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生活保護から就労へ―まず「自尊感情」の回復を 年商3000万円から人格を否定される生活 高学歴美人「中国エステ」ママ
http://www.asyura2.com/12/hasan78/msg/225.html
投稿者 MR 日時 2012 年 10 月 23 日 07:09:49: cT5Wxjlo3Xe3.
 

2012年10月22日(月)付

生活保護から就労へ―まず「自尊感情」の回復を

 生活保護を受ける人が210万人を超えた。かかる費用は年間3兆7千億円にもなる。

 高齢化の影響が大きいが、問題はまだ働ける年齢層で受給者が増えていることだ。

 社会の大きな変化が根本にある。経済のグローバル化が進んで、製造業の安定した仕事が少なくなる一方、低賃金の非正規雇用が増える。「黙々と勤めれば普通に生活できる」という前提自体が崩れている。

■北の街での試み

 北海道釧路市を訪ねた。やはり経済の疲弊に苦しむ地方都市の一つである。

 80年余りの歴史を持つ炭鉱が02年に閉山、製紙業は低迷し、漁業の水揚げはピーク時の10分の1に縮小……。地域経済の衰退と比例するように、生活保護を受ける人が増え続けた。

 求人件数は、求職者のほぼ半分。季節労働の水産加工を除けば、受給者がすぐに就けそうな仕事はほとんどない。働くよう指導するだけのやり方は壁に当たっていた。

 切羽詰まった状況で、市は生活保護のあり方を転換する。国のモデル事業として04年度、母子家庭の就労支援に取り組んだことがきっかけだった。

 当事者が気持ちを動かさないと何も始まらない。そんな認識から、受給者が自分の存在を肯定できる「自尊感情の回復」をまず支援の中心に据えた。

 NPOや企業に頼み込んで、就労体験的なボランティア活動をいくつも用意し、「中間的就労」と位置づけた。

 動物園のエサづくりや公園の清掃、病院や介護施設での話し相手など、とにかく家の外に出て、人と関わる。貧困で断ち切られた社会とのつながりを回復するのが最初の目的だ。

 参加を呼びかける時も、「これぐらいならできるだろう」ではなく、「市民の一人としてまちづくりに力を貸して欲しい」と訴えた。

 地域経済が回復しないなか、釧路市の受給者はなお増えてはいる。今年は約1万人。市民18人に1人という割合は、全国平均の3倍を超す。

 だが、生活保護を受けつつ働く人の割合は増え、受給者の医療費も減った。釧路市の平均の保護費は月約12万円で、道内の同じ規模の市に比べ1.5万〜2万円ほど低い。

 厚生労働省は、生活が苦しい人たちの自立を支える「生活支援戦略」を検討している。

 そこには二つの顔がある。

 一つは早めに、幅広く、より手厚く支援する取り組みだ。いわば太陽の光で暖めて、やる気を取り戻してもらう。

 もう一つは「北風」の引き締めだ。不正や無駄遣いを監視する権限を強化し、高齢でも病気でもない「働けるはずの人」には自ら健康を管理し、早く仕事につくよう指導を強める。

■引き締め策への懸念

 釧路市のような中間的就労は「太陽政策」のひとつだろう。他の自治体でも様々な取り組みが進む。いずれも地域のNPOや企業との連携なしには成り立たない。

 生活保護行政は、プライバシー保護を名目に、受給者を一般市民から見えにくい存在にしてきた。その殻を破って支援のプロセスを見えやすくし、外部とも連携して就労先を確保できるか。行政の決断と、市民活動の厚みが問われる。

 心配なのは、引き締めだ。

 制度への国民の信頼を保つためには、不正をチェックし、自立へ向けた本人の努力を促すことは必要なことだ。

 ただ、運用次第では、むしろ自立を損ねる懸念がある。

 たとえば、受給者にかわって行政が家賃を払ったり、保護費の支出の状況を細かく調べたりする権限の強化である。

 家賃滞納の心配をなくして、保護費がパチンコや酒に使われるのを防ぐのが目的だ。自民党は、食費や洋服代の現物支給も検討している。

 そうした権限が必要な場面はあるだろう。だが、受給者の状況とは関係なく、一律に監視や指導を強めれば、自立には逆効果になりかねない。

 こうした引き締め策が議論される背景には「生活保護にただ乗りしている人間が大勢いる」という疑念の広がりがある。社会が余裕を失い、私たち自身が自尊感情を持ちにくい時代になったからかもしれない。

■自立への階段つくれ

 このような視線にさらされる当事者は、かえって社会とのつながりを失い、引きこもり、ますます生活保護への依存度を強める恐れがある。

 「やる気さえあれば、できるはずだ」とか、いきなり「仕事をしなさい」といっても、届かないロープに向かって飛べと言うようなものだ――。そんな現場の声に耳を傾けよう。

 就労による経済的自立までに階段を用意し、それを一歩ずつ上れるよう社会全体で手助けする。それが生活保護の肥大化を防ぐ近道ではないか。
http://www.asahi.com/paper/editorial.html

【第8回】 2012年10月23日 吉田典史 [ジャーナリスト]
年商3000万円から人格を否定される生活に転落!? 臥薪嘗胆の社労士が再起をかける“極秘プロジェクト”
――社会保険労務士・中村紳一さんのケース
 連載第8回は、かつて3000万円の売上を誇り、飛ぶ鳥を落とす勢いだった社会保険労務士が、「シュリンクの連鎖反応」にもめげずに、したたかに起死回生を狙う姿を紹介しよう。

 なお、本人との話し合いにより、前回に引き続き、今回は仮名ではなく実名でお伝えすることをお断わりしておく。

 あなたは、生き残ることができるか?

今回のシュリンク業界――社会保険労務士

 社会保険労務士は、労働関連法令や社会保障法令に基づき、申請書、届出書、報告書などを作成したり、労務や社会保険に関する相談や指導を、企業経営者に対して行なったりする職業だ。厚生労働大臣が実施する国家試験に合格し、一定の手続きを経ると、こうした業務を行なえる資格を得られる。

 企業内で「勤務社労士」として働くケースもあれば、独立する「開業社労士」もいる。全国社会保険労務士会連合会によると、2012年3月末日現在、社会保険労務士は全国で3万6850人。

 “人事労務のエキスパート”ではあるが、取引先の多くが中小企業であるために契約を失いやすく、他の士業の弁護士や税理士に比べると、経営や売上は不安定。業界では、ここ十数年、インターネットの浸透、助成金のあり方が変わりつつあること、さらにリーマンショック以降の深刻な不況などにより、売上が低迷する要因がいくつも折り重なっている。

永遠を願った売上3000万円の生活
今や人格を否定される日々に転落!?


社会保険労務士の中村紳一さん。 ブログのアクセスが多いことでも知られる。亡くなった父親が、ブログを見ることを楽しみにしていたという
「売上は、ピークで3000万円を超えていた。今はねぇ……。ひどいよ。リーマンショック(2008年秋)以降、顧問契約の会社はぐんと減った。解約を受けると、その会社から人格を否定された気がする。これが続くと、俺はこたえるんだよね……」

 社会保険労務士(以降、社労士)の中村紳一さん(50)は、大きな声で淡々と話す。都内の練馬区を拠点に、埼玉県、千葉県などの中堅・中小企業の労務コンサルティングを手がける。1990年、20代後半の頃、数年勤務した上場企業を退職し、独立開業した。

 開業社労士の主な収入源の1つが、会社の顧問契約。毎月数万円の報酬を得て、会社の人事・労務の参謀役となる。

 だが、弁護士や税理士の顧問契約料と比べると、契約料は数分の1にも満たない。月に1.5万円が多い。さらに顧問先の大半が、社員数100人以下の中小企業であり、業績が芳しくないケースが目立つ。不況時には、少なくとも税理士よりは契約を切られやすい。

 顧問契約数が減ると、社労士事務所の経営は不安定になりがちとなる。中村さんは、多いときで顧問数は60社ほど。これは職員を雇うことがなく、1人で仕事をする社労士の中では多いほうだ。しかし、この数年で顧問数は減った。

「他の社労士も、スポット(単発の仕事)だけでは収入が不安定だから、顧問契約を取りたいと願う。だけど、今は新規で顧問契約を結ぶことは相当に難しい。売上激減で精神不安定になり、病んでいる社労士はいるだろうね……」

 私は、売上が3000万円の頃の状況を知りたかった。そこに、社労士という職業の収入面でのシュリンクを考えるヒントがあると思った。

 中村さんは、十数年前の当時を懐かしそうに答える。

「特に助成金バブル(1990年代後半〜2003年頃まで)のときは、最高だった。家族は毎月、海外旅行に行っていた。毎月の顧問契約料(1.5万円×60社=90万)には手を付けなかった。助成金申請で得る報酬が、毎月100万円を超えていたから……」

 社労士が助成金申請を行なう流れは、まず、一定の条件を満たす会社の代わりに書類を書き、役所に申請する。審査を通過すると、その会社が助成金の支給を受ける。額は、数十万円から数百万円となる。そのうちの1〜2割を社労士が報酬として受け取る。中村さんが手がけた中では、会社への支給額が400万円を超えるケースも珍しくなかったという。

 社労士が手がける助成金は、厚生労働省などが企業に支給するものが多く、企業を政策的に誘導する意味がある。たとえば、高齢者や体の不自由な人を一定の条件を満たす形で雇っていると、支給を受けることができる。

これでは家族さえ養えない……。
「助成金バブル」の祭りのあと

 今度は、「助成金バブル」について尋ねた。私が知る限り、2000〜02年頃、一部の社労士は中小企業に助成金の申請を役所にすることを盛んに勧めていた。その頃、助成金の申請の方法を社労士たちで学ぶ学習会が都内にあり、取材をしたことがある。30代半ばで、開業3年目でありながら「年収1000万円を得ている」と言う男性がいた。

 中村さんは、「あの時代は、それが普通の社労士の姿だった」と説明する。

「申請のための書類は、内容にもよるけれど、1社につき1時間もあれば書ける。その意味では1ヵ月の労働時間は、トータルで数時間。それで100万円を超える売上があった。こんな生活が永遠に続いてほしいと真剣に思ったよ……。あの頃のストック(貯蓄)があるから、今生きていくことができる。助成金バブルがなかったら、家族を養うことはできないな。俺には、家内と私立大学に通う子どもが2人いるから……」

社長たちから“食い逃げ”され、
叩き込まれた「需要と供給の原則」

 バブルである以上、はじける日は必ず来る。そのことはわからなかったのだろうか。中村さんは、「当然、心得ていた」と答え、こう続ける。

「個人事業主として目の前の仕事を消化していく日々を送ると、その次の稼ぎ方、つまり、助成金に代わるものを見つけることはなかなかできないよ……。そんな心の余裕がないから。稼ぐことができるときに稼ぐ。それが、生き残りの鉄則。あの時代、助成金申請で稼ぎながら、次の手を考え、実行できる人がいたら、それは相当にレベルの高い社労士だろうね」

 私もこれに同感した。個人事業主や零細事務所は小回りが利くようでいて、少なくとも収入面の確保ではそれが難しい。

 あらゆることを1人でするがゆえに、新たな得意先を開拓し、そこからの収入を今の取引先から得る収入のレベルに持って行っていく時間やエネルギーはまずない。だからこそ、収入源は一定数に限られる。そことの関係が途切れると、一気に生活が苦しくなる。まさに「吹けば飛ぶ構造」なのだ。

 中村さんは、助成金の意味を社労士の営業の観点から説明した。まず、苦笑いをしながら話したのが、自らの失敗談だった。かつては、よく“食い逃げ”をされたという。

「たとえば、社員100人ほどの会社の社長から、『労務トラブルがあったから、助けてほしい』と言われた。そこは、社員の月の残業が100時間を超えていた。それで労働基準監督署(以降、労基署)に内部告発された。俺が労基署との話し合いに出たりして、解決になんとか至った。

 その後、顧問契約をしてほしいと願い出たら、社長が答えた。『今は、力量を拝見している』と。俺は心の中で『ふざけるな!』と怒ったよ。結局、顧問契約には至らず、6万円の支払いを受けただけだった。だけど、いい勉強になったな……。彼が相談をしてきたときに、まず契約を結ぶべきだったんだよ」

 中村さんの持論は、こうだ。相手は困っているからこそ、助けを求める。その意味では、需要と供給の関係が成立している。それならば、卑屈になることなく、依頼を受けたそのときに顧問契約の契約書にサインをしてもらうことが望ましい。

 さらにこう説明する。

「契約をしてほしい、とお願いはしないほうがいい。社長から、いいように使われることがある。まさに奴隷。これが、ストレスになるんだよ。今も苦しむときがある(苦笑)。理想の関係は、社労士が先生、社長をはじめ会社が生徒。そうでないと、長い付き合いにはならない」

 私が重要と思えたのは、「需要と供給の関係」の指摘である。そこで、こう尋ねた。

「社労士が先生であり、つまりは会社から需要がある存在であり得たのは、助成金が支えだったということなのか」

「シュリンクの連鎖」で過疎度が増す!
もはや社労士だけでは食えない時代に

 中村さんは、「その通り」と答える。

「少なくとも俺は、助成金の話を中小企業にして理解してもらい、役所に申請をした。すると、社長たちからすれば信じられない額のお金が役所から入ってくる。こちらがまさに“先生”の扱いになる。

 それをきっかけに、就業規則の作成や顧問契約など、次々と受注することができた。そのときに、『契約をしてほしい』とは言わないよ……。こうして得る仕事の報酬のトータルが、売上で3000万円を超えていたんだ」

 私は切り返した。「助成金は今もあるのではないか」と。中村さんはこう答える。

「今の助成金は、わかりやすく大雑把に言えば、会社が100万円を使った後、役所に申請をすると、80万円の支給を受ける。だが、深刻な不況でこの100万円を使うことがなかなかできない。かつては、一定の条件を満たしていたら、数十万円〜数百万円の支給を受けた。だから、どんどんお金を得ることができた。中小企業からすると、双方の差は大きいよ……」

 特に民主党政権発足後、事業仕分けが本格的に始まり、助成金のあり方が変わったのだという。さらには、インターネットの浸透が加速度を増す。10年ほど前は、中小企業のITへの取り組みは遅かったが、今は多くの会社に浸透している。中村さんは、「ITもシュリンクを深刻にした」と話す。

「中小企業の経営者や総務部は、労働法をさほど知らなかった。今はネットで簡単に調べることができる。社労士の中には、ホームページなどで必要以上に丁寧に書いている人がいる。あれも困ったものだよ……。社長たちからすると、『あえて金を払って仕事を依頼する必要がない』と思うよね」

 社労士のシュリンクの構造は深刻である。メインターゲットの中小企業は、長引く不況により経営が苦しい。倒産や廃業が続き、おのずと社労士への依頼も頭打ちになる。

 そして助成金のあり方が変わり、「需要と供給の関係」が成立しなくなりつつある。さらにインターネットの浸透。挙げ句に、開業社労士の数は20年ほど前よりも倍近くに増えている。

人事コンサルとして大手企業に営業も
自らを苦境に追い込む「価格破壊戦略」

 実は、この「シュリンクの連鎖」は他の業界にも見られる。ここでそれを断ち切る人と、潰れていく人の差は目の付けどころである。

 たとえば、社労士の中には“人事コンサルタント”と名乗り、大手のコンサルティングファームなどで仕事をするバリバリの人事コンサルタントと張り合おうとする人がいる。聞くところによると、社員数500〜1000人規模の会社に営業を仕掛けている。

 私がコンサルティングファームや、そのクライアント企業の人事部から聞くと、社労士の敗北が続出している。たとえばコンペでは、ファームにはなかなか勝てない。メガバンク系のコンサルティング会社が提示する額と、社労士の額はケタが違う。だが、メガバンク系が勝つケースが圧倒的に多い。

 そこで一部の社労士は、今度は「新卒の研修講師などをさせてほしい」と中堅企業などに営業を仕掛けているようだが、その額は小規模なファームの5分の1にも達しない。もともと新卒の研修講師は、数日間講師をして数十万円と、料金が安い。この額よりも一段と安い額で営業している。この価格破壊が、自らを苦境に追い込んでいる。

 この十数年観察すると、難しい国家試験に受かりながらも、社労士にはビジネスセンスがない人が目立つ。特に今は、焦りからなのか、需要がないところに盛んに供給をしようとしている。それで上手くいかないと、安易に自分を責める。

 私が取材で接する著名な人事コンサルタントらが活躍をするのは、需要があるところから離れないからだ。そこを徹底して攻めている。双方の、自らの立ち位置についての認識の差は大きい。

 どこの業界でも言えることだが、「シュリンクの連鎖」で潰れないためには、自分や会社などの立ち位置を見失わないこと。つまり、需要があるところを見つけ出し、そこにピンポイントで攻勢をかけること。実は、できているケースは少ない。

ダメならダメでどうしたらいいのか――。
その思考がある限り俺はシュリンクしない

 中村さんは“人事コンサルタント”とは名乗らない。ファームと競うこともしない。もっとシビアな目線で見つめている。

「2年ほど前から、社労士だけでは食えない時代になっている。あがいても無駄だよ。これだけ悪条件が揃うと、もう国家資格としてのアドバンテージがないんだよな……。俺には、見つけられない。今の20〜40代の社労士で家族を養う人は、大変だろうね」

 そして繰り返し、こう指摘した。

「ここ数年、解約が続き、考え抜いた。会社への接し方とか、マナーとか、自分の知識とかに問題があるのかな……と。だけど、それは違う。要は、需要がないんだよ。俺に……。いや、これまで通りのビジネスモデルの社労士には、もうニーズがないんだと思う。

 この1年、密かに起死回生策を「極秘」で進めているという。それを聞くと、「これで今後、稼ぐからどうしても言えない」とのことだった。

 最後に、このようなことを話していた。

「俺は、社労士が稼ぐことができた時代に仕事ができた。そのときに、なぜこれだけ税金を支払うのか、どうしてこのようなことになるのか、と考え抜いた。無念な思いや口惜しい経験は数え切れないよ。

 だけど、そこで考え続けた。それが今、役立っている。食えない職業ならば、どうしたら食えるのか。ダメならダメで、何かの策はないか、と。その思考がある限り、シュリンクはしない……。俺は、そんなことを皆に言いたいんだ。社労士という職業がやはり、好きなんだ」

「シュリンク脱出」を
アナライズする

 中村さんは、売上が大幅に減りながらもリベンジ策を考え、すでに「水面下」でプロジェクトを進めている。本人が渋るのを説得し、ギリギリのところまで話を聞き出した。それを私なりに加工し、全国の社労士に向けた「リベンジ策」として紹介しよう。

1.会員制ビジネス+一般社団法人で
「現代の貴族」になれ!

 中村さんは、ここ数年、疲れのあまり、枯れる身体にムチを打ちながら、一般社団法人を運営する人を盛んに調べた。すると、あることに気がついた。「もしかすると、税金がかからなくて済むのではないか……」。その後調べると、一般社団法人に入るお金が“非課税”であることを知る。

「この非課税特権を何らかの形で得ると、あくせくと働き搾取される奴隷から、さほど働くことなく、お金を得ることができる“貴族”になれる」

 ただし、漠然と一般社団法人を運営していては意味がない。そこで会員制の組織をつくり、趣旨に賛同してもらえる会員を集める。一定の金額を支払ってもらうと、それが一般社団法人の収入となる。それは社労士としての売上ではないが、一般社団法人が運営する社労士のものであることには違いない。

 これは決して「脱税」でもなければ、脱法行為でもない。一般社団法人を適切に運営し、会員らが恩恵を被り、その代価として会費を納めれば問題ではない。

 中村さんの観察によると、このことをすでに試みている社労士は全国で数人という。「当面は、労働保険事務組合を一般社団法人にした形でスタートさせたい」としている。

2.未払い残業で苦しむ中小企業に
「タイムカード」を売り込め

 中村さんは、タイムカードが社労士復活のカギを握る、と見ている。最近、「サービス残業」(未払い残業)をめぐり、会社を労基署などに告発し、残業代を得ようとする社員が次第に増えている。特に残業時間の管理が行き届いていない中小企業で目立つ。

 多くの会社は、この残業代を支払うことに苦労している。連載第6回でも紹介した通りである。

 中村さんは、今後は中小企業においてもタイムカードはパソコンを使い、会社員が時間を書き込み、それがプリントアウトできないようにするべきと考えている。「少なくとも、プリントアウトしても時間を写し出せないようにすることが好ましい。それを社外に持ち出されると、何かと問題になることがある」

 そこでパソコンを使い、時間を記録することができるソフトなどを製造販売している会社とタイアップし、中小企業にアプローチをしようとしている。仮に月額1万円のリースならば、半分はその会社で、半分は社労士が得る仕組みである。ただし、中小企業に売り込むことはしない。

 現在、ある労務系の団体の理事を務めているので、そこに加盟登録をしてきた中小企業に自動的にタイムカードのソフトをリースしてもらえるよう、考えている。「サービス残業」(未払い残業)で苦しむ会社の社長の相談に乗ったところで、その額は少ない。顧問契約にもなかなか漕ぎつけない。それならば発想を変えて、ビジネスの川上に目をつけよう、ということだ。

3.人事コンサルタントと競わず
中小零細企業にこそ目を向ける

 最後は私の考えである。社労士がファームの人事コンサルタントに憧れるのは、わからないでもない。だが、率直なところ、双方と接すると様々な意味で差が大きい。その差は、社労士が想像する以上のものだろう。

 私は、社員数数百人〜1000人くらいまでの会社は、ごく一部の大きな社労士事務所がアプローチするべきところであり、いわゆる「開業社労士」は近寄らないほうがいいと思う。あまり得るものがないように感じる。むしろ、得意なフィールドであるはずの中小零細企業にこそ、目を向けるべきではないだろうか。

 ただし、これまでのように漠然と労務相談をして、その見返りに数千円〜数万円の報酬を受ける路線は避けたほうがいいように思う。たとえば、中村さんはその相談に「タイムカードを売る」という発想を盛り込むことで、売上を増やすことを試みている。全国の社労士も難しい国家試験を突破したのだから、このような着眼はできるはずだ。

 ファームの人事コンサルタントになろうとするのではなく、あくまで中小零細企業の現場にこだわる社労士になったほうが、メリットがあると私には思える。
http://diamond.jp/articles/print/26679



【第11回】 2012年10月23日 開沼 博 [社会学者]
第11回
高学歴美人「中国エステ」ママの行く末 
「カネの奴隷」と「豊かで幸せな生活」の天秤の上で
地元の名門大学を卒業して来日。その後、日本の大学院で修士号を取得し、中国語・日本語・韓国語の3ヵ国語を自在に操るチェ・ホア。日本で生まれ育っていたならばエリートコースをたどっても不思議でない彼女は、「中国エステ」の経営者として生きることを選んだ。
社会学者・開沼博は、チェ・ホアの言葉に耳を傾ける。大学院を卒業したものの、就職にも事業にも失敗した彼女は、その後「中国エステ」のママとして歩み出す。しかし、警察による取り締まり、“できちゃった結婚”と離婚、そして、ビザ取得のための「結婚」……。彼女が歩んできた道のりはけっして平坦なものではなかった。「カネの奴隷」となってまでも、チェ・ホアが求め続ける「豊かで幸せな生活」とは??。
乗り越えることができない「スタートライン」の呪縛。第10回に続き、壁にもがきながら、それでも懸命に生き抜くひとりの中国人女性の姿を通して、日本の現実が見えてくる。連載は隔週火曜日更新。

80年代に変化を迎えた性風俗産業

「中国エステ」の起源には諸説ある。かつて、中国・大陸側からの留学生の流入がまだ少なかった1980年代前半、繁華街において「台湾式マッサージ」という名称で同様のサービスを提供する業態があったと語る者は多い。

 また、80年代以前にも、台湾人や華僑系在日中国人が経営するマッサージ店は存在していたが、それはあくまで通常のマッサージ店であって、戦略として「お色気」を導入した店舗ではないという声もある。その時点で「台湾式」が意味するのは、足で体を踏むマッサージや足ツボを刺激する、といった程度のことだった。

 ところが、ある時期から、一部の台湾式マッサージ店が「ミニのチャイナドレスを着た若い台湾美女がマッサージをしてくれる」という「お色気」サービスを取り入れていったのだという。この背景には、バブル期を迎える日本における都市風景の変化があった。

 80年代、不動産の価格は高騰し、企業の接待経費が街にばら撒かれる浮ついた空気が生まれる。歌舞伎町をはじめとする繁華街は、より派手で過激な演出を売り物とし始め、サービスのイノベーションを起こしていった。そして、性風俗産業においては、いわゆる「ファッションマッサージ」などが流行し、新しいムーブメントが生まれていく。その潮流が、従来とは違った「台湾式」を生み出す土壌となったことは確かだろう。

 前出のAは語る。

「オレがリアルに覚えている範囲で言えば、80年代後半、大学生のときに歌舞伎町の靖国通り沿いに店舗を構えていた『C』が最初のほうかな。料金とかは忘れたけど、キャッチに連れられて店に入って、チャイナドレスを着た女のコが単純にマッサージをするだけ。それ以上のサービスはなかったけど、股間周辺を念入りにマッサージしてくれたり、いわゆる普通のマッサージとは違うもの、っていう気がした」

ひとりの中国人男性が「中国エステ」を広める

 さらに、歌舞伎町で1990年代初頭から働き始め、現在は飲食店を経営する中国人のCは、「風俗マッサージ」についてこう語る。


チェ・ホアが経営する店舗にはシャワーも完備
「『抜き』(性的サービス)ありのエステを始めたのは、私の少し前、1988年に日本にやって来て、飲食店経営で成功した人だって聞いたことがある。本当にその人が最初に始めたのかはわからないけど、でも、その人が初期の時点で『抜き』ありの店に手を付けて、そこから大々的に事業を拡大して、その売上を元手に合法的な飲食店の経営を始めていったっていうのは確かだよね」

 ここで語られる「飲食店経営で成功した人」は、わけあって今は歌舞伎町に姿を見せない。しかし、その存在は、彼自身や、その周囲が残したエピソードとともに、多くの中国人飲食店経営者に知られている。

「90年代の前半にも、『抜き』なしの中国系マッサージ店はいくつかあったけど、『抜き』ありはなかった。ライバルがいない状態。だから、すごく儲かってただろうね。当時は、バブルが崩壊したっていっても、まだまだ景気がよくて、今では考えられないくらい歌舞伎町に人が溢れてた。最近はベロベロに酔っぱらって歩くサラリーマンの姿をほとんど見かけなくなったけど、あの頃は平日でもたくさんいたよ」

「飲食店経営で成功した人」がすべて自分で考案し、ひとりでその歴史を変えたのかは確かではない。その点については、さらなる検証が必要になるであろう。ただ、「飲食店経営で成功した人」が、あるいはその時代に「中国エステ」に関わっていた者たちが、単に「性的サービス」を始めただけではなく、より複雑で、革新的な工夫をもたらしたようだ。例えば、Cやその当時を知るものは、以下のようにその記憶を語り出す。

「その店が新しかったのは、女のコのキャッチを使って客引きをさせたっていうこと。日本の風俗店の客引きは男ばかりだったなかで、若い女のコがキャッチをすると目立ったよね。キャバクラで女のコが店前に立ってっていうのあるけど、ほかでは普通ないでしょ」

 90年代後半、日本人による「ぼったくりバー」が繁華街で流行することになるが、そこでも「ガールズキャッチ」と呼ばれる、若い女性の客引きが活動していたと言われる。しかし、2000年に東京都で「ぼったくり防止条例」が制定されたことで、結果的にこの業態は消滅へと向かう。両者にどれほどの関係性があるかはわからないが、「ぼったくりバー」と違い、今も残る「中国エステ」の女性キャッチの「誕生」は、90年代以降の繁華街にとってのイノベーションだったのかもしれない。

歌舞伎町で生まれた性風俗産業の「イノベーション」

「『オニイサン、マッサージいかがですかー?』っていう、日本に来たばっかりで、いかにもまだ日本語喋れない感じのあの声掛け、その時からやってたよ。サービスは適当。最初の10分だけマッサージ。あとは『抜き』『本番』で追加料金を取る。『抜き』だけなら7000円から8000円くらい、客引きによって値段が変わって、『本番』は1万円から」

「当時、日本人が経営する風俗店のメインはファッションマッサージ。本番はソープに行かないと基本的には無理。だから、万札1枚で気軽に『本番』ができる店ってことでめちゃくちゃ流行った」

 最盛期、90年代半ばからの数年間で、彼が経営していたのは4店舗。客引きの誘い文句、内装、看板、店のネーミングなどは、その店舗が原点となって広がっていったのだとCは言う。

「働いていたのは、留学生もいたけど、それよりもオーバーステイとか、日本人と偽装結婚している女が多かったね。在日中国人向けの新聞に広告を打ったらバンバン応募してきた。あの頃は、今みたいにしっかり留学してっていうよりも、経済格差も今では考えられないくらいあったし、やっぱりはっきり言って出稼ぎ、カネ目的で来ている人は多かったから」

 当時の「中国エステ」では、1日で7、8万円を稼ぐマッサージ嬢も珍しくなかったという。当然、街で目立ち始めた「新勢力」に対して、「既成勢力」が排除に乗り出す力もあった。

「もちろん、警察のガサも今ほどではないにしても定期的にあった。あとは、日本人経営の店やキャッチ、そのケツ持ちのヤクザともよく揉めてた。だけど、あんな粗末な店構えでやっている中国エステがどうやら儲かるらしいっていうことに周りも気づいてくると、状況も変わってきた。ケツ持ちも、外国人だろうが関係なく儲かっているヤツとは仲良くして、何かしらのカネを取ったほうがいいと考え始めたんだな」

 こうして、上納金を支払い、安心して「中国エステ」を続けられる街ができるまでに、そう時間はかからなかった。

 当時を知っており、今も歌舞伎町で飲食店などを経営している複数の中国人が、Cの語る記憶を共有している。少なくとも、新宿・歌舞伎町で始まった「飲食店経営で成功した人」やその周囲の動きが、「中国エステ」が儲かる事業であると知らしめ、「業態のイノベーション」を起こし、全国に展開される起点の一つとなったのは確かだと言えるだろう。

就職も事業も失敗……背水の覚悟で「中国エステ」を開業

 もちろん、ある側面で切り取ると牧歌的にも描かれる「都合のいい記憶」ばかりが、その実態のすべてを表しているわけではない。当時の「中国エステ」では、睡眠薬入りのビールを飲ませて意識を失わせ、客の財布から金を抜き取ったり、サービス中に経営者と共謀した強盗が店を襲い、客をナイフ等で脅して金を強奪したり、客をヒモで縛ってキャッシュカードの暗証番号を聞き出して金を引き出したり……といった事件がしばしば起こっていたとも言われる。ただし、それは「中国エステ」に限った話ではなく、日本人が経営する飲食店も同様であり、「ボッタクリバー」などが社会問題化した繁華街全体の風紀として存在していた。

 こういった状況のなか、2000年代初頭より、警察・入管が中心となって「歌舞伎町浄化作戦」が始まり、違法営業する店舗・業態を摘発するキャンペーンを大々的に繰り広げていった。その結果、2000年代半ばには、「中国エステ」に限ってみても、「風俗マッサージ」を喧伝する店舗は激減した。

 ところが、摘発が厳格化する一方では、「中国エステ」が自発的に浄化を進める動きもあったという。店舗の「オシャレ化」がなされ、ホームページによる詳細なシステム紹介も始まり、「脱・繁華街(郊外化)」が進み、女のコの言葉遣いも丁寧になり、オイルにまみれた客の体をシャワーで流してあげ、サービスの前後にはハーブティーを提供し、ポイントカードを発行してリピーターを増やし……と、「中国エステ」もまた、日本に存在する他の問題と同様に漂白されていった。

 少し長くなってしまったが、ここでふたたびチェ・ホアの話に戻ろう。

 彼女は、2000年代初頭に急激な変化を迎えた「中国エステ」の渦中へと飛び込んでいったのだ。その後、彼女が歩んだ人生は以下のとおりだ。

 大学院の在籍2年目を迎える頃、勉学に集中するために、「中国エステ」での仕事からは一旦離れている。その後、無事に修士課程を修了したものの、就職先が決まらなかった。しかし、日本で稼いで生活したいというチェ・ホアの想いは強かった。

「留学ビザ」が切れる前にほかのビザを取得しなければ、と「投資・経営ビザ」に切り替えるために、貯金から500万円を投じて会社を設立。そこで、ファッションとITを融合した事業を始めてみたが、残念ながらこの事業がうまくいくことはなかった。

 就職もできず、事業も失敗。それまで貯めてきた1000万円近くの現金もほとんどなくなってしまった。そんな八方塞がりの状況を打破するべく、チェ・ホアはふたたびマッサージの世界に戻ることを決める。今度は自分自身がママとなって「中国エステ」を開業することにしたのだった。

 そして、2008年、知人の日本人を店長として「中国エステ」の経営者としての生活がスタートした。

駅から徒歩10分、ベッドタウンに出店した理由

「店舗の保証金、内装費、ベッドなどの備品、ホームページ作成代、店の宣伝広告費、従業員の求人広告費などで、初期投資は約300万円。会社の失敗で全然お金がなかったから、いろんな人から借りました。常連のお客さんにも声をかけたし。そうやってギリギリの状態でお店を始めたんです」

 彼女が出店した場所は、いわゆるベッドタウン。駅から店舗まで徒歩だと10分程度かかるところだ。端から見れば、お世辞にも良い立地条件とは思えない場所なのだが??。

「周りの駅も含めていろいろ物件を見て歩きました。都心は家賃が高くてライバルも多いし、いろんなトラブルも多いと思ったから、最初から大きな街は外そうと決めてました。埼玉や神奈川でも、中心的な街ではやっぱり既存のお店が多いんです」

 ライバル店が少ない環境を探すなかで、偶然見つけたD市の物件を借りることになる。

「その街には繁華街がなく、『中国エステ』のお店は当時1軒しかありませんでした。ライバル店は駅の東側にあったんですが、私のお店は西側。これなら何とかやっていけるって思ったんです。繁華街じゃないから大儲けはできないかもしれないけど、地元のお客さんを相手にコツコツとやっていけば、少ないながらも安定的な収入が得られるんじゃないかって」

「女のコも私を入れて2、3人くらいにして、1日5万円、月に150万円くらいの売上をコンスタントにあげることができればそれでいいかなって」

 家賃は10万円、光熱費・広告費等の諸経費が20万円。残りの120万のうち半分を自分の稼ぎとして、半分を従業員の人件費にする。そんな計算だった。

「でも、最初の1ヵ月は地元のお客さんすら来てくれなくて、すごく不安になりました。仕方ないから、以前エステ嬢をしていたときの常連さんとか、スナックで働いていたときのお客さんに電話をかけまくって来てもらいました。これでギリギリなんとかなって、それから数ヵ月は月100万円前後の売上が続いて、半年が経った頃から、開店当初の見込みだった売上150万を突破するようになりました」

従業員の性的サービスが原因で執拗な脅迫を受ける

 ところが、経営も順調かと思われた矢先、事件が起こる。「無許可で風俗営業を行っているのでは」と疑われ、警察から警告を受けたのだった。

「働き始めた頃(2000年代前半)はそんなに感じなかったんですけど、今は、中国エステ関係の掲示板やブログ、Twitterなんかで、店の情報がすぐに流れてしまう。その内容が好意的ならいいんですが、たいていは誹謗中傷。『あそこは性的サービスをしている』みたいな書き込みが多いんです。警察はそれを見て来たと言ってました」

 さらに、同じタイミングで「ビザ」の問題も重なった。

 チェ・ホアが日本に長期滞在可能となる根拠は「投資・経営ビザ」だ。1年ごとの更新手続きの際、その実態が不明瞭な場合には資格が停止される。「中国エステ」事業での収入こそあったものの、ビザを取得する際に申告したIT関連事業の売上はゼロの状態が続いていた。そのため、入管から何度も呼び出され、厳しい口調で生活実態を問い質された。

 このまま同じ場所で店を営業していたら、警察や入管から捜査されることになるかもしれない。自分の店、サポートしてくれた日本の友人とのつながり、「豊かで幸せな生活」への道のり……すべてを失うことになる。

 追い詰められたチェ・ホアは、結局、50万円足らずで知人に店を売り払うことを決めた。

「たしかに、ビザの問題はクリアできていなかった。でも、それ以外で社会に迷惑をかけるようなことはやっていないし、やりたくもないんです。私は『性的サービス』はやりたくない。仕事だから、やろうと思えばできます。でも、危険が伴いますから。短期間にバッと稼ぐなら『抜き』ありもいいんでしょうけど、私が一番欲しいものは安定なんです。だから、警察やヤクザとかに目をつけられにくい健全店でやっていこうと思って、ずっとやってきた」


ランジェリー姿の女性がマッサージを施す
 しかし、彼女が固く禁止していたのにもかかわらず、言いつけを破った従業員が性的サービスをし、客から追加料金をとっていたこともあった。それが発覚したのは、従業員が帰国した後、その客がほかの従業員に当然のように性的サービスを要求した時だった。

「うちは健全店なのでもちろんお断りしました。一見大人しそうなお客さんで、その日は何もなく帰ったんですが……その後が大変でした。毎日電話してきて『お前の店は違法風俗店だ』とか『中国に帰ったYちゃんは自分から性的サービスをしてきた。証拠の録音テープがある』『警察に言うぞ!』って。あとは、無言電話とか、注文もしていないのにデリバリーのピザ屋さんが3日連続で来るとか、いろんな嫌がらせがありました」

 チェ・ホアは、仕方なく「どうすればいいのか」と客に尋ねてみた。当初は金銭を要求されるのではと想像していたが、客の答えは「俺にだけは前からのサービスをしてくれ」だった。

「もちろん彼の要求にイエスと言えるわけがありません。私は断りました。そうしたら、また連日の無言電話で、ほかのお客さんからの電話が取れないくらいの状態になってしまいました。私は自分から彼の携帯電話に電話して、直接会う約束をしました。喫茶店とかで会いたかったんですが、『店に直接行く』と言って聞かないんです。電話から2日後の午後3時頃、彼は店に来ました」

「平日の昼間にTシャツみたいなラフな格好です。おそらくサラリーマンではないと思います。その時間帯はお客さんが誰もいなくて、たまたま女のコたちも出払っていて、私ひとりでした。彼は『お詫びに無料でオイルマッサージコースを120分やれ。そしたら許してやる』と言ってきたので、仕方なくその要求をのみました」

 その男がおとなしく去って安堵していたチェ・ホアは、あることに気がついた。ベッド脇に置いてあった彼女の携帯電話がない。盗まれていたのだ。その男の意図は「嫌がらせ」以上の何ものでもない。しかし、事件はそれだけでは終わらなかった。

ネット掲示板に連日書き込まれる誹謗中傷

「それから少しすると、性的サービス目的のお客さんが来るようになったんです。あるネットの掲示板にうちの店や私、ほかの女のコについて連日書き込みがあり『手コキは当たり前、お触りもOK』とか、そんな内容が書いてありました」

 おそらく、その客がひとりで何役もこなしてると疑われ、あたかも大勢が店について書き込んでいるように見えた。

「私はお客さんを敵に回したら大変だと思い、女のコに焼き肉をごちそうしながら、お客さんへの対応を話しました。『お客さんの恨みを買うようなことをしないで。あと、内緒で性的サービスをやるのは絶対にやめて』と。こういう仕事はお客さんから食事に誘われることも多く、それまでは仕事に支障がない範囲で認めていたんですが、この事件以降、基本的には店外で会わないよう、女のコに言っています」

 マッサージ嬢として店に雇われていた時も、自分で店を経営してからも、健全店で働くというチェ・ホアのポリシーは変わらない。それは、長期的な視野で見た場合、健全店のほうが儲かるという確信があるからだ。

 しかし、「抜き」のある店も常に存在するなかで、何か特徴がなければ客は自分の店を選んではくれない。そのうえ、彼女の店は「健全店の相場からしたら少し高いくらいです」ともいう。

 それでは、なぜ客は店を訪れるのだろうか。その秘訣を彼女は「技術」だと語る。

「店の経営手法を語る前に、個人として、やっぱりまずは技術があること。これが一番重要だと思います。独学ですけど、私は学生時代からリンパマッサージの本などを読んで、店の女のコを練習台にして訓練してきました」

「私も、若い頃はけっこうモテたので、技術がなくてもある程度はお客さんがついてくれたと思うんですが、店を自分でやって感じたことは、どんなにかわいかったり、美人だったり、スタイルがよくても、技術がないコはすぐに飽きられてしまい、結局稼げないということでした」

「具体的な技術というのは、一つは基本的なマッサージのうまさ、それともう一つは性感を刺激するようなマッサージのうまさですね。これはもう、男性の表情や動きを見て自分で研究していくしかないんです。『抜き』のない店でもこんなに気持ちいいんだ、と思わせなければお客さんはついてきてくれません」

 実際に、エステ関係のインターネット掲示板などを見せてもらうと、「ママのマッサージは絶品」「かわいい顔とすごい技術のギャップ」といった評価が並んでいた。

アジア系外国人男性との“できちゃった結婚”はすぐに破局

 チェ・ホアは続ける。

「それからもう一つ重要なのは、会話力、というかコミュニケーション力ですね。スナックやクラブじゃないし、別に媚を売る必要はないんだけど、健全店に来るお客さんの多くは寂しいんだと思うんです。好みのタイプの女のコに疲れを癒してもらって、恋人気分で会話がしたい、みたいな。だから、会話がうまくできる女のコは人気があります」

 チェ・ホアは、働き始めたばかりの従業員に「上品な言葉遣いと態度で接すること」を徹底するそうだ。「中国の女のコは、日本人と比べて普段から言葉も態度も乱暴なコが多い」。敬語を正しく使い、丁寧な動作を身につけて“大和撫子”風に改めさせるだけで、客からの評価は上がる。それは自分自身の実体験から得た知見でもあった。


清潔感を感じさせる静かな待合室
「内装も派手な感じじゃなく、上品で心が休まる感じにしたほうがいい。もちろん清潔第一です。あと、みんなおカネを稼ぎたいのは一緒だけど、おカネ、おカネばかり考えていると、なんとなく態度に出ちゃうんですよ。お客さんはそういうのに敏感ですから。たとえば、30分延長してほしくても、その気持ちをあからさまに出しちゃダメですね。お客さんともっといたいなあ、って態度をうまく出せれば、お客さんの財布のひもは自然にゆるみます」

 さて、ここまで述べていなかったが、実は、彼女にはすでに子どもが生まれていた。IT関連事業を始めた時期、チェ・ホアがスナックで働いていた時代に、客として店を訪れていたアジア系外国人男性と“できちゃった結婚”をしていたのだ。

 しかし、夫となった男性は、事業を経営している時期も、そして事業に失敗した後も「全然仕事をしなかったし、酒を飲んでばかりいた」ために離婚。彼女は子どもを抱えながら、自らの拠り所である「中国エステ」をひとりで開業し、経営していた。

「個人的な偽装結婚」を利用してビザを取得

 経営していた店舗を売り払った後、彼女は 「子どもを養うためには貯金をしなければ」と、すぐに山手線沿線の「中国エステ」で働き始める。さらに、日本人配偶者としてのビザを取得するために、日本人男性との「結婚」もした。

「相手はお客さんです。私の仕事の事情は知っていました。ただ、『好き』かというと……」

 彼女の「結婚」の実態はいかなるものなのか。「日本人との結婚ビザ」が、日本滞在を求める外国人の立場の安定にとって重要な役割を果たしていることは、すでに本連載の第3回でも触れたとおりだ(もちろん、すべての「結婚ビザ」がそういった打算の中にあるという単純化したイメージの付与は避けなければならない)。

 かつて、蛇頭をはじめとした「入国ブローカー」が中国・日本双方で活動していた時期、彼らは、ビザの仲介、つまり偽装結婚ブローカーの役割も果たしていたとされる。しかし、そういった違法組織の勢力が衰えるなか、「組織的な偽装結婚」が困難になる一方で、「個人的な偽装結婚」が生まれているという話も聞こえてくる。チェ・ホアの2度目の「結婚」は、「個人的な偽装結婚」であるようだ。

「個人的な偽装結婚」とは何だろうか。最も「偽装結婚」らしい「個人的な偽装結婚」は、組織の力に頼らず、自分の力で「偽装結婚相手」を探すことだ。しかし、それにはカネもかかり、相手が裏切れば「偽装結婚」の事実が表面化することになる。

 そこで登場した新しい「個人的な偽装結婚」の方法。それは、本物の「結婚相手」を探すことにほかならない。この場合、相手にとって自分は、幸せな結婚生活を送る生涯のパートナーである。その一方で、当人には「ビザのため」という前提がなければ結婚を望む可能性はないが、心の底から拒絶する相手でもないといった程度の感情しかない。

 客観的に見ると、あるいは相手の立場に立っても、それはまぎれもない「結婚」であるが、彼女の心の中では「偽装結婚」となる。

「必要以上に家には帰らない。永住権取得などを視野に入れ、時期が来たら考え直す」

 それが、チェ・ホアが抱いていた2度目の「結婚」への認識だった。


店内の至るところに細やかな気遣いを感じる
 そして、「中国エステ」の「従業員」となって貯めた資金、在留資格の目処がついた、2012年の春、以前とは異なる関東近郊の駅に店舗を借り、ふたたび「中国エステ」のママとしての道を歩み出した。

「いつの間にか、エステ歴10年になっちゃった。お店はいろいろ変わったけど、その間にたくさんの常連さんがついてくれました。そのお陰で今のお店はこれまでになく好調ですね。場所は都心から離れていてあまりよくないんですけど、1日平均でお客さんは7、8人。1人当たり1万円〜1万5000円くらいの売上があります。女のコも若くてキレイなコが入ってくれたので、今のところけっこう流行ってますよ。週末は予約で一杯なんてときもあって、フリーのお客さんをお断りすることも。相変わらず、トラブルも多いんですけどね」

 実際、彼女にとって2回目の開業を迎えて間もなく、大きなトラブルに見舞われていた。

違法と合法のグレーゾーンを漂う「リラクゼーション」


マッサージ店と変わらない「中国エステ」の室内
 本来、「マッサージ」やそれに類する名称を看板に掲げる店舗は、マッサージに関する国家資格を有する者がいなければ営業できない。しかし、その実態は限りなくマッサージに近い「リラクゼーション」店は、グレーゾーンの中にある。そのため、「マッサージ」ではなく「リラクゼーション」と名乗っている分には、警察から咎められることも少なかった。

 しかし、実は、このグレーゾーンに対する行政や警察の規制が厳しくなりつつあるという。彼女の店舗がある自治体でも「1店舗にひとり、必ずマッサージ師の国家資格を持った人間が必要」と規制を強化することになり、その話を耳にしたビルの所有者から、突然「退居」を申し渡されたのだった。

 はじめこそ、国家資格を持つスタッフを雇おうとしたが、それが叶うことはなくビルから退居。すぐに、同じ駅の東口から徒歩1分の場所に新店をオープンするという経緯があったのだった。

「いつまでも今みたいないい状態が続くとは思ってません。だから、調子のいいときに、稼げるだけ稼がなくちゃね(笑)」

 彼女は、集客の際に、常連への電話、ビルの1階に置かれた看板、そしてインターネット広告を活用している。インターネット広告を出稿するために、有名な「中国エステ」サイトのいくつかにも登録を済ませた。

 現在、どんなに悪くとも1日平均7万円の売上があり、月の売上は210万円にもなる。営業は年中無休だ。客ごとの売上は施術担当者と店舗側で折半し、女のコへの支払いはひと月で約80〜90万となる(チェ・ホア自身も施術するため単純に売上の半分が年収とはならない)。

 さらに、店舗の家賃が11万円。水道・光熱費が約4〜5万円、紙パンツなどの備品、店の女のコに食事をご馳走するなどの諸経費が約5万円。ざっと計算してみても店の純利益はひと月で約100万円となり、これがチェ・ホアの最低月収ということになる。もちろんこれは、彼女の言うような「いい状態」なのかもしれないが――。

「カネの奴隷」になって求め続けた「豊かで幸せな生活」

「今年のはじめ、実家に近い中国東北部の街に行って、自分のマンションを買ったんです。頭金として日本円で約200万円を払いました。全部で1500万円。残りは20年近いローンで返していきます。子供もいるし、親もいるし、マンションも買ってしまったし、もう私、一生働くしかないんです。男運はまったくないから、男の人に頼るという発想はもうありません。自分の力で、この日本でずっと働いていくしかないんです」

 彼女はすでに、1回目の「中国エステ」のママとして働いていた時、両親のために、2LDKで広さ90平米ほどの家を約300万円で購入している。新しく買った自分用のマンションもそこと同じくらいの広さだ。

 まもなく5歳になる彼女の子どもは、今は実家に預けている。日本の学校に通わせるかどうかはまだわからない。子どもが成長し、日本で一定の蓄えができたら、ローンを早めに返済して、自分のマンションでゆっくりと暮らす将来も思い描いている。

「最近よく店の女のコに言われます。『ママ、マンション買ったのは素晴らしいけど、もっと人生を楽しんだほうがいいんじゃない?』って。もちろん、私もそうしたいです。でも、私はずっと安定が欲しかった。その前提として自分の家が欲しかった。ローンを返済し終わるのはまだまだ先だけど、なんとか家を手に入れました。ほとんどお金の奴隷みたいなものですね。でも、これが私の人生。仕方ないと思っています」

 高学歴で意欲も野心もあるチェ・ホア。言うまでもなく、彼女が日本にやってきた外国人の「代表例」というわけではない。

 ある「中国エステ」には、農村部出身で高校も卒業していない17歳の少女が18歳と書類を偽造して日本に入国し、日本語学校に通いながら偽装結婚した者もいる。しかし、彼女もまた、貧しいながらも集めたカネで日本へと送り出してくれた親戚のために、毎年正月になると50万円を持って帰郷する生活を続けていると語った。

 チェ・ホアが求める「豊かで幸せな生活」と「カネの奴隷」との天秤。これは、一見するとひどくおどろおどろしいものにも思えるが、しかし、彼女たちを「自分とは違う」「他者である」と認識しがちな日本で生まれ育った者もまた、その天秤の上に生きているのかもしれない。「あってはならぬもの」とそれ以外を分かつ補助線を引こうとすれば、そこにあるものは、積み上げてきた生涯をどこから始めたのかという「スタートライン」の違いでしかない。

「オニイサン、マッサージいかがですかー?」

 慣れない日本語で繰り返される呼びかけは、漂白される日本社会に確かに存在するその痕跡を、私たちが今あらためて見つめるように誘う声なのかもしれない。どれだけの者の耳に、この声が届いているのだろうか??。

競馬、競輪、競艇、パチンコ……賭博行為は「あってはならぬもの」と禁じられる「建前」があるものの、日本中至るところに遊興施設は存在し、そのCMにはアイドルやお笑い芸人が起用されるなど、その日常化は進む。しかし、その一方では、より過激な行為を求める欲望を原動力として、闇の賭博場の拡大が助長され続けてもいる。第12回は、野球賭博、そして裏カジノを中心に、情報技術の発展でさらなる「進化」を遂げる非合法ギャンブルの実態に迫る。次回更新は11月6日(火)を予定。

◆開沼博著書(共著、編著含む)のご紹介◆

『フクシマの正義 「日本の変わらなさ」との闘い』(幻冬舎)


福島からの避難、瓦礫受け入れ、農産物の風評被害など、一般市民の善意が現地の人々にとっては悪意となり、正義と正義がぶつかり合う現実。そして、過去の沖縄基地問題に象徴されるように、反原発運動もまた、新手の社会運動のネタとして知識人たちに消費されるのではないかという危惧。震災後も精力的に現地取材を続ける著者に見えてきたのは、早くも福島を忘れ、東京と地方の歪んだ関係を固持しようとする、「日本の変わらなさ」だった――。

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『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)


原発は戦後成長のアイコンだった。フクシマを生み出した欲望には、すべてのニッポンジンが共犯者として関わっている。それを痛切に思い知らせてくれる新進気鋭の社会学者の登場。



『地方の論理 フクシマから考える日本の未来』(青土社)


前福島県知事と気鋭の社会学者が、これからの「日本」について徹底討議する。あらゆる「中央の論理」から自立し、「地方」だからこそ可能な未来を展望し、道州制から環境問題、地域格差まで、3・11以後の社会のありかたを考える、いま必読の書。

『「原発避難」論 避難の実像からセカンドタウン、故郷再生まで』(明石書店)


原発事故を受け約15万人が福島県内外に避難し、今も帰る見通しが立っていない。置かれた状況は多様であり、問題は深刻化している。長期的避難を前提とするセカンドタウン構想をも視野に入れながら、見えざる難民たちの実像を追い、故郷再生の回路を探る。

http://diamond.jp/articles/print/26579  

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