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鉄砲玉たるの資格
2012年9月28日(金) 小田嶋 隆
電話が鳴る。
と、思わず身構える。
最近、固定電話にかかってくる電話は、マトモなものの方が少ない。
先物取引、銀行のキャッシング勧誘、保険会社の契約確認を装った新商品セールス、生協のロボット電話、宗教団体のランダム折伏……もしかすると、あと5年ほどで固定電話のビジネスモデルは壊滅するかもしれない。それほど、回線に乗る通話の内容は劣化してきている。
いまのところはまだ、登録に際して自宅の電話番号を必須とするタイプの契約書類が残っていたりする。が、その種の設定も順次カタチを変えて行くはずで、そうなると、いよいよ「家の電話番号」を持っていることが「市民」の証であった時代は過去のものになる。この流れは誰にもとめられないだろう。
おそらく、10年後のこの国を動かしている新しい市民階級は、新聞と電話と自家用車を持っていない。
それらの代わりに、彼らが何を持っているのかは、まだはっきりしない。
もしかしたら、何も持っていないのかもしれない。
15年ほど前に知人から聞いた話だが、当時は、アメリカでアパートを借りるためには、銀行口座を持っていることが必須だったのだそうだ。
ところが、銀行に口座を作りに行くと、窓口で住所と電話番号を求められる。
えっ、と思ってAT&Tに電話回線の契約に行くと、今度は、銀行口座と住所が無いとダメだと言われる。
三題噺みたいなお話だが、これは実話だ。
結局、私の知り合いは、たらい回しにあったあげくに、クライアントの紹介で銀行口座を作るところを突破口にして、なんとか3つの市民の証を手に入れたということなのだが、かように、20世紀の世界では、洋の東西を問わず、電話は、市民が市民であるために必要なアイコンのひとつだったのである。
その電話の解体は、「家」なり「世帯」という単位で把握されていた「市民」が、「個人」にバラけたことを意味している。
だから、今、こういう時代になってみると、固定電話の発信音を鳴らす通話の多くは、「過去」からかかってきている感じがするわけで、事実、学生時代の仲間の訃報や、血縁がらみの連絡事項や、昔の名簿を元に連絡をしてくるタイプの「古い」用件は、どれも固定電話の回線をたどってやってくる。
電話取材もそうだ。彼らは必ず固定電話のベルを鳴らす。これについては、いまのところ例外はない。
先方が私の携帯の番号を知らないという事情はある。が、知っている相手でも、取材の場合は、必ず固定電話にかけてくる。そうするのがスジだといった規範意識みたいなものが働いているのかもしれない。取材を携帯の回線で済ませるのはいかにも安直でいけない、とかなんとか。
どっちみち安直なことは変わりない。少なくとも、こちら側からみれば大差はない。が、取材をする側の気持ちとしては、なんというのか、携帯よりは、固定電話の方が、より「パブリック」な声を代表していると思いたいのかもしれない。
用件は様々だが、ネタは割れている。
電話取材で「識者」のコメントを収集している記者は、こちらの発言について、予断を持っている。
というよりも、彼らのアタマの中では、記事のアウトラインは既に完成していて、記者は、その出来上がった原稿の中に、パズルのピースをはめ込むみたいにして何人かの「識者」のコメントを配置する。ということはつまり、私のコメントは、記事の骨格とは別立ての、一種のにぎやかしに過ぎない。
これは、私の側の問題でもある。
公式なルートからの原稿依頼ではなくて、電話経由でのコメント依頼ばかりが増えているのは、文筆を業としている人間にとっては、憂慮すべき事態だということだ。
先方がオダジマに期待しているのは、文筆家としての力量や見識ではない。
たぶん、地雷原踏破力みたいなタイプの特殊能力だ。
「あのヒトなら、なんかヤバいことを言ってくれそうだ」
「電話一本で罵詈雑言を20ぐらい並べてくれると原稿に勢いがつくぞ」
好意的に解釈すれば、私の舌鋒の鋭さが評価されている。
というふうに考えることもできる。
が、狙いは別のところにある。
評価されているのは、むしろ、私の無頓着さだ。
「大丈夫。オダジマンは脊髄反射のコメントくれると思うよ」
「思いついた言葉を飲み込んでおくことができないタイプだって、自分でもいつか言ってたし」
「ツイッター見てればわかるよ」
というわけで、犬に骨を投げるみたいな調子で、無造作に質問が投げかけられる。
「熟女ブームとかどう思いますか?」
「オリンピックでおっぱいポロリがあったのをご存知ですか?」
「女性アスリートのセクシーショットみたいな視点で何かありませんか?」
最近は、5秒ほど考えてうまい答えが見つからない時には、コメントをお断りするようにしている。
これまで、私は無防備に答えすぎていた。反省している。無頓着だった。ゲラチェックもしないし、掲載誌にもほとんど目を通さなかった。だから、かなり後になって、思わぬところで自分の名前を見つけてびっくりする。この展開は、言論人として非常によろしくない。
無邪気な脊髄反射のコメントは、品が無くても、まだ救いがある。
私は、時事的な生ゴミみたいな話題が好きで、質問を振られると抵抗できない。これは仕方がない。
問題は、批判記事だ。
現実問題として、昨今では雑誌の誌面の七割かそこいらは、様々な人物を誹謗する記事で埋められている。であるからして、コメント配給業者たる「識者」は、そうした文脈の中で、気がつくと鉄砲玉をやらされている。これはなかなか面倒くさい事態なのである。
例えば、皇族の女性に対する苦言を求められたことがある。
「オダジマさんとしては、◯子さまと◯子さまに、どういう生き方を期待されますか?」
「はぁ?」
「ですから、お二人の現在の姿が対立的にとらえられている現状について、国民目線から見てどんなご意見をお持ちなのかということですが……」
「どういう生き方もなにも、そもそも私はあの人たちについて上から何かを言う立場の人間じゃないし、皇族であれ一般人であれ、誰かの生き方に注文をつけるつもりはありませんよ」
「いえ、ですから、その皇族をめぐる報道を正常化するために」
「もしあなたが、皇室報道の混乱に心を痛めているのなら、なによりも私みたいな者に電話してきて皇族へのアドバイスを言わせるみたいな記事を作ることをやめるのが、まず第一歩なんじゃないんですか?」
この種の取材で、アタマの中にある言葉をうっかり吐き出すと、結果として、私は、誰かのアタマを殴ることになる。
実際に、そういう記事が配信されてしまうのだ。
注意せねばならない。
つい三日ほど前も、さる報道番組の司会者について意見を求められた。
そのキャスター氏は、雑誌が実施した調査で「嫌いなキャスターNo.1」に選ばれたのだという。
「なので、◯◯さんに対して、なにか普段からお感じになっていることがありましたら、ぜひおうかがいしたいと思いまして」
以前、この種の質問にうかつに答えて失敗したことがある。
もちろん、私なりに感じるところはある。
でも、心の中で思っていることと、それを言ってしまうことはまったく別の話だ。
言ってしまうと、それだけ世間が狭くなる。
本人にお会いする機会があったりすると、文字通り身が縮む。
だから、今回は、お断りした。
私自身、自分が書く文章の中で、特定の個人について厳しい言葉を書くことがないわけではない。
そういう場合は、それなりの覚悟を固める。単なる誹謗中傷にならないように、前後の文脈や書き方にも気を配る。でないと、滅多なことで他人を批判することはできない。
ツイッターで、匿名の質問者に回答をする時でさえ、アタマの中から出てきた言葉をそのままタイプすることはできない。 なぜなら、私のナマの「本音」はとても凶暴だからだ。
自分の名前でなんらかの言葉を発信している人間は、思ったことの半分しか言えない。そういう仕様になっている。というよりも、個人名のタグを付けて発信する言葉は、言説の内容自体とは別の、「人格」や「リスク」を伴った、より深刻な情報として流通するからだ。
「この味がいいね」
という感想は、たいして意味のある言葉ではない。が、だからこそ、誰が言ったのかということに大きく左右される。
こんなにどうでも良い言葉でも、親しい者が親しい者に向けて心をこめて言えば、記念日を制定するに足るメッセージになることができるものなのだ。
言葉は、誰が、どういう状況で、誰に向けて発信したのかということを含めて、はじめて実体的な意味を獲得する。
逆に言えば、状況や文脈と切り離され、発言者の名前と分離された言葉は、意味を為さないのだ。
無論、匿名の言論空間というのは、そうした事情とは別に存在している。
ツイッターや掲示板がその好例だろう。
そういう場所では、名前や肩書きや特定の文脈と無縁だからこそ、言葉の内容だけで議論が可能になる。その意味で、肩書きがもたらす圧力や、人名の背後にあるオーラを無視して、誰もがフラットな立場で言葉をやりとりできるスペースは貴重だ。
が、名前と無縁な言論は、その到達範囲も限られている。
話題が、「モラル」や「感受性」や「美意識」に触れると、名前を持たない言葉は力を失う。
一貫性やリスクについても同様だ。
特定の人名と関連づけられていない言葉は、論理を表現するのみで、感情や人格を反映させることができない。ということは、それらの言葉は、われわれが現実に生活している多くの場面において、表面的にしか受け止めてもらえない。
特定の人物を批判する記事を書くに際して、雑誌の編集部は、書き手の名前を明記しない。有名人のスキャンダルを揶揄するような記事では、記者の実名は机の下に周到に隠蔽される。
とはいえ、一方において、匿名の記事が力を持たないことを、メディアの人間は、よく知っている。
批評や言説に説得力を賦与しているのは、特定の名前を持った特定の人間の顔であり、その人間の存在と生き方だ。
別の言い方をするなら、誰かがリスクを取らないと、批判は批判であることができないということでもある。
批判をする以上、批判をする側も血を流す覚悟を示さなければならない。
そういう時に、「識者」の名前がタマ避けに利用され、コメンテーターのコメントが刃物になる。
まあ、一種の鉄砲玉だ。
やくざ映画でも、抗争にあたって、一番危険な任務を担うのは流れ者ということになっている。
組の幹部や構成員は、いの一番に最前線には飛び込むことはしない。
そういう厄介な仕事は、一宿一飯の義理に縛られた、係累を持たない謎の男が引き受けることになっている。
私は、自分を高倉健や鶴田浩二の役柄になぞらえてゴーマンをカマしているのではない。
コメント供給業者の仕事は、そんなにヒロイックなものではない。
どちらかといえば、ゴミ拾いのための金属製のトングに似ている。
トングがあれば、作業員は直接に手を汚さずに済む。腰をかがめなくてもタバコの吸い殻が拾える。私たちは、そんなふうにして皆様のお役に立っている。
いや、そこまで卑下することはないのかもしれない。が、ともあれ、やくざ映画が称揚する滅びの美学とジャーナリズムのうちに潜むヒロイズムには、通底するインチキ臭さがある。そして、そういう安っぽい筋立てにひっかかる周縁民無しには、われわれの業界は立ち行くことができないことになっている。
つい先日も「SNS左翼」(←表記は「SNSサヨク」かもしれない)について、意見を求められた。
はじめて聞く言葉だったので説明を求めた。
電話をかけてきた月刊誌のライターによると、「SNSサヨク」とは、「ツイッターやフェイスブック発の言論に乗せられてデモに参加したり、ボランティアに駆りだされている人々」の総称で、その彼らは、無邪気な正義感や、「ノマド」みたいな耳に心地良い言葉にひっかかって、自分では良いことをしているつもりになっているのだそうだ。
5分ほどまくしたてた後、彼は
「どう思いますか?」
と言った。
私は、
「もしかして、そのSNSサヨクについて、私が揶揄するみたいなニュアンスのコメントを提供することを期待しているんでしょうか」
と尋ねてみた。
すると、彼は悪びれることもなく
「そうです」
と答えるではないか。
取材は、お断りした。
「お役に立てないと思います」
と、その旨についてもきちんと説明した。
断った取材について、別の媒体でその経緯を明かすのは、もしかしたらルール違反なのかもしれない。
でも、こういう取材は、そもそもがルール以前だと思う。なので、書くことにした。雑誌とライターの名前は書かないでおく。メモは取ってあるけど。
電話取材で記事をまとめあげるタイプの特集記事は、昔からあったものだ。というよりも、芸能ネタの噂話や、プロ野球のストーブリーグ情報は、この種の伝聞モザイク記事に委ねるのが、雑誌づくりの王道であり、こういうページにどういうメンバーを集めてどんなヨタ記事を提供できるのかが、編集部のウデの見せドコロでもあった。このこと自体は、野次馬根性を旨とする雑誌ジャーナリズムの言ってみれば本領であって、決して恥じ入る筋合いの話ではない。
が、この10年ほど、雑誌不況が言われるようになってからこっち、政治経済や皇室ネタでも、平気でこの手法が用いられるようになっている。
これは、ちょっとマズイと思う。
相手は、エンターテインメントの、持ちつ持たれつの、パパラッチ御用達の浮き草稼業の有象無象ではない。
だとすれば、もう少しマトモな取材が介在していないといけないはずだ。
要は、予算が無いのだと思う。
記者を張り込ませて取材をしたり、地道な調査報道にカネと人員をつぎ込んだりということができなくなってきている。で、いきおい、電話一本で作る記事が増える。悲しい事態だと思う。
* * *
ライターに求められる資質も変わりつつある。
大論文よりはショートエッセイ、コラムよりはコメントが重宝される。と、いきおい、重厚なルポルタージュよりは、寸鉄人を刺す毒舌や、小味な警句が求められ、コメンテーターのコメントは、より短く、より端的であることが求められ、識者の解説も、より刈り込まれた分かりやすさを志向するようになる。
もしかして、20世紀の後半に産業界でしきりに言われていた「軽薄短小」という変化が、ついに人間の精神作用である文化の世界に波及してきたということなのであろうか。
分かった。
私は、重厚長大なテーマに挑戦することにしよう。
とりあえず、来年から本気を出す。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
こんなタイトルだから鉄砲玉の依頼が来るのでは?
『もっと地雷を踏む勇気』(技術評論社)
本コラムから生まれた3冊目の単行本、『もっと地雷を踏む勇気 〜わが炎上の日々』が技術評論社さんから発売中です。前作に引き続き、妙に「勉強しすぎ」てつまらなくなった言論界に炎上上等で躍り込む小田嶋さんの冒険の数々が、本欄掲載のイラスト付き(サイズは小さいしモノクロだけど)で盛り込まれております。
個人的に注目していただきたいのは、連載時から格段に格好良く改題されたコラムタイトルの数々。「我が心は維新にあらず idiot wind」なんて、痺れるじゃないですか(どの回か分かります?)。 技評の担当編集者Aさんによれば、改題はすべて小田嶋さん手ずからのものだそうです。原題はNBOの編集担当IとYが付けていたのですが「だったら最初から小田嶋さんが付けてくださいよ」と涙が止まりません(と、我々も地雷を踏みました)。心にちょっとひねくれた勇気がほしい方、ぜひお手にとってください!(Y)
重版出来!!
2冊の本になった「小田嶋隆の『ア・ピース・オブ・警句』〜世間に転がる意味不明」大絶賛発売中!
『地雷を踏む勇気〜人生のとるにたらない警句』、『その「正義」があぶない。』の2冊の単行本が重版出来! 大絶賛発売中です。2冊の内容はまったく別物。あなたのお気に入りのあのコラムはどっちに収録されているか?!
小田嶋さんの名文、名ジョークを、ぜひ、お手元で味わってください。
小田嶋 隆(おだじま・たかし)
1956年生まれ。東京・赤羽出身。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社。1年ほどで退社後、小学校事務員見習い、ラジオ局ADなどを経てテクニカルライターとなり、現在はひきこもり系コラムニストとして活躍中。近著に『人はなぜ学歴にこだわるのか』(光文社知恵の森文庫)、『イン・ヒズ・オウン・サイト』(朝日新聞社)、『9条どうでしょう』(共著、毎日新聞社)、『テレビ標本箱』(中公新書ラクレ)、『サッカーの上の雲』(駒草出版)『1984年のビーンボール』(駒草出版)などがある。ミシマ社のウェブサイトで「小田嶋隆のコラム道」も連載開始。
小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明
「ピース・オブ・ケイク(a piece of cake)」は、英語のイディオムで、「ケーキの一片」、転じて「たやすいこと」「取るに足らない出来事」「チョロい仕事」ぐらいを意味している(らしい)。当欄は、世間に転がっている言葉を拾い上げて、かぶりつく試みだ。ケーキを食べるみたいに無思慮に、だ。で、咀嚼嚥下消化排泄のうえ栄養になれば上出来、食中毒で倒れるのも、まあ人生の勉強、と、基本的には前のめりの姿勢で臨む所存です。よろしくお願いします。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20120927/237367/?ST=print
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