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2012.11.22[マクロ経済]
農村や農家の人口が減ることは悪いことなのか?
WEBRONZA に掲載(2012年11月3日付)
研究主幹
山下 一仁
[研究分野]
農業政策
伊藤元重・東大経済学部教授が、「農村部から人口が流出することが、農業を活性化する」という趣旨の論文を書いたことが、与野党の農林族議員から反発を受けていると、JA農協の機関紙である日本農業新聞が報じている(10月18日)。
伊藤教授の論文の要旨を簡単にまとめると、@地域からコスト面で競争できなくなった工場が退出すると、兼業先がなくなった兼業農家は減少する、A兼業農家が農業をやめるので、農地は専業農家に集まり、規模が拡大して、農業が活性化する、というものである。
伊藤教授が、「TPP交渉への早期参加を求める国民会議」代表世話人であることも、農林族議員の反感を買ったようだ。それでなくても、農村から人がいなくなり、国会での議席が農村部からなくなることは、農林族議員の死活問題である。「選挙で落ちればタダの人」どころか、選挙の前提となる議席すら失うことになるからである。
JA農協にとっても、深刻である。農家戸数が減少することは、農協の組織基盤を揺るがすからである。
農協は農業者を正組合員とする職能組合である。しかし、農家ではなく地域の住民であれば誰でも組合員となれ、意思決定には参加できないが組合の事業を利用できる「准組合員」がいる。他の協同組合にはない農協独自の制度である。准組合員数は年々拡大して、2010年6月では組合員957万人中、正組合員477万人に対して准組合員は480万人と、とうとう正准が逆転した。
正組合員のかなりも、実体は脱農化して土地持ち非農家となっている。1960年から農協の正組合員数は約600万から約500万へと2割減少しただけである。しかし、この間農業就業人口は1,454万人から251万人(2012年)まで8割も減少、農家戸数は606万戸から253万戸へと6割も減少している。
1960年当時農協の正組合員と農家戸数が一致していたことからすれば、正組合員のうち少なくとも100万から200万人程度は農村にはいるものの、農業を営んでいるとはいえない人たちだろう。彼らは農協法の農民であるという正組合員要件を満たしていない可能性が高いが、これらの人も農村から出て行ってしまえば、准組合員でもなくなってしまう。日本農業新聞が伊藤教授の論文を取り上げたのは、このような背景があるのではないだろうか。
これまで高米価政策によってコメの兼業農家が滞留したことは、農協組合員数の維持につながったことは事実である。野菜など他の農業のように、零細な兼業農家が農業から退出し少数の主業農家主体の水田農業となってしまえば、水田はもはや票田としての機能を果たすことができなくなる。
農協にとって、米価引き上げによる兼業農家温存は政治力を確保することにもつながった。週末しか農業をしない兼業農家にとっても、資材の供給から農産物販売まで何でも面倒をみてくれる農協は便利な存在だった。農協と兼業農家は密接な関係にある。
しかし、これは主業農家の規模拡大を阻み、稲作農業のコストダウンによる収益の向上を困難なものにした。兼業農家が農業を支えているというが、兼業農家の農作業の多くを主業農家が手伝っているのが実態である。
主業農家に農地が集積し、収益が向上すれば、地主である元兼業農家も地代収入の増加というメリットを受ける。家賃で大家がアパートの維持修繕を行うように、地代収入は、地主が農地、水路、農道などの維持管理を行うことへの対価である。地主が農村からいなくなっても、人に頼んでこれを行うことは、地主の責任である。
収益がゼロまたはマイナスの農家がたくさんいるよりも、農地を少数の主業農家に集積して収益を上げる方が、地主を含めた農村全体の利益になる。既に2005年から5年間で兼業農家数は21%も減少し、主業農家への農地集積は進展している。
農家人口が減少することは、コメなどの土地利用型農業にとって必要なのである。1961年農業基本法を作った東畑精一(シュンペーターの高弟)と小倉武一(16年にわたり政府税制調査会会長)は、似非農本主義を次のように批判する。
東畑精一の「営農に依存して生計をたてる人々の数を相対的に減少して日本の農村問題の経済的解決法がある。政治家の心の中に執拗に存在する農本主義の存在こそが農業をして経済的に国の本となしえない理由である」という主張に、小倉武一は「農本主義は今でも活きている。農民層は、国の本とかいうよりも、農協系統組織の存立の基盤であり、農村議員の選出基盤であるからである」と加えている。
これは、日本民族学の父であり農商務省に入省した柳田國男以来、東畑らの農業基本法策定までの農政本流の思想でもあった。柳田は、日本が零細農業構造により世界の農業から立ち遅れてしまうことを懸念し、農業構造の改善のためには農村から都市へ労働力が流出するのを規制すべきではなく、農家戸数の減少により農業の規模拡大を図るべきであると論じた。平均的な農家規模が0.3〜0.4haの時代に、海外農業と競争できるよう構造改革を行い企業として経営できるだけの規模をもつ2ha以上の農業者を養成すべきであると主張したのである。
柳田は「日本は農国なりとは農業の繁栄する国という意味ならしめよ。困窮する過小農の充満する国といふ意味ならしむるなかれ。」と言う。東畑精一が指摘したように、「真実の生産性を荷っているもの」こそ真に擁護されるべきものであるという主張が、柳田の農政論の中心にある。
伊藤教授は、間違っていない。
2012.11.16[マクロ経済]
供給増加(豊作)なのに価格が上がる不思議なコメの経済学
WEBRONZA に掲載(2012年11月2日付)
研究主幹
山下 一仁
[研究分野]
農業政策
数日前、自らも大規模に稲作を経営し、かつグループの農家から年間5万俵のコメを集荷し、販売している企業的な農家の人が、私にこう言った。「コメというのは不思議な作物ですね。豊作なのに、価格がどんどん上がるのですから。」
農林水産省が10月30日公表した平成24年産の作況指数(平年=100)は「やや良」の102だった。これは20年産以来4年ぶりの豊作である。他方、同日農林水産省が公表した24年産米の集荷業者(JA農協)と卸売業者の相対取引価格(米価である)は、9月の平均で60キログラム当たり1万6650円である。震災の影響で高値となった前年産をさらに上回り、前年同月に比べ10%上昇した。供給が増えているのに、価格が上がっているのである。
コメが他の作物や品物と違うわけがない。供給が増えれば価格が下がるし、供給が減れば価格は上がる。これまでも豊作の時は価格が低下し、不作のときには価格が高騰している。例えば、平年作に比べ10%の生産減となった15年産については、米価は前年比30%増加の2万2千円(60キログラム当たり)となっている。
モノの価格が、需要と供給の道理から離れた動きをする場合には、裏に何らかの人為的なものが働いているはずである。前述の農家によると、カラクリはこうである。21年産米の価格が低下したので、農協はいったん農家に仮払いした金(仮渡し金)の一部を取り戻した。これは農家の不興を買った。これに加え、震災後農家がコメをなかなか手放さなかったこともあり、23年産米の全農(JA農協の全国連合会)の集荷量は大幅に落ち込んでしまった。
取引先にコメを販売できなくなった全農が、24年産米については、通常年より2千円(15%)高い仮渡し金を傘下の農協に提示して、コメの集荷を強化しているからだという。10月30日の米価公表の際、農林水産省も、米価が上がったのは、農協が仮渡し金を上げて、これを米価(卸売業者との相対取引価格)に転嫁しているからだという説明をしたと報じられている。
しかし、それにしても何か変である。震災の影響による23年産米の価格上昇は別にして、米価は国内消費の減少を反映して傾向的に下がっている。13年産米と比べると、22年産米は25%も低下している。いずれ米価は下がるはずである。先の農家も同じ見方をしている。そうすると、高い価格で集荷した農協は大きな損失を被ることになる。商売に聡い全農がそんなことも考えずにやみくもに集荷しているとは、到底考えられない。もう一つのカラクリが隠されているはずである。
コメも他の品物とおなじく需要と供給で価格が決まると述べた。しかし、コメが他の作物や品物と大きく異なる点がある。それは、農政が深くかかわる政治物資であるという点である。
現在のコメ農政の基本は戸別所得補償政策である。これは、農家への保証価格1万4千円と、市場価格(米価)から農協の手数料を差し引いた農家手取り価格(想定しているのは1万2千円)との差を、財政により農家に支払おうとするものである。
1万4千円と1万2千円の差の2千円に単位面積当たりの収量を乗じた10アールあたり1万5千円は、米価のいかんにかかわらず交付される。例えば、農家手取り価格が2万円になっても、これは交付される。したがって、農家にとれば、米価が上がれば上がるほど得をする仕組みである。これに2,000億円の予算が用意されている。
1万2千円より米価が下がれば、どうなるのか。それより下がった分も農家に交付される。これに1,400億円の予算が用意されている。つまり、いずれかの時点で米価が低落しても、農協は農家に支払った仮渡し金の一部を取り戻せばよい。
それは、戸別所得補償政策によって農家に支払われることになるから、負担するのは、納税者、財政で、農家も農協も懐は痛まない。戸別所得補償政策が導入されたのは22年産米からである。戸別所得補償政策がなかった21年産米では、仮渡し金の取り戻しは農家の不興を買ったが、今では問題がない。
つまり、農協は、戸別所得補償政策を前提として、高い仮渡し金による集荷力の強化を行っているのだろう。米価上昇に隠されたカラクリは戸別所得補償政策なのである。
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2012.11.22[マクロ経済]
「約束の限界」認識を
日本経済新聞 「経済教室」2012年11月19日掲載
研究主幹
小林 慶一郎
[研究分野]
マクロ経済
最近の世界の金融危機、政府債務危機、高齢化に伴う財政問題に共通する要因は、政府や銀行などの「コミットメント(約束)能力の欠如」が露呈し、コンフィデンス(信任)が崩壊した、ということであろう。債務者が民間でも政府でも返済の約束が実行されない可能性がある、という当然の事実が改めて意識され、取引相手を信じ任せる、という通念は崩壊した。
コミットメントの欠如は、以前から様々な経済問題の要因として経済学的分析の対象だった。代表例はゲーム理論の「囚人のジレンマ」である。取り調べにあった2人の囚人が「互いに協力して黙秘」か「相手を裏切り自白」かを、それぞれ独立に選ぶ。図では、相手がどちらを選ぼうと自分は裏切りを選ぶ方が得だから、結局、2人とも裏切りを選び、5の利得を得る。しかし事前に「協力」を約束し、それを守る能力があれば、2人とも利得10というより良い状態が実現するだろう。・・・
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日本経済新聞「経済教室」2012年11月19日掲載記事PDF:160.1 KB
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2012.11.21[役員室から]
打ち出の小槌はない
理事長
福井 俊彦
● インフレターゲットや国債の日銀引き受けなど、政府と日銀との関係について新聞紙面でいろいろな記事が目に着くようになった。私は、政治的な議論に直接関与する立場にはないが、通貨に対する信認、それと裏腹の関係にある国家に対する信認に絡む問題であるだけに、人々の間で真剣な議論がなされ、十分慎重に検討が進められることを願っている。
● 歴史的に振り返ってみると、自給自足、物々交換の時代を経て、人類の生活の知恵として通貨が生み出された。そして、通貨が人々から信用される基礎も、当初の素材価値(貴金属その他)から、発行者に対する信頼度へと次第に移行して来ている。その究極の姿が現在の金兌換保証なき紙幣(一片の紙切れ)である。
● この紙切れが人々から信用されるためには幾つもの条件を満たす必要があるが、その中で最も重要な条件は何かと問われれば、第一に、通貨の総量が経済の実態に即して適切に調節されていること、第二に、通貨発行主体の財務が健全であること、の二点を挙げることが出来るように思う。
● このように通貨は歴史の流れの中で自然に生み出されたものであるので、初めから通貨は誰が発行すべきか、と言ったような厳密な議論があったわけではない。
しかし、近代国家の成立が相次ぐ時代になって、一国において通貨を発行する権限を根源的に持っているのは誰か、それは国、即ち政府をおいて他にない、との考え方が一般的となり、政府の持つこの権限は「通貨高権」と呼ばれるようになった。しかし、政府が自国の貨幣や紙幣を全て発行してうまく行った実例がどれ程あったであろうか。現在も、政府の発行する通貨は額面の小さい補助貨幣に限られているのが通例である。
人々の信認は、通常は民間部門の主体に対するよりも政府に対する方が厚いとされているが、それでも税金を徴収せずに通貨発行で財政支出が賄えるとなると、政府と言えども規律を忘れがちとなり、政府の発行する通貨が人々から信用されなくなってしまう心配が付き纏う。
● むしろ過去には、政府以外のいろいろな主体が通貨を発行した事例が少なくない。とくに民間の銀行が政府から権限を授与されて紙幣を発行した経験は多くの国が共有している。
民間銀行は、預金者からの信用を基礎に成り立っているので、紙幣の発行を行なう場合には信用度の高い資産を見合いとしなければならない。預金者の監視の下で相応に規律が効いているわけである。それでも民間銀行は営利主体であり、商売上の利益追求をつい優先して規律を失う結果に陥ったケースも見られる。
そして、複数の銀行が紙幣を発行する場合、通貨総量調節の役割を何処に託すか、これもなかなか難しい問題である。
● 以上のような経緯を経て、人々は中央銀行という新しい仕組みを見出すに到った。世界で最初に設立された中央銀行はスウェーデンのRiks Bank(1668年)であり、次いで古いのは英国のBank of England (1694年)である。日本においては明治維新直後から準備が進められ、1882年(明治15年)に日本銀行が創設された。
中央銀行は、財政を司る政府でもなく、営利を追求する民間銀行でもない。このような中央銀行に紙幣(銀行券)を発行する権限と通貨全体を調節する権限を独占的に与えておけば、財政上の必要からも、営利追求上の必要からも離れ、規律ある通貨制度を確立することが出来ると考えられたわけである。
とは言え、中央銀行の場合も、その発行する銀行券は資産勘定に立つのでなく、民間銀行の場合と同じく負債勘定に計上される。中央銀行券は、人々にとっては資産であるが、当該中央銀行にとっては借金証文である。
従って、中央銀行も資産の健全性を保つことなく銀行券を無暗に発行することは許されないし、たとえどのような方向から強い要請があろうとも、経済実勢との対比で適正な範囲を超えて通貨供給を増やすことも許されない。
● それでも、国債は最も信用のおける金融資産と考えられており、今のようにデフレが長く続いている状況の下では、国債ならば中央銀行が無制限に買い入れて金融緩和を図っても大丈夫だ、と考える人が出て来ている。
しかし、国債が人々から信用されるかどうかは、偏にその国債を発行している政府が規律正しく財政運営をしているかどうか、にかかっている。最近の欧州の状況を見るとこのことが非常によく分かる。
また、政府が中央銀行に対して限りなく国債の買い入れを求めたり、中央銀行の国債買い入れを当てにして財政の箍を緩めたりすると、そのこと自体が国債の信認を大きく傷つけることとなってしまう。買入国債が赤字国債でなく、建設国債であっても、公共投資対象物件の耐用年数に応じて償還しなければならないことを考えると、この間に非常に大きな差があるとは言い難い。
そして何よりも、中央銀行自身が自律性を欠いていると人々が認識した途端、通貨に対する信認は一挙に崩壊することとなろう。
● 更に進んで、政府が中央銀行に対して国債の直接引き受けを求めると、どういうことになるか。
中央銀行が国債を市場から買い入れる場合には、その国債は一旦市場で発行されているので、その限りでは一応市場の篩にかかっている。しかし、中央銀行引き受けで発行される場合には、市場外の発行となるため市場の評価とは無関係に発行される。その行き着くところ、もし中央銀行が政府の申し出通りに国債を引き受けなければならないとすると、それは政府自身による通貨の発行と実質的には同じこととなり、財政規律が最も失われ易いケースとなってしまう。そして中央銀行は、自律性はおろか存在価値そのものに疑念を抱かせることとなろう。
● こうした危険を回避し、健全で持続的な金融・経済の発展を強固に支えるため、先進国においては国債の中央銀行引き受けを禁止するとともに、中央銀行の政府からの独立性を保証して、財政政策と金融政策の明確な分離を確立している。
日本においては、「財政法」(昭和22年法34)の規定が日銀による国債引き受けを禁止しており、また「日本銀行法」(平成9年法102)が日銀の独立性を明確に規定している。この二つの法律が、日本の通貨制度を近代的なものとし、通貨政策の健全性を担保している、ということが出来る。
● 日本経済がいくら厳しい局面に立たされていると言っても、苦闘を避けて安易な道を選び、政府による日本銀行への干渉を正当化したり、国債の日銀引き受けへの道を開くとすれば、それは、先進国の地位を自ら放棄するのみならず、公的部門の累積債務が異常に膨らんでいる日本の実情を踏まえて考えると、これらの施策は、狙い通りインフレ期待を呼び起こして景気刺激の効果を生む前に、投資家離れと市場金利の上昇を呼び起こし、財政破綻、経済破綻の危険を手許へ引き寄せる結果となる可能性の方が大きいものと推察される。
日銀の金融緩和政策が経済実態に照らして十分かどうか、政府の経済政策と整合性が取れているかどうか、これらは今後とも徹底的に議論されて然るべき課題であるが、功を焦って一線を飛び越えると、日本再興のために様々な苦労と負担をしなければならないと覚悟している人々の心情を裏切り、未来への夢や国益の全てを一挙に淵に放擲することとなってしまう。
● 「打ち出の小槌はない!」、もって瞑すべしである。
福井 俊彦 その他のコラム
2012.11.21打ち出の小槌はない
2012.08.222012年7月10日、理事長 福井俊彦 PAC研究会における講演録
2012.08.07ソヴリンリスク
http://www.canon-igs.org/management/toshihiko_fukui/20121121_1663.html
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