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(回答先: 米住宅バブル崩壊が深刻な金融危機に発展した理由 90年代末の楽観主義が招いた米住宅バブル 投稿者 MR 日時 2012 年 8 月 10 日 10:11:14)
大手金融機関が次々に破綻、LIBORも急上昇
第3回 金融危機に対するFRBの対応 その2
2012年8月21日(火) ベン・バーナンキ
2008年9月7日の時点で、米連邦住宅公社(ファニーメイ)と米連邦住宅貸付抵当公社(フレディマック)は明白な破綻状態に陥りました。保証している住宅ローンの損失を補償するだけの資本がなくなったのです。FRBはこの週末、ファニーとフレディの規制当局及び財務省と協力して不足額を算定し、週末にかけて、財務省はFRBの支援の下、両社の株式を取得し、公的管理下(conservatorship)に置きました。このことは、同社が部分的な破綻に至ったことを意味します。
同時に、財務省は議会からファニーとフレディの債務を全額保証する承認を得ました。これにより、投資家がファニーとフレディが保証するMBS(住宅担保ローン証券)を保有していたとしても、両社が部分的な破綻状態にあったにもかかわらず、米国政府が代わりに保証してくれることになったのです。投資家は保護されたわけです。これは必要な措置でした。もしこうした措置が取られなければ、危機は凄まじいまでに深刻化していたはずです。世界中の投資家が保有していた証券の価値は、文字通り何百億ドルもの規模に達していたからです。
何千という中小の金融機関が破綻した1930年代の恐慌とは異なり、2008年に発生した金融危機では、大手の金融機関が厳しい圧力にさらされた
周知のように、2008年9月半ばには、米証券大手のリーマン・ブラザーズが甚大な損失を抱えていることが判明したことから同社は強い圧力にさらされました。同社の破綻劇については、後ほどケーススタディーで詳細に取り上げますが、リーマンには買収者も資金提供者も現れなかったため、同社には9月15日、米連邦破産法第11条の適用を申請したのでした。
同じ9月15日、同様に証券大手のメリルリンチが、銀行大手のバンク・オブ・アメリカに買収されました。これによりメリルリンチは破綻を免れたのです。
中小の銀行だけでなく最大手の金融機関が危機にさらされた
翌9月16日には、世界最大の米保険会社AIGが、追加証拠金の差し入れ請求や短期資金の引き揚げという形で、現金の支払いを求める人々の激しい攻撃にさらされました。同社が信用保険を販売していたことは先に話しましたが、政府はAIGに緊急資金を提供し、破綻を防ぎました。この件についても後で詳しく見ていきます。
2008年の金融危機では、銀行ではない、保険会社大手のAIGをはじめ、貯蓄金融機関や住宅ローン大手といった大手の金融機関が破綻、もしくは破綻の危機に直面した
米貯蓄金融機関(S&L)最大手で、サブプライムローンの大手でもあったワシントン・ミューチュアルも9月末、規制当局によって閉鎖されました。幾つかの部門を切り離した後、米大手銀行のJPモルガン・チェースが同社を買収しました。10月3日には米銀最大手5行の一角を占めるワコビアが深刻な圧力にさらされ、同行は住宅ローン大手のウェルズ・ファーゴに買収されました。
今、話した企業がいずれも米国の大手金融機関上位10社もしくは上位15社の1つに数えられる金融機関だったことで、当時の状況について多少感触を掴めると思います。同様の事態は欧州でも起きていました。このように直近の危機では、中小の銀行も当然、影響を受けましたが、最も規模が大きく最も複雑な業態の国際金融機関も、破綻の危機に瀕したのです。
ここで、第2回の講義で話した「FRBが大恐慌から学んだ教訓」について思い出してください(1929年の大恐慌で失敗続けたFRBをご参照ください。)。1930年代にはFRBは銀行システムを安定させるために十分な措置を講じませんでした。ここから第1の教訓を得られます。つまり、金融パニック時には、バジョットのルールに従って「中央銀行は無制限に資金を提供して、銀行取りつけ騒ぎを終息させ、金融システムの安定化を図れ」、とういことです。
大恐慌の第2の教訓は、FRBは30年代にはデフレを回避し、マネーサプライの縮小を防ぐために十分な手立てを講じませんでした。つまり、大恐慌から学んだ第2の教訓は、「深刻な不況を回避するには、金融を緩和する必要がある」ということです。FRBと連邦政府はこれらの教訓に従って、ほかの当局の協力の下、諸外国の中央銀行及び政府とも足並みを揃えて積極的な措置を次々に打ち出し、金融パニックを終息させました。
いつもは恐ろしく退屈なG7会議が2008年10月は違った
今回の危機の1つの特徴は、あまり注目されていませんが、まさに世界的な危機だったということです。特に米国と同様、欧州が危機によって深刻な打撃を受けました。しかし、今回の危機は同時に、国際協調という点では卓越した事例となりました。
特に重要な日付として、2008年10月10日が挙げられます。この日は、もともと主要7カ国(G7)の中央銀行総裁及び財務相会議がワシントンで開催されることになっていました。よって世界最大の経済規模を持つ先進7カ国の中央銀行総裁および財務相がワシントンに結集したのでした。ここで皆さんに重大な秘密を暴露します。
世界の注目を集めるこの国際的な会議は、いつもは恐ろしく退屈なのです。ほとんどの作業が事務方により事前に進められているからです。G7会議では議論はしますが、最後に読み上げる共同声明も事務方があらかじめ用意しているため、ほとんどの場合はかなりルーティン化した行事なのです。
しかし、この時の会議は、いつものような退屈な集まりではありませんでした。用意されていた議題はそっちのけにして、取るべき対応策について話し合いました。世界の金融システムを脅かしている現在の危機を食い止めるために、各国はいかに協力すべきか―。最後に発表された共同声明は、FRBの一部の提案に基づいて協議が行われ、白紙の状態からまとめ上げられたものでした。
声明には幾つかの原則と宣言が盛り込まれましたが、何より重視されたのが、各国が結束し、金融システム上、重要な金融機関のこれ以上の破綻を食い止めるということでした。リーマンの破綻後に、こうした決定が下されたわけです。
2008年10月10日にワシントンで開かれたG7中央銀行総裁・財務相会議では、出席していた各国代表者らは議題を急遽変更し、世界の金融システムを安定させるべく互いに協力し合うことを約束し、これを共同声明として発表した
銀行やそのほかの金融機関が中央銀行及び政府から確実に資金の提供を受けられるようにして、世界一丸となって預金者と投資家の信頼感の回復に努め、信用市場の正常化への道を探りました。こうした形で世界的な合意が成立した翌週、英国が真っ先に銀行システム安定化に向けた包括策を発表しました。米国も銀行に資本を注入するための大胆な措置など、次々に対策を打ち出しました。このようにG7会議終了から数日間のうちに様々な展開があったわけです。
急騰したLIBORもG7会議後、落ち着きを見せ始めた
こうした対策が矢継ぎ早に打ち出された効果が、このグラフ(下)に出ています。これは、銀行間による貸し出しにかかる金利で、銀行Aが銀行Bに翌日物資金の貸し出しを行った場合に課す銀行間金利を表しています。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20120808/235455/zu26.jpg
金融危機が発生した前後のLIBOR(ロンドン銀行間取引金利)の推移。LIBORはベア・スターンズが資金操りに窮し、JPモルガンに買収された3月に上昇した後、少し落ち着きを見せるが、9月のリーマン・ブラザース破綻を機に急上昇。G7中央銀行総裁・財務相会議が10月10日に共同声明を出したのを機に、徐々に沈静化していく。もっとも、このほど英銀大手バークレイズなど大手銀行が金融危機の最中にこのLIBORを不正操作していたことが発覚、この金利は一部、そうした不正操作を含んだものとなっている可能性がある
翌日物銀行間金利は通常、1%を大幅に下回っています。このように金利が低いのは、銀行は1日でも資金を預けられるところが必要で、しかも預ける相手が大手銀行であれば安全だとの強い信頼があるからです。しかし2007年以降、銀行は互いにそうした信頼を失っていきました。このことが銀行同士の貸し出しに課す金利の上昇に表れています。
具体的には2007年には住宅価格の下落に伴って、住宅ローン関連の証券の質や金融機関の質に対する懸念が台頭し、翌日物銀行間金利への圧力が高まり始めました。翌2008年3月には、ベア・スターンズの破綻前後に再度小さな山が見えます。この頃の翌日物金利の上昇は、そのほかの時期における動きと比較すると、相対的に小さく見えますが、この頃はかなり困難な時期で、金融市場や資金調達市場は激しく揺れ動いていました。
次に、リーマン・ブラザーズが破綻した前後の動きを見てください。翌日物銀行間金利は急騰していますが、おそらくこうした高金利にもかかわらず、貸し出しはあまり行われなかったと思われます。これが何を意味しているかと言えば、最大手の金融機関ですら突如、互いの信頼を失ってしまったということです。
誰もが次に破綻するのはどこか、次はどこが資金繰りの逼迫に直面するのかという疑心暗鬼に駆られていたのです。
G7の共同声明発表後の状況を見てください。数日のうちに圧力が緩和し始め、年末から翌年1月初めまでに銀行システムにおける資金繰り圧力は目覚ましい改善を見せました。この事例が、国際的な協力の効果を如実に示していると思われます。
同時に、これは圧力にさらされたのは米国だけではないこと、そして(事態が改善したのは)米国やFRBの力だけでなく、米国と欧州を中心とする世界的な協力があったからであることを物語っています。
FRBは資金を提供し、市場にパニックの沈静化を確信させるうえで、重要な役割を果たしました。この点について、次に一般的な状況を説明するとともに、2つの事例についてケース・スタディーを行い、当時の問題を浮き彫りにしたいと思います。
バーナンキ議長による講義の録画は下記にてご覧頂けます。
第3回(3月27日)金融危機に対するFRBの対応(The Federal Reserve's Response to the Financial Crisis)
なお、動画画面の左下にある「Transcript(PDF)」をクリックすると、講義の英文起こしを見ることができます。
ベン・バーナンキ(Benjamin Shalom Bernanke)
薬剤師の父と学校教員の母の長男として、1953年12月13日に米ジョージア州オーガスタで誕生、サウスカロライナ州ディロンで育つ。高校時代、大学進学適性試験SATで1600満点注1590点というその年の州で一番の成績を収め、1972年ハーバード大学に進学、経済学を学ぶ。1979年、年米マサチューセッツ工科大学(MIT)で経済学博士号を取得し、同年以降、米スタンフォード経営大学院で教える一方、ニューヨーク大学で客員教授も務める。1985年プリンストン大学経済学部教授に就任、この時、日銀の政策がいかに間違っていたかを研究。デフレ史の研究でも知られ、友人でノーベル経済学賞受賞のポール・クルーグマン氏とともにインフレターゲットの研究者としても名声を高める。2002年にブッシュ政権下でFRBの理事に就任、2005年6月に同ブッシュ政権下で、米大統領経済諮問委員会(CEA)の委員長に就任したのに伴いFRB理事は退任、2006年1月までCEA委員長を務め、同2月1日にFRB議長に就任。2010年1月再任される。
さあ、バーナンキ議長の講義を聞こう!
この連載は、米連邦準備理事会(FRB)のベン・バーナンキ議長が今年3月下旬に、米ジョージワシントン大学ビジネススクール(同大学は学部としてビジネススクールを持つ)の大学生を対象に「米連邦準備理事会(FRB)と金融危機」と題して、4回にわたって行った講演の全文である。中央銀行が誕生した歴史的背景から、その使命、1930年代に恐慌が起きた際のFRBの対応、その後金融政策が発展した経緯、なぜ米住宅バブルが発生し、なぜその崩壊によって2008年秋の金融危機が発生したのか、何が問題だったのか、そして危機に対してバーナンキ議長を筆頭にFRBがいかに対応したのか――その全容を大学生を対象に分かりやすく説明している点がポイントで、金融危機の深層を明らかにしてくれる。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20120808/235455/?ST=print
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