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1929年の大恐慌で失敗続けたFRB
第1回 米連邦準備理事会(FRB)の起源と使命 その3
2012年8月2日(木) ベン・バーナンキ
ここまで話してきたように、1914年にFRBがようやく創設され、しばらくは順風満帆の時期が続きました。米国は、「狂騒の20年代(The Raring Twenties)」と呼ばれる時代に入り、「チャールストン」というダンスが流行りました。雑誌の「ライフ」が創刊されたのもこの頃です。みなさんは「ライフ」を耳にしたことはないでしょうが、長く名声を誇った雑誌です。いずれにせよ1920年代、いわゆる「狂騒の20年代」は米国が目覚ましい繁栄を謳歌した時代でした。当時、欧州の多くの国が第1次世界大戦の爪痕からまだ立ち直っていない中で、米国は世界で唯一無二の圧倒的な経済力を誇っていました。
次々に新しい製品が発明され、人々はラジオの周りに群がり、自動車も普及していきました。1920年代は様々な耐久消費財が誕生し、経済が力強い成長を遂げた時代だったのです。この米国が繁栄を謳歌した時代、FRBは様々な試みを行い、一連の手法を確立していきました。
第一次大戦後、欧州が大戦の爪痕から立ち直れないでいる一方、米国は米フォード・モーターが「T型フォード」を発売、量産に乗り出すなど世界で圧倒的経済力を誇り、「狂騒の20年代」を謳歌した
1941年まで長期化した「大恐慌」
しかし、残念ながら1929年、「大恐慌」という大きな試練が世界を襲います。FRBはほかの経済政策当局とともに、その創設以来、初めての大きな難局に直面しました。知っての通り、米国株式市場は10月29日、大暴落しました。大恐慌がもたらした危機は米国のみならず、世界全体をも飲み込んだ。
欧州をはじめ世界の様々な地域で、大規模な金融機関の破綻が相次ぎました。恐らく最大の打撃となった金融機関の倒産劇は、オーストリアの大手銀行だったクレディ・アンシュタルトの破綻でしょう。1931年のクレディ・アンシュタルトの破綻によって、多くの欧州の銀行が連鎖倒産しました。このように1929年の大恐慌はまさに世界的な現象となったのです。
知っていると思いますが、経済は急激に落ち込み、不況は信じられないほど長期化しました。1929年から始まった不況は、1941年に米国が真珠湾攻撃を受けて第二次大戦に参戦するまで続いたのです。
ピークから85%も暴落した米国株式市場
ここで不況について覚えておくべき事実が2、3あります。不況がいかに深刻で厳しいものか理解することは大切です。この株式市場のスライドを見て下さい。左側のタテの線は1929年10月で、当然ながら株価は急落しています。この暴落については故ジョン・ケネス・ガルブレイス*をはじめ多くの経済学者が本を書いたことで広く知られるようになりましたが、証券マンが窓から身を投げたなどというセンセーショナルな物語が語り継がれています。
* カナダ出身の経済学者(1908〜2006年)で、ハーバード大学名許教授。『大暴落1929』(日経BP社)、『不確実性の時代』(TBSブルタニカ)、『バブルの物語――暴落の前に天才がいる』(ダイヤモンド社)、『20世紀を創った人たち――ガルブレイス回顧録』(TBSブルタニカ)など著書多数。
1929年10月29日、米国株式市場は大暴落した。だが、この暴落はその後、米国と世界を襲う深刻な恐慌の始まりの1歩に過ぎなかった
しかし、このスライドからみなさんに読み取ってもらいたいのは、1929年の大暴落は、その後に続くはるかに深刻な下落の第一歩に過ぎなかったことです。スライドを見れば、株価は下落し続け、1932年半ばまでにはピーク時から実に85%も値下がりしたことが分かるでしょう。それは株価が数日下げた、などという話ではありませんでした。
金融部門だけでなく、実体経済も厳しい打撃を受けました。左側の図は実質GDP(国内総生産)を示しています。棒グラフが上向いているのは経済が成長していることを示し、下向きになっているのは経済が縮小していることを示しています。このグラフから、1929年には経済は5%を超える極めて高い成長率を記録していたことが見て取れます。しかし、1930〜33年までは毎年、経済は大幅なマイナス成長となりました。
大慌前後の米国のGDP(国内総生産)成長率と消費者物価指数。1930〜33年まで米国経済は毎年、マイナス成長が続き、物価も下落が続いた
この期間全体で米国経済は約30%も縮小しました。同時に、経済はデフレになりました。デフレとは物価が下落することです。この右のグラフが示しているように、1931年と32年には物価が約10%下落しました。農業に携わっている人々は、19世紀末にも作物価格が半分以下に下落するという困難に見舞われるなか、銀行からの借り入れについては、以前と同じ金額の返済を続けていたのです。そこにこの恐慌が到来したのです。彼らがどんな状況に置かれたか想像してみてください。
米失業率は25%に達し、4000以上の銀行が倒産
経済が縮小するに伴い、失業率は急上昇しました。1930年代の家計に対する現在と同様の調査がないため、正確な数字はなく、あくまでも推定の域を出ませんが、30年代初頭、失業率は25%近くに達していたとみられます。この図の薄い水色の部分は景気後退期を表しています。戦争により状況が激変するまで、30年代末時点でも失業率は依然として13%前後の高さでした。
米国の失業率は大恐慌によって上昇、特に1930年代初頭は25%に達したと見られている
銀行の破綻が相次ぎ、景気が悪化する中、預金者は預金を引き出そうと銀行に殺到しました。写真の右にあるグラフは、年次別に破綻した銀行の数を示しています。30年代前半に銀行破綻が急増したことが一目瞭然です。
恐慌の中、銀行の破綻が相次いだことから取りつけ騒ぎも後を絶たず、1930年代前半には実に4000もの銀行が倒産した
なぜ、こんな悲惨な事態がもたらされたのでしょう。繰り返しますが、これは米国だけの問題ではなく、世界的な問題でした。米国よりもひどい不況に陥ったのがドイツです。1933年にヒトラーが政権を握ったのは、恐らく大恐慌が起きたことが多かれ少なかれ直接的に関係しています。
なぜ こんなことが起きたのか。一体、何が世界大恐慌の引き金となったのでしょう。これは非常に重要な問題であり、当然予想されるように、経済史家にとっては大きな関心の対象です。重大な事象は、往々にしてそうであるように、多数の異なる原因が重なった結果です。大恐慌もそうでした。
第1次大戦の余波や、国際的な金本位制の問題――金本位制は再構築されたものの、第1次大戦後に多くの問題が浮上しました――1920年代末に株価のバブルが発生し、その後、金融パニックが世界中に広がったことなど、多くの要因が重なった結果、大恐慌が起きたのです。
ここで私が強調しておきたいのは、問題の一部は政策自体ではなく、「コンセプト」にあったということです。1930年代には、「清算主義の理論(liquidationist theory)」と呼ばれる経済アプローチ、考え方への支持が少なからずありました。その背景には、「1920年代が良すぎた」という考えがあった。経済があまりに急速に拡大・成長し過ぎた。あまりにも多くの信用提供がなされ、株価が上がり過ぎた。過剰な時期の後に必要なのはデフレ期であり、すべての過剰を追い出す必要がある、という考え方です。
つまり、不況は不運な経験だが、「必要だ」という考え方で、1920年代に経済分野において蓄積された「過剰を一掃する必要がある」とされたのです。フーバー政権(1929〜1933年)で財務長官を務めたアンドリュー・メロンの有名な演説があります。
「雇用を清算し、株式を清算し、農民を清算し、不動産を清算せよ」
米国では、「過剰」が起きた後には、それを「修正」「清算」する必要性から「不況」は必要だとする清算主義の考え方が恐慌の到来に伴い台頭した。枠内は、1931年にアンドリュー・メロン財務長官の演説での言葉
とても冷酷に聞こえるし、私もそう思います。しかし、彼が言おうとしたのは1920年代の過剰を一掃して、米国経済をより健全な状態に戻す必要があるということでした。
金融緩和するどころか引き締め、失敗続けたFRB
この間、FRBは何をしたのでしょうか。FRBにとって大恐慌は、初めての過酷な試練でした。残念なことに、この試練に直面してFRBは、「金融政策」の面でも「金融を安定させる」という面でも間違いを犯した。
金融政策の面では、結論としてFRBは深刻な景気後退局面で実行すべき政策である金融緩和を実施しなかった。これには様々な理由があります。株式市場の投機に歯止めをかけたいと考えていたし、金本位制を維持したかったし、清算主義的な理論も信じていたなど、幾つもの理由からFRBは金融緩和を図らなかった。少なくとも十分な緩和策を取らなかった。
その結果、経済の落ち込みを金融政策によって打ち消すことができなかった。その結果、物価は急落。生産や雇用の落ち込みなどほかの要因も指摘できますが、物価水準が10%も下落したということは、金融政策を引き締め過ぎたということです。
作物を販売することによって一定額の債務返済を続けていた農家を破産に追い込むなど、デフレはまさに問題の重要な部分でした。以前も説明しましたが、金本位制は固定為替相場と不可分の関係にあることが、事態をさらに悪化させました。
金本位制を通じてFRBの政策は、基本的にそのまま他国に波及し、これらの国でも金融が同様に過度に引き締められてしまい、経済が急速に悪化していった。FRBが金融を引き締めたのはドルが投機にさらされることを恐れたからです。1931年に英国が同様の情勢に直面したことを思い出してください。FRBは同様の攻撃を受けてドルが金本位制からの離脱を余儀なくされることを懸念したのです。
そして、金利を引き下げるどころか、金本位制を死守するために金利を引き上げたのでした。金利を高止まりさせれば対米投資が魅力的になり、資金の国外流出は防げるとされました。しかし、これは経済にとって必要な政策か、という点から見れば、間違いでした。1933年にフランクリン・ルーズベルトが大統領に就任し、金本位制を廃止すると、すぐさま金融政策は緩和され、33〜34年にかけて経済は極めて力強く反発しました。
*第32代大統領(1882〜1945年)で、1933〜45年まで大統領を務めた米国政治史上、唯一4選された大統領である
「最後の貸し手」の役割も果たせなかったFRB
もう1つのFRBの使命は、言うまでもなく「最後の貸し手」としての役割です。この点についても、FRBは使命を果たすことができませんでした。銀行の取り付け騒ぎに適切に対応をしなかった。膨大な数の銀行を破綻に追い込み、銀行システムの著しい縮小を招いてしまったのです。
米国中で銀行の破綻が相次ぎました。1930年代には1万行近い銀行が倒産するなど、大量の銀行破綻が起きました。そして、こうした状況は1934年にFDIC(連邦預金保険公社)が導入されるまで続いたのです。
それではなぜ、FRBはもっと積極的に「最後の貸し手」としての役割を果たさなかったのでしょう。なぜ破綻に瀕した銀行に貸し出しをしなかったのでしょうか。
一部の銀行について言えば、本当には健全ではなかったからであり、こうした銀行に対しては、さして打つ手はなかった。これらの銀行は農業部門に融資していたので、農業部門の危機によって、これらの融資のほとんどは不良債権と化していたのです。
しかし、これだけの事態に至った一因は、FRBによる信用供給が過剰で、銀行の数も過剰だったとする清算主義の理論についてFRBも認めていたことにあると思われます。しかし、システムを縮小させ、健全化させよという清算主義者の主張は、残念ながら正しい処方箋ではありませんでした。
ルーズベルト大統領が取った政策で2つが特に成功した
1933年に大統領に就任し、不況に対処することが使命だったルーズベルト大統領は、従来とは異なる様々な措置を取りました。実験的にいろんな政策を導入したのですが、その中には散々な結果に終わったものもあります。「国家復興法(National Recovery Act)」と呼ばれる法律もその1つで、この法律は、企業に価格を高止まりさせることを要請し、それによってデフレからの脱却を試みようとするものでした。しかし、マネーサプライの拡大を伴わなかったため、この政策は機能しませんでした。
このようにルーズベルト大統領が実施した政策の中にはあまり機能しなかったものも多いのですが、2つの政策がFRBの誤りと問題を十分に相殺したと言えます。
1つは1934年のFDIC(連邦預金保険公社)の設立です。みなさんが一般の銀行に預金していたとします。今なら、銀行が破綻してもみなさんは預金の払い戻しを受けることができるので、銀行の取りつけ騒ぎが起きる動機は働きません。事実、預金保険が導入されるや、基本的に文字どおり数千行に達していた銀行倒産がゼロになりました。預金保険は信じられないほど効果的な政策でした。
ルーズベルト大統領が行ったもう1つの政策は、複雑なプロセスを経ましたが、基本的には金本位制を停止したことです。金本位制を停止することによってマネーサプライを解き放ち、マネーサプライの拡大を可能にして、デフレを終息させました。1933〜34年にかけて短期的とはいえ、力強い経済回復を成し遂げたのです。
ルーズベルト大統領が取った政策で、恐慌を克服するために成功した2つの政策はFDIC(連邦預金保険公社)の設立と金本位制の廃止だった
ルーズベルト大統領が導入した2つの極めて効果的な政策が、FRBが引き起こした、あるいは少なくとも責任を遂行しないことで増幅させた問題をほぼ相殺したのです。
FRBが2つの使命を果たせなかったことを忘れてはならない
では、政策面でここからどのような教訓が得られるでしょう。
大恐慌は世界的な現象で、様々な原因によって引き起こされます。国際的なシステムに問題の一端があることは確かですが、米国と米国以外の国による政策ミスも恐慌を深刻にした大きな原因でした。
特に留意する必要があるのは、既に話したようにFRBは2つの使命のいずれにおいても初めての試練に打ち勝つことができなかったという事実です。
積極的な金融政策を取らなかったために、デフレと経済の破綻を食い止めることができず、「経済を安定化させる」という使命を果たすことができなかった。また、「最後の貸し手」としての使命も十分に果たすことができず、多くの銀行が倒産し、信用収縮とマネーサプライの収縮を招きました。要するに、FRBは意図された使命を果たすことができなかったのです。
これが最大の教訓であり、2008〜09年の危機に対するFRBの対応を検証する際に、このことを念頭に置きたいと思います。第2回の講義では、第2次大戦以降の中央銀行制度の発展について見ていくことにしますが、2008〜09年の危機に至る過程についても詳細に検討し、この直近の深刻な危機に対するFRBの対応の背景にはどのようなFRBの歴史があったのかを説明します。
第2回の講義のテーマは「第2次世界大戦後のFRB」
では、ここで皆さんからの質問を受けましょう(質疑応答については明日、8月3日公開する「第1回 米連邦準備理事会(FRB)の起源と使命 番外編」をご覧下さい)
ベン・バーナンキ(Benjamin Shalom Bernanke)
薬剤師の父と学校教員の母の長男として、1953年12月13日に米ジョージア州オーガスタで誕生、サウスカロライナ州ディロンで育つ。高校時代、大学進学適性試験SATで1600満点注1590点というその年の州で一番の成績を収め、1972年ハーバード大学に進学、経済学を学ぶ。1979年、年米マサチューセッツ工科大学(MIT)で経済学博士号を取得し、同年以降、米スタンフォード経営大学院で教える一方、ニューヨーク大学で客員教授も務める。1985年プリンストン大学経済学部教授に就任、この時、日銀の政策がいかに間違っていたかを研究。デフレ史の研究でも知られ、友人でノーベル経済学賞受賞のポール・クルーグマン氏とともにインフレターゲットの研究者としても名声を高める。2002年にブッシュ政権下でFRBの理事に就任、2005年6月に同ブッシュ政権下で、米大統領経済諮問委員会(CEA)の委員長に就任したのに伴いFRB理事は退任、2006年1月までCEA委員長を務め、同2月1日にFRB議長に就任。2010年1月再任される。
さあ、バーナンキ議長の講義を聞こう!
この連載は、米連邦準備理事会(FRB)のベン・バーナンキ議長が今年3月下旬に、米ジョージワシントン大学ビジネススクール(同大学は学部としてビジネススクールを持つ)の大学生を対象に「米連邦準備理事会(FRB)と金融危機」と題して、4回にわたって行った講演の全文である。中央銀行が誕生した歴史的背景から、その使命、1930年代に恐慌が起きた際のFRBの対応、その後金融政策が発展した経緯、なぜ米住宅バブルが発生し、なぜその崩壊によって2008年秋の金融危機が発生したのか、何が問題だったのか、そして危機に対してバーナンキ議長を筆頭にFRBがいかに対応したのか――その全容を大学生を対象に分かりやすく説明している点がポイントで、金融危機の深層を明らかにしてくれる。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20120801/235209/?ST=print
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