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まずは下の棒グラフをご覧ください。青い棒で表されているのは、各年度の大企業が支払った株主配当金の総額の推移です。(2000年を100とした相対値です。)
これを見ると、2000年頃を1つの区切りとして、これ以降急激に配当金が膨れ上がっていることがわかります。この変化の背後には、何があったのでしょうか。
一昔前になりますが、「企業は誰のものか」という問いかけが盛んになされたことがありましたね。この問いかけには、「企業は従業員のものでもある」という日本的な考え方に対する批判が込められていたことも、記憶にある方が多いかと思います。
要するに、「株主の出資によって企業ができている以上、企業の所有者は株主であるのは当然であり、経営者は株主の利益を最大限にするように行動をするのは当然である」…こういう考え方こそ正しいとされたわけです。
この立場に立てば、企業は株主の利益ができる限り大きくなるように行動するのが当然であり、従業員に支払う給与にしてもできる限り小さくする方がよいということになるはずです。以下のグラフはサラリーマンの平均年収の推移を表したものです。
このグラフを見ると、
企業感が変化したのに伴って、株主への配当金が激増するのとまさに反比例するように、サラリーマンの給料がどんどんと下がっていったわけです。そして、勤労者の所得がどんどんと減っていく環境にあっては、需要減退によるデフレ圧力が強まっていったのは、ある意味当然のことだったともいえるかと思います。
では、こうした「企業は株主のもの」という企業観はどうして広がっていったのでしょうか。以下のグラフをご覧ください。日本の上場企業のセクターごとの持ち株比率の推移を表しています。
外国人株主の比率の上昇によって、当然外国人株主の発言権が強まることになります。そして彼らは自己の利益を最大化させるように、株主への配当金を引き上げることを求めてきたのです。その圧力に屈したのか、あるいはその理屈を正当なものだと認めたのかはわかりませんが、いずれにせよ、外国人株主の要求に従う決定を日本の企業は行っていったわけです。
さて、形式論理的には、企業は株主のものであるというのは、疑いようもなく正しいといえるかもしれません。しかしながら、日本には昔から「お互い様」という考えがあり、形式論理に基づいて導き出される権利や自由を絶対視することに対して、直感的におかしいと感じる感覚がありました。
実際、人間も企業も社会の中に埋め込まれた存在であり、社会を離れて存立するものでは断じてありません。従ってこうした見地から企業を捉えれば、企業は社会的な存在であるともいえます。そして企業は社員が集まることで成り立っており、社員もまた企業の構成員として認められるべきものです。
こうした見地に立てば、企業は社員のものでもあります。つまり企業は、株主のものでもあるだろうけれども、社会のものでもあり、取引先のものでもあり、従業員のものでもあり、顧客のものでもあるという考え方も成り立つはずです。そしてこのような見方が伝統的な日本的な見地でした。このような日本的な見地は、富が偏在化するのを防ぎ、均衡の取れた発展を実現するのに適しているともいえるものだったでしょう。
現代に生きる私たちが忘れかけているこのような日本的な美風は、むしろ健全な国家の成長に資するものでもあるのです。「これまでの古い日本を徹底的に解体すべきだ」という構造改革派の論調は、このような背景を見落とした議論ではないでしょうか。
今こそ、日本的美風を回復すべき時期ではないかと思わずにいられません。
http://hellow42.blog.fc2.com/blog-entry-139.html
特に注目していただきたいのが、1990年頃から上昇トレンドに入ってきた外国人の持ち株比率の推移(赤色)です。
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