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ノーベル經濟學賞は言ふまでもなく、經濟學で最も權威ある賞の一つとされる。物理學賞、化學賞とともにスウェーデン王立科學アカデミーによつて銓衡され、正式名稱に經濟學(Economics)でなく「經濟科學」(Economic Sciences)といふ語を用ゐるなど、經濟學が自然科學と同格の「科學」であることを強調してゐる。しかしこれはまつたくの虚像である。創設以來およそ四十年間に受賞した研究の大半は、本來經濟學になじまない自然科學の手法を誤つて摸倣し、その結果、人類に貢獻するどころか害惡を及ぼしてきた疑似科學にすぎない。
今年の受賞者發表にタイミングを合はせて出版された、トーマス・カリアー『ノーベル経済学賞の40年』(上・下、小坂恵理譯、筑摩選書)は、ノーベル賞の對象となつてきた戰後の主流派經濟學が抱へる根本的問題を鋭く衝いてゐる。
よく知られるやうに、經濟學賞の正式名稱は「アルフレッド・ノーベル記念經濟科學スウェーデン國立銀行賞」といふ。これは他の五部門より七十年以上遲い1968年、スウェーデン國立銀行の働きかけにより設立されたためである。このとき同銀行が舉げた賞創設の理由は「経済学の重要性とそれが科学理論としての体裁を整えてきたこと」(矢沢サイエンスオフィス編著『ノーベル賞の科学・経済学賞編』、技術評論社、5頁)といふものだつた。
それでは「科学理論としての体裁を整えてきた」とは、具體的にいかなる變化を指すのか。それは物理學などを參考にして「経済のコンセプトを数式に変換する」(下・190頁)ことだつたと、自身も經濟學者であるカリアーは指摘する。この動きは第二次世界大戰前に始まつたが、戰後加速する。位相幾何學(トポロジー)などの高等數學まで導入され、一部の理論は「大半のプロの経済学者ですら十分に理解できない」(上・29頁)ものになつてしまつた。
★それでもかうした手法が經濟學の進歩に役立つのならよい。ところが違ふ。なぜなら自然科學と經濟學には本質的な相違があるからである。カリアーは書く。「経済学にも〔自然〕科学と同じく基本法則が存在するなら、それは人間の行動に関わるものでなければならない。……ところが人間の行動はとかく気まぐれで当てにならず、基本方程式を少しばかりとりまとめて仕組みを解明できるわけではない。……経済学は〔自然〕科学とは一線を画する」(上・27頁)
にもかかはらず、經濟學者は自然科學の手法を無理に流用してきた。たとへばダニエル・マクファデン(2000年受賞)の「離散的選擇モデル」である。これはペプシかコカコーラか、電車か自動車か、働くか退職するかといつた二者擇一の選擇を分析する手法で、もとは生物統計學者によつて考案された。しかしこのモデルが最もうまく機能するのは、たとへば「リッチモンドに家を所有して八万ドルの収入を持つ、三五歳の既婚の弁護士ふたりがまったく同じ選択をするときである」(下・216頁)。もしふたりが異なつた製品を贖入したり異なつた通勤手段を選んだりすれば、それだけで「あまり機能しなくなってしまう」。メダカやミジンコならともかく、人間の行動を分析・豫測するのに向いてゐるとは思へない。
ところが經濟學者たちは誤りを認めないどころか、開き直つてさへゐる。モーリス・アレ(1988年受賞)は受賞記念講演でこんな主張を展開した。「私は次第にふたつの確信を抱くようになった。人間の心理はいつどこでも基本的に同じであることがひとつ。そしてもうひとつは、不変の法則に従って現在は過去によって決定されることだ」(下・129頁)。もちろん、人間がまるで天體や原子のやうに豫測可能で一貫した行動をとるといふこの考へは現實離れしてゐる。しかしそれを認めれば、自然科學の手法を模して豫測を立てられなくなる。カリアーが皮肉を込めて言ふとほり「数学で使われる最適化のテクニックを経済学に応用するためには、アレも仲間の経済学者も不変の法則を信じなければならなかった」のである。
★このやうに誤つた方法論に基づく經濟學が、自然科學のやうな輝かしい成果を收められるはずはなく、むしろ悲慘な失敗に陷ることになる。1987年10月の株價大暴落(ブラックマンデー)を目の當たりにして「こんなおかしな事態が発生するとは」(上・138頁)と戸惑ふばかりだつたウィリアム・シャープ(1990年受賞)や、破綻したヘッジファンドLTCMの經營に關はつてゐたマイロン・ショールズ、ロバート・マートン(ともに1997年受賞)ら金融經濟學者の話は有名である。
ケインズ派のローレンス・クライン(1980年受賞)も負けてゐない。クラインが手がけたプロジェクトLINKは、世界各國の經濟モデルを結びつけた「とてつもなく複雑なモデル」(上・275頁)で、全部でおよそ三千の方程式で構成された。
★クラインは受賞スピーチでLINKに基づく長期豫測を披露し、米國で石油價格が上昇し、インフレが續き、財政・貿易收支が赤字から均衡に向かふと豫想したが、ことごとく外れた。
★統計學者であるクライヴ・グレンジャー(2003年受賞)は、自分のやうに經濟學者ではない人間が受賞できるのだから、經濟學はずいぶん簡單な學問に違ひないと語つたといふ(下・261頁)。「科學ごつこ」にすぎない現在の經濟學に、そのやうに侮蔑的な感想を抱くのも無理はない。
★受賞者のうち、自然科學の摸倣に批判的な少數派であるフリードリヒ・ハイエク(1974年受賞)は記念講演で、ある領域で形成された思考を別の領域に機械的かつ無批判に適用する態度を「言葉の真の意味において決定的に非科学的」(嶋津格監譯『ハイエク全集』第二期第四卷、春秋社、77頁)であると痛罵した。經濟學がそれ固有の思考に基づく眞の科學に立ち返らない限り、世界經濟は危機を脱するどころか、さらなる混亂に陷つてゆくだらう
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