葉が大きかった。
実際、私は日本のメディアで働きだしてからも、ミスを恐れず、多様な情報をどんどん発信すべきだ、と同業の仲間たちに丁寧に叱咤激励してきたという自負がある。
実際、日本の臆病な大手メディアの社員に対しては、何も報じないでミスを犯さないよりも、どんどん報じて訂正していった方がいいと訴え続けてきた(もちろん、間違えろと言っているわけではない。本当はこんなことは断らずともわかるはずだが、幼稚な言論空間しか持たない日本では、いちいちこう書かないと読解力のない評論家やジャーナリストが挙げ足をとるためにあえて記した)。
さて、私のそうした姿勢については、過去の私の担当編集者たちや友人たちならば納得するところであろう。
だが、3.11以降、そうした雰囲気は変わった。
社会の避けられぬ事象であるはずの「ミス」や「訂正」を容認する空気が消え、窮屈さを感じざるを得ない雰囲気に包まれ始めたのだ。
12年間のジャーナリズム活動において、私は多くの編集者に恵まれた。
それは新聞、雑誌、本、ネットなどの媒体を問わない。どこの世界にでも素晴らしい人物はいるものなのだ。
私自身、多くの事柄をそうした編集者たちから学んだものだった。
もちろん、反面教師もいる。だが、それはそれで、「教師」というだけあって学ぶことも少なくなかった。
一方で、そうした編集者たちとジャーナリズムのあり方で意見交換することが無くなってきていることも気になっている。それは不断に語られているのかもしれず、単に私の周辺だけで、そうした青臭い理想論を語られることが少なくなったのもかもしれない。
それならばそれで、「あぁ、自分もこの業界ではベテランになっていたんだなぁ」とも思い、一抹の寂しさも感じるものだ。
私が新聞・雑誌などに寄稿し始めた1999年当時に担当してくれていた編集者たちのほとんどが、編集長やデスクなどの「管理職」に出世してしまっている。
思えば、これまでいろいろな媒体に寄稿したり、連載してきたものだ。
文藝春秋、週刊文春、諸君!、新潮45、週刊新潮、月刊現代、G2、週刊現代、SAPIO、週刊ポスト、週刊朝日、サンデー毎日、ウィークリー読売、週刊プレイボーイ、朝日新聞、毎日新聞などなど。
そこでは徹底した取材方法と雑誌記事の書き方のイロハを教えてもらったし、あるいはまた文章構成の術や取材時の着眼点などのジャーナリズムの基本を教えてもらったりした編集者たちがいた。
だが、その当時ですら、私は納得できずにいつも一部の編集者とぶつかっていた事柄があった。
それが、冒頭のフレンチの言葉とも関連するものだ。
■引用、訂正、署名、確認に関するジャーナリズムの基本原則
すでに当時の米国メディアでは「引用先を可能な限り示す」、「ミスをした場合は速やかな訂正を行う」、「記事は必ず署名原稿で書く」「記事を書くにあたっては必ず当事者(あるいは取材対象者)に当てる」というジャーナリズムの基本原則が徹底されていた。
ところが、当時の日本のメディアではこの点が実にいい加減だったのだ。
それは新聞も雑誌も変わらない。
いまでこそ、「わかった報道」や「一部週刊誌報道」は減少したが、当時、この言葉を造った私の目には、ほとんどすべての記事で引用元が示されていないかのように映ったものだった。
そこで私がやりだしたことは、繰り返し、繰り返し、それこそ編集者が「そこまで書かなくても」と音を上げるくらいに、しつこく引用先の明示を記事を書く度に求めたのだった。
また、ミスをした場合の訂正を積極的に求め、編集部の反対を押し切っても訂正文を載せようとしていた。時には、広告スペースを買うから訂正させてくれと頼んだものだった。
そうした不断の活動の集大成が、『小泉の勝利 メディアの敗北』(草思社)というすべて私自身の記事の検証と訂正で構成された本の出版だったのだ。
この本を出版するにあたって、著者が自ら誤報を認めるなどあまりにリスキーだとして大手の新聞社や出版社からはすべて出版を拒否されたものだ。
そんな時に、私の意図するところを汲んでくれたのが草思社の加瀬昌男会長(故人)だ。
加瀬さんは、なかば呆れながらも、私の奇妙なお願いを許してくれた唯一の出版オーナーであった。
そこまで私が「訂正」と「引用」などにこだわるのは、それを日本のジャーナリズムに根付かせたいという願いがあったからだ。
ところが今回、あろうことか、読売新聞記事の盗用疑惑のネット上での騒動の中で、かつての担当者のひとりが、私の盗用を疑うようなことを言い出したのだ。
他の無責任な、過去の経緯も知らない池田信夫氏や江川紹子氏がそういうことを言っているのは仕方ないと思っていた。
だが、かつての編集者がそう思っていることで、私は正直、驚くとともに悲しくなってしまったのだ。
なにしろ、参照や引用を忘れがちなその元担当編集者に、クレジット明記の必要性を説き続けたのは、10年前の私自身だったからだ。
いや、こうした人心の変異は、3.11以降、なんとはなしに実感していた。
そもそも、私が日本のメディアにきちんと関わり始めた12年ほど前から、そこではずっと「ミス」や「訂正」を認めない無謬主義がはびこっていたのだ。
そして日本のメディアの「ミス」や「訂正」自体を悪とみなすそうした風潮が蔓延することで、そこで情報を発信するジャーナリストたちは無意味な圧力と戦わなくてはならなくなったのだ。
その結果、フレンチ氏が言うような健全なジャーナリズムの精神は、記事を書く度に、日本のメディアに特有の官僚主義的な空気とぶつかることになる。
ひとりを除けば、かつての私の担当編集者ならば知っているだろう。
私がどの編集部に対しても、共通に訴えてきたことは「署名」「訂正」「引用」の3つをきちんと明記することだった。
■悪意と作為に満ちた記事は放置自体が「罪」と気付いた
今回、私は絶対に看過できない記事をみるにつけ、放置自体が「罪」であり、日本の言論空間、なにより福島の被災者をはじめ、日本のためにならないことにやっと気付いた。
そう、「BLOGOS」と「アゴラ」の悪意と作為に満ちた劣悪な記事やその筆者である池田信夫氏の言論を多様性を根拠に放置することは、百害あって一利なしだったのだ。
彼らは、訂正も取材者に当てることもせずに記事を作っている。そしてその記事をまともなジャーナリズムであるかのように扱う他の知識人もいる。
私は、そうした不健全な人物と断固として戦わなければならない。
あの3.11直後の一週間、本当に日本のメディア報道はひどかった。とりわけ、いま盛んに私を批判している池田氏や江川氏の論はひどかった。
読者、視聴者、国民に本当に伝えるべきことを伝えず、自らの保身に走り、そしていったん伝えたものでもその後、政府発表に合わせて修正と微修正を繰り返す。
彼らはジャーナリストとして、3.11からの一週間の自らの言動を直視できるのか?
私はその点での自己検証は済ませている。3月11日から18日までに自らの為したことに対しては、一応の合格点を出している。
3月19日の読売新聞の記事を盗用したという疑惑だが(そもそも最初は情報をパクったというものだったが、私が反論すると疑惑はコピペしたに変わっている。これも今後、論駁していく)、当然に、そんなことはありえない。
ダイヤモンド・オンラインの連載コラムでも触れたように、すでに私は3月15日午前には、その情報とリストの一部(読売の19日リストではない)を元に、ラジオなどで話している。
〈すでに複数国が日本からの退避勧告も。 RT @naturopathnami: 国際的な緊急事態にならなければいいのですが…@uesugitakashi: 国家的な緊急時だという認識が薄いんです、官邸官僚も。(-_-) RT @y_coleman: こんな時にも記者クラブは、〉
posted at 07:10:15
http://twilog.org/uesugitakashi/date-110315
これは3月15日午前7時の私のツイートだ。最初、私が無断引用した、読売の情報を盗んで報じたと中傷していた人物はどう説明するのか。
当然、私が「盗用した」という証拠を持っているのだろう。ちなみにきょうに至るまで私に本件で取材をしてきたメディアと個人はゼロである。
そして、私はこの件については、いまだにハワード・フレンチ氏の言葉を胸に刻み、神に誓っても盗用はないと宣言できることを記そう。
まもなく、ここでは詳らかにしない証言者たちが、私の信用を保証してくれることになるだろう。
果たして、その時に、「盗用」「嘘つき」呼ばわりしたジャーナリストや評論家、あるいはメディアはどうするのだろうか。
今回のコラムはここで止めておこう。
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