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米国の大学生だった彼に「日本での就職はない」と決意させた経験
インターンシップで垣間見た米国ではあり得ない日本企業の“実態”
2012年11月29日(木) 上阪 徹
現在はグーグルジャパンの顔として活躍する徳生健太郎。彼は日本でも屈指の進学校だった高校を中退して渡米。アメリカの大学で学び、シリコンバレーでベンチャー企業を経て、グーグルに入社したが、大学在学中に日本で就職することは考えなくなっていたという。また、大学時代から、後のキャリアに直結する学びの機会を得ている。
「アメリカの大学は、卒業したら即戦力にならなければいけない、という感覚を誰もが持っているんです。だから、勉強も真剣にやるし、それ以外についても、将来を意識した取り組みを進めている。もっと言えば、早い段階で専門や専攻を絞り込んでいくし、やってみたい方向も定めるんです」
徳生が大学院を卒業してから就職したのは、剛体力学のシミュレーションをするソフトウェアを作っていた会社だったが、実は大学1年の頃から徳生はこの分野に興味を持っていた。
「物理が好きだったことと、コンピューターを使って自然の現象を検証したり、シミュレーションをしたり、解き明かしていくということに強い興味を持っていたんです。それで、科学技術計算の方向に進みたいと思うようになりました」
大学を卒業したら成績ではいかに即戦力かを問われる米国
そして大学3年生の時、コンピューターに本気で取り組もうというチャンスに巡り合う。大学のリサーチラボで、研究を支援するアルバイト募集があり、手を挙げたのだ。
CAD/CAMというコンピューターデザインのシミュレーションをする研究所だった。単位がもらえるわけではない。アルバイト。募集は大学院生だったが、「やらせてほしい」と頼み込んだ。
「アメリカで就職する時には即戦力が求められるわけですから、どんな大学で何個Aを取ったか、というよりも、こんなプログラムを書いてこういう結果を出して、と説明した方が断然強いんです。この時は大学を卒業して就職する可能性もあると思っていましたから、大学院生と仕事をして、いろんなプログラムを通じて、普通の授業ではとてもアクセスできないリソースに触れることができるのは、貴重な経験になると思いました。実際、スーパーコンピューターを扱えたのは、本当に幸運でした」
研究室は、真新しいインテリジェントビルの中にあった。マシーンショップも館内にあって、いろいろな工作機械も使えた。自分のデスクも与えられ、アルバイトの時間以外も席を使うことを許された。授業の合間に来ては宿題をしたりもした。高レベルのワークステーションも使い放題。しかも、24時間出入りできる。図書館に行かなくても、勉強ができる環境を手に入れることができたのだ。
「手伝っていた研究というのは、剛体の表面を一定間隔の3次元の座標系で計測して、その点集合から曲面を再現するリバースエンジニアリングでした。例えば、缶をクシャっとつぶした物体は、どのくらいの点をサンプリングしたら再現できるのか。動かすプログラムを書いたり。点だけのデータからどうやって面を再現するかに挑んでいる大学院生のお手伝いで、実際に工作機械で再現した曲面を作ってみたり。刺激的でしたね」
1990年代前半で、まだ「ウエブ」が一般ユーザーに使われていない時代。最新鋭のワークステーションを使いこなしていた徳生はこの研究にはまり、着々と進化していたウェブの存在には大学院に入るまでまるで気づかなかったという。
そしてこの時、徳生はアルバイトながらどんどん仕事が広がっていく経験をしているが、それは、その前のアルバイトでの経験が大きいと語る。
「就労ビザは学生にはないですから、働く時間や給料は限られました。最初のアルバイトは、大学内でデータを手で入力していく仕事でした。要は紙に書いてある数字を表計算ソフトに入力していくだけなんですが、それだけだと面白くない。そこで、平均額が自動的に出るようにしたり、正確にデータが入力できるよう合計額をチェックする仕組みを作ったりしたら、自分にとっては簡単な作業でも、『こいつは仕事ができる』と喜んでもらえて」
徳生の元には、新たに面白い仕事が飛び込んでくるようになる。気づいたのは、アルバイトであってさえも、いい仕事をすれば評価され、どんどん面白い仕事がやってくる、というアメリカのスタイルだった。
「今から思えば、何でもないことをしていたんですよね。学生のアルバイトですから、時給も4ドルとか、5ドル程度。でも、自発的に何かをやってバリューを出すとアプリシエイト(感謝)してくれるものだ、ということに、学生ながら気がついて」
早々に単位を取得して大学4年では語学に熱中
研究所でのアルバイトは自身に興味がある分野だったこともあって、どんどん自発的に動いた。すると、次々に興味深い仕事を頼まれる。後には、教授がいくつかの大学院のPhDプログラム(博士課程)に推薦状まで書いてくれた。残念ながら、修了するのに通常5〜6年かかると言われる博士課程にコミットする気がなかったので受けなかったが、結果的にこのアルバイトがきっかけになって、米スタンフォード大学の大学院のコンピューターサイエンス科で科学技術計算を選ぶことになるのである。
大学の後半といえばもう1つ、徳生が取り組みを進めたものがある。語学だ。
「1、2年の時に集中して物理や数学を取り、しかも、アメリカでは高校で取った単位が大学で認められるので、思った以上に早く単位を取得できる見込みができたんです。4年目は少々単位に余裕があったので、1年間フランス語を学んでみることにしました」
いわゆる第2外国語だが、驚くほど充実したカリキュラムが組まれていることを徳生は知る。何と授業が毎日あるのだ。しかも、フランス人の先生から学べる。
「これにはびっくりしました。毎日ある授業って、ほかにないですから。しかも、宿題も並ではない。ということは、学ぶとすれば本気で学ばざるを得ないということです。もともとフランス語には興味を持っていました。ふわふわした音が面白かったし、ヨーロッパをいつか旅行してみたいと思っていたんですよね。おいしいものが好きですから(笑)」
英語をマスターできた自信も背景にはあった。語学を1つマスターすると、よほど言語系が違うものでなければ、2つ目はぐっとハードルが低くなる。また、夏休みに日本に戻った時に出会い、後に妻となる彼女が、車で4時間半ほどの街、カナダのオタワに留学していた。カナダ東部では日常的にフランス語も使われている。ここでも生かせると考えた。
「フランス語は面白かった。週によっては毎日3時間以上、勉強していました。特に4年生の後半は、前出した研究室の仕事のほかに、このフランス語ともう1つくらいしか講義を取りませんでしたから。週に10時間も20時間もアルバイト先の研究室に籠もって、いろんなお手伝いをしたり。おかげで、プログラミングのスキルはものすごく上がりましたね」
実は徳生は大学3年の時点で、「日本に戻って就職することは恐らくない」という決意も固めていた。後押ししたのは、この学年が始まったばかりの秋の経験だった。
「大学と企業が協力して、4カ月ほど企業でインターンシップをするプログラムがあったんです。コーネル大学では、インターン期間の単位はもらえないので、インターンに出る直前の夏休みにキャンパスに残ってサマーコースで単位を先取りして、その秋に4カ月、企業で働く仕組みになっていました」
だが、ビザの関係でアメリカの会社では働けないということが分かった。となれば、日本で日本の会社にお願いするしかない。折しも1社、このプログラムに参加していた日本の大手メーカーがあった。徳生がやってみたかった科学技術計算に近い業務もあるという。徳生は応募してみることにした。
喫煙し放題の職場環境に驚き抵抗を試みる
そして、大手メーカーのテクニカルセンターで4カ月働くことになった。この経験が、日本の会社には行かないと決意する契機になったという。徳生の弟で、後にグーグルにも入社する3歳年下の徳生裕人は、この時の兄の落胆ぶりをよく覚えていると語っていた。
「日本を代表する大企業でしたから、それなりの期待をしていたんじゃないかと思います。きっと立派な仕事環境があるんだろうし、レベルの高い仕事が見られるんじゃないか、と。ところが、必ずしもそうじゃなかった。それなりにショックを受けていたようでしたね。これで日本企業という選択肢はなくなった、と兄が言っていたのを覚えています」
徳生自身はこう言う。
「仕事自体は面白かったんです。スパコンを駆使して振動騒音のシミュレーションに携わらせてもらったりして。大変な人気の製品を製造している会社でしたし、本当に興味深かった。しかも、社員もみんないい人たちなんですね。こちらは学生なのに、何かと気遣ってもらって。アメリカの大学から来るというので、英語しか話せない学生だとばかり思っていたようで、初日の挨拶がNice to meet you から始まって(笑)。なんだ、日本語しゃべれるの、なんて驚かれたりして」
だが、徳生には、どうしても耐え難いことがあった。何より大きかったのが、タバコだ。さすがに今はそんなことはないが、当時は分煙の発想がなかった。オフィスはタバコを吸い放題。当時はスモーカーが周囲に気遣うなどなかった。
「アメリカの都市部では既にスモーカーがどんどん減っていました。ニューヨーク州ではバーに行ったら見かける、くらいで。それこそ後にカリフォルニアに行った時には、バーも禁煙でしたから。それに慣れてしまっていたんですね」
徳生は自分の机の上に小型の扇風機を買い込んで備え付けた。結局空気が循環するだけだったので効果はなかっただろうが、せめてもの対策だった。
「ある時、いつも使っていたクリーム色のワークステーションが修理に出されることになったんです。悪いけど、今日は使えないんだ、と。それで翌日出社したら、真っ白な新品が置かれていて。でも、実はタバコのヤニで汚れたのがきれいになって戻って来ただけだったんです。基盤やファンがヤニだらけになるので、掃除が必要、と後で聞いて絶句しました。よく考えたらそれが自分の肺にも入っているんだよな、と」
そしてもう1つ、驚いたのが就業環境だ。例えば時間の使い方。
「日本の会社だから勤務時間は長いだろうというのは理解していたつもりですが、実際に職場にいると、出社から退社まで仕事が詰まっているように見えなかったんです。いろいろ凝縮すれば、もっと能率よくできるんじゃないだろうか、と思いました。」
朝9時に全員が揃い、仕事が始まるが、緊迫した空気はない。テキパキ仕事をしているようには見えないのだ。12時になると一斉に食事に出掛け、一緒に連れて行かれるが、みな黙って食べるだけ。しゃべらず10分ほどで食事を終えてしまう。
「僕が話ながら食べていたら、まだ終わらないのか、と言われたことが何度もありました。それでいて、急いで戻ると、机に突っ伏して寝ている人、漫画や新聞を読んでいる人ばかりで、カジュアルなコミュニケーションがあるわけでもない。今から思い出すと、インターンシップの途中から食堂へ行きづらくなって、よく弁当を持参して屋外に出て1人で食べていました。」
ウワサで聞いていた慣習が現実だと知って驚く
午後もゆったりと流れた。しかもウワサには聞いていたことが、本当だということも知った。部長や課長が残っていると、部下は誰も帰らないのだ。徳生は基本的に午後6時半で退社したが、仕事が片付かないので時々遅くまで残っていると、明らかに上司が帰るまでみんながいることに気がついた。
「僕も日本人ですから、気持ちは分かります。インターンの身分ということで、ある程度仕事が片付いたら退社するのにあまり抵抗はありませんでしたが、僕が正社員だったら日本人としてその大企業の慣習に抵抗できるような自信はなかったし、それに20年、30年と縛られるのは、たまらないなぁ、と思いました。あれから20年以上になりますから、今はさすがにもう、変わったとは思いますが」
寮の所在地にも疑問を感じた。1人ずつ、バス・トイレ付個室のワンルーム寮。テレビでも取り上げられたほど、近代的で先進的。社員寮としては贅沢な造りだと思ったが、勤務先まで行くのにバス、電車、またバスに乗り換え、最低で片道1時間半はかかった。
「それでも今から考えれば、日本の会社としてはかなり寛大な福利厚生だったと思います。社員のみなさんはいい人たちだし、技術力もあって会社の誇りもある。せっかく来てくれたのだから、と送別パーティーも開いてもらったりして。当時手とり足とりお世話してくれた上司もまだよく覚えています。4カ月、家賃無料の寮に加えて給料も月10万円ほどいただいていたので、本当に感謝はしていたんです。それでも、アメリカのコンピューター関係企業での就業環境をある程度見聞してしまっていた当時の僕にとっては、ここでは長く勤められないだろうと思いました」
そして最終日は、大晦日の前ということで、会社の大掃除だった。蛍光灯の1本1本まで、外して社員が全部拭く。徳生はこの日、とうとうダウンしてしまった。4カ月の慣れない生活習慣に加え、週末は友人と都内で遅くまで遊んでばかりいた代償も重なり、身体が限界のシグナルを発していた。正月は3日間、実家で寝込んでいた。
その会社は、今も日本を代表するメーカーの1社である。だが、アメリカでの研究開発環境をある程度肌に感じてしまっていた自分には、この就業環境(今では当時とは大きく変わっていると思われるが)はどうも合いそうにない、ということにはっきり気がついたのである。「振り返って考えると、当時は学生身分で贅沢な文句を言っていたものだ、と思いますが、いずれにせよ、これからアメリカで長期にわたって技術を磨いていこうという決意に拍車がかかったのは間違いありません」
翌年、4年生になって間もなく、徳生は大学院への進学を考えるようになる。大学に進学した時には行けなかったカリフォルニアに移り、本格的に就職する前に、大学院でコンピューターサイエンスをもっと学んでおきたい、という思いを持ったことが大きかった。従って、その後大学時代に就職活動をすることはなかった。
卒業した1992年はアメリカ経済がどん底に沈んでいた時期。バブルで華やいでいた日本とはまさに対照的に、アメリカの80年代、そして90年代前半は厳しい経済情勢が続いていた。当時は一流大学の一角を占めるコーネル大学の学生ですら、就職は簡単なことではなかったという。
「ニューヨーク州の田舎のど真ん中にある大学ですから、景況感を肌で感じ取るのは、実は極めて難しかったんですよね。それでも就職の時期を迎えると、改めて厳しさを認識しました。もう暖かくなってきて、卒業式が迫ってくる時期になっても、まだ仕事が決まっていない学生が半分くらいはいる印象でした。あまりにもお互いに”What are you doing next year?”という会話ばかりしていたので、面倒だからその話題に特化したパーティーをわざわざ友人たちと開いて、100人ぐらい集まったのを覚えています。」
同級生の活動で知った当時の米国の就職事情
大学院への進学率は低かった。理系でも半分もいなかったのではないかという。奨学金でもあれば別だが、大学院への進学には費用もかかる。それもあって、就職を選択する学生が多かった。
しかし、就職が決まらなかったといって、卒業を取りやめて留年するようなことはアメリカではない。そもそも日本のような一括採用の慣習はアメリカ企業にはない。だから、何月になっても、卒業をしてからでも、就職活動を続ければいいだけのことだ。しかし、これも精神的にはかなり厳しい。
「新卒で3月か4月くらいにオファーをもらっていないと、焦ってきますね。大学を卒業して親元に帰っても職がない、というのは、やっぱり辛いところもあるのでしょう。それこそ、ここではとても書けませんが、何かをして仕事が手に入るなら何だってする、とかなり過激な表現で言っていた友人もいました。男子学生も女子学生も、なかなか就職が決められなかった」
中には、メカニカルエンジニアリングをコーネル大学で専攻したのに、卒業後数カ月求職を続けた後、リフォーム会社の飛び込みセールスの仕事を始めた友人もいたという。大学院進学、しかも奨学金を使って、という選択を既に決めていた徳生は、「仕事がない」という悩みには直面せずに済んだ。だが、不況の風は大学院のあったカリフォルニアに移っても同じだった。
「アパートを探し始めた時、今契約したら1カ月分無料、といった物件が、ゴロゴロあったんです。後々を考えれば、信じられない状況でした。振り返ってみると、1992年当時というのは、僕がシリコンバレーに入ってから経験する、バブルが弾けた後のような状態に似ていました」
しかし、アメリカ経済はこの後、10年にわたって急激な成長を遂げる。まさにどん底からピークを迎えるまでを、徳生はシリコンバレーで見続けている。次回は、スタンフォード大学大学院への進学に始まる、カリフォルニアでの経験をお届けする。
(文中敬称略)
上阪 徹(うえさか とおる)
1966年、兵庫県生まれ。89年、早稲田大学商学部卒。リクルート・グループなどを経て、95年よりフリー。経営、金融、ベンチャー、就職などをテーマに、雑誌や書籍などで幅広く執筆やインタビューを手がける。インタビュー集に累計40万部を超えるベストセラーとなった『プロ論。』(B-ing編集部編/徳間書店)シリーズ、『外資系トップの仕事力』(ISSコンサルティング編/ダイヤモンド社)、『我らクレイジー★エンジニア主義』(リクナビNEXT Tech総研編/講談社BIZ)がある。著書に『新しい成功のかたち 楽天物語』(講談社)、『六〇〇万人の女性が支持するクックパッドというビジネス』(角川SSコミュニケーションズ)、『リブセンス<生きる意味>25歳の最年少上場社長 村上太一の人を幸せにする仕事』(日経BP社)など。
グーグルで最も活躍する日本人の軌跡
検索エンジンからスタートし、サービスを徐々に拡充して、今や世界に冠たるIT(情報技術)の巨人に成長した米グーグル。同社の草創期から共に歩み、グーグルジャパンの「顔」としてメディアに登場する徳生健太郎・製品開発本部長──。
日本がプラザ合意を経てバブル経済による空前の好景気を謳歌し始めた1986年、東大合格者数ランキングで全国トップテンに入る名門高校を3年の半ばに中退し、当時不況のどん底にあった米国に渡るという異例の決断を下した同氏の半生を、ノンフィクション作家がたどる。渾身のドキュメンタリー。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20121120/239600/?ST=print
米国における政治マーケティング この分野で活躍する人材を育成する大学院も設立
2012年11月29日(木) 鈴木 崇弘
前回の英国に関する記事に記したが、英ブレア労働党(当時)が多くを学んだように、米国は政治のマーケティングやコミュニケーションの分野の先進国である。
政治マーケティングは、平林紀子埼玉大学教授が指摘するように、米国では、「テレビなど個々のメディア戦略技法のことではなく、選挙を含むデモクラシーのプロセス自体をコントロールする一つの思想」である。それは、まさに米国における現代政治の特徴であり、現実でもある。
政治におけるマーケティングやコミュニケーションにおいては、政治家や候補者の「実像」以上に、有権者に受けがいい「像」をいかにつくり出し、有権者に受けてもらうかが重要である。そのためには、米国では、「選挙はメディア対策が命」(注1)であり、さまざまなメディアが活用されてきている。
また、メディアや有権者に訴え、政治活動や選挙活動を行っていく上での基礎情報になる、世論調査や有権者情報の蓄積などの仕組みづくりとその活用が行われてくることになる。
大統領選と政治マーケティングの始まり
今米国大統領選で、民主党バラク・オバマ大統領と共和党ミット・ロムニー候補の間で白熱した戦いが繰り広げられ、世界中の注目が注がれた。
そこで、これまでの大統領選などを中心に、米国の政治マーケティングなどについてみていこう。
世論調査の民間企業の先駆けであるギャラップの創始者であるジョージ・ギャラップ博士は、1936年の大統領選でのフランクリン・D.ルーズベルトを予測し、世論調査の政治利用に先鞭をつけた。
ハリ―・トルーマン第33代大統領(1945年4月20日〜1953年1月20日)は、ラジオを通して一般教書演説を生中継し、ドワイト・アイゼンハワー第34代(1553年1月20日〜1961年1月20日)は大統領選で初めてテレビを利用し、政治宣伝において非常に効果があることを示し、この頃から政治において「マーケティング」が選挙戦略として認識されはじめ、新しい政治の方向性をつくったといわれる。
さらに、ジョン・F・ケネディ第35代大統領(1961年1月20日〜1963年11月22日)は、大統領選のテレビ討論会で圧勝し、テレビ中継による記者会見の形式を確立したといわれた。そしてテレビが生み出した政治の初のスパースター的な存在になった。
他方、ケネディは、党内的にも不利な立場にあったが、大統領選の予備選および本選で、世論調査専門家ルイス・ハリスを活用し、世論調査を駆使したことが、勝利の一因となったといわれる。ケネディは、このようにメディア対策と世論調査の活用を本格的に生かした初の大統領といえる。
リチャード・ニクソン第37代大統領(1969年1月20日〜1974年8月9日)は、ケネディとのテレビ討論などの失敗から大統領選に敗北したが、その失敗の教訓から学び、「組織的にコミュニケーション手段をマネジメントし始め」(注2)、大統領に当選すると、H・R・ハルデマン首席補佐官をメディア対策やイメージ戦略の中心に据えて、対応した。また世論対策戦略会議や日々の広報方針決定会議の開催、マスコミ編集者のホワイトハウスへの定期的招請なども実施し、世論やメディア対策を本格的に行ったのである。
政治マーケティングの大きな展開
ロナルド・レーガン第40代大統領(1981年1月20日〜1989年1月20日)が在任中ころからは、メディア・コンサルタントが脚光を浴び始める。
1964年大統領選で、共和党のバリー・ゴールドウオーター候補は、民主党のリンドン・ジョンソン大統領に歴史的な敗北を喫した。その後共和党はホワイトハウスと連邦議会の過半数の双方を共に勝ち得ることを目標とするが、民主党の盤石な基礎基盤の存在とその居住地を地理的に区分してそこに対して徹底的に対応する同党の選挙方法のために、その目標の達成はかなわなかった。
そのような苦境を克服するために、ロナルド・レーガン以降の共和党が編み出したのが、「メッセージを抽象的に落とし込むことによって、党の理念を選挙民に売り込」(注3)み、「ローカルな集団や地理を空間的に横断する、観念的なアウトリーチ」(注3)の手法であった。
その典型が、1980年代に共和党が打ち出した、保守の理念に基づいて米国の再生・再興を高らかにかつ楽観的にうたいあげた「共和党保守革命」である。その象徴こそが、アメリカン・カウボーイのイメージで明るさとシンプルな明快な訴えかけを行ったレーガンであった。この共和党の新しくかつ力強い新しい理念とそれを体現する人材を得て、共和党は政治的成功を収めるが、そこにおいて、「主導的な役割を果たしたのがマーケィング技術のひとつである『ブランディング』の応用」(注3)であった。
米国においては、60年代以降、党派性による分断とその固定化が起きたといわれる。その後特に90年代にその傾向はさらに顕著となった。そして、2000年以降は、「『50%Nation(党派的分断国家)』すなわち有権者の支持政党の固定化」(注4)が米国の選挙論議で語られた。
このようななか、各政党は、相手政党(の支持が有力な)地域は同党の対象から外すという選挙戦術であった。これに対して、政治コンサルタントでジョージ・W・ブッシュ政権で大統領政策・戦略上級顧問などを務めたカール・ローブと共和党全国委員会委員長ケン・メルマンは、2000年以前の選挙における激戦州における状況を詳細に検討し、「19世紀的なローカルに密着したキャンペーンを21世紀的なデータベース技術と合体させるアイデア」(注5)に基づいて、各層から横断的に潜在的支持者を掘り起こす試みをおこなった。それが、「マイクロ・ターゲティング」である。
そのために、ローブらは、選挙民に関する公共および商用のありとあらゆるデータを組み合わせ、膨大なデータベースを作成したのである。
「それは家庭での雑誌の購読、酒、食料品、衣類などのモールの購入データに始まり、ゴルフクラブやフィットネスクラブへの加入から、バケーションを過ごした場所、車や家の購入におよぶ膨大な一人ひとりの消費活動の記録であった。ローブとメイマンは、民主党支持者はコニャックやジンを好むのに対して共和党支持者はバーボンやクアーズビールなどを飲む確率が高く、民主党支持者はボルボ、スバル、ヒュンダイに乗ることが多いのに対して共和党支持者はフォードやシボレー、ランドローバーに乗る頻度が高く、書籍ジャンルでは軍記シリーズの読者ファンは社会問題での保守派であり、自宅の電話機にコール・ウェイティングのサービスを購入しているものは圧倒的に共和党支持者であるというような傾向である。……」(注5)という発想で構築されている。
そして、このデ―タベースには、 氏名、住所、年齢、性別、人種、家族構成、収入、投票暦という基本情報があるのはもちろん、買い物パターン、好物の食べ物、ワイン派かビール派などの飲酒の嗜好、所属ジム、日常生活で使われる歯磨き粉の種類に至るまでの選挙には直接関係がないような情報も含めて400種類もの個人情報からなっている。
このようにして作成された共和党系のデータベースは、「ボーター・ヴォールト(Voter Vault、有権者の金庫)」と呼ばれた。それは、潜在的な政治傾向における32のカテゴリーに分類された。また、そこに集計されたデータの有権者は、GPSを応用した政治マッピングによる技術や電子メールの情報の蓄積などによって、その居所も特定されるのである。
2004年大統領選挙時点で、共和党有権者と民主党有権者、インディペンデント(独立系)のほとんどをカバーしており、1億6800万人の有権者データとなっているといわれており、新規有権者を含むさらに多数のデータを追加し、進化させている。
このデータベースに基づいて、選挙区のエリアごとやより小さなセグメントごとにそれぞれの状況に応じた、最終的には選挙民一人ひとりに向けたアピールができるようにアレンジされた細かい選挙戦術や政策コミュケーションを実行していったのである。共和党は、このような手法をいち早く取り入れ、激しい選挙戦が展開される州をターゲットにして戦い、勝利を収めていったのである。
民主党は、このような手法とデータベースの構築で後れを取ったが、2004年選挙以降、「ボート・ビルダー(Vote Builder、得票構築)」(注6)と「カタリスト(Catalist、下・現場に向かうリスト)」という共和党のものと同様なデータベースが構築された。
ボート・ビルダーは、800項目からなる有権者のライフスタイルのさまざまな変数のデータで、全米の有権者登録者を対象とするデータベースである。それは、2006年の連邦上院議員選挙における民主党の躍進に貢献したといわれる。
「これらのデータベースの真の威力は、ターゲティングの効率化と適正な費用配分、未知の支持層を捕捉し効果的に接触するだけにとどまらない。むしろより重要なのは、このような戦略的な“空白地帯”にいち早く拠点を設け、人々をコミュニティーとして組織化し、人の輪を広げることによって草の根の参加と動員につながることである」(注7)
フォーカス・グループと世論調査専門家の活躍
1990年代になると、コンピューター技術などの発達も手伝い、迅速化したサンプル処理によって世論調査が加速度的に多様化かつ安価化すると共に、政治利用が容易になった。そのため、世論調査は選挙戦ばかりでなく当選後の政治家の政策形成過程や意思決定などの政治活動においても活用されるようになり、「ポールスター」と呼ばれる世論調査専門家が政治コンサルタントとして重要な位置を占めるようになった。
その象徴は、ビル・クリントン第42代大統領(1993年1月20日〜2001年1月20日)の時のスタンレー・グリーンバークである。同氏は、「クリントン専属の『ポールスター』として政策面でもかなりの程度影響力のある助言を行いつづけた」(注8)といわれる。
またこのように世論調査専門家が、政治コンサルタントとしてより重要になったのには、数量や統計的データに基づく定量的な調査(注9)だけではなく、フォーカス・グループなどの定性的なマーケティングの手法が重要視されるようになったからである。この手法は、特定のターゲットとなる層からなるグループとの対話を通じて、そのターゲット・グループの具体的な傾向や嗜好性を見つけ出すものである。グリーンバーグは、この手法を非常に重視したといわれる(注10)。
「アメリカの現代政治における『ポールスター』の役割は、数量的調査でも単に結果をグラフに表示するだけでなく、数値から読み取れる傾向を解釈し、トレンドの予測的見解を付記することにまで及ぶ。特定の政治家や候補者と専属契約を結んでいる専門家であれば、調査結果を踏まえての提言をメモランダム形式で伝え、必要に応じて口頭説明する機会も少なくない」(注11)
フォーカス・グループの場合は特に、参加者の表現や反応のような質的調査であるために、そこからターゲット層の共通項や傾向を見抜く専門家の力量が問われることになり、力のある専門家がより重要な役割を果たすようになり、まさに「政治コンサルタント」という専門職が誕生してきたのである。そして、そのような手法や専門家の誕生によって、米国における政治マーケティングや政治コミュニケーションも進化と深化を遂げてきているのである。
政治マーケティングとメディア
米国の選挙においては、これまでの5、60年は、特に政治マーケティング的な視点からみると、その中心がテレビであったと言っても過言ではない。
米国政治の専門家である渡辺将人は、それ以前にも変遷はあるが、選挙コミュニケーションにおける主な時期を次の3つに分けている(注12)。
【A期】「1980年代から1990年代までのテレビ黄金期」
この時期は、無料広告(ネットワーク中心のメディア報道)・有料広告(テレビ広告)が中心である。
【B期】中心メディアの移行期・転換期(テレビからネットへ)
この時期は、無料広告(ケーブルとネットワーク並列のメディア報道・メディアのネット報道)・有料広告(テレビ広告・ネット広告)・陣営サイト運営が中心である。この場合、報道の方が有料広告より、信憑性を高められる。
【C期】「2000年代・ネットによるコミュニケーション期(ピアツーピア型)」
この時期は、無料広告(ケーブル主導のメディア報道・ブロガーの台頭)・動画サイト・ソーシャルネットワーキングが中心である。
B期は、サーバー=クライアントの配給型モデルであり、陣営が比較的コントロールできた。
これに対して、C期は、コミュニケ―ション陣営が管理しない草の根の支援者同士がつながる「ピアツーピア」のコミュニケーションが重要になってきている。
つまり、B期からC期にかけて、コミュニケーションにおいて変化が起こっており、中心メディアが転換しているのである。この場合、厳密にいえば、選挙キャンペーン陣営がコントロールし、コントロールできるコミュニケーションの範疇に入れることができないようなことが起きているともいえる(注13)。
これをより具体的な事例にあてはめて説明すれば、2008年大統領選では、ヒラリー・クリントンは、「サーバー=クライアント型」のキャンペーンで足場を固めようとしたために敗北したのであり、他方オバマは、C期の「ピアツーピア」のネット利用に踏み込みこんで勝利した。いずれにしても、米国では、ディーンらの2008年の大統領選候補者が開始した「ピアツーピア」の利用が現在間違いなく主流になってきている。
オバマ大統領選とソーシャルメディア
次に、このような現状を、オバマの大統領選などを中心にみていこう。
「2008年大統領選挙で米国史上初の黒人大統領となったBarack Obamaのキャンペーンは、最新のマーケティングの手法と技術を駆使した先端的事例となった。…(中略)…特にインターネットを介した支持者のデータ収集とコミュニケーション網の構築、支持者の組織化、ソーシャルメディアと連携した組織の自己発展拡大のメカニズムなど、商業マーケティングの先を行く革新的試みが評価されたのである」(注14)
2008年には、オバマは、革新的なキャンペーンを行った。つまりキャンペーンサイトで支持者あるいはそれに準じる人々に個人情報を入力してもらい、支持者コミュニティーの組織化がされた。また、ソーシャルメディアであるフェイスブックを通じての仲間の拡大がされて、水平的なネットワークが形成され、さらにネットによる個人小口献金により巨額な資金の獲得に成功した。
これは、有権者の立場からすれば、日本の人気アイドルグループのAKB48ではないが、有権者が参加し、自分の時間とスキル、さらに資金を提供し、自分の代表を選ぶという参加型の選挙活動や政治活動である。まさに民主主義というフィクションをノンフィクション、現実につなげているといえる。
また、オバマが、同選挙でこの手法で成功したのは、彼自身の有しているバックグラウンドとイメージと、その手法の方向性が見事に一致しており、それが全米に熱狂をもたらしたことによる。つまり、先のレーガン大統領の時と同様に、オバマという絶好の素材の存在があったということも忘れてはならない。
2012年の大統領選においては、先の選挙のような盛り上がりには欠けたが、新しい次元での「データ科学」(注15)といわれているように、技術的にはさらに進化した。従来から発展していたピンポイントで訴求できるデータベースに基づくマイクロターゲットの手法と、近年急速に発展し広まっているソーシャルメディアを有効に結び付け、それにより、草の根の効果的に組織化・動員し、また個人ベースによる小口献金を集めるようにした。
具体的には、「NGP/VANという名称の新しいソフトウエアなのだが、Obama2008のオンラインキャンペーンに関わった二つの企業が合併し、それぞれがソフト開発していた二つの機能、すなわち草の根支援者の輪が自発的に拡大連結していくのを助ける機能と、最新の有権者データに基づくミクロ(マイクロ)ターゲティングの有権者コンタクトを可能にする機能とが、デジタルで統合したのがそれである」(注15)
このように、選挙キャンペーンは、ネットにおいてさえも、これまでの候補者のメッセージや情報の一方的な伝達から、双方向でかつ、消費者生成コンテンツ(CGC、Customer-generated contents)ともいうべき有権者など自身によって作成されたものが中心になってきているのである。
このような手法は、2008年にはオバマがリードしたが、2010年の中間選挙で、遅れていた共和党も急速に追いついてきているといわれており(注16)、現在は米国の政治全体で当然のようになってきている。
だが、ネットの活用ではやはりオバマが、次のようにいまだ勝っているようだ。
「オバマ大統領は前回の大統領選で7億4500万ドルを集め、今回も7月時点で約3億5000万ドルと約2億ドルのロムニー候補に水をあける。これはネット経由で200ドル未満の小口献金を募る作戦が奏功したためだ。メールやテキスト経由でも献金を可能にし、同時にボランティアや候補者を募る戦略だ。
メディア・広告戦略の流行は実業の世界と同様にネットだ。SNSニュースのレッドイットで国民とコミュニケーションをとるなど、オバマ大統領はネット広報活動ではロムニー候補に対して一日の長がある。足元では、ツイッターなどSNSにおけるオバマ大統領が取り上げられるシェアは62%と38%のロムニー候補に大きく水をあけている。」(注17)(注18)
政治マーケティングと人材育成
これまで大統領選を中心に政治におけるマーケティングやコミュニケーションについて論じてきた(注19)。米国では、これらが本格的に行われるようになってきており、さらに進化・普及してきている。また、こういった分野に巨額の資金が流れ、人材も育ってきている。つまり、政治マーケティング、政治コミュニケーションの業界ができあがっていると言える。
しかも、米国ではこういった「業界」で活躍する人材を育てる大学院まで存在する。これはワシントンにあるジョージワシントン大学にある政治マネジメント大学院スクール(the Graduate School of Political Management [GSPM])(注20)だ。
同大学院は、25年前、応用政治を専門とするニューヨーク州公認の独立大学院として創立され、1991年にジョージワシントン大学の学位プログラムとして正式に開講。数多くの卒業生を政治ビジネスの現場に送り出している。
実践的なカリキュラムが特徴で、教授陣も連邦政府機関、政党からビジネス分野まで、コミュニケーションのプロとして豊富な経験を持つ顔ぶれが並んでいる。
ここまで、米国における政治マーケティングや政治コミュニケーションのその展開と現状について多面的にみてきた。これらの分野は今後さらに広まっていくことが予想される。
また、それらは、手法やツールとしては有効であることもわかる。だがそれらが、有効に機能し、最高のパフォーマンスを生みだしていくためには、それらの手法と時代状況に即し、それらを生かしきれる政治リーダーの存在が重要だ。英国のブレア、米国のケネディ、レーガン、オバマなどは、その典型例だ。その意味で、手法に溺れず、リーダーになれる政治人材の発掘と育成も、政治のマーケティングやコミュニケーションにおいて、重要なテーマであり、課題である。
米国の政治も多くの課題を抱えており、問題も多い。だが他方で、その問題を解決し、政治の主導権や政権を奪うために、ありとあらゆるエネルギーと人材、そして資金を活用し、絶えず新たなる手法を開発し、それらを政治ビジネス、政治産業に発展させている。このように政治をそして社会を変えていくダイナミズムを持っている点は、日本の政治も学ぶべき面があるだろう。
民主主義は、「静かなる革命(戦争)」「未完の行進」「知の戦い」といわれる。それは、アイデアを持って、倦まず、絶ゆまず、諦めずに社会を変えていかない限り、民主主義は機能していかないことを意味している。米国の政治マーケティングの発展はそのことをわれわれに教えている。
【注釈】
(全体)本記事は、米国における政治マーケティングや政治コミュニケーションのすべてを網羅的に描いているわけではない。その分野の傾向や方向性を示すために、ホワイトハウスのメディア戦略や、近年のテレビを含むマスメディアの活用や対策、世論調査の活用(特にクリントン政権において)なども活発に行われているが、本記事では割愛した。
(注1)渡辺[2001]P88。
(注2)田中P45。
(注3)これらはすべて、渡辺[2008a]P279。
(注4)平林[2008b]P100。
(注5)これらは共に、渡辺[2008a]P282。
(注6)このボート・ビルダーに以前には、民主党に「データマート(Datamart)」という有権者ファイルと「デーマジーラ(Demzilla)」という献金者ファイルがあった。
(注7)平林[2008a]P91。
(注8)渡辺[2008a]P29 他方、そのようなグリーンバーグは、経済政策などでかなり踏み込んだ政策提言などもおこない、世論調査専門家の活動の許容範囲を超越しているとの反発も生まれたという(渡辺[2008a]P29参照)。
(注9)ベンチマーク調査やトラッキング調査などがある。前者は、ある設定したテーマに関して、自社(自党あるいは候補者の自身)現状と、競業他者や他業種の企業(政治的には、他候補者や他党を指す)などの状況を調査し、比較分析をする調査のことである。後者は、新製品の浸透状況(党の政策や候補者の有権者への浸透度)などを把握するために同一内容を一定期間に繰り返して実施する調査のことである。
(注10)「クリントン政権発足当初は月に6回もの異なるフォーカスグループを実施し、クリントンへの提言を継続的に行った」(渡辺[2008a]P30)
(注11)渡辺[2008a]P30〜P31
(注12)渡辺[2008b]P83〜
(注13) ただし、「ピアツーピア」のコミュニケーションとしては、次のような欠点があげられる。
(1)コントロール不能
・選挙陣営がコントロールすることができない。これは(2)(3)との関係。
(2)誤解の拡散の可能性
・末端のグラスルーツの勧誘を基本としているので、素人によるとんでもない政策上の誤解を与えたり事実誤認に基づく発言が野放しにったりすなる危険性がある。
(3)候補者に不利な情報の拡散の危険性
・誹謗中傷、好意的でない動画の流布の可能性がある。
・候補者を囲い込み中傷するネットワーキング形成も容易である。
・反動として候補者への失望が生まれる「負のサイクル」も覚悟する必要がある。
(注14)平林[2011]P231。
(注15)これらは共に、平林[2011]P246。
(注16)「Romneyの選挙組織はトップダウン型で、無数の規則によって秩序管理された組織であることはよく知られている。Romneyの場合もObamaと同じように、デジタルハイテクとオンラインの選挙技術を駆使する。……デジタルメディアミックス戦略を展開する。Obamaのハイテク戦略との違いは、Obamaの場合、組織化と動員が主な目的であるのに対して、Romneyの場合は、精密なターゲッティング基づくメッセージ伝達が主目的になっていることである。……」平林[2011]P249。
(注17)松浦P2。
(注18)SNSやツイッターでは、一般的なマスメディアとは異なり、一般の人々が情報のやり取りをしているため、世論の生の反応を得られるというメリットもある。またツイッターは、2008年の選挙でも、オバマも十分に活用したとはいえないが、2010年のハイチ地震でオバマ自身が実際に活用した。また2010年の中間選挙では、共和党も含めてツイッターなどのソーシャルメディアの積極利用が進んだといわれる(前嶋P32参照)。
(注19)米国におけるこれらの潮流と連動し、ホワイトハウスでも同様に積極的な対応がされている。本記事では、その点に関して論じないし、また大統領により組織体制が異なるが、近年ではホワイトハウスには、「報道官室」と「コミュニケーション室」などが設けられ、いわゆる記者会見を通じた情報伝達を超えて、さまざまな対応がされている。
(注20)米国でも、この分野に特化した大学院は、ジョージワシントン大学のみに存在する。
【参考文献】
〔和文書籍〕
ラハフ・ハーフーシュ[2010]『「オバマ」のつくり方』阪急コミュニケーションズ
横江公美[2001]『Eポリティックス』文春新書
渡辺将人[2008a]『現代アメリカ選挙の集票過程…アウトリーチ戦略と政治意識の変容』日本評論社
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渡辺将人[2001]『アメリカ政治の現場から』文藝新書
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平林紀子[2006] 「米国の政治マーケティング史 2006年中間選挙の事例研究(企画書)」(プロジェクト代表者)
前嶋和弘[2010] 「ソーシャルメディアが変える選挙 アメリカの事例から」ADSTUDIES Vol.34
松浦肇[2012]「【日曜経済講座】『マーケィング』と同義の米大統領選 企業戦略に倣う両陣営」産経ニュース(オンライン) 2012年9月23日
〔英文論文等〕
Davies Philip Johnら編著 “Winning Elections with Politucal Marketing” the Haworth Press 2006年
Lees-Marshment Jenniferら編著 “Global Political Marketing” Routledge Research in Political Communication 2010年
Newman Bruce I. “the Marketing of the President” Sage 1994年
鈴木 崇弘(すずき・たかひろ)
城西国際大学大学院国際アドミニストレーション客員教授。東京大学法学部卒業。マラヤ大学、イースト・ウエスト・センターやハワイ大学大学院等に留学。東京財団研究事業部長、大阪大学特任教授、「シンクタンク2005・日本」事務局長などを経て現職。中央大学大学院客員教授、法政大学大学院政治学専攻兼任講師。著書に『日本に「民主主義」を起業する…自伝的シンクタンク論』『シチズン・リテラシー』『社会を変える教育 Citizenship Education: 英国のシティズンシップ教育とクリック・レポートから』ほか。
政治とマーケティング
世論に大きく左右される日本の政治。一方で、国民全般の思いや要求が政策に反映されているとは言えない。この日本の政治に欠けているのはマーケティングだ。海外では政治にマーケティングの手法を取り入れ、国民とのコミュニケーションをはかろうという動きが一般的だという。大衆迎合でない、本当の意味で民意を反映した政策を実現させるための「政治マーケティング」の手法と可能性を海外の事例を基に探る。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20121122/239876/?ST=print
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