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若年失業、パラサイト、少子化、日本とスペインの怖い共通点
在スペイン・サルバドール・オルティゲイラ教授に聞く
2012年8月17日(金) 広野 彩子
一進一退を繰り返す欧州経済の情勢。ギリシャに続き、債務危機に揺れるスペインの経済状況は深刻だ。長年、一時雇いで働いてきた未熟練の若年層を中心とする25%もの高い失業率、終身雇用と一時雇用の労働者の「格差」、弱い産業基盤、少子化で縮む国内市場、続々と海外に出て行く大企業…。ユーロ危機という固有の金融情勢下で財政赤字を抱えているが、構造的には日本に似た社会問題も抱えている。ユーロ参入後のスペイン経済の実情とはどんなものか、危機から立ち直る力はあるのか。スペイン人の気鋭の経済学者、サルバドール・オルティゲイラ、スペイン・カルロスIII世大学教授に話を聞いた。(聞き手は広野彩子)
スペインでは債務危機がくすぶり続けています。スペイン国家統計局が発表した4月〜6月の失業率は24.63%と1976年以来で最悪となり、深刻です。しかも経済を再生させようとしても、スペインには強い産業が見あたらないように思えます。
オルティゲイラ:その通りです。欧州域内でもスペインの産業構造はドイツやフランスとは全く違います。ドイツやフランスは製造業に強みがありますが、スペインは、製造業が弱い。主力は観光業とサービス業で、ここ数年は、この2つの産業が経済を支えていました。もちろん個別には競争力のある企業もあり、目下、輸出力を高めようと努力しているところです。しかし製造業が国内総生産(GDP)に占める割合は極めて低いのは確かです。
リーマンショックが起きる2008年までの住宅バブルの間、活況を呈して経済を支えたのは公共投資を中心とする建設業です。労働力の20%は建設部門に雇用されていました。労働力全体の5分の1ですから、大きいですよね。他の欧州の国々、あるいは他の先進国と比べても高いでしょう。
公共事業が雇用を支えてきた「ユーロバブル」
スペインでは、地方のどんな小さな町に行っても道路がきれいに舗装されています。
サルバドール・オルティゲイラ(Salvador Ortigueira)
スペイン・カルロスIII世大学経済学部教授。95年、同大学から経済学博士(Ph.D)取得。米コーネル大学助教授、イタリアの欧州大学院(European University Institute)経済学研究科教授を経て2010年から現職。専門はマクロ経済学、財政、労働経済学。
オルティゲイラ:先日、同僚と話しながら意見が一致したのですが、スペインにおける地下鉄や空港、高速道路などといったインフラはおそらく、欧州一でしょう。私は頻繁に米国に滞在しますが、米国と比べても勝っていると思います。とりわけ首都マドリードの地下鉄は最先端の設備を誇り、都市生活をとても便利なものにしています。こうしたインフラの実現は、「ユーロバブル」の結果でした。
スペインがユーロ圏に参入した時、スペインの金利はとても下がりました。ユーロに参入する前の借入金利は割高だったのですが、ユーロ通貨になることによって金利が下がって借り入れが容易となり、大量のマネーがスペインに流れ込みました。とりわけ、ドイツやフランスからの資金流入が激しかった。そのため民間部門も公共部門も、こぞってお金を借りるようになりました。
そうした資金のほとんどはビルや住宅、公共インフラ、地下鉄、空港、高速道路の建設資金となり、2000年から2008年の間この状態はずっと続きました。つまりスペインが世界トップクラスの公共インフラを整備できたのは、「バブル」のおかげだったということです。
そしてバブルが崩壊し、失業が増えたわけですね。
オルティゲイラ:そうです。バブル経済は、当然ながら持続可能ではなかったのです。不動産バブルははじけ、すべての建設プロジェクトが休止となりました。地価は暴落し、人々は住宅ローンの支払いに窮するようになりました。公共セクターですらも賃料を払うのが厳しくなった。
そして海外の金融機関は、スペインの金融機関に高めの金利を要求するようになりました。スペインの金融セクターの資金繰りが行き詰まっていたからで、それが高い失業率の原因となったのです。バブルの間、建設業に携わってきた人々の多くは若く、単純作業にしか従事できないスキルのない人々で、高等教育も受けていません。バブルの間、スペインでは、建設業なら学歴が低くてスキルがない割に高賃金を得られたことが大きいです。そのためバブルがはじけた途端、大量のスキルに乏しい若年失業者が生まれたのです。
突然職を失ったスキルのない若年労働者たち
建設業に携わっていた多くの人の最終学歴は高卒です。10年前なら、高卒の人であっても建設業で給料の良い仕事を探すのはとても簡単でした。しかし突然仕事がなくなった。現在、スペイン経済で最も頭の痛い問題です。
しかも彼らは若い。スペインでは教育コストが低く、比較的大学進学が容易で、かつ教育の質も高いのです。大学の学費は極めて安く、大学生の平均的な学費は1年あたり1000ユーロ(約10万円)です。
しかし彼らは、大学で教育を受ける機会を逃してすぐに稼げる建設業の世界に入り、10年ぐらいそれだけに従事していました。彼らの大半は現在、30代半ばに差し掛かっており、こうした若年層を中心にした失業者が約550万人もいる。スペインの人口は4700万人ですが、そのうちの約550万人ですよ。
日本でも若者の失業が問題になっていますが、人口全体から考えるとスペインの失業問題は、日本とは比較にならない深刻さですね。
オルティゲイラ:危機以前には約2300万人の雇用がありました。そのうち約570万人が失業したわけですから、労働人口の25%が失業していることになる。実に深刻です。ただスペインでは失業保険が比較的、充実しています。570万人の失業者は今、失業保険で暮らしています。GDPの3%ものお金が、失業手当に割り振られている状態です。
出どころが同じ税金であると考えれば、ある意味、それまで公共投資で賃金として支払っていたものが、失業手当に移ったとも言えます。
オルティゲイラ:その通りですよ。スペインは高福祉国家です。先ほど少し触れたように、公共医療、公共教育、いずれもほとんどタダで、今年まで医療費は完全無料でした。これらも財政を逼迫させる要因です。
16歳から25歳のスペイン人の非自発的失業率は、52%にものぼっている。また、スキルや学歴のない40歳〜54歳では、30%の人々が失業しています。全般的に教育のない層が大きく影響を受けている。
スペインの失業でさらに問題なのは、新卒の未経験者です。まだ一度もまともに仕事に就けていない。不況で真っ先に打撃を受けているのがこうした人々です。一方、もし35歳以上で大学卒であれば、このような情勢でも比較的に容易に仕事が見つけられます。
社会的動乱が起きないのは、家族の支えがあるから
世帯で見ても失業は深刻です。夫婦2人世帯の家計で、夫婦そろって失業している家庭がどんどん増えています。どちらか1人だけが失業しているだけならそれほど問題は大きくはないのですが…。両方失業してしまうと、一家の家計を丸ごと福祉で支えなければいけない。
こうした中、社会で重要な役割を果たしているのが家族です。若年失業が社会問題化しているものの社会不安が起こらないのは、彼らが両親から支援を受けているからです。22歳や23歳で大学を出て一度も働いたことがなく、両親と暮らしている人も多い。経済危機の間は、公的支援と共に家族の役割が極めて重要であると言えます。
家族の支えというセーフティーネットがあるから、若年世代の約52%が失業しているのに、深刻な社会的動乱や犯罪率の上昇などが起こっていないと言えます。それにスペインでは平均的に、30歳ぐらいまで両親と暮らすのが当たり前です。英国や米国、あるいは北欧とは違います。これらの国々では、18歳前後になったら独立しなければいけませんが、スペインにそうした「空気」はない。
日本では、大学などを卒業して就職しても親元を離れない独身の人々を「パラサイトシングル」と呼んだり、勉強も仕事もしていない人を「ニート」と呼んで社会問題になりましたが、スペインでは慣習的に普通のことなのですか。
オルティゲイラ:他の国々と比べて極めて高い25%もの失業率を記録しながら国内で問題なくビジネスが回り、社会不安が起こらないのは、家族の支援のおかげでしょうね。若者が街中でぶらぶらしているわけでも、物乞いをしているわけでもなく、犯罪率が高まっているわけでもありません。街中は至って平穏です。とはいえ、家族による支えもおそらく限界に近づきつつあるでしょうから、予断は許しません。
スペインでは、貧富の格差は問題ではないのでしょうか。
オルティゲイラ:国内の格差より、欧州の他の国々と比べた時の格差は存在します。スペインは、英国や米国に比べればかなり平等な社会です。まず、教育と医療がタダです。貧しくても、教育と医療が保障されているのは強みだと思います。富裕層も米国や英国の富裕層ほど財産があるわけではありません。ややリッチという程度で、大多数は中産階級です。スペインでは、中産階級が社会にとって極めて重要です。
危機によって、高福祉にもかかわらず格差は以前に比べれば広がり、とりわけ低学歴層にとっては厳しい社会になりました。しかし格差が社会的な緊張をもたらしているわけではなく、大きな問題にはなっていません。
勉強に意欲があれば、基本的に皆、大学に行けることも背景にあるのでしょうね。
大学進学のコストが低すぎることのデメリット
オルティゲイラ:大学の門戸は皆に開かれていますが、スペインの出生率が極めて低く、子供の数、学生の数が減り続けています。出生率は最近は1.4程度と多少は復調しているものの、90年代後半から2000年ごろは1.1まで下がりました。ほとんどの人は1人しか子供を作らない。昔と違って、3人も4人も子供を持たない。世界でもかなり低い部類に入るでしょう。日本はどうですか?
日本の合計特殊出生率は1.39です。
オルティゲイラ:もちろん大学に入学するためには高校時代に良い成績を取り、全国共通テストなどを受けなければいけません。ですが今、とりわけ90年代から進んだ低出生率の影響が表面化し、大学に入学すること自体は比較的容易な状況です。教育の質は高いのですが。日本もそうでしょうが、17年後のスペインでは、大学に進学する子供の数はきっと激減しているでしょう。また、誰でも医学を学んだり工学を学んだり、好きな分野を選んで学べるようになっていると思います。
今でも大体50%は大学に進学しますから、進学率は高い方です。大学教育のコストが安すぎることもあると思います。さらに、社会のニーズと、持っているスキルがミスマッチを起こしているのことが問題です。
最近、この問題について政治家が認識し始め、企業関係者と議論を始めています。例えば、ホテルの受付担当が大学で古典文学博士の学位を持っているというようなケースが多いのです。本来なら、ホテル経営の学位を持っているべきでしょう?
スペインでは、学位と職能のミスマッチが高い失業率の原因の1つと考えられているのでしょうか? 日本も状況としては似たようなものに思えます。
オルティゲイラ:それは重要な指摘ですが、必ずしも高い失業率の原因ではありません。重要なのはやや極端な「ミスマッチ」が起こっている点です。例えば文学で博士号を取っても、その学位にふさわしい仕事が存在しなければ、スペインが、間違った過大な公的教育の投資を施したことになります。極めて専門性の高い学歴やスキルを、必要以上に備えた(overqualified)人が多すぎる。もっと技術や、将来の仕事に見合った教育をするべきでしょう。
このミスマッチを解決するため、大学教育を、企業部門の要求に応えるものへと再考しなければなりません。学費がほとんどタダであるために、学生が興味の赴くまま、将来の仕事のことを考えずに専攻を選んでいる可能性があります。
もう少しコストがかかって大学進学に「投資」的な意味合いが強くなれば、将来のリターンにつながる勉強をしようとするのではないでしょうか。企業社会のニーズに見合う専攻を選ぶようになるインセンティブを設けることが必要かもしれません。
終身雇用、短期雇用の「格差」が問題
日本ではデフレが続く中、非正規雇用の労働者の失業が問題になっています。スペインではどうでしょうか。
オルティゲイラ:スペインでも雇用形態により労働市場が2重構造になっている問題があります。契約で身分保障された終身雇用の労働者は、解雇された時に多額の退職金などを受け取ることができます。受け取る条件は人それぞれです。解雇されたその日にお金を受け取りますが、金額は雇用されていた長さによります。
解雇された時には退職金がもらえます。これは40日分の給与に、勤続期間をかけた金額を受け取れるお金です。一方、短期雇用の労働者はこれがありません。そのため危機が訪れた時、解雇しやすい短期雇用の労働者が次々と解雇される問題が起きました。
スペインで、雇用における終身雇用と短期雇用の違いは、契約終了に伴う退職金に関する部分だけです。契約する時、短期雇用の労働者も直ちに公共健康保険と公的年金に加入しますが、退職金の有無だけが違う。
企業は、危機への対応として解雇のコストが高い終身雇用の社員を守り、環境が良くなることを期待しながら雇い続ける選択をする。しかし短期雇用の労働者は即座に解雇してしまう。それが、スペインの失業率が不安定な理由の1つです。
危機以前の段階で、スペインにおける短期雇用の労働者は労働人口全体の3割以上にのぼっていました。他の欧州国家より高い比率です。今はもちろん、解雇されたためその比率は若干低くなっていますが。
現在、スペインでは600万人近くの人々が短期雇用の契約で働いていますが、それだけの人々が経済情勢により即座に解雇される環境にあるということです。そのため不況になればあっという間に失業率が高まる。政府ではこの労働市場における二重構造の問題を解決しようと取り組んでいます。現在、短期雇用の人々にも退職金を支給してはどうかと提案されているところです。
日本の正規雇用、非正規雇用の「格差」と似ていますね。ところで公的な失業手当はどのくらい支給されるのでしょうか。
オルティゲイラ:公的な失業手当は、仕事を見つけるまでの最長2年間、毎月もらえます。これは長い方でしょう。最初の半年、失業前の給料の7割を支給され、それ以後は6割が支給されます。欧州の他の国々と比べて取り立てて水準が高いわけではないと思います。ちなみにイタリアは、失業手当がありません。
ここでまたやっかいな問題なのは、欧州連合(EU)内で国ごとに労働規制が違うことです。スペインにはスペイン独自の労働市場の規制があり、イタリアやドイツとは全く違うものになっています。目下、EUはこの部分を修正しようとしています。通貨を統合した以上、それぞれ違う組織、全く違うルールで国を運営していくことはできないと悟ったのです。同一通貨でやっていくのであれば、規制も統一しなければいけません。欧州が危機から学んだ教訓です。
中でも財政統合については今、EUで議論されています。
金融と財政を切り離して考えたのは誤り
オルティゲイラ:現在は同じ通貨であっても、財政は一緒ではありません。ユーロ圏では金融政策は共通ですが、財政政策は個別です。各国がそれぞれの財政政策をしています。しかし、それも誤りでした。財政が統合されていない共通通貨圏というのは、大変ハイリスクだと分かった。
一番の失敗は、最初から財政・金融双方を1つにしなかった点にあると言えます。欧州連合をスタートさせる時、財政を統合しなかったために多くの不均衡が生じました。スペインやイタリアは、ドイツやフランスから巨額の借金をして財政赤字を抱えた。財政が1つだったなら、これほどの不均衡は生じなかったことでしょう。例えば「共通財政庁」のような機関が財政政策を調整すべきです。現在、財政統合は欧州復活のカギと言ってもいいです。
冒頭でスペインの製造業はあまり強くないとおっしゃていましたが、スペインにも国際的に有力な企業があると思います。
オルティゲイラ:スペインの製造業は悲観的にならざるを得ないのですが、世界レベルで素晴らしい企業もあります。例えば高速鉄道をはじめとするインフラ系の企業です。空港運営や高速鉄道建設のノウハウや技術に強みがあり、既にサウジアラビアや米カリフォルニア州でビジネスを展開しています。ロシアとも鉄道建設を交渉中です。このように、インフラ系の企業が危機を経て、海外での事業機会を積極的に模索するようになっています。
また、石油とガスの「レプソル」は、アルゼンチンを含め数カ国に油田を保有しています。通信大手の「テレフォニカ」は、南米諸国で通信事業を展開しています。銀行セクターでは南北米国大陸と英国で展開する2行がありますし、「ザラ」を展開する衣料大手「インディテックス」は世界的に有名ですね。
危機のおかげで各企業が海外市場での展開に本気になったのですね。
オルティゲイラ:それが、スペインが危機から得たプラスの側面でしょう。国内での事業機会がどんどん縮小しているので、生き残るためには他国でチャンスをつかむしかない。これがスペインのビジネス界に新しい風を巻き起こしてくれればいいと思っています。きっと成長しますし、世界を相手にすることに集中していれば、国内市場の縮小にあまり悲観的にならなくてもすみます。
農業も比較的重要な分野です。もともと、欧州各国にたくさん農産物を輸出していますが、近年は創造的で、洗練された農産物を作るようになっています。品質も向上し、競争力が高まってきました。オリーブオイルやワインでは研究開発やマーケティングの努力が進められ、イタリア産などに劣らぬ品質の高いものを製造するようになっています。
農業の競争力を高めるためには、農産物の研究開発を進め、世界に打って出る必要があります。従来通り、オレンジやバナナといった農産物を、付加価値を付けずに輸出するだけではだめです。スペイン企業も、危機を通して自覚しています。生産性を高めて積極的に輸出して、世界の企業と戦っていかなければスペインは生き残れないのです。
広野 彩子(ひろの・あやこ)
日経ビジネス記者。1993年早稲田大学政経学部経済学科卒業後、朝日新聞社入社。阪神大震災から温暖化防止京都会議(COP3)まで幅広い取材を経験した後、2001年1月から日経ビジネス記者に転身。国内外の小売・消費財・不動産・保険・マクロ経済などを担当、『日経ビジネスオンライン』、『日経ビジネスマネジメント』(休刊)の創刊に従事。休職してCWAJ(College Women’s Association of Japan)と米プリンストン大学の奨学金により同大学ウッドローウィルソンスクールに留学、2005年に修士課程修了(公共政策修士)。近年は経済学コラムの企画・編集、マネジメント手法に関する取材、執筆などを担当。
危機の経済学
政府の過剰債務問題による不確実性と、金融政策の行き詰まりが目につく近ごろの先進国経済。日本も例外ではない。このコラムでは、日本の財政危機と成長戦略、スペイン経済の実態について、経済学者へのインタビューを通して考える。全3回。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20120808/235437/?ST=print
9月、ユーロ危機は天王山へ
カギを握る3つのイシュー
2012年8月20日(月) 熊谷 徹
8月のヨーロッパは、バカンスの季節。私が住んでいるミュンヘンでも、多くの市民が旅行に出ているので、朝夕の地下鉄やバスが空いている各国の議会が閉会になるため、政治家、官僚、ジャーナリストたちもこの時だけは、まとまった休みを取る。この時期を、ドイツ語でSommerloch(夏の穴)と呼ぶ。ニュースが減って、新聞が一段と薄くなる時期である。
だが明るい夏の日差しも、ヨーロッパに漂う不安感を拭い去ってはくれない。ヨーロッパ各国の政治家や市場関係者の間では、「今年9月がユーロ危機の天王山となる」という見方が強まっている。
その理由は、3つある。
1)EUや国際通貨基金(IMF)などの監視団「トロイカ」が、ギリシャの経済改革や緊縮策の進捗状況について報告書を発表する。EUとIMFはこの報告書に基づき、ギリシャに3兆円近い金を振り込むか否かを決定する。
2)スペイン政府がEUに対し、救済を正式に申請する可能性が高まっている。
3)ドイツの連邦憲法裁判所が、同国がESM(欧州金融安定メカニズム)に参加することが合憲かどうかについて判決を下す。
注目されるトロイカ報告書
まず欧州最大の問題児、ギリシャから始めよう。欧州委員会,IMF、欧州中央銀行(ECB)で構成する監視団・通称「トロイカ」は、ギリシャの経済改革や歳出削減策の進捗状況について、9月に報告書を発表する。
トロイカは、ギリシャに金を貸している債権国、債権機関が派遣する「お目付け役」である。債務国が歳出を減らし歳入を増やす努力をきちんと行っているか、借金の条件として約束したことを期限までに履行できるのかについて、厳しく監視する。トロイカは7月末にアテネでギリシャの財務大臣らと協議していったん同国を離れた。9月に再びギリシャを訪れた後、報告書をまとめる。
トロイカの報告書が、悲観的な内容になることは確実だ。ギリシャの「痛みを伴う改革」は、遅々として進んでいない。
ギリシャは今年2月に、EUとIMFから1300億ユーロ(12兆3500億円・1ユーロ=95円換算)の緊急融資を受ける条件として、経済改革や緊縮政策を実施すると約束した。同国は、2013年と2014年に合計115億ユーロ(1兆925億ユーロ)を節約しなくてはならない。
だが6月の選挙で誕生した連立政権は、EUに「経済改革の実施期限を2年間延ばしてほしい」と要請し、2月に合意したばかりの内容を変更するよう求めている。この背景には、ギリシャの国内事情がある。連立政権を構成する新民主主義党(ND)と全ギリシャ社会主義運動(PASOK)は、いずれも選挙期間中に、「EUが押し付けた条件(通称メモランダム)の見直しを要求する」という公約を掲げた。ギリシャ人たちは、メモランダムを一種の「不平等条約」と見なしている。両党ともに、国民に約束した都合上、メモランダムをすんなりと受け入れるわけにはいかないのだ。
不況が深刻化する危険
特にギリシャ政府が避けようとしているのが、公務員の解雇だ。EUは、ギリシャが長年にわたり生産性の低い公共部門を肥大させてきたことが、債務が拡大した根本的な原因の一つだと見て、公務員数の大幅削減を求めている。
同国は今年2月EUに対して、2015年までに公務員の数を15万人減らすことを約束した。しかし欧州連合統計局によると、ギリシャの今年6月の失業率は22.5%に達しており、欧州で最悪。若年層の失業率は、昨年末の時点で49.3%という高水準に達している。今後3年間に毎年5万人の公務員を解雇した場合、失業率がさらに上昇し、国民の不満が頂点に達する危険がある。
また、同国の経済状態は相変わらず低迷している。同国の公的債務がGDPに占める比率は、今年第1四半期の時点で132.4%である。昨年第4四半期の165.3%に比べると、今年2月に実施した民間債権者に対する債務の減免(ヘアカット)のために減っている。とはいえ、依然としてEUで最悪の水準にある。
同国政府は、今年の経済成長率もマイナスになると予想している。この予測が的中すれば、ギリシャ経済は5年連続で収縮することになる。同国が深刻な不況から脱出する目処はまだ立っていない。
■図表1 2012年第1四半期のEU主要国における債務比率(GDPに対する公的債務の比率)
資料・欧州連合統計局
■図表2 ギリシャのGDP成長率(%)
資料・欧州連合統計局
「ギリシャのユーロ圏脱退は怖くない」
一方、ギリシャにお金を貸している国の側でも不満が高まっている。特にドイツのフィリップ・レスラー経済大臣が今年7月末に行った発言は、注目を集めた。
彼は、「ギリシャはEUとIMFに対して約束した改革のうち、3分の2を履行していない」と批判。そして「今年2月に合意したばかりの条件を緩和したり、EUが同国に新しい救済パッケージを提供したりすることは、絶対に受け入れられない」とギリシャ政府の要求を拒否した上で、「ギリシャのユーロ圏脱退は、怖くない」と述べた。
つまり経済大臣は、ギリシャが破綻しユーロ圏から脱退しても、その悪影響は十分コントロールできると考えている。裏を返せば、ドイツは「支援のためのコストがあまりにもかかりすぎる場合には、ギリシャのユーロ圏への残留に固執しない」と言っているのである。レスラー氏は、メルケル政権の副首相でもある。これほどの要職にある政治家が、ギリシャのユーロ圏脱退は十分ありうると公言したことは、ドイツ政府の忍耐がすでに限界に近づいていることを示唆している。2年前にメルケル首相が「ユーロ圏からは一国も脱落させない」と述べていたことを考えると、隔世の感がある。
トロイカが9月に発表する報告書の中で「ギリシャ政府の改革努力は不十分であり、現在のままでは、節減の目標を約束どおりに達成できない」という判定を下した場合、何が起きるのか。
EUは9月14日と10月8日に財務相会議を開いて、次の融資額312億ユーロ(2兆9640億円)をギリシャ政府に送金するかどうかを決定する予定だ。EUがこの支払いを見合わせた場合、ギリシャ政府は債務不履行に陥り、破綻する。破綻した国がユーロ圏にとどまることは難しいので、同国はユーロを放棄することを余儀なくされるだろう。
米国の大手銀行シティー・グループのエコノミストたちは、「ギリシャがユーロ圏を脱退する可能性は90%」と見ており、2013年1月1日にそれが現実化する可能性が高いと指摘している。
またIMFの中でも、不満の声が強まっている。ユーロ圏向けの融資が、IMFの融資総額の3分の2に達しているからだ。このためIMFの一部の関係者は「ECBとユーロ圏加盟国の政府はギリシャに対する債権の一部を放棄して、ギリシャの公的債務がGDPに占める比率を2020年までに100%まで下げるべきだ」と主張している。
これはIMFの公式見解ではない。IMFが今年2月に同国政府との交渉で要求した条件は、「ギリシャは債務比率を2020年までに120%に下げるべきだ」というものである。だが非公式の見解とはいえ、欧州諸国に大幅なヘアカット(債務減免)を求める意見が浮上したことは、「IMFの任務は、ユーロ圏を助けることだけではない。欧州は問題を解決するために、もっと血を流すべきだ」という批判がIMFの中で強まっていることを示している。
9月のトロイカの報告書の内容によっては、IMFがギリシャ支援の継続を見合わせる可能性がある。万が一、IMFがギリシャへの融資をやめた場合、欧州諸国の負担はさらに増える恐れがある。
欧州のブラックホール
ちなみに、欧州諸国やIMF、民間債権者が第一次救済措置(2010年5月)と第二次救済措置(2012年2月)でギリシャ救済のために約束した融資や債務減免額を合計すると、3470億ユーロ(32兆9650億円)に達する。これはギリシャのGDPの約166%に相当し、ギリシャ市民一人あたり3万3600ユーロ(319万円)を受け取ることになる。
ギリシャの経済規模は、ユーロ圏のGDPの2.1%にすぎない。その小国に、納税者が拠出した巨額の金が吸い込まれていく。2009年末にギリシャの債務危機が深刻化してから、今年は3年目を迎える。それでも患者の容態は根本的には回復していない。ギリシャは、ヨーロッパ市民の税金を吸い込むブラックホールのように見える。
ドイツの有力な経済研究所の一つであるIFO経済研究所(ミュンヘン)のハンス・ヴェルナー・ジン所長は、7月末に「ギリシャがユーロ圏にとどまることによるドイツの負担は890億ユーロ(8兆4550億円)にのぼるが、ギリシャがユーロ圏を脱退することによるコストは、820億ユーロ(7兆7900億円)にとどまり、残留する場合のコストをやや下回る」という試算を発表した。
ドイツ市民の間でも、ギリシャのユーロ脱退を求める声が強まっている。世論調査機関Yougovが今年5月末にドイツ人を対象に行ったアンケートの結果によると、回答者の56%が「ギリシャはユーロ圏から出て行くべきだ」と回答した。ギリシャはユーロ圏に残るべきだと答えたのは、26%にすぎなかった。
ドイツ政府内で「ギリシャのユーロ圏脱退は、もはやタブーではない」という意見が有力になっている背景には、「底の抜けたバケツ」に資金を送り込み続けることに対する危機感があるのだ。
ECBに泣きついたスペイン
ギリシャと並んで、いまユーロ危機の台風の目となっているのがスペインだ。同国の10年物国債の利回りは、7月23日に一時7.56%に達した。これは、ユーロ導入以来最高の水準である。この日、スペインの株式指数は一時5.5%下落した。利回りが7%を超えると、マーケットで国債を売って資金を調達するのが難しくなる。同国では、多くの金融機関が不動産バブルの崩壊によって、多額の不良債権を抱えている。
スペイン政府にはこれらの銀行を援助する金がないので、同国は6月25日にEUに対して銀行救済だけを目的とした融資を申請した。しかしこの融資を受けたために、債務が国内総生産に占める比率が上昇し、国債を売るのが難しくなっているのだ。銀行危機と債務危機の悪循環である。同国では若年層のほぼ半数が失業するなど、不況の影響も深刻になりつつある。
■図表3 スペインの経済成長率(%)
資料・欧州連合統計局
なぜドイツは国債買い取りを拒否するのか
このため6月末にスペインのラホイ政権は、ECBに「わが国の国債を買って、利回りを引き下げるのを手伝ってほしい」と泣きついた。
これに対し、ドイツ政府は猛然と反対した。欧州通貨同盟の法的基盤であるリスボン条約は、ECBが加盟国の国債を買うことを禁じているからだ。ドイツ連邦銀行は、反対の理由を、「ECBによる国債買い取りは、印刷機を使ってユーロ紙幣を大量に印刷し、過重債務国に金を貸し出すことを意味する。ECBが国債を買って援助してくれるとわかれば、南欧諸国は痛みを伴う経済改革を怠るだろう」と説明している。さらに、大量の通貨がユーロ圏内に出回ると、インフレの危険も高まる。
ECBは2010年5月以来、ギリシャなどの国債2115億ユーロ(20兆925億円)相当を買い上げて、過重債務国を支援した。だがドイツが「EU条約違反だ」と強く反対したため、現在は買い取りを行っていない。
米国では、中央銀行に相当する連邦準備制度理事会(FRB)が、日常茶飯事のように国債を買い取っている。しかしドイツの通貨当局者にとって、中央銀行による国債買い取りはタブーだ。
西ドイツの中央銀行であるドイツ連邦銀行(ブンデスバンク)は、戦後半世紀にわたって「政府からの独立」を維持してきた。インフレ・ファイターとしての役割に徹することで、マルクの安定性と信用性を高めることに成功した。「ドイツ人は神様は信じなくても、連銀は信じる」というジョークがあるほど、国民はブンデスバンクに信頼を寄せてきた。
ドイツがマルクを放棄してユーロの導入に同意した際の条件の一つに、「ECBにドイツ連銀並みの独立性を与える」という内容があった。ECBをドイツ連銀があるフランクフルト・アム・マインに設置したことにも、「ECBは政治に従属せず、独立したインフレ・ファイターであってほしい」というドイツ人の希望が込められている。
ドイツ人は第一次世界大戦後に超インフレを経験し、通貨が無価値になる恐るべき事態を経験した。そのことが国民の骨身にしみこんでいるため、ドイツ人は今でもインフレに対して非常に神経質だ。
政府の財政状態を改善するために、中央銀行が国債を買い取ることは、中央銀行が政治に従属することを意味する。ドイツの通貨政策担当者は、財政政策と通貨政策を合体させることに強いアレルギーを持っている。
ドイツ連銀のイェンツ・ヴァイデマン総裁は、中央銀行による国債買い取りを「monetare Staatsfinanzierung(通貨政策による国家への融資)」と呼んで、絶対的にタブー視している。ドイツ人は、「FRBは、中央銀行としての独立性を失い、米国政府の走狗になっている」と主張する。ここには、通貨政策に関するメンタリティーにおける米独間の大きな違いが横たわっている。
ドイツ連銀の総裁としてECB理事会の一員を務めていたアクセル・ヴェーバーと、ECBの主任エコノミストだったユルゲン・シュタルク(元ドイツ連銀・副総裁)が.昨年、次々に理事を辞任した。この原因の一つは、ECBによるギリシャ国債買い取りに対する強い不満があった。特にシュタルクは「ECBによる国債買い取りは、EU法に相当するリスボン条約に完全に違反する行為だ」と断言する。法律や規則の遵守を重視するドイツ人たちは、2010年以来ECBが南欧諸国の支援のために行なってきた行為を見過ごすことができないのだ。
米国や日本の金融関係者は、危機的な状況になっても原則を曲げようとしないドイツ連銀を、かすかな揶揄を込めて「ファンダメンタリスト(原理主義者)」と呼ぶことがある。
ドイツ政府の強硬な姿勢に対して、スペイン政府は「連帯の精神が不足している」と不満を隠さない。同国のある大臣は、「ドイツはEU域内での、輸出によって最も利益を得てきた。さらにドイツは、第二次世界大戦後の困難な状況にある時、他の国々から支援を受けた」として、他の国々ともっと協力するようにドイツに対して訴えた。この背景には、ドイツはユーロ導入によって最も恩恵を受けたのだから、スペインやギリシャ支援のためにもっと金を使うべきだという南欧諸国の考え方がある。これらの国々では、「ドイツが、南欧諸国に対する支援の拡大に強硬に反対しているから、ユーロ圏が崩壊の危機に瀕しているのだ」と固く信じている市民が少なくない。
私は過去22年間にイタリア、スペイン、ギリシャなど南欧の国々をたびたび訪れて、「人間関係が優先で、法律の遵守はドイツほど重視していない」という印象を得た。もちろんこれらの国々が法治国家であることは間違いないが、ドイツほど規則や法律を優先させるメンタリティーは強くない。南欧の人々はある意味でドイツ人よりも柔軟性に富み、融通無碍である。
ユーロ危機の解決法をめぐりなかなか意見が統一されない背景には、ヨーロッパの南北間に横たわるメンタリティーの違いも影響している。
ドイツの孤立深まる
実際、ドイツはEUの中で孤立しつつある。ユーロ圏加盟国(ユーロ・グループ)のリーダーであるジャン・クロード・ユンカー氏も、7月30日に「ドイツは、国内の都合ばかりを考えるべきではない。もしも他の加盟国がドイツのように振舞ったら、ユーロ圏は崩壊の危機にさらされる」とメルケル政権の態度を批判した。「ドイツは自分の国の繁栄と安定ばかり考えており、困っている南欧諸国を助けようという態度に欠ける」という批判が高まっているのだ。
フランスやイタリアなどの首脳は、ECBがスペインの国債を買い取るべきだという意見に傾きつつある。
南欧諸国の本音は、「EUに正式な救済措置を申請しなくても、ECBから支援を受けられる状態を作り出したい」というものだ。そうすれば、ギリシャやアイルランドが着せられたようなトロイカの「拘束衣」を着なくても済むからだ。
南欧諸国が求めている第1のオプションは、「国債をマーケットで売れなくなった国のために、ECBが国債を無制限に買い取って、利回りの高騰を防ぐ」というものである。
第2のオプションは、7月1日に発足したEUの融資機関ESMに銀行機能を与えて、南欧諸国の国債を買い取らせるという手だ。ESMはこの国債を担保としてECBに差し入れることによって、ECBから無制限に資金を調達し債務国に融資する。
ここで南欧諸国にとって重要なのは、ECBの関与である。これまでユーロ・グループが打ち出してきた救済策は、いずれも不発に終わった。だがECBは、ユーロ紙幣を印刷する権限を持つ。その潤沢な資金量に対して、マーケットの投機筋が対抗することはできない。
さらに、ECBが債務国の国債を買ったり、ESM経由で無制限に資金を供給したりしてくれれば、南欧諸国はEUに正式に救済を申請する必要がなくなる。ギリシャやアイルランド、ポルトガルが課されたような厳しい緊縮策を、押し付けられずに済む。EUとIMFによって、箸の上げ下げを監視される屈辱を味わわずに済むというのは、南欧諸国にとって大きな魅力だ。
ECBの国債買い取りとESMの銀行化は、ギリシャやスペイン、イタリアにとっては夢のような話だが、ドイツにとっては悪夢のシナリオである。債権国の支払い義務も、無制限になってしまうからだ。債務国が破綻してECBが買い取った国債が無価値になった場合、最終的に損失を受けるのはユーロ圏加盟国の納税者である。このためドイツ政府は、南欧諸国が夢見るいずれのオプションについても断固として反対している。
ECB総裁の「爆弾発言」
こうした中、注目されるのがECBのマリオ・ドラギ総裁の動きである。彼はイタリアの出身だ。同国の10年物国債の利回りは、昨年11月25日に7.26%まで上昇した。その後下がっていたが、今年3月以降再び上昇し、6月24日には6.6%と7%の危険水準に近づいた。
7月26日にロンドンのグローバル・インべスターズ・コンフェレンスという会議で、ドラギ総裁が行った発言は、世界中で注目を集めた。
比喩を使うのが好きなドラギ氏は、まずユーロを虫にたとえて、聴衆を煙に巻いた。「ユーロはマルハナバチ(ミツバチよりも大型で毛深い蜂)のようなものです。これは自然の不思議とでも言うべきものでしょうか。一見マルハナバチは飛べないと思われますが、それでも飛ぶのです」。マルハナバチは、体重に比べて翅(はね)の揚力が少ないので、飛行が難しそうに見える。ドラギは債務危機の泥沼の中で苦しむユーロが、結局は立ち直ると指摘したかったのだろう。
特に注目されたのは、ドラギ氏が「ECBは、ユーロを維持するためには、与えられた権限の範囲で、必要となればあらゆる措置を取ります」と断言したことだ。彼は、「私の言うことを信じてください。ECBが取る措置は、十分な効果を持つでしょう」と付け加えて、短いスピーチを終えた。
この発言が伝わった金融市場は、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。市場関係者は「ECBが近くスペインの国債の買い取りに踏み切る」と予想したのだ。このため、スペイン国債の利回りは一時的に下落した。
ドラギ総裁は、ユーロ圏加盟国の中央銀行の総裁たちに事前に連絡することなく、ロンドンでこの発言を行なった。ドイツ連銀のヴァイデマン総裁にとっても、寝耳に水だった。ドイツ政府は、「ECBが独断で国債買い取りに踏み切るというシグナルなのか」と疑心暗鬼に陥った。
スペインも救済を正式申請か?
このため8月2日にECBが開いた理事会に、世界中の金融関係者が注目した。しかし、マーケットにとってこの理事会の結果は「大山鳴動して鼠一匹」だった。ドラギ総裁は、理事会後の記者会見で、債務国の国債をECBが買い取ることに前向きの姿勢を示した。しかしその条件として、「債務危機に陥った国が、EUに対して正式に救済申請を行い、EUの経済改革や緊縮策を受け入れること」を付け加えたのである。
理事会での採決では、ドイツのヴァイデマン総裁だけが国債の買い取りに反対し、他のユーロ圏加盟国の中央銀行総裁は、全員賛成した。
しかしドラギ総裁はドイツの顔を立てるために、「正式の救済申請なしにECBが国債を買い取ることはあり得ない」と釘を刺したのだ。つまりECBによる国債の買い取りという支援措置を受けたい国は、EUが課す「拘束衣」を着なくてはならない。スペインやイタリアにとって、ギリシャが課されたような厳しい緊縮措置を避けることも、重要な目標である。このため、ECB理事会の決定は、無条件で国債の買い取りを求めていた南欧諸国に失望を与えるものだった。
ドラギ総裁のこのメッセージを受けて、スペイン政府のマリアーノ・ラホイ首相は重大な発言を行った。彼は8月3日にマドリードで開いた夏季休暇直前の記者会見で、「わが国は、銀行救済のために申請した1000億ユーロの緊急融資に加えて、第2の救済措置の申請をすることがあり得る」と述べたのだ。第2の措置とは、銀行部門の救済に限らない、EUに対する正式な救済申請である。スペイン政府が、EUに正式に救済申請をする可能性を示唆したのは、これが初めてだ。
EUに救済を正式に申請するということは、全世界に対して「自力再建は不可能」と告白し、ギリシャやポルトガル、アイルランドと同格になることを意味する。誇り高いスペイン人たちにとって大きな屈辱である。
これまでスペイン政府は、「正式な救済措置の申請は必要ではない」と繰り返してきた。6月25日に行なった融資申請では、「銀行救済だけが目的」という理屈を押し通し、EUによる経済改革と緊縮策の押し付けを避けることに成功した。
しかしラホイ氏は、ドラギ総裁のメッセージを聞いて、EUへの救済を正式に申請することなく、ECBに国債を買い取ってもらう道が閉ざされたことを知った。このため彼は、これまでタブーだった「正式な救済申請」の可能性を初めて示唆したのだ。
ラホイ首相は、「まだ救済を申請すると決定したわけではない」と説明している。けれども、10年物国債の利回りがすでに7%を超えている現在、彼が夏休み明けに正式申請に踏み切る可能性は十分にある。
欧州の金融関係者たちは、9月の最初の週にユーロ圏加盟国の首脳、もしくは財務大臣が臨時会議を開き、「スペイン救済のための特別な措置」を発表する可能性を指摘する。元々9月6日には、ドイツのメルケル首相が経済界の代表とともにマドリードを訪問する予定になっている。メルケル氏がスペイン滞在中に、ラホイ氏とともにテレビカメラの前に立ち、同国への力強い支援を約束すれば、EUはマーケットに対して重要なシグナルを送ることができる。
ブリュッセル、フランクフルトの官僚たちは、夏休み返上でスペイン救済の準備を進めているかもしれない。スペインの経済規模は、ユーロ圏のGDPの11.2%に相当する。支援国の負担の大きさは、ギリシャの比ではない。EUはギリシャとスペインという「二正面作戦」を戦う運命に陥るかもしれない。
ESMをめぐる違憲訴訟
さて9月がユーロ危機の天王山になると私が考える第3の理由は、ドイツの連邦憲法裁判所が9月12日に、「ドイツがEUの融資機関ESMに加わるのは、合憲か否か」をめぐる訴訟について判決を下すからだ。
ドイツ連邦議会は今年6月29日に、ドイツがESMに参加することを承認している。これに対してキリスト教社会同盟(CSU)のペーター・ガウヴァイラー氏らは「ESMへの参加は憲法違反」として連邦憲法裁判所に提訴した。原告は、「南欧諸国の債務を他の国に肩代わりさせるESMは、加盟国の債務を他の国が引き受けることを禁止するリスボン条約に違反している。ドイツがESMに参加した場合、他国への支援を強制されることになる。これは連邦議会の予算決定権が剥奪されることを意味する」と主張している。
連邦憲法裁判所は、口頭審理を通常行わない。しかし同裁判所のアンドレアス・フォスクーレ裁判長は、ドイツ連銀のヴァイデマン総裁やIFO研究所のジン所長らを証人として招き、ESMに関する意見を聴取した。憲法裁が異例の口頭審理を行ったことは、裁判長がこの訴訟を極めて重視していることを示している。ドイツでは、200人を超える経済学者たちがジン所長に賛同して、ユーロ・グループが南欧諸国の債務を共同化することに反対する公開書簡に署名している。
ドイツの経済学者たちは、納税者の資金で、銀行に投資している投資家を間接的に救うことについても批判している。前回もお伝えしたように、6月29日のEU首脳会議で採択された共同宣言は、「ユーロ圏全体を監視する銀行監督官庁が設立されるなど、一定の条件が整えば、ESMは経営難に陥った銀行に直接融資することができる」としている。このことは、ESMが拠出する公的資金によって、銀行の株主など民間の債権者の負担を軽減することを意味する。
もしも連邦憲法裁判所が「ドイツのESM参加は違憲」と判断した場合、マーケットでは大きな混乱が生じるかもしれない。ESMは、EUが過重債務国を救済する上で最も重要なメカニズムである。EU最大の経済パワーであるドイツが参加できないことは、ESMの事実上の崩壊につながるかもしれない。現在でも孤立しているドイツに対し、ヨーロッパ諸国の批判は一段と高まるだろう。
ただし憲法裁判所は、これまでも何度か政治的な判断を下してきた。この裁判所は、純粋に法律的な判断だけではなく、判決が及ぼす政治的な影響にも配慮するのが特徴だ。特に、ユーロ救済のようにドイツだけではなく、欧州の他の国々にまで大きな影響が及ぶ問題では、なおさらである。
したがって、私は連邦憲法裁判所がESMへの参加を違憲と判断する可能性は低いと考えている。しかし2010年以来ドイツ政府が、EU法に抵触する措置――ECBによるギリシャ国債の買い取りなど――を受け入れざるを得ない状況に追い込まれ、連邦議会の権限が狭められてきたことも事実だ。この「超法規的事態」をドイツ司法界の最高権威が今回も黙認するのか。
9月には、ヨーロッパだけでなく世界中の目が、憲法裁があるカールスルーエに向けられることになるだろう。夏休みを終えて首都に戻ってくるヨーロッパ各国の首脳を、難題の山が待ち受けている。
熊谷 徹(くまがい・とおる)
在独ジャーナリスト。1959年東京都生まれ。早稲田大学政経学部経済学科卒業後、日本放送協会(NHK)に入局、神戸放送局配属。87年特報部(国際部)に配属、89年ワシントン支局に配属。90年NHK退職後、ドイツ・ミュンヘン市に移住。ドイツ統一後の変化、欧州の安全保障問題、欧州経済通貨同盟などをテーマとして取材・執筆活動を行う。主な著書に『ドイツ病に学べ』、『びっくり先進国ドイツ』『ドイツは過去とどう向き合ってきたか』『顔のない男―東ドイツ最強スパイの栄光と挫折』『観光コースでないベルリン―ヨーロッパ現代史の十字路』『あっぱれ技術大国ドイツ』『なぜメルケルは「転向」したのか――ドイツ原子力四〇年戦争』ほか多数。ホームページはこちら。ミクシィでも実名で日記を公開中。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20120816/235590/?ST=print
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