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ますます“細かく消費される”コンテンツ
クイーンにツェッペリン、お金を払う「最後」の世代に「捧ぐ」
2012年11月20日(火) 田代 真人
先般、今月日本で公開される『クイーン ハンガリアン・ラプソディ:ライブ・イン・ブダペスト’86』を鑑賞する機会があった。これは、もはや伝説とも言える
イギリスのロック・バンド『クイーン』のライブ映像だ。詳細はこちらを見てほしいが、1991年に亡くなったフレディ・マーキュリーの最後のライブ映像とのこと
だ。
私自身高校生のとき、彼らの1979年の来日公演を観て“出待ち”し、ドラムスのロジャー・テイラーに手を振った場面を鮮明に覚えているので、非常
に感慨深い映像作品だった。
ファンにとっては感涙モノ。2012 Queen Productions Limited
コンテンツにお金を払う最後の世代とは
久しぶりに自分の青春を振り返ってみたのだが、こういう1980年代の映像が、いまだに売れるコンテンツということを考えると、40代後半から60代の
人たちは、まだノスタルジックな想いでコンテンツを消費できるのかもしれない。
先日、レッド・ツェッペリンも2007年の再結成の模様を収めたCDと映像『Celebration Day/祭典の日(奇跡のライヴ)』を発売した。ツェッペリンの
ファンもほぼクイーンのファンと同世代だろう。ブルーレイ・バージョンのデラックス版からCDのみまでの多彩なラインナップが、何とか販売増につなげたいレ
コード会社の想いを物語っている。
自身の青春を振り返るべく、昔のコンテンツは歳を取るからこそ楽しめるモノなのだろう。人間には過去を振り返り、昔消費したコンテンツを懐かしみ、
改めて消費する余裕があるようだ。現に、最近の新聞を見ると、それこそ60代から70代の方々が観たくなるような昭和の映画のDVDや歌謡曲のCD
の通販広告だらけである。
業者としては、この世代がコンテンツにお金を払ってくれる最後の世代だという認識もあるのだろう。毎日“これでもか"というほどに宣伝されている。
こういう状況を見るに付け、隔世の感を感じずにはいられない。というのも現在では、ほとんどのコンテンツは、ほぼYouTube(ユーチューブ)かその他の
動画サイトで観ることができる。音楽であれば連続再生でBGMにもなる。ライブ映像もブートレッグがいくつもアップロードされている。
しかしこれらコンテンツは、普通いくらHD画質であっても、しょせん家で観賞するときは最大でもテレビの大きさくらいだろう。ユーチューブの映像を映画
館で観ることはないだろうし、300インチ超えのスクリーンでは観るに耐えられない。
しかし、今回の『クイーン ハンガリアン・ラプソディ:ライブ・イン・ブダペスト’86』は劇場の大型スクリーンで公開し、ツェッペリンの『Celebration Day/
祭典の日(奇跡のライヴ)』は、映像も音声も劇場公開に耐えうるほどクリアで高品質だ。
これら高画質・高音質の作品を大画面で観ることの価値をユーチューブ世代のどれだけの方がわかってくれるだろうか。お金を払う必要があるので、そ
こまでしてまで観る必要はないという人々が増えていくだろうし、お金を払うにしても、すでにレンタルして家で観ればいいという価値観は当たり前にもな
っている。
パッケージ文化の終焉
幼少のころからユーチューブに慣れてしまう世代が徐々に増えていく。そしてだいたいのコンテンツは無料だ。検索すればテレビドラマも映画でも無料で
観られる環境が整っているので、お金を出してまで良質のコンテンツを味わおうとは思わない。
戦後、いつのころからか食もそうなってきた。天然素材から出汁をとった椀ものではなくインスタントだ。手軽で安く味わえる。そしてそれがあたりまえに
なり、本物を知らないまま大人になっていく。そして彼らの子どもも当然本物を知らずして成長していく。ただ食は無料にはならないからまだ救いがある
。
翻って音楽や映像は次第に無料が常識になってきた。であれば、創り手はどうやって生活していけばよいのか。質にこだわったところで、多くのユーチュ
ーブ世代はお金を払ってはくれない。
それは、CD生産金額の昨今の衰退ぶりをみてもわかるだろう。
CD生産金額。日本のレコード産業 2012年版より。2012 一般社団法人日本レコード協会
もちろん、大画面で観るのが本物でパソコンで観るのが偽物だとは言わない。ライブだけが本物ではないことはすでにビートルズが証明している。彼ら
は、新作の発表ごとに音楽性を極め、ついにはライブ演奏を止めてしまう。そして発表した『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』はラ
イブでは再現できない域に達し、名作としてアメリカの音楽雑誌『ローリング・ストーン』において“すべての時期を通じて最高のアルバム"という称号を与
えられている。
しかし、これはパッケージ文化が生き残っていた時代の遺物でもある。曲ごとにダウンロードして聴くのがあたりまえとなった現在、1つのアルバムでミュー
ジシャンの世界観を表現する作品も少なくなったし、それを要望するリスナーもいない。
これがなにを意味するのだろうか?
名曲を生み出すシステム
私が雑誌の編集をやっていたころ音楽欄の担当だったということもあり、国内外のさまざまのアーティストにインタビューしていた。そしてインタビューを重
ねていった結果、ほとんどのミュージシャンの共通する目標が見えてきた。
それは「永遠に残る名曲を1曲でいいから作りたい」というもの。言ってみれば、時代を超えて聴き継がれる曲であり教科書に載るようなスタンダード・
ナンバーだ。『レット・イット・ビー』や『イマジン』、邦楽で言えば『この広い野原いっぱい』や、最近だと『世界だけで一つの花』になろうか。
しかし、みんながそれを目指し、その1曲ができた時点で、燃え尽きてバンドも解散に追い込まれるといったこともあるという。イーグルスの『ホテル・カリフ
ォルニア』しかり、ポリスの『見つめていたい(Every Breath you take)』しかり。うろ覚えで申し訳ないが、以前なにかの雑誌に掲載されていた元ポリ
スのスティングのインタビューで、彼は「この曲が完成したとき、ポリスはこれで終わると思った」と述懐していた。それほどに名曲はたった1曲で世間にも、
ミュージシャン自身にも大きな影響を及ぼす。
そして現在、パッケージメディアが衰退している。十数曲制作してパッケージとして販売しないとビジネスにならなかったいままでの音楽ビジネスモデルが
崩壊しかかっているということだ。逆に、これは数曲準備しなくてもリリースできるという状況だとも言える。
実際、最近では、CDアルバムよりもCDシングルのほうがニーズが高い。
CDシングル生産金額。日本のレコード産業 2012年版より。2012 一般社団法人日本レコード協会
CDアルバム生産金額。日本のレコード産業 2012年版より。2012 一般社団法人日本レコード協会
しかも現在のリリースは、なにもレコード会社を通さなければできないわけではない。ユーチューブであれ、ニコニコ動画であれ、まずはビジネスを抜きに
して人々の耳目を集めてしまえば、あとはどうにでもなるのである。
ミュージシャンの夢が、聴き継がれるスタンダード・ナンバーの創出であれば、それはなにもフルアルバムというパッケージメディアが必要なわけではない。“
一発屋"であっても、それが永遠と時代を超えて聴き継がれる可能性はなきにしもあらずなのだ。
であれば、アーティスト予備軍は、まずは最初の“一発"を目指して、曲を作り、リリースすればいい。
しかも、いまは曲を連続して量産する必要もない。過去の音楽ビジネスモデルでは、レコード会社との契約上、ある期間までにパッケージとして、新作
を発表しなければならなかった。そのため、ときに数を揃えるためにベスト盤を発表するということも多々あった。
しかし、曲ごとにダウンロードして聴くいまのカタチではベスト盤は用をなさない。ベスト盤はユーザーが創っているのだ。しかも自分の好きな曲だけが入
っている自分仕様の究極のベスト盤である。またそれは一人のアーティストのものに限定するものでもない。
アーティストにとっては1曲の名曲があればユーザーのベスト盤にも自分の曲が入る可能性がある。そして多くの人にその1曲が聴かれ継がれれば本望
なのだ。
そして、多くの人に聴かれれば、それはいわゆる“メジャー・デビュー"になる。いままではメジャーレーベルから発表することをメジャー・デビューと言ったが、
この世の中、メジャーになったもの勝ち。本当の意味でメジャー・デビューができる。
ユーチューブでの1作品公開が世界でのメジャーデビューに!
鉄拳というお笑い芸人(少なくとも私はそう思っていた)が、制作したパラパラ漫画『振り子』を知っているだろうか。彼が今年3月に深夜番組で公開し
て、すぐにそれがユーチューブに転載され、1週間で300万回再生されたという話題作だ。
この作品のBGMにはイギリスのロックバンドMUSE(ミューズ)の『EXOGENESIS : SYMPHONY PART III (REDEMPTION) / エクソジェネシス(脱
出創世記):交響曲第3部(あがない)』という曲が使われている。
この曲は鉄拳が自ら選んだそうだが、ユーチューブでの話題はそのまま海外にまで飛び、ついにはMUSE本人たちの耳にも届くことになった。彼らは『振
り子』を観て、その完成度の高さ、ストーリーに感銘を受け、とうとう『振り子』が公式ビデオクリップとして10月31日に全世界で公開されることになったの
だ。
この間、たった半年ほど。いまや鉄拳のほかの作品にも注目が集まり、世界中の人を感動させているという。正直な話、私も彼のことをあまりおもしろ
くないお笑い芸人の一人としかみなしていなかった。しかし、この作品の創造性に目を見張り、大いに感動して考えを新たにした。
今後、彼は世界初のパラパラ漫画アーティストとして食べていけるのではなかろうか。すでにポップグループRAM WIRE(ラムワイヤー)の『名もない毎
日』やシンガーソングライター馬場俊英の『弱い虫』のミュージック・ビデオで鉄拳の描き下ろし作品が起用されている。
コンテンツはバラ売りの時代
最近のコンテンツの世界はパッケージ販売ではなくバラ売りの世界だ。そしてバラ売りの世界だからこそ、気軽に作品を発表できる。これは、忙しい現
代社会が細切れの時間を消費していることも一因だ。1時間を通してアルバムすべてを聴くよりも1曲ごとに聴いたほうが都合がいい。2時間かけて映
画を観るよりも手軽にユーチューブで鉄拳のパラパラ漫画を観たほうが感動できるのである。
また、バラ売りだからこそ、新旧作品を混在して鑑賞することができる。実際、iTunesのアカウントを共有している高校生の娘のiPodには私が購入
したジャーニーの曲が入っていて、同時にニッキー・ミナージュの曲も入っている。そして、それはそれで新しい曲との出合いとして娘は音楽を楽しんでいる
のだ。
そう考えると電子書籍もそろそろバラ売りの概念を考えてもいいと思う。すべての電子書籍が紙の書籍の200ページ分ある必要はない。むしろ100ペ
ージほどが読みやすい分量とも言える。
以前も紹介したが、米アマゾンではKindle Singlesと呼ばれる短編書籍の専用コーナーが作られている。日本ではまだ始まっていないが、キンドル
書籍の市場が盛り上がれば、自然とできてくるだろう。それほどに短いコンテンツは現代のコンテンツニーズに合うと思う。
コンテンツがバラ売りになれば、実は映像や音質の良さはあまり気にならない要素になっていく。映画は大画面で観たいが、鉄拳のパラパラ漫画は、
ユーチューブサイズで問題ない。クイーンのフルコンサートの映像は大画面で見たくても、ミュージック・ビデオ1曲分はパソコンで十分なのだ。
コンテンツの消費時間が短くなればなるほど、画面は小さくてもよく、また、音質はイヤホンで聴ける程度でよくなっていく。
あるアーティストの逸話。息子と息子の友人とクルマで移動していたときのこと。クルマを運転しながら、ラジオからいい曲が流れてきたので、「この曲良
い感じだよな」と声を掛けたら、みんなの反応がなかったので、ふと横を見ると、息子はイヤホンをして自分のiPodで音楽を聴き、後ろの息子の友達も
、また自分のiPodで音楽を聴いていた、という(笑)。
これほど手軽に個々人が消費できるコンテンツの時代をだれが予想したであろう。作るほうも消費するほうも手軽な時代。だからこそ、感性を磨き、
独自のコンテンツを創出することがますます求められてくるのだ。とはいえ、鉄拳のパラパラ漫画は約1600枚におよぶ手書きの作品だ。結局は人間のア
ナログな感性で制作されたものこそが、人々の感動を呼ぶものなのかもしれない。
田代 真人(たしろ・まさと)
編集者。株式会社メディア・ナレッジ、株式会社マイ・カウンセラー代表。駒沢女子大学講師。1986年九州大学機械工学科卒業。その後、朝日
新聞社、学習研究社、ダイヤモンド社と活躍の場を変え、ファッション女性誌からビジネス誌まで幅広く取材・編集。20年以上にわたるメディア経験
のなかでインタビューした経営者は1000名を超える。2007年メディアプロデュースを専業とする株式会社メディア・ナレッジを創業。同時に携帯メール
悩み相談サイト、株式会社マイ・カウンセラーの代表就任。著書に『電子書籍元年』(インプレスジャパン)、構成作品に『もし小泉進次郎がフリード
マンの『資本主義と自由』を読んだら』(日経BP社)がある。
「売る」と「売れる」境界線のコミュニケーション力
著者がこれまで取材してきた経営者やものを売る現場の担当者たちの言葉や経験から、ものを“売っていく”コミュニケーションと、ものが“売れていく”コ
ミュニケーションの違いに焦点をあてて解説。ものが売れるとはどういうことなのか。論理的に解明していきたい。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20121119/239553/?ST=print
【第200回】 2012年11月20日
安川電機社長 津田純嗣
日本のロボット産業は黎明期
“用途開発”で裾野を広げたい
1915年の創業以来、“技術立社”を標榜する。今も産業用ロボットの生産台数では世界一だが、最近は自ら用途開発に乗り出す。
Photo by Hiroshi Nirei
──9月中旬、ドイツのバイエルン州にある欧州統括会社の中に、ロボット事業部門の新施設を開設した。併せて、作業者のトレーニング施設やロボ
ットの修理施設、コールセンターも集約した。そこには、デモ設備やテスト機を置き、実際に動く姿を見せるそうだが、どのような狙いがあるのか。
ドイツは4カ所目になる。
本社工場のある福岡県北九州市、埼玉県さいたま市、米国のオハイオ州に続く“戦略的拠点”だ。
ロボットを使う自動化設備の設計・製作を各種メーカーから請け負うシステムインテグレータの皆さんに、当社のロボット技術を「見て、知って、試して
もらう」ことに主眼を置いている。
──近年、そのような設備の拡充を急いでいるのはなぜか。
日本は、今も産業用ロボットを「造ること」では世界一の技術を持つ“ロボット大国”ではあるが、「使うこと」や「活用すること」に関しては世界一の座
からすべり落ちつつあるからだ。地盤沈下が始まったという危機感がある。
──具体的に言うと、どのようなことを指しているか。
例えば、2008年秋のリーマンショックの前は、ロボットの納入先は70%が国内だった。それが現在では、70%が国外になった。原因は、日本のメー
カーが国外に生産拠点を移したことや、海外のメーカーがロボットを使うようになったことが考えられる。
日本では、溶接ならば溶接用と“用途の名前を付けたロボット”が一般的だ。だが、欧州に行くと、「箱に詰めたチョコレートを日によって並べ替える
作業をするロボット」など、“名前のないロボット”がたくさん存在する。
それらは、既存のロボットメーカーではなく、システムインテグレータが「ロボットを使って何ができるか」という発想で考えて、ロボットにアプリケーションを
組み込んだ新しい自動化設備を企画・開発している。“モノづくり”のやり方が変わってきた。
──安川電機は、77年に日本初の全電気式産業用ロボット「モートマン」を自社開発して以来、国内のロボット産業を牽引してきた。
あれから30年以上たつが、私の認識では日本のロボット産業はまだまだ黎明期だ。世界で起きている新しい変化に対応し、今後もロボット産業の
裾野を広げていきたい。15年には創業100周年を迎える。それに合わせて、本社工場の一角に一般開放する“ロボット未来館”(仮)をオープンする
準備を進めている。
(「週刊ダイヤモンド」編集部 池冨 仁)
http://diamond.jp/articles/print/28166
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