http://www.asyura2.com/12/hasan77/msg/370.html
Tweet |
財政緊縮で高まる雇用不安 世界景気
2012年8月20日(月) 白川 浩道
足元で米雇用情勢の悲観ムードが後退しつつある。だが財政緊縮の波は今後、欧州から米国、日本へと及ぶ。「悲惨指数」は、むしろ世界的な雇用不安を予兆させる。
7月の米雇用統計で、非農業部門の雇用者増加数が市場予想を上回り、米雇用情勢への悲観論が後退している。だが、世界的に見れば、デフレ圧力が強まる中で、先々は雇用不安が高まりやすい状況に陥る可能性がある。そのことを示唆しているのが「ミザリーインデックス」という指標だ。
この指数は、失業率と物価上昇率(前年同月比)の値を合算したもので、直訳通り「悲惨指数」とも呼ばれる。仕事が減り、モノの値段が高くなると、この指数は上昇する。生活の質が「悲惨」な方向に向かうというわけだ。
今年に入り各国とも低下しやすい傾向にある。エネルギー価格の下落でインフレの兆候が収まっているためだ。
下がり方が顕著なのが米国だ。住宅販売が回復しており、自動車業界も比較的好調だったからだ。7月の米雇用統計が上振れしたこともあり、9月の米連邦公開市場委員会(FOMC)での追加金融緩和観測は弱まるだろう。
もっとも同月の失業率が0.1ポイント上昇したほか、農業や自営業を含めた総就業者は20万人近く減った。このため、秋以降に再度、米雇用情勢が悪化する可能性がある。
焦点は「ジャクソンホール」
8月下旬には米ワイオミング州ジャクソンホールで、世界の中央銀行首脳が毎年集まる夏季会合が開かれる。ベン・バーナンキ米連邦準備理事会(FRB)議長は過去、この会合の場で量的金融緩和第2弾(QE2)を予告した経緯があるだけに、今年も発言内容に注目だ。
逆に悲惨指数が上昇しているのがユーロ圏だ。ユーロの下落が続き、輸入物価は上がりやすい。財政政策は引き締めざるを得ず、欧州の雇用悪化につながっている。
欧州中央銀行(ECB)には、南欧諸国の国債買い入れ策など、まだいろんな政策手段が温存されてはいるが、金融政策でこの「悲惨」の度合いを押し下げることは難しい。金融緩和を強めても、逆にインフレのリスクは高まるが、雇用を後押しするとは限らない。やはり、財政政策が必要になる。
しかし、世界の流れでは、欧州に続き、米国も来年、財政を緊縮しなくてはならない。日本も消費税増税で財政緊縮に向かう。このため、どの国でも消費行動が縮み、ますます物価が下がるというデフレの兆候が強まりかねず、雇用不安が高まりやすくなるだろう。
(構成:松村 伸二)
白川 浩道(しらかわ・ひろみち)
クレディ・スイス証券 チーフ・エコノミスト
1983年慶応義塾大学卒、日本銀行入行。91年経済協力開発機構(OECD)出向。UBS証券チーフ・エコノミストを経て、2006年から現職。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/research/20120816/235614/?ST=top
ノーベル賞経済学者とエストニア大統領の緊縮財政論争(前編)
クルーグマンの持論――緊縮は愚論――は小国には適用できない?
2012年8月16日(木) Bloomberg Businessweek
2009年5月、エストニア政府は米国とは異なる方向に歩み出すことを決めた。米国で7870億ドル(約61兆6000億円)の緊急経済対策が成立してから数カ月後のことだった。困難に立ち向かうことを選択したのだ。エストニアは外貨準備に手をつけたり、他国からの借り入れに頼ったりすることを拒否した。
閣僚らは、当時の通貨「クローン」を切り下げることなど考えもしなかった、と語る。仮に通貨切り下げに走っていれば、10年かけて進めてきたユーロ導入計画がつまずいていただろう。旧ソ連による占領が終了して以降、堅持してきた均衡予算を死守するべく、同国政府は年金の凍結、公務員給与の10%近い引き下げ、付加価値税の2%引き上げに踏み切った。この年、エストニアのGDPは14%以上落ち込んだ。
エストニアの首都、タリン郊外の高圧鉄鋼容器製造会社、エスタンクでは利益が低迷し、工場を2倍に拡張する計画を延期した。エストニアの失業率は16%に達した。大勢の溶接工が仕事を求めてフェリーに乗り、フィンランド湾を渡ってヘルシンキへと向かった。エスタンクの工場長、バイド・パルミック氏は、景気が悪化する中、何人かの友人が職を失ったと言う。「本当に厳しい時代だった」と当時を振り返る。
今、溶接工たちはエストニアに戻っている。2010年にエストニアのGDPは2.3%拡大した。エストニアは同年末、果敢にユーロを導入した。2011年のGDP成長率は7.5%に達した。エスタンクは2012年に従業員数を3分の1以上増員した。同社はフィンランドやスウェーデンへの進出を果たし、今やドイツ市場に進出する機会をうかがっている。工場拡大計画も前進させた。
失業率は10.8%まで低下した。理想的な数字とは言えないが、スペインの半分以下だ。これが評価され、2011年の選挙で大統領は再任され、連立与党も信認を得た。昨年11月にIMFは、エストニアが実現した輸出主導型の景気回復を高く評価し、「素晴らしい財政状況」だと称えた。
緊縮財政は是か非か?
対照実験ができない以上、エコノミストは、それぞれの国の現状をあるがままに受け入れざるを得ない。エストニアの例は、金融・財政緊縮策が苦難の道のりを経て経済成長を実現し得ることを示しているように見える。パルミック氏は「今になってみれば、バブル崩壊はとても良いことだった」と指摘する。
当然ながら、欧州やその他の地域で緊縮策を提唱する者は、この人口120万の小国、エストニアを成功モデルとして喧伝している。だが大西洋を挟んだ米国では、ポール・クルーグマン氏が、この種の緊縮策に何年も前から反対している。クルーグマン氏は、ノーベル賞を受賞した経済学者で、ニューヨーク・タイムズのコラムニストを務めている。緊縮政策は、意味のない惨めな経済状態を招くだけ、というのが彼の主張だ。この議論は米国――と他のほとんどの国――の将来に、重要な示唆を与えることになるだろう。
クルーグマン氏は6月6日、「エストニア・ラプソディ」と題したブログの中で、エストニアが「緊縮擁護派のポスター・チャイルド(シンボル)」になっていると批判した。ブログの冒頭に、実質GDPの推移を示すグラフを掲載。景気が回復したといっても、依然として、2007年のピークを10%近く下回っていることを示したものだ。そして「これを経済的勝利と呼べるのか」と疑問を呈した。
「まるでエストニア人に攻撃を仕掛けてきたようだった」。パルミック氏は、工場の真上にある事務所――新しい生産ラインの青写真がそこかしこに置いてある――でこう語った。「あの頃は本当に苦しかった。だが人々は一丸となって試練に取り組んだ。それなのにクルーグマン氏は自分に都合のいい事実だけを取り上げている」。
筆者はエストニアに1週間滞在し、3都市を回った。話を聞いた人の中で、エストニアの経済成長に関するクルーグマン氏のブログについて知らなかったのは2人だけだった。これは、エストニア人が皆、ブログ中毒のアマチュア・エコノミストだから、ではない。エストニアの大統領、トーマス・ヘンドリック・イルベス氏がクルーグマン氏に戦いを挑んだからだ。
クルーグマン氏のブログに大統領が反論
クルーグマン氏がブログを書いた夜、イルベス大統領はラトビアを公式訪問し、同国の首都リガを訪れていた。イルベス大統領は同市のビジネスパーソン向けに講演し、緊縮策を実施しているラトビアに「精神的な支援」を送ると述べた。船上でのレセプションに出席した後、ホテルに戻ったイルベス大統領はiPhoneを取り出した。「『クルーグマン氏がエストニアを攻撃している』という記事をどこかで読んだので、彼のブログを見てみようと思った」のだそうだ。大統領はそこで言葉を切った。
エストニアの大統領は、公式な権限はほとんど持っていない。英国と同様、首相が政府を率いている。大統領はエリザベス女王と同様だ。地位が高く、彼が口を開けば誰もが耳を傾ける。6月6日、リガのラディソン・ホテルの前に立ち、イルベス大統領はクルーグマン氏のブログにアクセスして、73分間に5回、コメントした。
午後8時57分。独善的で傲慢、そして横柄にも、知りもしないことについてコメントを書こう。要するに、彼らは単なる辺境の民にすぎない。
午後9時6分。ノーベル経済学賞受賞者なら、財政問題について独り善がりの見解を披露し、わが国を「不毛の地」などと呼んでもいいのか。彼らにとってこれは、単なる、プリンストン大学とコロンビア大学の論争の類なのかもしれないが。
午後9時15分。だが、我々に何が分かると言うのだ。しょせん我々は、物も言えない愚かな東欧人にすぎないのだ。無教養な我々も、自分たちの罪をいつかは理解できることだろう。
午後9時32分。東欧人のことなどくそくらえだ。英語は下手だし、何の異論も唱えないで、合意したことをそのまま守ることしかしない。そして責任ある政府を再選する。
午後10時10分。まったく不愉快だ。我が国の政策が、広く受け入れられている常識に反するというだけで、そして筆者が反対しているというだけの理由で、筆者の言うことを聞く必要はない。
エストニアの新聞や国際紙が、イルベス大統領のコメントを掲載した。翌朝、ユルゲン・リギ財務相――2009年から財務相を務めている――は記者会見で、大統領のコメントについて言及せざるを得なかった。
リギ財務相は筆者にこう言う。「大統領の言い方には問題があったかもしれない。例えば、反応は過敏すぎるし、クルーグマン氏をこきおろしている。だが、大統領の言っていることは概ね正しい。クルーグマン氏は明らかに間違っている。クルーグマン氏は、米国のような国が取り得る選択肢と、小国の経済が取ることができる選択肢の違いを理解しているとは思えない。ノーベル賞受賞学者として、それはいかがなものか」。
エスタンクの工場でパルミック氏は、クルーグマン氏との議論における大統領の口調を懸命に説明しようとした。「たぶん、大統領はもっと……」。パルミック氏は適切な言葉を探しながら若い同僚を見た。その同僚はノートパソコンでグーグル翻訳にアクセスし、「冷静に(tired)」と言った。「そうだ、その通りだ。大統領はもっと冷静に反論できたはずだ」(パルミック氏)。
ソ連に国を追われ米国で育つ
イルベス大統領は、最初、筆者に対してクルーグマン氏のことを話すのにやや戸惑いを見せた。「皆がそのことを話題にする」「機内でも、誰彼となく私のところにやってきて『あなたがツィッターにあれを書いた人ですか』と聞いてくるんだ」。
長身のイルベス大統領は、カドリオルグ宮殿の執務室のソファーに体を折り畳むようにして座って話した。カドリオルグ宮殿は、ピョートル大帝が妻のエカテリーナ王妃のためにタリンに建てた宮殿である。大統領はブルックスブラザーズで買った蝶ネクタイをし、タリンの洋服店で誂えた三つ揃えを着ていた。妻のエベリンさんと一緒に、エストニアのライフスタイル紙の表紙を飾ることも多い。
大統領はこう憤慨する。「この20年間というもの、私はこの奇妙な東西関係について書き続けてきた。(西欧人にとって)エストニア人はしょせん、地味なアパートに住む地味な国民にすぎないんだ」。「だがいつまでもこのままにしてはおけない」。彼はこう批判する――欧州では依然として、東欧人に対する丁寧さと、その裏に潜むかすかな人種差別が社会的に受け入れられている。
イルベス大統領はケチの付けようのない流暢な英語を話す。それは彼がコロンビア大学で心理学の学位を取ったから、だけではない。
同大統領の両親は「逃避行」の中で出会った。1944年、ソビエトの侵攻を受けたエストニアから、10万人の人々が脱出した。イルベス大統領は1953年にスウェーデンで生まれ、大統領自身の言葉によれば「エストニアの子供トム・イルベス」として、ニュージャージー州フォート・リーとレオニアで育った。両親は家ではエストニア語を話し、左手にフォークを持たせてトム少年に食事をさせた。
フォート・リーにはポーランド出身の子供が何人かいた。ポーランドは地図に載っている。おじいさんがイタリア出身の子供もいた。イタリアも地図に載っている。トム少年は、地図上のエストニアの位置を指差したつもりだった。だが、そこにはソビエト連邦とあるだけだった。子供たちは言うだろう。「そうか、おまえはロシア人か」。
トム少年は7歳の時、違う言葉を話すのなら、なぜ米国に来たのかと両親に聞いた。父親の答えは「コミュニストが来たから」だった。そこで彼は「コミュニストって何」と父親を問い詰めた。「夜中にやってきてお前を捕まえ、家畜車につないでシベリア送りにするのさ」というのが父親の答えだった。
大学卒業後、トム青年は大学院に進み、心理学の勉強を続けた――トマス・ピンチョンの「重力の虹」を読むまでは。この本を読んだ後、何をしたいのか確信が持てなくなった。ただし、もう大学院に用がないことは分かった。トム青年はエストニアの詩の翻訳を始め、やがてエストニア語の講座を受け持つようになった。そして1984年にラジオ・フリー・ヨーロッパの研究員にならないかと誘われた。トム青年は1988年から1993年までラジオ・フリー・ヨーロッパのエストニア語放送の責任者を務めた。年配のエストニア人は彼の放送をよく覚えている。
ソ連による占領が終了した後、エストニアの初代大統領、レナルト・メリ氏はイルベス氏にそろそろ本気で仕事に取り掛かるべきだと発破をかけた。「ここまで登ってくるべきだ」とメリ氏に声をかけられた時のことを、イルベス大統領は思い出す。「我々が何を間違ったかなんて、後でラジオ・フリー・ヨーロッパで言うなよ」。
イルベス氏は米国の国籍を捨て、他の移民とともにエストニアの外交局に入局した。駐米エストニア大使を務めた後、外務大臣になった。2006年に大統領に選出され、今は2期目に入っている。
母親は今もニュージャージー州に住んでいる。一度はエストニアに戻ろうとしたが、難しいことが分かった。「母は60年間も外国で過ごしてきた」「エストニアに、彼女の知人は一人もいない」とイルベス大統領は言う。
南部の学園都市、タルツゥーの市場で、筆者はランド・ベバルソンという農家出身の1人の青年にイルベス大統領のことをどう思うか聞いてみた。すると「大統領の洋服が好きだな。特にネクタイがね。大統領はいつもスーツを着てる」との答えが返ってきた。クルーグマン氏との争いのことは父親から聞いたと言う。「父さんはトーマス(イルベス大統領)が言うべきことをはっきり言ったとほめていた」。そして、少し言い淀んでからこう付け加えた。「父さんは大統領がちょっと酔っぱらっていたと考えていたよ」。
Sarah Frier
(Bloomberg BusinessWeek, ©2012 July. 23-29,
Bloomberg L.P. All rights reserved.)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20120808/235451/?ST=print
ノーベル賞経済学者とエストニア大統領の緊縮財政論争(後編)
緊縮に堪えユーロに加盟〜クローンでは投資家の信頼を得られない
2012年8月17日(金) Bloomberg Businessweek
ルールを守ることを非難されるいわれはない
旧ソ連から独立した後、エストニアは西側の一員となることに力を注いできた。NATO(北大西洋条約機構)や有志連合(米国とともにイラク戦争に参加した国々)、EUに加わった。独立後、初代首相となったマルト・ラール氏は、よくこんな話をする。首相になるまでに読んだ経済関連の本は1冊だけで、それはミルトン・フリードマンの「選択の自由−自立社会への挑戦(Free to Choose)」だった。
エストニアは開かれた効率的な国で、通信環境も整備されている。世界銀行は、事業活動が容易な国を並べたランキングにおいて、エストニアを183カ国中24位に位置づけている。エストニア語はフィンランド語に近く、フィンランドとスェーデンがエストニアの2大貿易相手国である。イルベス大統領はカドリオルグの官邸に、ある地図を掲げている。EU加盟国を競争力の高い順に色分けしたものだ。エストニアは第2グループ。ドイツや英国とともに、トップ集団を走る北欧諸国に続く高い競争力を誇っている。
だが、エストニアの人々は、外国人が自分たちのことをわざわざ理解しようとするはずはないと考えている。閣僚は、こう不平を述べる。我々は懸命に努力している。にもかかわらず、「東欧」、悪くすると「辺境」などというレッテルを貼られて、その他の国々と10羽一絡げにされる。欧州危機以降、エストニアの人々の間では、自分たちを正しく理解してもらおうという前向きの姿勢が再び薄れてきている。
イルベス大統領は欧州を2つのグループに分ける。ルールを守る国と守らない国だ。さらに、欧州で新種のポピュリズム(大衆迎合主義)が台頭していることに懸念を抱き始めている。つまり、ルールを守る国の国民が、ルールを守らなかった国を助けることに後ろ向きになっていることだ。同大統領は例としてフィンランドとスロバキアを挙げる。フィンランドでは、救済拒否を掲げる「真のフィンランド人党」が選挙で大躍進した。スロバキアでは昨年、欧州救済基金を支持していた首相が信任投票で敗れ、辞任した。
エストニアは、彼らいわく、常にルールを守ってきた。2009年には苦汁を飲んでルールを死守した。イルベス大統領によれば、エストニアの平均給与はギリシャの最低賃金より10%低い。年金もはるかに少なく、公務員の定年は15年も先だ。「国民が苛立ちを感じても不思議はないだろう」と同大統領は訴える。
クルーグマン氏に対するイルベス大統領の激しい反発の根っこには、この苛立ちと同大統領自身の米国での若き日の体験がある。同大統領は、西欧人の話を聞いて、恩着せがましさやこうした小国を一緒くたに扱うニュアンスを聞き分けられるという。大統領は「英語ができて良かったと私が思うのはこんな時だ」と皮肉まじりに語る。
筆者がイルベス大統領と話した日の夜、同大統領はコンサートと歓迎会を開催した。エストニアの海外駐在員および海外投資家が一堂に会する国際交流会の一環だ。エストニアはイスラエルやアイルランドと同様、国外に移住した者を通じて海外投資を引き付ける方法を探っている。大統領は歓迎会で筆者のところに来て、カドリオルグで言い忘れたことがあると言った。大統領によれば、「840字」で一生分の学術論争をしたそうだ。字数はもう少し多かったと思うが、それは、さしたる問題ではない。
エストニアはなぜユーロを採用したのか?
クルーグマン氏は、イルベス大統領がニュージャージー州で育ったことを、筆者が電話で伝えるまで知らなかった。クルーグマン氏は「それで納得できた」と言い、「それなら『そこで何か問題があったのですか?』という答えを返そう」と語った。クルーグマン氏は、自分が書いたものに対して「ヒステリック」な反応があるのはいつものことだと言う。けれども、一国の元首がそのような反応をするとはさすがに予想していなかった。
クルーグマン氏によれば、エストニアのような国にとって問題は、いかに賃金を競争力のある水準に抑えるか、だ。労働者の賃金を低く抑えて、より多くの製品を海外で販売する。それを実現するには2通りの方法がある。1つは、通貨を切り下げ、労働コストを相対的に割安にする方法。もう1つは、エコノミストが内的減価と呼ぶ方法だ。つまり、通貨を切り下げずに、労働者に賃下げを受け入れさせる。
もしクルーグマン氏が、2009年のエストニアにおいて判断を下せる立場にいたら、クローンを切り下げたことだろう。同氏に言わせれば、人々に賃下げを納得させるのは難しい。こうした見解を初めて示したのはジョン・メイナード・ケインズだ。彼は、賃金は「硬直的」であると論じた。内的減価を通じて労働コストを絶対的に安価にするよりも、通貨の引き下げを通じて労働コストを相対的に割安にするほうが容易だ。だがエストニアはより困難な道筋を選択した。クローンとユーロとのペッグを維持し、それを最後まで死守して、2010年にユーロを導入した。控えめに言っても、苦い薬を飲んだのだ。
エストニアのアンドルス・アンシプ首相は「一部の頭のおかしいエストニア人がなぜ危機の最中にユーロ圏に加入する決断を下したのか、米国人が理解するのは極めて困難だ」と語る。最終的には、同首相が決断を下した。タリンにある首相執務室は北側を向いており、フィンランド湾を見渡すことができる。同首相は、こう語る――スウェーデンやフィンランドの起業家は、1990年代初め、両国が通貨を切り下げたことを覚えている。経済を開放している資本力の乏しい小国にとって、海外からの直接投資はすべてだ。しかしながら、事態は思うようには進まなかった。アンシプ首相によれば、2009年の危機後、北欧の投資家は「エストニア経済への投資に二の足を踏むようになった。彼らは小国の通貨など信用できなかったのだ」と語る。
エストニアでは1992年以降2010年にユーロを導入するまで、カレンシーボード(通貨委員会)が金融政策をつかさどっていた。カレンシーボードは独立機関で、クローンの価値を独マルク(直近はユーロ)とペッグさせていた。これは、投資家の為替リスクを完全に排除することが目的だった。
しかしながら2009年に、エストニアでは「いずれ通貨切り下げが避けられない」との噂が流れた。北欧諸国の財務相の中には、いつ切り下げを実施するのか、と聞いてくる者までいた。アンシプ政権は、彼らに対しても「為替レートを堅持する」と説明しなければならなかった。クローンは投機的な売り圧力にさらされた。
アンシプ首相は「こうした噂や疑念を振り払うためには、少しでも早くユーロ圏に加入する以外に方法はなかった」と振り返る。大国は意のままに通貨政策を選択することができる。しかしながら小国はどのような行動を取ろうと、市場による信認の問題が降りかかってくる。クルーグマン氏の処方箋は、プライドと機能の両面から、エストニアの差し迫ったニーズに答えるものではない。
エストニアがなぜあのような財政政策を採用したのか?ユーロに加入する必要性があったことは、理由の1つだ。マーストリヒト基準――ユーロ圏加入規則――は、財政赤字をGDPの3%以下に抑え、インフレ率を低位に安定させることを求めている。金融危機により、インフレは抑えられていた。エストニアは財政赤字を出してはならなかった。ユーロに加入し、為替リスクがあるとの認識を払拭するまでに6カ月間の猶予があった。アンシプ首相は「われわれは2009年に夢をあきらめた。夢は早くあきらめるほうが、苦痛は小さい」と緊縮策について言及する。
クルーグマン氏は、カレンシーボード制が通貨の切り下げを困難にするかもしれないことに一定の理解を示しつつも、アルゼンチンのカレンシーボードが2002年に(長引く債務危機の後)通貨のドル・ペッグ制を放棄した例を指摘する。また、クルーグマン氏はアンシプ氏が指摘する信認の問題についても、ある程度受け入れている。「確かに、当局が通貨切り下げを否定しても、市場の不信感を完全に拭えるわけではない。だが、通貨リスクがないことを理由に流入してくるマネーは、恐らく、あてにすべきマネーではない」。
彼は次のように続ける。「エストニアが安全な投資先と見なされたいなら、それは、スペインのようになる機会を求めていることと同じだ」。しかし実際には、これまでに起きたことは、エストニアはエストニア――住宅バブルが起きる前の、割安な熟練労働力を抱え、海外直接投資を引き付け、緩やかで安定した成長をなし遂げたる古き良きエストニア――だということだ。
2007年のピークはバブルが引き起こした仮のもの
タルトゥ大学で経済学を教えているウルマス・バーブレイン氏はこう指摘する。「クルーグマン氏はまったく言及していないが、2008年にエストニアが経済危機の影響を受け始めた時、我々はすでに自らの危機を抱えていた」。バーブレイン氏は、景気が下降に転じる前に訪れた事態こそが真の危機だったと考えている。同氏によれば、持続不可能な借り入れに依存した成長がエストニア経済を歪めた。
1990年代、エストニアは労働コストが低く、しかも一定の教育を受けた熟練労働者が豊富にいた。フィンランド企業が南下してエストニアで事業を始めたのはこのためだ。例えるなら、エストニアはフィンランドにとっての東ドイツだった――地理的に近く、コストが低く、文化的な馴染みもある。2004年ころ、スウェーデンとフィンランドの銀行はエストニアで、住宅ローンの貸付競争を猛烈な勢いで始めた。エストニアでは新築ブームが起きた。
バーブレイン氏はこの時に起きた「恐ろしい展開」を数え上げる。民間債務はGDPの10%から100%に膨らんだ。債務が膨らむにつれ、労働者は製造業から離れ、よりうま味のある建設業界に移って行った。賃金は急騰し、生産性の伸びは頭打ちになった。製造コストが上昇し、国内債務による海外投資のクラウディング・アウトが起きた。
リギ財務相は「成長可能性についての我々の理解を正すために」バブル崩壊が必要だったと考えている。
リギ財務相は2007年に、ある有名なエストニアのビジネスマンから、次のように問い質されたという。「エストニアは豊かになり、国内で利益を上げられる。なぜ輸出しないといけないのか」。リギ財務相は「今、彼はほぼ破産状態だ」と語る。政治家は自分に都合の良い話を持ち出したがるものだ。名前も明らかにしない1人のビジネスマンの話で、経済政策の是非を証明できるわけもない。
リギ財務相はバーブレイン氏と同様、エストニアは景気の厳しい落ち込みを2度経験したと指摘する。1度目は、世界的な景気低迷がエストニアを襲った時。もう一度は、エストニアが以前よりも金持ちになったと考えたことが引き金になった。
クルーグマン氏が自身の主張の根拠としてブログに掲げたグラフは、エストニアのGDPがピークに達した2007年から始まっている。当時、賃金は高く、失業率は低かった。たいていの国民にとって、これは良いことだった。そして、彼らにとって、今の状況は依然として当時より悪い。
だがこのグラフを2000年まで遡れば、GDPは緩やかで安定的な伸びを記録していたことがわかる。その後、短いバブルが訪れ、やがてバブルが崩壊した。今は成長が横ばいになって、バブルが起こらなかったら、そこにいたであろう水準に戻りつつあることが分かる。
バーブレイン氏は、バブル時代の「GDP成長率は本物ではなく」、海外からの安価な借り入れが牽引した『人工的な成長だった』と指摘する。バーブレイン氏に言わせれば、そもそもクルーグマン氏が引き合いに出した天井自体が「本物」ではなかったのだ。エストニアが再びその水準に到達することなく今日あるのは良いことだという点で、バーブレイン氏とリギ氏の意見は一致している。そんな水準へは初めから到達すべきではなかったのだ。
クルーグマン氏の主張で1つ正しいことがある。賃金は硬直的だということだ。だが、ぴたりと張り付いていたわけではない。2009年から2010年にかけて、賃金はわずかに下落し、その後上昇に転じた。ただし、2007年以降の大きな流れを見れば横ばいにとどまっている。ちなみに、一部の業界は30%もの賃下げを断行したと伝えられている。一方、生産性は回復した。賃金も生産性も、住宅ブームがなかった時の水準にほぼ戻っている。
「ギリシャのようにはなりたくない」
期待通り、2010年から2011年にかけてエストニアの成長を牽引したのは輸出だった。エリクソン(ERIC)がタリン近郊に工場を建設する決定を下したと、政府は誇らしげに発表した。エストニアの政治家は、国が再び正しい居所――製造業、輸出、まじめさ――に戻ったことに安心感を抱いているように見える。
エストニアが素晴らしい成果を上げていることを、クルーグマン氏は否定していない。「私は何もエストニアの政策自体に異議を唱えているわけではない。私が関心を持っているのは内的減価が有効な戦略かどうかをめぐる幅広い論議だ」とクルーグマン氏は主張する。クルーグマン氏によれば、アイルランドが一向に成長しない今、エストニアは、緊縮派が持ち上げる単なるもう1つの「緊縮策のヒーロー」なのだ。ブログでの発言が威張っていると感じられるならば、それは「緊縮派の人々」――ドイツ連銀総裁、イェンス・バイトマン氏など――に向けられたものだとクルーグマン氏は言う。
エストニア財務省は旧ソ連時代に建てられた塔にある。その8階の部屋で、筆者はリギ財務相に、こう言った――市場で会ったある少年が「イルベス大統領は酔っぱらってツィートしたんじゃないか」と示唆していた。リギ氏は笑い、ツィートの内容を思い出しながら、笑みを浮かべてこう話した。「クルーグマン氏が酔っぱらっていた、ことも考えられる」。
エストニアの住宅ブームが去るとともに、様々なプロジェクトが未完のまま放置された。カドリオルグ宮殿周辺の公園にほど近い所に、戦前に建てられた木造の住宅群が建っている。これらの家は20年もの間ペンキがはげ落ちたままになっている。窓には、北欧諸国の古い習慣そのままにレースのカーテンがかかっている。幾つかの家には足場がかけられ、修復工事が進んでいる。これらの家に、レースのカーテンはもうない。タリンの中心部には2つの真新しいガラスの塔が見える。
ビルゴ・ベルド氏がズタ袋とサキソホンのケースを抱えて4階建てのコンクリートのアパートから出てきた。ベルド氏は音楽家だ。タリンの夏の風物詩、ビール祭りで演奏するという。その音合わせに行くため、車を待っている。
同氏に、イルベス大統領のことを聞いてみた。ベルド氏は「大統領が大好きだ」と言う。どうやら大統領は、適切なイメージを国民に植え付けることに概ね成功しているようだ。「大統領は議論を始めたけど」と言いかけて言葉を探している様子だったので、筆者が「クルーグマン?」と助け船を出すと、彼は指をパチンと鳴らして「そうだ、クルーグマンだ」と言う。「馬鹿だよ。一国の大統領なんだから、あんなブログなんか相手にせず、もっと悠然と構えてなきゃ」というのが、ベルド氏の考えだ。
そうこうするうち、迎えの車が到着した。おんぼろのプジョーを運転してベルド氏の友人がやってきた。景気後退は音楽家にとって厳しいかと尋ねると、2人は筆者を独特の眼差し――愚かで感情を害する質問をした人に向ける目つき――で見た。ベルド氏は「そうだね、すごく厳しい。今は誰もお金を出してパーティーなんかやらないからね」と言う。筆者が、政府は国債を発行して失業率を抑えるべきかと問うと、彼らは「ノー」と答える。「ギリシャのようにはなりたくないから」というのがベルド氏が挙げた理由だ。
Sarah Frier
(Bloomberg BusinessWeek, © 2012 July. 23-29,
Bloomberg L.P. All rights reserved.)
■BusinessweekのRSSフィード
「すべて」の記事はこちら
「グローバル(アジアと欧州を含む)」こちら
BusinessWeek
Bloomberg Businessweekは米ブルームバーグ社が発行するビジネス雑誌である。1929年、大恐慌の年に創刊されて以来、世界中に読者を拡大してきた。現在の読者数は約470万人を誇る。本コラムではBloomberg Businessweek誌およびBusinessWeek.comから厳選した記事を日本語でお届けします。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20120809/235475/?ST=print
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。