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■元日経新聞記者が日経新聞社長の「女性スキャンダル報道」を考える。新聞は「公器」か、それとも「私器」か(現代ビジネス)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32999?page=3
『週刊文春』7月19日号に「日経新聞社長と美人デスクのただならぬ関係」という記事が載った。一方、11日の日経朝刊はその号の広告を拒否、社会面に「本社、文藝春秋を提訴へ」という記事が載った。この問題は、新聞社というものの特殊性を考えるいい材料になっている。
** 新聞社は社長個人の盾になっていいのか
『週刊文春』7月19日号(7/11発売)の記事に対して「本社、文藝春秋を提訴へ」という記事が載った。日経新聞 2012年7月11日 朝刊より
多くの読者は、週刊文春の記事に、2003年に起きた鶴田卓彦元社長の女性問題スキャンダルを思い出したのではないか。「またか」である。
日本経済新聞社は週刊文春の記事に対し「事実無根」としているので、憶測で真偽のいずれかに加担するのはやめたい。
この問題で、恥ずかしくてならないのは、広告拒否と「本社、文藝春秋を提訴へ」という記事の掲載だ。
この問題は、喜多恒雄社長の個人の素行に対する問題が主軸である。「情実人事」は組織の問題だが、素行に問題がなければ、情実人事は話題にはされないだろう。
「喜多氏、文藝春秋を提訴へ」が正しい見出しであって、日経本社が一方に加担してはならない。
社員や役員の不祥事が起これば、上司に呼び出され、処分が検討される。ところが、「上司がいない」社長は、会社を盾にして闘おうとする。著しい公私混同だ。
なぜ、新聞社が社長という個人の盾になるのか・・・それが問題だ。
** 新聞社社長は「裸の王様」になりやすい
新聞社の社長というのは「裸の王様」になる条件を持っている。
一般事業会社では、メインバンクが経営を監視し、社長交代を求められたりする。しかし「言論機関」という特殊性もあって、金融方面からの圧力は受けない。
また、新聞社同士は互いの内情を知っていても、「書かない」という不文律がある。
そうした環境から、新聞社のトップは事実上の「独裁者」になる。
新聞社は報道について「客観的、中立公平」を掲げているが、自社が関係することになると、驚くほど「わがまま」になる。読売新聞社が系列下にある巨人軍の問題で、“独自の”報道をすることはよく知られている。
** 新聞社の統治体制が不完全ではないか?
民主主義を維持するために、国家では三権分立というシステムが取られている。新聞社の中に、それはあるだろうか?
今回の問題のような問題では、もう一人の代表取締役である副社長か、会長、また常任監査役がリーダーとなって、外部の中立的な弁護士などに依頼して調査委員会を開設し、その結果を公表すべきだ。社長が編集局長を呼んで、一方的に「事実無根だから、こう書け」と言ったのだとしたら、それは北朝鮮と同じである。
新聞社の記事が信用されるのは、「ウラを取る=確認する」という作業をきちんとするからだ。私も「ウラ取りが甘い」と記事をボツにされた経験が何度かある。
今回の件で、会社としてウラ取りをしてなかったら、それこそ重大なミスだ。
私が新聞社の経営を信用できない理由はいくつもあるが、過去に経理担当の役員になったある人が「私は経理は素人だからと、社長に辞退を申し出たが、経理担当というのは、とにかく黙って(経理上の秘密を守る)いればいいと言われて、それならできると引き受けた」と告白したことだった。
** 新聞社の中にある身分差別
もう一つ、今回の問題で指摘しておきたいのは、新聞社内部の「格差問題」だ。
日本の新聞社のほとんどは、江戸時代の士農工商に類する身分格差がある、士は記者職で、農工商は、広告、販売、製作の職場だ。役員の大半が記者出身者で占められ、社長もオーナー家か記者出身者がなるのが通例だ。
日経の場合は、さらに記者の間にも差別がある。約3000人の社員のうち、おもに財務省や日銀、金融機関の取材を担当する経済部の記者は100人以下だが、現在の取締役14人のうち5人が経済部の出身者だ。ちなみに役員に記者以外の出身者は1人しかいない。
さらにいえば、経済部出身の社長は、鶴田元社長にはじまり、喜多社長まで3代続いている。結局、鶴田事件に対して、日経は自浄作用が働かなかった。それが今回の対応につながっている。
** ジャーナリストらしく堂々と
公明正大、身が潔白であれば、喜多社長自身が記者会見し、個人の問題として提訴し、対決するのが本筋だ。
今日の社会において、新聞社は、民主主義を守る要石として、国民の信頼を集める立場にある。政府や経済界を批判しながら、自分たちが矢面に立ったら、会社を隠れ蓑に、逃げ回るのは、とても恥ずかしいことだ。
日経の中興の祖である、元社長の故円城寺次郎氏は、経済審議会会長などの公職も務め、叙勲の対象だったが、本人は「新聞記者は勲章を欲しがってはならない」と、叙勲を辞退した。
そうしたジャーナリストの矜持はどこにいったのかと思う。
もう一度繰り返す。守るべきは言論の独立であり、そのための自由闊達な社風である。社長の私器に成り下がるようでは、紙面のすべてが疑われることになる。
正々堂々と対応し、その中身も公開すべきである。(坪田 知己)
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