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山本美香さんの凄さ
http://diamond.jp/articles/-/23732
2012年8月23日 週刊 上杉隆 :ダイヤモンド・オンライン
共同通信の取材を受けた。数時間前にシリアでの銃撃戦で死亡したジャーナリストの山本美香さん(ジャパンプレス)についてである。
「ぼくより彼女を知っている人はたくさんいますよ。ほかのジャーナリストたちにも聞いてくださいよ」
こう前置きした上で、彼女の人となりを話すことにした。彼女は、いつも遠慮がちで、いつも控えめで、そしていつも真っ直ぐで、なにより優しかった。
「私なんか申し訳ないよ。すごいジャーナリストの人たちばかりでしょ」
確か、彼女がイラク戦争の取材でバグダッドから戻ってきたばかりのころだから、10年位前だったと思う。
銀座・泰明小学校脇の高架下の古い料理屋で、藤本順一さん、森功さん、有田芳生さんらフリーのジャーナリストらと定期的に開催していた呑み会(アリとキリギリスの会)に、山本美香さんを誘った時に返ってきたのがこの答えだ。
その後、筆者がキャスターを務める番組『ニュースの深層』(朝日ニュースター)に誘った時もそうだった。
「私なんかに一時間の生放送なんてとても、とても――。イラクやアフガニスタンならばもっと詳しいジャーナリストがいるから、そちらにお願い。最後に私が出るわ」
いつもこうだった。
「自分は何もできない。記事も書けないし、頭が良くないから単にビデオを持って現場に行くだけ」
もちろんそんなことはない。聡明な文章を書き、話も巧い、なによりジャーナリストとして謙虚だった。
彼女と最初に会ったのはいつの頃だったのか、なぜかそこだけが思い出せない。
ただ、2003年のイラク戦争前後には、頻繁に連絡を取り合い、盛んに話していたから、もっとそれよりずっと昔だったことは確かだ。
お互いの母校(都留文科大学)が同じであることから、山本さんとはすぐに親しくなった。
都留文科大学は、地方の公立教員養成大学で、卒業生の多くが教職の道に進む。一方でマスコミに就職する卒業生は少なく、ましてやフリーのジャーナリストなど皆無だった。
実際、卒業生名簿で調べてもジャーナリストは山本さんと私の二人だけである。
そうして意味で、学閥の残るマスコミの世界で、私はほとんど孤独といってよかった。
ところが、ある日、突然「同志」が目の前に現れたのだから、興奮したものだった。
「上杉君、文大でしょ。英文科だっけ」
最初、彼女が何を言っているのか理解できなかった。
「私も文大なの」
なにしろ、都留文科大出身のジャーナリストなどこれまで聞いたことはなかった。
ビデオジャーナリストとして戦地に赴く彼女の存在は知っていたが、まさかその山本美香さんが、同じ大学出身、しかも年もほとんど変わらず、同じ時期にキャンパスで過ごしていたことなど想像だにできなかった。
友人や教授など大学の共通の話題で盛り上がり、その後、私が彼女の最初の就職先のニュースチャンネル「朝日ニュースター」の番組メインキャスターになってからは、より頻繁に連絡を取るようになった。
「美香さん、番組に出てよ。中継でもなんでもいいから」
おそらく数十回、誘っただろう。結局、出演しなかった数少ないひとりとなった。彼女の凄さは、その「ふつうさ」にあった。一貫して現場主義を貫きながら驕るところが少しもない。普通に街にいたら、誰一人ジャーナリストとは思わないだろう。
「ぜんぜんすごくないよ。上杉君の方がずっとすごいじゃない。政治家にインタビューして、記事を書いて。私なんてまだまだジャーナリストといえない。ただ単にビデオを持って現場に行っているだけだから」
戦場取材、すごいよね。こう投げかけると決まって彼女の口から返ってくる言葉だった。
山本さんは常に戦地に行っているような印象だった。私が彼女と会う時は、たまたま帰国しているとき、呑み会やランチで時間をともにする程度だった。
「山本美香です。ごめんなさい。いまカブールに来ていて、○○日のランチには伺えないの。せっかくのお誘いなのに。懲りずにまた誘ってください」
戦地で取材し、誘いを断るときですら彼女はこのように律儀だった。世界のどこにいても、あるいは世界の誰であろうと、彼女の態度は変わらなかった。
そのフェアな態度に接すれば、彼女を悪くいう人が皆無であることも理解できるだろう。罵詈雑言と嫉妬の渦巻く日本のマスコミの世界にあって、山本美香はそうした意味でも特異な存在だった。
ある呑み会でパートナーの佐藤和孝さんの話題になった。
ジャパンプレス代表の佐藤さんは、アジアプレスから山本さんを奪ったとみられたりしていることから、誤解の少なくない人物である。
ちなみに私は佐藤さんに対するそうした気持ちは一切ない。一度もお会いしたことはないが、むしろ美香さんから話を聞いているからか、理想の高い素晴らしいジャーナリストという印象を持っている。
さて、その夜も、ある大手新聞記者が彼女にこう忠告して言うのだった。
「佐藤といると君のためにならない。早く別れた方がいい」
その時、あの温厚な美香さんの表情がさっと変わって、強い口調で失礼な記者に反論したことを今でも覚えている。
「そういう批判の声があることは知っています。でも、彼の良いところも悪いところも理解しているつもりです。佐藤さんは世界で何が起きているかを私に教えてくれた人で、彼がいなかったらいまの私はなかったし、きっといろいろなことに後悔していたと思う。私自身が彼を信じて尊敬している、それがすべてです」
当時、よく席を同じくし、厳しい人物批評で知られる藤本順一さんですら「吸い込まれるような目をしていた。真実の目というか、本物のジャーナリストの目をしていたよね、彼女は別格だね」と盛んに褒めていたことが印象的だ。
忘れられないのは彼女が私の見舞いに来てくれた時のことだ。
2003年から2004年にかけて、イラク入りに失敗して重傷を負った私は、パリの病院、東京の病院、山梨の病院と長い入院・リハビリ生活を余儀なくされていた。
その時の山本さんの言葉が印象深かった。
「少し休めって、きっとそういう天の声なのよ。そうした予感ってあると思う。戦地ではいつも慎重に慎重を期して行動しているけど、絶対の保障はないから。覚悟はするけどやはり誰だって死にたくないから、私もいつもおまじないして暗示をかけているの」
戦場に出た時の研ぎ澄まされた緊張感は、経験した者しか知りえない。冷静で静かに戦地に向かう山本さんだが、やはり彼女も恐怖と戦っていたのだ。
だが、そうしたシビアな状況の中、つねに気持ちは他人と寄り添うことを忘れない優しさを持っていた。
「私なんかより、日本で取材する上杉君の方がずっと大変。だって日常生活も取材になるから休む間もないでしょ。その点、私の方が楽。だって戦地に行けばそうしたことから解放されるし、それに戦地取材って言ったって、四六時中、緊張していることなんてないから」
もちろん、これは山本さんなりの励ましだろう。
確かに、マスコミ報道の印象と違って、戦地取材は24時間、弾が飛び交っているわけではない。そこには普通に生活している人々がいるし、当たり前のような光景が広がっている。その日常の中での戦闘を、とくに社会的な弱者の戦地での息遣いを、美香さんはいつも追っていたように思う。
5年ほど前、山本さんが本を出版した際のエピソードも紹介しなくてはならないだろう。
「上杉君、今度、これ出したの」
ランチの際、そうやって渡されたのが『ぼくの村は戦場だった』(マガジンハウス)だった。
一貫して子どもの視線を忘れずにいる山本さんらしい本だ。すぐに私は、テレビやラジオで宣伝するから、山本さんも出演して宣伝しようと持ちかけた。
だが、彼女は、そんな立派な本じゃないからと頑なだ。ならばと思い、出版記念会を開き、出版社の知人に書評を書いてもらおうと提案すると、今度はこういうのだった。
「こんな稚拙な本でみなさんに取り上げてもらうのは申し訳ない。どこか図書館において、子どもたちに長く読んでもらえれば、そっちがいいかな。出版記念会は、上杉君みたいに、もっと立派な本が書けるようになったら、お願いする」
日本テレビをつけた。
山本さんが撮影したシリアでの最後の映像を繰り返し流している。何度か登場した都留文科大学の学校案内、あるいは特別講義でも、彼女は、戦地で生きる子どもたちに触れていたという。
友人のほとんどが教職を目指す都留文科大学で、彼女は彼女なりに、生徒や学生たちに伝えたいものがあったのだろう。それが戦地で自然、子どもたちにビデオを向けるあの姿勢につながったのかもしれない。
最後に話したのは今年の春だった。新しく立ち上げたニュースサイト「News-log」(No Border)に参画してもらおうと、山本さんに連絡を取ったのだ。
「ありがとう。でもそんな立派なジャーナリストたちの中で私なんか申し訳ない。だいたい、記事、書けないし――」
いつもと同じ予想通りの答えに、私は「映像でいいんですよ、場合によっては音声だけでも」と食い下がった。
しかし、山本さんは相変わらずだった。いつでも自分のことより他人のことが優先なのだ。
「そうそう、それよりも上杉君、大学案内に載ったんでしょ。おめでとう。よかったじゃない」
大学時代から優秀で、特別講義や大学冊子の常連だった山本さんと違って、私は長い間、大学から「追放」されている身分だった。
それを冗談交じりに語ると、いつも美香さんは、上杉君のような人の話こそ、文大の学生に聞かせればいいのに、と真剣に同情してくれたものだった。
そのことを覚えていたのだろう。今年、卒業から20年近く経って初めて私が大学案内に登場したことを知っていて、彼女はそう言ったに違いない。
こうやって、彼女のことを書き出せばキリがない。
しかし、正直に告白すれば、ここまで書くのにもずいぶん悩み、時間がかかった。
彼女のことは書かなくてはならないのだが、この記事は決して書きたくない記事だったということもあるし、なにより自分よりもずっと彼女を知っている人物がたくさんいることもわかっていたからだ。
また、彼女のことを商売に使っているという目で見られるのは、私自身ではなく彼女に対して申し訳ないとも思ったからだ。
実際、共同通信にコメントしそれがスポーツ新聞に載った直後から、ツイッターなどに心無い書き込みが相次いだ。
そうしたことは山本さんが一番悲しむことなのだ。
ジャパンプレスと契約していた日テレでは彼女の映像がずっと流れている。彼女の存在を知らせる上で、それはうれしい限りなのだが、正直、複雑な気持ちがあることも確かだ。
彼女は自分が有名になりたいとか、手柄を得たいとか、そういうこととは一切無縁の稀有なジャーナリストだった。
『ボーン・上田国際賞・特別賞』を取った時も、「私は何もしていない。私は佐藤の手伝いをしただけだから」と驕るところが一切なかった。
そんな彼女だから、勇敢な女性の戦争ジャーナリストが異国で非業の死を遂げるという番組のつくり方を知ったら、きっと天国から「止してよ、もう」と言うのではないかと、勝手に想像してしまうのだ。
彼女の目線は一貫して、社会的な弱者、それは女性、高齢者、とくに子どもに向いていた。それは、きっと彼女の遺した膨大な映像を観れば明らかだろう。
日本テレビのみならず、いま、わたしたちすべてのジャーナリストが彼女に試されているのかもしれない。
今後、彼女自身のことと同時に、いまシリアなどの戦地で起きていること、つまり、戦闘の中で暮らしている子どもたちの現状を絶え間なく伝えることができるかどうかを試されているのだ。
長年の「同志」である佐藤さんはそうした意味で山本さんの最大の理解者であることに違いはないだろう。
だが、戦場に行かなくても、ジャーナリズムに関わっている者ならば、意志さえあれば、実践可能なことなのだ。それは日本テレビのスタッフのみならず、すべてのジャーナリストに求められているものだ。
日本テレビは映像使用権などの陳腐な常識に捉われず、本当に彼女の遺志を継ぐ報道を目指してほしい。それこそが彼女の求めていたものに他ならないのではないか。
「上杉君は偉いよ。学生の頃から、なんだかんだいっても行動を起こしているじゃない。私なんか、ぜんぜん」
呑み会の時など、いつもこういっていた山本さんだが、もちろん、彼女を超えたことなど一度もないことは私自身が一番よく知っている。
同じ山梨の、同じ大学のキャンパスで、同じ空気を感じて学んだ、たった2人のフリージャーナリストとして、私なりに彼女の求めてきたものは理解しているつもりだった。
だが、あえて今回はそれを書かない。なぜなら、私に求められているのは、彼女のそうした夢を語ることではなく、それを実現するために(実現不可能なものもあるが)、行動することだけなのだから。
美香さん、お疲れ様でした。やっと休めますね。ゆっくりと、お眠りください。
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