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消費の場しか知らない子どもは必然的に「自己中」になる・・金融性善説に洗脳される教育!
http://www.asyura2.com/12/hasan78/msg/549.html
投稿者 墨染 日時 2012 年 11 月 18 日 11:50:52: EVQc6rJP..8E.
 

http://blog.goo.ne.jp/nanbanandeya/e/57db878796ead9633afed86aa958b82f

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち(内田樹著 講談社)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062138271/aiw-22/ref=nosim/

2007年2月11日の朝日新聞に、この本の書評が載っており、非常に興味深かったので転載する。
「消費社会にしがみつき未来から逃走」([評]学習院大 中条省平氏)

>副題が示す方向へと日本は変わっている。著者はその変質の理由を、経済原理による社会の均質化だという。日本の将来を絶望させるに足る、恐ろしいほどの根源的な洞察だ。

>(中略)今、日本の子供たちは家事を手伝う必要はない。そのかわり、消費者としての自分を確立する。(中略)4歳児でもコンビニで金と好きな商品を交換できる。金は持つ人の身分を問わない。これが金のフェアさだ。

>今の子供はしばしば「これを勉強すると何の役に立つんですか」と聞く。消費者として自分を確立した子供には当然の問いである。消費者にとって、自分がその有用性を理解できない商品は意味を持たないからだ。

>だが、「何の役に立つか」と問う人間は、ことの有用無用について自分の価値観が正しいと思っている。勉強によって自分の価値観そのものがゆらぐことを知らない。幼くして全能の消費者となった立場から、今の自分の役に立たないものを退ける。

>この態度を、今はやりの自己決定論、自己責任論が後押しする。勉強しなくても、自分で決めてそのリスクの責任を負えばよい。未来の自分に目をつぶり、今の自分の無知にしがみつく。役に立たない勉強をやらなくて何が悪い。こうして学習からの逃走が始まる。

>(中略)金による交換は、平等で、透明だ。そこに魅力がある。だが、その交換がスムーズに行われるためには、交換の場を下支えする社会的制度や人間的資質を開発する必要がある。この人間的資質は、教育以前には「何の役に立つか」分からないものだ。教育の場で「何の役に立つか」と問う消費者マインドが、学習からの逃避、労働からの逃避を原理的に支えている。教育者と子供たちが「何の役に立つか」と問いつづけるかぎり、潜在的な人間的資質は開発されず、消費者でしかない子供(将来の大人)が再生産されるばかりだ。(後略)

これを読んで、学級崩壊や、「オレ様化する子供たち」:なんで屋カー工房や、今話題になっている「給食費を払わない親」家庭を聖域にしてはならない)や、ニート超企業類グループの挑戦などがなぜこんなにも増えているのか、かなり有力な手がかりが得られたように思った。
考えてみれば、今や都会の子どもたちは、「消費者」として生まれ、「消費者」として成長する。

蛇口をひねれば水が出るのがあたりまえ。農作物はキレイに仕分けられてスーパーに並んでるのがあたりまえ。欲しいものがあれば、親に連れられてショッピングセンターに行って買ってもらう…。

快適で便利で、金があれば何でも解決する、という都市空間で育つ子どもたちにとって、「誰かに何かを供給する」という体験つまり「供給者になる体験」はなかなかできない。

言うならば、今の都会に住む子どもたちは、生まれながらにして「消費特権階級」である。金を払いさえすれば何でも揃い、どんなサービスも受けられる便利な空間の中で成長して「自己を確立」する。

「消費生活の中で確立した自分」は、金さえ持っていれば、既に用意された数ある商品やサービスの中から自分が価値を認めるものを選択できる(その選択された商品やサービスにそれ相応の代金を払う)。

「消費」という行為に必要なのは「金」だけであって、「状況を把握する能力」、「人の期待を読み取る能力」、「他人と話し合って協力して実現する能力」など、社会に出て何かを誰かに「供給」しようと思ったら必ず必要になる能力は、一切求められることはない(だから、最低限の会話ができる4歳の子供にだって買い物はできるわけだ)。

ひとたび、何かを生産しよう、何かを第三者に提供しよう、と思ったら、ありとあらゆる事象を対象化して頭を使わなくてはならない。自分自身が額に汗しなくてはならない局面もあろうが、一人でできることなどたかが知れている。何か大きなものを供給しようと思えば、周囲の人間と関係を構築して組織をつくり運営していくことになる。それには、いかに一緒に仕事をする仲間に動いてもらうかを考えなくてはならないし、課題をスケジュール化し段取りを組まなくてはならないし、どの役割をどの人に振るのか、人材適性を見極めなくてはならないし、おまけに彼らにいかに活力を出してもらうか(人材の活性化)、ということまで考え尽くさなくてはいけない。
 

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コメント
 
01. 2012年11月18日 14:36:52 : 4GxHq9ub7o
消費の場にも親や生産者など多くの他者が存在し、感謝の気持ちが出てくれば良い教育の場になる。

02. 2012年11月19日 03:23:12 : J4YfFlQzPI
2007年...

「自己中」とはいかにも年寄りのとびつきたくなるような言葉。
こういう自らの世代の責任を棚上げにし、世の中の問題を若者に押し付けるような
主張は老人中心によく見られるものではあるが厚顔無恥としかいいようがない。

主張も飛躍しすぎどころか荒唐無稽そのもの。
都知事ならば評価してくれるかも知れないが。


03. 2012年11月19日 13:40:29 : kVgwY6Ob42
たしかに引用されている部分の立論は奇妙です。子供の「何の為に勉強するのか」という問いは、価値の判断が出来ないからこそ出て来る、ごく素朴な疑問でしょう。子供でも大人でも、自分の役に立つかどうかも分からない事を強制されたくはない。子供(や教育者)がそんな素朴な疑問を持つ事すら許されないとなれば、教育とは一種の洗脳(洗脳されたものが他を洗脳する)と何ら変わらなくなってしまう。実はこのような素朴な疑問にこそ未来の創造へとつながる態度が見出されるというべきでしょう。社会的規範への意識が未熟な子供の方が、根源的問いを素直に表現するのにはむしろ優れている。このような素朴な問いを頭から否定し、与えられる物(教科書的知識、固定観念、「定説」など)だけを無批判に吸収させるような教育システムにこそ問題がある訳です。実際、なぜ子供にこれを教える必要があるのか、ということをしっかり説明できる(或は少なくともそういうことを真剣に考えている)教育者がどれだけいるでしょうか。いたとしても組織の中で埋もれてしまうか、表に出さず悶々とするような状況にあるのが普通ではないでしょうか。悲しむべき事です。

また、自己責任という言葉を否定的に扱う論調も賛同出来ない。自己責任の意識は、自立した個の確立を前提として、自分の失敗や過誤、及びその社会的影響をはっきりと認識しようとする客観的(反省の)態度に裏打ちされるもので、主体的かつ有意義な学習に結びつくものである。また、高度な自己認識によって反省された様々な経験や物事は、リスク意識の素地となり、それは、物事を用意周到に、計画的に実行することを促し、同時に更なる「勉強」へと駆り立てるはずです。

消費中心の弊をついたところまではよかったのですが、それを短絡的に、若者の「自己中」や自己責任論や教育のあり方に結びつけてしまったのは残念です。


04. 2012年11月21日 10:26:10 : YM0oZVjtic
投稿の後半部分に投稿漏れがありました。
筆者にお詫びします。

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