http://www.asyura2.com/12/hasan77/msg/856.html
Tweet |
不幸な展開を迎えたBRICsの物語
2012年10月10日(Wed) Financial Times
(2012年10月9日付 英フィナンシャル・タイムズ紙)
この3年間、一般的な概念は世界の主要経済国を2つの基本的なグループに大別していた。「BRICs」と「病人(sicks)」である。
米国と欧州連合(EU)は病んでおり、高失業率と低成長、恐ろしいほどの債務に苦しんでいた。一方で、BRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国の4カ国、そして一部の見方では南アフリカも加わる)は欧米よりはるかに活力に満ちていた。投資家や実業家、欧米の政治家は、未来をじっくり見つめるために定期的にBRICs諸国を巡礼した。
昨年開催されたBRICs首脳会議〔AFPBB News〕
ところが今、おかしなことが起きている。BRICsが苦境に陥っているのだ。
個々の国の問題の性質は異なるが、BRICs諸国を結びつける大きな問題もいくつかある。まず、楽観的な「デカップリング」論が盛んに語られたにもかかわらず、BRICs諸国は皆、弱い欧米経済の影響を受けている。
次に、5カ国すべてが今、蔓延する汚職が国の政治体制に対する信頼を損ない、経済に重い負担を課していることに気づきつつある。
将来不安を覚える中国
中国は今も新興大国の代表格だ。同国は世界第2位の経済大国であり、今も優にBRICsで一番の急成長国だ。それにもかかわらず、中国は長年なかったほど、自国の経済的、政治的な未来に対し強い不安を感じている。
ある中国の友人が最近話してくれたように、「中国の経済は急減速しており、次の指導者は姿を消し、日本に向けて船を送り込んでいる」のだ。
習近平氏はその後、再び姿を現したが、最初に姿を消した時と同じくらい経緯は謎に包まれている。だが、薄熙来氏の裁判開始を間近に控え、極めて重要な共産党大会が迫り来る中で、政治的な緊張は高まったままだ。
過去30年ほど、政治的な不確実性に対して中国が出す答えはいつも同じだった。急激な経済成長である。
しかし、中国の成長率は2012年に、今世紀に入ってから初めて年間8%という象徴的な数字を下回る見込みだ。ある意味では、これは自然であり、望ましいことでさえある。成長減速は、中国の労働力がもはや以前ほど急増していないという事実を反映しているからだ。
だが、鈍る経済成長は、欧州における需要の減退も反映している。中国の工場の賃金も急上昇している。これは労働者にとっては朗報だが、中国の競争力にとっては凶報だ。
ブラジルやインドにも波及する中国の成長減速
中国の減速は、その他のBRICs諸国に波及効果をもたらす。中国は今や、ブラジル、インド、南アにとって最大の貿易相手国になっているからだ。ブラジルの経済成長はとりわけ急激に落ち込んだ。リオデジャネイロが2016年夏季五輪の開催地に決まった翌年の2010年に、ブラジルの成長率は7.5%に達した。今年の成長率は恐らく2%に届かないだろう。
インドはどうかと言えば、筆者が数週間前に訪れた時にあるベテラン実業家が話してくれたように、インド企業は「臨床的鬱病」に苦しんでいる。金融危機の前に9%を超えた経済成長は、今では5%を辛うじて上回る程度だ。インドは今夏、約6億人に影響が出た世界最大の停電によって自国の脆さを思い出させられた。
政治体制は機能不全に陥った模様で、経済改革のプロセスは行き詰まった。最近のいくつかの発表は、改革が再開するという期待を抱かせたが、2〜3年前のあふれんばかりの自信は概ね失われた。
ロシアも苦境に陥っている。ウラジーミル・プーチン氏の大統領復帰はモスクワで大規模な抗議行動を引き起こした。そして米国のシェールガス革命は、ロシアに悲惨な結果をもたらす可能性がある。シェールガス革命のおかげで世界のガス価格が低下しているからだ。ロシアの中央銀行は、同国が2015年に経常赤字に陥ると予想している。
プーチン体制を支える2本柱――従順な中流階級と石油・ガスから得られる大金――は、どちらもぐらついているように見える。
BRICsの一角を成す南アフリカ
BRICsという言葉を編み出したゴールドマン・サックスのエコノミスト、ジム・オニール氏はかねて、南ア経済は他のBRICs諸国と自然と肩を並べるほど規模が大きくないと主張してきた。それでも南アは直近2回のBRICs首脳会議に参加したし、次の首脳会議を主催する予定だ。これはBRICsが西側以外の大国グループに変貌を遂げている表れだ。
いずれにせよ、BRICsの地位の新たな特徴が弱体化する経済と機能不全の政治だとすれば、南アはこのグループの一員となる資格がある。同国の鉱業は山猫ストに悩まされており、来年は何千人もの人員を削減する可能性が十分ある。
経済成長は落ち込み、3%を下回る可能性が高い。そして、ジェイコブ・ズマ大統領の指導力(あるいは、その欠如)は深刻な不安を招いている。
南アのプラチナ鉱山での騒動から中国の電子機器工場でのトラブル、さらにはインドでの停電からモスクワでの抗議活動、ブラジルでの汚職捜査までをすべて結ぶ直線は存在しない。だが、BRICs諸国の問題を結びつける大きなテーマはある。
BRICsの問題を結びつけるテーマ
まず、西側との「デカップリング」宣言は、早計だった。EUは今も世界最大の経済圏だ。欧州の景気後退と米国の低成長は、必然的にBRICsに影響を与える。
次に、長年にわたる急成長はBRICs諸国に政治的な調和をもたらさなかった。民主主義国、独裁主義国を問わず、筆者がBRICs諸国を訪れて何度も出くわしてきたテーマは、汚職に対する国民の怒りが政治にとって極めて重要だということだ。そのため、政治家も投資家も潜在的な政情不安に神経質になる。
では、これらのことはBRICsの物語がおとぎ話だったことを意味しているのか? 必ずしもそうではない。この物語の極端なバージョン――BRICs諸国を際限なきチャンスと楽観主義の国々として描くもの――が馬鹿げていたことは事実だ。だが、これだけ多くの問題を抱えていながら、BRICs諸国の大半は今後何年も病人より高い成長を続けるだろう。
このことは、依然として、西側から新興国へと経済力、政治力がシフトする動きが我々の時代の大きな物語であることを意味している。
By Gideon Rachman
http://jbpress.ismedia.jp/articles/print/36273
中国の工場の暴動に火を付ける人口動態
2012年10月09日(Tue) Financial Times
(2012年10月4日付 英フィナンシャル・タイムズ紙)
従業員の相次ぐ自殺で、メディアなどの注目を浴びてきたフォックスコン〔AFPBB News〕
中国北部にあるフォックスコン(鴻海=ホンハイ=精密工業)の太原工場で先日起きた暴動は、従業員2人の酒の上での喧嘩によって始まったと言われている。
警備員が強引に割って入った時に事態がエスカレートし、腹を立てた2000人の従業員を鎮圧するために5000人の警察官が派遣されてからは完全に手に負えない状態になった。
台湾の受託製造サービス(EMS)大手で、中国で100万人の労働者を雇用するフォックスコンは、数年前に深セン工場で従業員の自殺が相次いでから、工場の労働条件を巡って圧力を受けてきた。
フォックスコン従業員が不満を募らせる理由
同社はそれ以来、会社のイメージを改善し、時として落ち着きを失う従業員との関係を円滑にするために、賃金を引き上げるなどの対策を講じてきた。
米国の「公正労働協会(FLA)」が今年公表した報告書は、フォックスコンが労働問題の多くに対処してきたとの見方を示していたが、中国の法定限度を超える残業時間など、「重大かつ深刻な違反」の証拠がまだあるとしていた。
この報告書は、太原工場を調査対象としていなかったものの、同工場は最近、恐らくアップルの「iPhone(アイフォーン)5」の発売に向けた注文に応じるためために、生産を増強していた。
フォックスコンが特に大きな注目を浴びてきたのは、その巨大な規模と、デル、ソニー、ヒューレット・パッカード(HP)、そしてもちろんアップルといった有名ブランド向けに行っている仕事のためだ。
それでもフォックスコンは、恐らく競合他社の多くよりも良い雇用主だろう。中国の作業現場で緊張が高まっているのは、賃金や労働条件を多少調整するだけでは解決できないような全面的かつ根本的なトレンドが生じている兆候だ。
最も根本的な変化は人口動態だ。中国はもはや、きつくて単調な仕事を喜んで引き受ける従順な出稼ぎ労働者が尽きない状況には頼れない。
アジア開発銀行(ADB)によれば、1975年から2005年にかけて中国の生産年齢人口は4億700万人から7億8600万人へとほぼ倍増した。
生産的な労働者の実質的な伸びは、それよりさらに大きかった。というのは、生産年齢人口の急増は、農村部に住む何千万人もの人を解放し、都市部の工場で働けるようにしたケ小平の経済改革とほぼ同時期に起きたためだ。その結果、非効率な農場の余剰労働力だった人々が世界の労働人口の一角をなす生産的な労働者になった。
人口ボーナスと少子高齢化
日本や韓国と比べると、中国の高齢化は経済発展の早い段階で起きている〔AFPBB News〕
良い知らせは、このような労働投入量の大幅な増加が、中国の過去30年間の目覚ましい成長記録の大部分を説明することだ。そして、悪い知らせは、それが終わってしまったことだ。
国連の定義によると、中国の人口は2000年から高齢化している。生産年齢人口が縮小し始める2015年以降は、中国がこれまで長く享受してきた人口ボーナスが急激な逆転状態に陥る。
中国の高齢化は、同じような経済発展の道をたどる他国よりはるかに速いペースで起きている。ヨランダ・フェルナンデス・ロメン氏はADBの2010年の調査報告書の中で、中国では1人当たり実質所得が4000ドルだった時に高齢化が始まったと試算している。これに対して、日本では1万4900ドル、韓国では1万6200ドルに達したところで高齢化が始まった。
工場の現場レベルで見ると、これは、経済発展のはるかに早い段階で、労働者に有利な方向にバランスが傾いたことを意味している。仕事を見つけるのは容易になり、労働者は雇用主にあまり恩義を感じなくなっている。中国の経済成長率が急減速しているにもかかわらず、失業率がほとんど変わらないのは注目に値するだろう。
現在の労働者は以前ほど、単調でつまらない長時間労働に甘んじる気がなくなっている。自分たちよりも裕福な中国人のライフスタイルを知るようになったことで、不満は一層大きくなっている。
確かに工場の賃金は現在、年間20%程度も上昇している。だが、多くの労働者にとって、これは将来性のない仕事で搾取されているという感覚を埋め合わせるものではなくなってきている。
社会の激変に拍車をかける一人っ子政策
もう1つ、もっと微妙な人口動態上の影響が作用している。中国の高齢化が突如起きたのは、1979年に導入された一人っ子政策のせいなのだ。
一人っ子政策は、女性が不足している理由でもある。男子を欲しがるという昔からの傾向が意味するのは、数百万人の女子の胎児が中絶されているということだ。その結果、中国の性別の人口構成は、女子100人に対して男子の数は119人になっている(自然に任せれば、その比率は女子100人に対し男子104人前後となる)。
男の子を欲しがるこのような傾向は弱まっているが、その影響は今後数十年にわたって残るだろう。
工場では、これがもたらす1つの結果は、男性労働者が徐々に増えているせいで、かつて工場のラインで働いていた圧倒的な数の女性労働者ほど簡単には扱えなくなる、ということだ。
『The China Price(邦題:中国貧困絶望工場)』の著者アレクサンドラ・ハーニー氏はこの10年間、中国の工場を訪問し続けてきた。同氏は数年前、自分が次第により多くの男性にインタビューしていることに気付いた。最近、ある若い女性が彼女に「私たちの世代は工場では働きません」と言ったという。
付加価値を高め、キャリアを築く道
ハーニー氏は実に興味深いブルームバーグのコラムで、中国の工場は、労働者を訓練したり、彼らに確実な昇進の道を提供したりするのが非常に下手だと書いている。代わりに中国の工場は、個々の新規受注サイクルの需要にぴったり当てはまるように雇い入れたり解雇したりできる「ジャスト・イン・タイム・ワーカー」と呼ぶものを望んでいるという。
「私の疑問は、中国がどのようにして階段を上がっていくかです」。製造業の付加価値を向上させる必要性に言及して、ハーニー氏はこう話す。
これは中国にとって非常に大きな問題だ。工場所有者にとっても小さな問題ではない。フォックスコンの創業者、郭台銘氏は、3年後に自社の工場に100万台のロボットを設置する計画を既に発表している。同社は多角化も進めており、ブラジル、メキシコ、東欧で工場に投資している。インドネシアは、国内に工場を建設するよう郭氏を説得しようとしてきた。
ロボットを設置したり、工場を他国へ移転したりすることは、中国の人口動態に対する1つの対応だ。それよりはるかに難しいのは、労働者がより高度な製品を作れるようになるのと同時に、キャリアも築ける工場をどのように設計するか解明することだ。
By David Pilling
http://jbpress.ismedia.jp/articles/print/36265
【第2回】 2012年10月10日 岡田正大 [慶應義塾大学ビジネス・スクール准教授]
経済性と社会性:
包括的ビジネスの背後にある思想
前回は、包括的(BOP)ビジネスの性質を概観するとともに、それを取り巻く代表的な4つの批判を挙げた。今回はその批判の一つに反応することを通じて、包括的ビジネスの背景にある経済性と社会性の関わりについて論じる。
フリードマン流の考え
特に今回の論点の核心に触れているのは第4の批判で、「社会問題解決に営利企業が与するといっても、結局本音は利益であり、途上国の現地経済が搾取されるだけでは?そうではないと主張するならば、それは偽善に聞こえる」というものだ。これは開発セクター(国際機関や途上国開発援助に携わるNPOやNGOのこと)からの伝統的批判として分かりやすい。だが、実は企業経営者の責務を株主資本価値の最大化ととらえる新自由主義も、「企業とはあくまで経済的価値を極大化させるためのマシンである」という割り切りにおいて、過去の開発セクターに存在した企業観とぴったり一致する。
新自由主義の中心的存在であるミルトン・フリードマン(1970)[注1]によれば、企業経営者の責務とは、企業の所有者である株主の代理人として、彼らの利益を増進することである。フリードマンは、もしも企業が「企業の社会責任」の名の下に何らかの社会性を帯びた活動に経営資源を投入するならば、「ここにおいて、経営者は誰に何の目的でいくら課税するかを自ら決定し、天命にのみ従って、自然環境を改善するとか、貧困を撲滅するためにその資金を費やす」。だが、「企業経営者が株主によって任命されている正当性は、経営者が依頼人たる株主の代理人として、株主利益に資するという一点に存する。経営者が『社会的目的』のために『課税』しそれを支出したとき、この正当性は消滅する」と述べている。
[注1]Milton Friedman (1970) “The Social Responsibility of Business is to Increase its Profits” The New York Times Magazine, September 13, 1970.
ここで図1(筆者作成)を用いて企業に期待される社会的効果を横軸に、企業に期待される経済的効果を縦軸に、ビジネスの属性を整理してみる。左上の象限は法的に要請される最低限度の社会性(例えば児童労働を用いないとか、環境規制を順守するなど)を担保しつつ財務的成果の極大化を志向する、いわば新自由主義が想定する通常のビジネスである。
一方その対極にあるのが右下の象限、すなわち純粋な慈善事業だ。寄付金や補助金をベースとした慈善団体による社会福祉増進のための様々な活動、例えば環境保護やホームレス支援などである。この場合、寄付者は当然ながら財務的リターンを一切期待しないが(実質的財務リターンはマイナス100%)、その寄付によって実現する社会的・環境的効果への期待水準はきわめて高い。
フリードマンの考え方は、これら両極の異なる事業間にあって、経済的効果と社会・環境的効果はトレードオフの関係(図1の中で左上から右下へ伸びる斜め45度線)にあるというものだ。すなわち、企業による社会性の追求は、経済性の犠牲の上に成り立つものであるから、企業による社会性追求は株主への背任的行為とみなされる。この考えは資本市場や企業経営者の間で今でも根強い説得性を持っている。
新自由主義の主張に
対する異議
こうした新自由主義の主張に異議を唱えるのがPorter and Kramer (2006, 2011)[注2]である。彼らは社会性は経済性の犠牲の下に成り立つという新自由主義の前提を否定し、両者の密接な関わり合い、相乗効果を主張する。もっとも、企業の社会性と経済性を統合する考え方は、実はPorter & Kramer (2006, 2011)をはるかにさかのぼり、金井他(1994)や金井(1995)がすでに「戦略的社会性」という概念によって統合的フレームワークを提唱していることをここに記しておきたい[注3]。
さて、Porter & Kramerは、これまでの企業は社会的責任(CSR)活動を本業とは関係のない周縁に位置づけ、場当たり的に資金を投じていると批判する。そして様々な利害関係者に囲まれて経営が進行する現代においては、企業が社会に対して責任を負う「企業の社会責任(corporate social responsibility)」ではなく、「企業と社会の統合(corporate social integration)」が重要であり、また企業による社会性追求は、自社の本業(製品もしくは事業プロセス、またはその両方)を通じた「競争上の文脈(原語はcompetitive context、ほぼ「自社にとっての競争条件」と同義)」の改善のためになされるべき、とする。
[注2]Porter and Kramer (2006), Strategy & Society: The link between competitive advantage and corporate responsibility, Harvard Business Review, December 2006: 1-17.Porter and Kramer 2011), Creating Shared Value, Harvard Business Review, January-February 2011:1-17.
[注3]「経営戦略の本質は、企業活動が社会全体の健全な発展に貢献するとともに、企業自体の発展にも役立つという基本的関係を築くことにある。このような企業と社会の望ましい関係を築くためには、社会に存在するさまざまな問題を企業が満たすべき社会的ニーズとしてとらえ、本来の事業活動を通じてその解決に貢献していく必要がある。(太字は筆者)」「このようにして、企業はメセナやフィランソロピーを超えて、新事業の創造を通じて社会の多様な問題を解決し、新たな社会価値の創造に貢献するという『戦略的社会性』を実現できるようになる」(大滝・金井・山 田・岩田1997:p.317-318)。Porter & Kramer(2006、2011)のアイデアは、ほぼこれら日本の研究者の主張に沿ったものであるといってよい。
金井・腰塚・田中・中西・松木・松本・桶田(1994)『21世紀の組織とミドル:ソシオダイナミクス型企業と社際企業家』産能大学総合研究所.
金井一ョ(1995)「地域の産業政策と地域企業の戦略」『組織科学』v29.n2.
大滝・金井・山田・岩田(1997)『経営戦略―創造性と社会性の追求』有斐閣.
競争環境改善の例として彼らが挙げるのは、ヒューレットパッカード社が、自社の操業する地域の貧困層若年世代を対象に、プログラミング能力の開発訓練を無償で提供し続け、その中から優秀人材を確保していくといった活動である。こうした企業の本業を通じた社会性の追求(本事例の場合は教育機会の提供と収入機会の創造)は、経済性に対して正のシナジーを持ち得るし、そのような種類の社会性の追求をこそ企業は目指すべきだ。そうした社会性追求は企業戦略として矛盾のないものだ、と主張する。そして企業と共にコミュニティも裨益する「共有価値(shared value)」という概念を提起している。
企業が社会性を追求することの
戦略上の意義
さて、これにて大円団、一件落着、と言いたいところだが、話はこれで終わらない。実はPorter & Kramer(2011)の中には看過できない「揺らぎ」、もしくは「あいまいさ」が残る。それは企業にとって「自社が社会性を追求することの意味」である。つまり、企業による社会性追求が単に経済的価値実現の手段の一つにすぎないのか、それとも企業目的の一つであるのか、という問題だ。
ある学会でコーネル大のハート教授に同じ問いを発したところ、「それは難しい問題だよ。なぜなら両方であり得るから」という答えをもらったが、この論点は企業の社会性と経済性を巡る議論を理論化する(因果関係のかたちで整理する)上で、また、企業が自社の社会性追求をどのような論理で内外に対し正当化するかにおいて、避けて通れない問題である。
上記論文中の主張で代表的なものを紹介する。
1.“Shared value is not social responsibility, philanthropy, or even sustainability, but a new way to achieve economic success.” (共有価値とは社会的責任でも、フィランソロピーでも、ましてや持続可能性ですらない。それは経済的成功をもたらす新たな方法である)。明確に、社会性の実現は経済価値実現の手段、ということになる。
2.“Companies must take the lead in bringing business and society back together.” “Yet we still lack an overall framework for guiding these efforts.” “The solution lies in the principle of shared value, which involves creating economic value in a way that also creates value for society by addressing its needs and challenges.” (大意:企業はビジネスと社会を統合させる役割を担うべきだ。(中略)だが、その努力を導く包括的フレームワークがいまだ存在しない。(中略)これに対する解決策は共有価値の原則にある。それは社会のニーズと課題に取り組むことにより、社会的価値をも生み出す方法によって経済的価値を創出することである)。この文面では、社会性の実現が経済価値実現の条件である、と解釈できる。
3.“Shared value focuses companies on the right kind of profits ? profits that create societal benefits rather than diminish them.”(共有価値の原則は、企業を正しい種類の利益に向かわせる。それは社会的便益を増大させるような利益である)。ここでは、社会性の実現は企業利益が満たすべき条件であると指摘している。
4.“It (shared value) is about expanding the total pool of economic and social value.”(共有価値とは、経済的価値と社会的価値の総和を拡大することである。)ここでは明らかに、共有価値の根本が社会性と経済性の両立にあることが示唆される。
5.“The purpose of the corporation must be redefined as creating shared value, not just profit per se.” (企業の目的とは共有価値の創造であり、単に利益そのものではない、と再定義されるべきだ。)ここからは、社会性の実現は企業パフォーマンスの一部であることが強く示唆される。
これらの言説を眺めてみると、3つの主張が混在している。まず第1は(上記引用文1)、経済価値最大化の手段としての社会性追求である。あくまで「競争上の文脈(自社にとっての競争条件)の改善」のために社会性を追求することの重要性だ。実はこの考え方は、持続的競争優位の実現(経済的価値が最大化される最高の状況)を戦略のゴールとする従来の戦略理論の範疇におさまる因果関係である。つまり社会性の追求が経済性にプラスの価値をもたらさない場合、社会性は法的最低限度を超えては追求されない。
第2に(上記引用文2・3)、社会性の実現が、経済的価値(利益)創出の条件である、という主張だ。ここにおいて、経済性追求における社会性実現への要請は、第1の主張よりも強くなる。社会性の追求が経済価値を実現する一つの方法にすぎないという段階を超えて、社会性の実現を伴わない利益は追求されるべきではない、という一歩踏み込んだ主張である。
Tocqueville (1838) [注4]の言う「啓発された自己利益」ないし「見識ある自己利益」と呼ばれる考え方(enlightened self-interest)は、多様な利害関係者の便益を高めていくことが、結果的に自己の財務的パフォーマンスに返ってくることを意味する。「利他的利己主義」ともいわれるが、第1と第2の考え方を包含したものと個人的には解釈している。
第3に(上記引用文4・5)、当該論文の中には社会性の実現が経済性の追求に並んで企業目的の一部であることを示唆する言説もある。いわば社会性と経済性の同時実現を企業目的とする考え方である。因果関係を図示すると下図のようになる。
[注4]Tocqueville (1838) Democracy in America, Saunders and Otley: London.
[注5]岡田(2012a)「『包括的ビジネス・BOPビジネス』研究の潮流とその経営戦略研究における独自性について」『経営戦略研究』,第12号2012年6月.
岡田(2012b)「戦略理論の体系と『共有価値』概念がもたらす理論的影響について」『慶應経営論集』29(1):121-139.
ここで問題となるのは、言うまでもなく企業の社会経済的パフォーマンスをどのように定義し、どのように計測するのか、という点であるが、これは現在も研究が続行中であり、最終第6回に譲ることにする。
社会性と経済的価値の両立が
持続的競争優位を生む
今回の結論として、これら3つの因果関係モデルのうち、第2と第3の考え方は、企業の経済的価値最大化を無条件に戦略の従属変数と設定する既存の企業観に対し、明らかに修正を迫るものだ。例えば次回述べるように、これまでは企業の財務的リターンを唯一無二の評価尺度としていた資本市場がESG(環境・社会・ガバナンス)に関わる投資基準を援用し始めたり、伝統的戦略理論の父祖と称されるポーター自身が、今回見たように既存戦略理論の限界を素直に認め、社会性への傾斜を強めたりしているのは、時代の持つ企業観が変化してきている明確な兆しと捉えられる。
こうした企業観の変化は、戦略の究極のゴールである「持続的競争優位」の定義にすら修正を迫ることになる。だが、ポーター・クレーマー論文にすら論理の揺らぎが生じているように、今後は明確にこの方向へ進むべきだ、という共通認識はいまだ企業コミュニティにおいても学会においても成立していない。
このような状況下で、企業の視点に立って少なくとも言えることは、そうした企業観(企業の見られ方、企業に望まれる価値)の変化を先取りし、自社の本業領域での社会性追求と自社競争力の強化、自社独自の方法による社会性追求と新たな経済的価値創造とを両立できる企業にこそ、持続的競争優位は宿る可能性が高いということだ。
本業を通じた社会性と経済性の厳密な因果関係は実証研究に譲るとして、両者を同時成立させるという戦略的意図・構想を持って、そのタフな目的の実現に必要な資源や能力をいち早く蓄積し始める努力が求められている。そこで企業間に差がつくだろう。その点日本企業の大半は、少数の例外を除き、欧米中韓印等の先進企業に比べていちじるしく後れを取っているというのが筆者の皮膚感覚である。
次回は、企業が包括的ビジネスに取り組む際に社会性と経済性を同時追求する動機付けが生じる理由として、企業を取り巻く外的環境・利害関係者の意向がどう変化してきたかを論じる。
http://diamond.jp/articles/print/26033
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。