http://www.asyura2.com/12/hihyo13/msg/119.html
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前回までは現代日本社会のプロフェッショナルについて取り上げた。
NHK「プロフェッショナル−仕事の流儀」とニート社会@ 彼らは本当に凄腕プロフェッナルか。
http://www.asyura2.com/12/hihyo13/msg/110.html
NHK「プロフェッショナル−仕事の流儀」とニート社会A プロフェッショナル特攻企業戦士転じてニートとなる?
http://www.asyura2.com/12/hihyo13/msg/112.html
今回からは逆にニートの側から経済社会を眺めてみたい。
最近放映された「プロフェッショナル仕事の流儀」のある回では自殺防止と自殺未遂者の集団生活運営に活躍する牧師が、自ら社会復帰のために立ち上げた弁当屋ビジネスに力が入りすぎ、かなり大きな商売となって、牧師もその妻も従業員化した集団生活者に結構口うるさく指図するようになっていた。そして、自殺未遂者で職を転々としてきた初老の男性に隙を見て逃げられるというどんでん返しのラストで終わっていた。
いわばプロフェッショナルが失業者の初老ニートに敗北した形で終わったのであるが、番組をよく見ていればそこへ至る経緯や初老男性の気持ちがよく分かる。数ヶ月前に断崖から飛び降りようとしたその男性の勤務態度を厳しくとがめたり改善会議で半強制的な自己総括をやらせたりプロフェッショナルの不適正社会人への圧力が痛々しく映し出されていた。もちろんその自殺防止は素晴らしいものであるし集団生活も大きな意味を持つものであるが、プロフェッショナルと脱落社会人のギャップが明白に現れていたのだ。
そして、若く生え抜きである牧師の職業を通した社会復帰の援助もその初老の男性の厭世観、自己卑下、否定的な社会観職業観をかえる事が出来なかった。残念だが現在社会の状況を見るにその初老男性の社会への拒否感をとがめることは出来ないし、空虚感を覆すことも出来ない。個人以上に社会が虚無的になっているのだ。ここにいたってプロフェッショナリズムはニートの世界観に反論できないのだ。
そして、世のマイナスの評価と反対に今やニートは社会現象化しており、ネットの普及やそれにともなう流通等の経済活動や社会活動の在宅化や失業率の増大とともにニートは平均的市民像に近づきつつある。震災や原発事故の影響はそれに拍車をかけ、東日本の国民の在宅時間は大きく増大したはずだ。今やニートの宅外への恐怖は物理的に顕実化したが、それも日本最大の民間企業たる東電という企業によって物理的な死の恐怖を突きつけられているのは象徴的である。
ではプロフェッショナルの対極にあるニートたちの会社観、労働観とはどんなものなのだろうか。少なくとも高校や大学まではほとんどの二−トもその後のプロフェッショナルたちと机を並べて同じ環境で多くの時間を共有していたはずだ。一方は卒業と同時にかつての召集兵同様潔く就職していき一方は水を怖がる金槌のように企業社会を怖がり拒否したりフリーター化する。一斉の新卒就職というのも日本にしか見られない年功序列制度を守る特殊な労務慣行であるが、それも仕方なしと真っ黒のリクルートスーツを着込んで登社するのは多くは団塊世代と同じ古い社会観をもつある意味堅実な若者たちだ。その代表は国家公務員でむしろそのような固定化した社会制度こそ彼らのキャリアーアップのために大きな機会を提供すると考えている。
他方、ニートにとっては企業や経済社会は労働市場に則って個人の夢も希望も全てお構いなしに相対する恐ろしい社会化の場だ。それは母子カプセルで無上の自我を庇護されてきたニートには耐えがたき自己否定の場である。現代の資本主義社会は、ある面で党員が支配階級であるノーメンクラツーア等の社会主義国家よりも残酷に給与額によって人間の経済価値が客観的数値で一律的格付けが行われている。税務署は所得番付一位から最下位までの格付けリストを持っている。だが、他の先進国では日本ほどにニート化が顕在化していないのだ。なにより日本でも高等教育までは優秀で社会性も認められてきた者たちや新卒後の就職に成功し数年はよき社員となるべく努力してきた者たちも続々とニートやフリーター、非正規社員のカテゴリーに転落する層が増大してきている。一説には若者で定職についているのは3割もいないということだ。欧米の基準を用いれば若年層の失業率は現在の何倍にもなるという。
当然、自発的失業者のニートはハローワーク自体に足を運ぶ勇気も持ち合わせていない。ニートは非経済的存在だから、当然、会社と上司に命令されて嫌なことをしない。多くはパラサイト化して生をつなぐのも、労働苦痛があまりにも対価である給与に見合わないと非常に高い社会的要求を前提にしているからだ。簡単に言えば肥大化したプライドを少しでも傷つける労苦を厭い、それを要求する社会を死ぬほど恐れているのだ。現代社会は全て経済原則として動くとされるが、農村共同体や地縁血縁もうすれた現代日本では、ニートを許容する場がその例外たる教育機関や図書館、公園等の一部の公的空間や経済的交換を伴わない消費の場だけであるのもうなずける。社会の進歩が経済化なら年々、ニートの生存空間は縮小している。まさに彼らにとっては行き場と生き場がないのだ。古いマルクス主義用語で言うところの疎外というやつで、まさにニートの経済社会観はムンクの叫びの情景そのものだ。
では、彼らニートがこれほどまでに嫌う企業社会と経済社会とは何なのだろうか。そもそも経済とは何なのか。近代経済学の原則によれば全ての経済活動も個人の主観的な効用の最大化を目的としている。すなわち個人の好き嫌いに基づくのだ。もちろん、物質的な生活を営む上で必要な部分は精神的な好悪に優先するが、それでも好き嫌いという感情面が大きくものをいうのが人間が人間たる理由だ。二−トはその精神的な好悪感が社会から孤立した自己空間で異常に肥大化しているのだが、経済社会のほうにも非人間性の非は認められないのだろうか。そして日本企業が経済的に敗北しつつあるのは人間性に根ざした経済原則に反した過てる価値観、すなわち非人間的な価値観に支配されているからではないのか。ニートは企業の利潤最大化のための非人間的な経済活動とその価値観の最大化に恐怖するが、実はニートの個人の好悪を基準にした価値観のほうが基本的には労働苦痛などの経済原則に即しており、より第3世界をも含めた世界中の労働者の労働意識に近いのではないのか。
そういう点から考えると企業がニートを取り込めない限り、あるいはニートが経済活動に参加するようになるまでは、経済の国際化が進行する中で日本の経済と社会は右肩下がりを脱することが難しくなってくるといわざるを得ない。
以上、ニート擁護になったきらいがあるが、次回はもっとニートとその社会不適応性を批判的観点からながめ、ニート型人間の社会との落としどころ、あるいはプロフェッショナルとしての再生の可能性について考えてみたい。
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