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さあ、バーナンキ議長の講義を聞こう!2  米国はFRB設立にこんなに苦労した 金本位制・固定相場制の深刻な欠陥
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投稿者 MR 日時 2012 年 8 月 01 日 02:38:15: cT5Wxjlo3Xe3.
 

さあ、バーナンキ議長の講義を聞こう!

米国はFRB設立にこんなに苦労した

第1回 米連邦準備理事会(FRB)の起源と使命 その2

2012年8月1日(水)  ベン・バーナンキ

 では、ここからは米国でどのようにして中央銀行が設立に至ったのかを話しましょう。

 1913年、連邦準備法(Federal Reserve Act)が成立し、米国にも1914年、ついに米連邦準備理事会(FRB)が設立されました。

 当時、米議会とウッドロウ・ウィルソン大統領*が、「マクロ経済の安定を達成すること」と「金融情勢を安定させること」の両面について問題意識を強めていたことが、FRB創設へとつながっていきました。まず、米国の「金融の安定」という面から当時の様子を説明しましょう。

*米国の第28代大統領で、1913〜21年まで連続2期務めた。

 米国には、南北戦争(1861〜65年)が終わった後も、1900年代初めまで中央銀行はありませんでした。このため、財務省などでは果たすことのできない「金融情勢を安定化させる」という機能は、民間部門が果たすよりほかありませんでした。当時、民間部門が「最後の貸し手」としての機能を果たそうとする興味深い動きがありました。

民間機関、ニューヨーク・クリアリング・ハウス

 例えば、「ニューヨーク・クリアリング・ハウス」という興味深い例を挙げましょう。ニューヨーク・クリアリング・ハウスは民間の機関で、基本的にニューヨーク市の一般商業銀行の集まりです。クリアリング・ハウス(決済機関)と呼ばれたのは、当初、この機関が、銀行がお互いの勘定を決済する場所だったからです。毎日業務の終わりに集まって、お互いの勘定を相殺することにより、勘定の管理コストを軽減することが目的でした。


ニューヨーク市の一般商業銀行の集まりだったニューヨーク・クリアリング・ハウス
 しかし、時間が経過するとともに、クリアリング・ハウスは中央銀行に似た機能を帯びるようになっていきました。例えば、ある銀行が強い圧力にさらされた時には、ほかの銀行がクリアリング・ハウスに集まってこの銀行に資金を融資し、預金者への払い戻しを行えるようにしていたのです。つまり、クリアリング・ハウスが「最後の貸し手」としての役目を果たしていたわけです。

 またある時には、クリアリング・ハウスの全メンバーが1週間、銀行システム全体、すなわち、すべての銀行を閉鎖することで合意し、その間に問題の銀行を調査して財務状態を査定して健全かどうかを評価するようなことも行われたようです。そして、健全であるとの判断が下されれば、業務が再開され、通常はそれで事態が終息したのでしょう。

 このように民間部門で、銀行システムを安定化させる努力がなされていた時期があります。とはいえ最終的には、この種の民間による合意だけでは不十分でした。資金が十分ではなく、また独立した中央銀行として機能するには信用力も十分ではなかったからです。

 銀行が民間機関である以上、必ずしも一般市民の利益のために行動するとは限らない、という疑念を人々が抱くこともあり得えます。したがって米国では、流動性が欠如した場合に、健全な商業銀行の取り付け騒ぎを阻止するためには、「最後の貸し手」となる機関を整備することが必要でした。

1893年に500以上、1907年も73以上の銀行が閉鎖に

 金融パニックへの対応は、机上の空論ではなく、米国にとって極めて重大な問題でした。南北戦争(1861〜65年)後、1879年に米国が「金本位制」に復活して以降*、1914年にFRBが設立されるまでの時期とはこんな感じだったのです。

 *1871年に普仏戦争が終結し、中央ヨーロッパは投資ブームが過熱し、株価は高騰していた。だが、1873年にはその楽観論は影を潜め、同年4月8日、ウィーン証券取引所で株価の暴落が始まり、9月には米国にも波及した。以来、不況は1879年3月まで65カ月も続いた。米国は南北戦争の時、一旦。金本位制を離脱していたが、1879年1月に復帰した。この65カ月間というのは、史上最長の不況であり、1930年代の世界恐慌の43カ月間を上回っている。ちなみに1879年に始まった世界的な経済危機は「the Great Depression」と呼ばれていたが、1930年代に入り世界恐慌が発生したのに伴い、「大不況(Long Depression)」と呼び名が変わった。

 グラフはこの期間(1873〜1914年)に米国で起きた6回の主要な銀行パニック時に破綻した銀行の数を示しています。1893年に深刻な金融危機が発生した時は、全米で500以上の銀行が倒産したことが分かります。この時の金融危機は極めて厳しいもので、金融システムと経済に甚大な影響を及ぼしました。


米国で1873〜1914年に発生した6回の主な銀行危機に伴い、閉鎖を余儀なくされた銀行数。1893年の危機では倒産した銀行数は500を突破した
 1907年の金融危機も厳しいもので、多数(73行)の銀行が破綻しました。議会で、「これは何らかの措置を講じる必要がある。金融危機の問題に対処できる政府の機関、中央銀行が必要だ」という声がようやく高まり始めたのは、この1907年の銀行危機後のことです。

 こうしてFRB創設に向けたプロセスがようやく動き出し、膨大な調査が実施されました。中央銀行の活動についての調査資料や報告書が全23巻にも上る膨大な調査が行われ、議会は中央銀行創設に向けて動き始めました。しかし1914年に中央銀行が新設される直前に、またもや重大な金融危機が発生したのです。

 金融危機という問題が、米国経済にとっていかに深刻な問題だったか理解できるでしょう。つまり、20世紀初頭に米国の議会が中央銀行の創設を決断したのは、「金融の不安定化」に対応しなければならないとの問題意識が最大の理由だったのです。

「金本位制」は中央銀行の代替機能を果たせるのか

 ここで、中央銀行のもう1つの主要な使命が「金融と経済の安定」であることを思い出してください。米国の金融史は複雑です。今回は米国の金融史については詳しく話しませんが、南北戦争から第1次世界大戦まで、そして第1次世界大戦から1930年代までの間、米国が「金本位制」を取っていたことについてここで触れておきたいと思います。

 みなさんも知っていると思いますが、「金本位制」は中央銀行の少なくとも一部の代替機能を果たすことができます。どういう意味でしょうか。「金本位制」とは何でしょうか。説明しましょう。

 「金本位制」とは、通貨の価値が金と固定されている通貨制度のことです。例えば、20世紀初頭、金の価格は1トロイオンス(31.1035g)=20.67ドルと法律で定められていました。ドルと一定重量の金の関係は固定されていたのです。

 この結果、流通する通貨の量、すなわちマネーサプライは自ずと決定され、経済の物価水準も決まるわけです。金本位制を採用していた国では、どこも中央銀行がその運営をつかさどっていました。ただ、真の「金本位制」の下では、貨幣は基本的に金と結びついていますから、自動的に流通する通貨の量が決まるという通貨制度となるはずですが、残念ながら「金本位制」は完全な通貨制度とはほど遠いと言わざるを得ません。

 「金本位制」には様々な問題がありますが、1つに「膨大な資源の無駄遣い」を引き起こすという点を挙げられます。まず、「金本位制」を維持するには、(常に流通する通貨の量に見合っただけの「金」が、その通貨の裏付けとして必要になることから)南アフリカ共和国などの国に行って何トンもの金を掘り出し、それをニューヨークに運び、ニューヨークのFRBの地下で保管しなければなりません。これには膨大な努力と作業が必要になります。

 米国の経済学者、故ミルトン・フリードマン(1912〜2006年)が強調していたように、金を掘り出しては別の場所に保管しなければならないというのは、「金本位制」の極めて深刻なコストです。つまり、金本位制には大きなコストが伴う。

流通する通貨の量を調節することができないという問題

 また、金融面、経済面の面からも金本位制には深刻な問題があることが経験上、分かっています。1つは、「金本位制」がマネーサプライに及ぼす影響です。「金本位制」はマネーサプライを自動的に決定してしまうため、中央銀行にとっては、金融政策を通じて経済を安定させるという余地があまりない。

 特に問題なのは、「金本位制」の下では、景気が拡大している時にマネーサプライが拡大しているのに金利が低下することです*。これは今日、中央銀行が通常行うこととは逆です。

* 19世紀の金本位制では、マネーサプライが増えているときに物価が下がり、そして金利も下がるという事態が起きた。それはマネーサプライ以上に実質生産が増えたために、デフレになったのではないか、との指摘があるが、なぜ金利が下がったかについては現在も論争が続いている。

 つまり、「金本位制」ではマネーサプライが金と結びついているため、中央銀行が景気後退期に金利を引き下げたり、インフレ高騰期に金利を引き上げたりといった柔軟な対策を取ることができないわけです。一部の人は、中央銀行から裁量余地を奪うことを「金本位制」の利点と見なしており、これを擁護する見方もあります。

 しかし、「金本位制」のもとでは、毎年の景気変動の波が大きくなることが指摘されており、事実、当時そうした大きな景気変動が何度か発生しました。つまり、「金本位制」の下では毎年の生産の変動幅が大きくなり、従ってインフレの変動率も大きくなってしまうのです。

人民元相場に見る固定為替相場の問題点

 「金本位制」にはほかにも問題点があります。金本位制を採用している国同士の通貨間の為替相場が固定されてしまうことです。一例を挙げると、1900年にドルの価値は金1オンス=約20ドルでした。この時、英国は「金本位制」の下でポンドの価値を金1オンス=約4ポンドと設定していました。つまり、20ドルが金1オンスで、4ポンドが金1オンスなら、20ドルが4ポンドと等しくなります。すなわち基本的に1ポンドは5ドルとなる。

 2つの国が「金本位制」を採用していると、基本的に2つの為替相場の間の価格比は固定されます。現在のユーロのように、下落したり上昇したりする為替の変動がないわけです。これを「よい」、「利点だ」と見る向きもあるでしょう。しかし、問題もあります。ある国のマネーサプライが何かの理由で変化した場合、あるいは不適切な政策が取られたような場合、その国の通貨と為替相場が連動している国も、同じような影響を受けることになる点です。

 一例を挙げましょう。周知のように中国は現在、通貨「人民元」をドルに連動させています。最近こそかなり柔軟になってきていますが、長年、人民元はドルと密接に連動してきました。そのため、米国が景気後退に陥って、FRBが金利を引き下げることで米経済のテコ入れを図った場合、国は違っても、中国の金利も同じ方向に動くため、中国の金融政策も緩和されることになる。

 米国の金融政策と連動してしまうため、中国では利下げがその時は適切な政策でないかもしれないにもかかわらず金融政策が緩和されてしまう。その結果、中国でインフレ圧力が高まる恐れが出てくる。このように、国家間の為替相場が固定されると、良い政策も悪い政策もお互いに波及し合って、自国の金融政策の独立性が失われがちになるという問題があります。


「金本位制」は中央銀行の代替機能を果たせるというが、その欠点の一つは、固定相場制を取らざるを得なくなることで、その結果、中央銀行の金融政策における裁量の余地を狭めてしまう
投機にさらされやすいという問題も抱える「金本位制」

 「金本位制」には、ほかにもまだ問題があります。投機的な攻撃にさらされやすいという問題です。「金本位制」を近年、採用した国の中央銀行は大抵の場合、マネーサプライを裏付けるために必要な金の一部しか保有していません。

 事実、イングランド銀行(編集部注:英国は第1次大戦後の1925年に金本位制に復帰した)、ケインズに言わせれば「薄い膜のような金(a thin film of gold)しか保有していない」ことで知られていました。金をわずかしか保有していなくても、イギリスはどんな状況下でも「金本位制」を維持するだろうという「信認」「信頼」によって「金本位制」は成立していたわけです。

 ところが、理由は何であれ、市場が何かの形で、「金本位制を死守する」としている国に対する信認を失ってしまうと、その国は投機的な攻撃にさらされる可能性が出てきます。

 1931年、イギリスで実際、こうした事態が発生しました。投機家たちが、様々な理由から英ポンドと金との兌換性に対して疑念を持ち始めたのです。そのため、銀行の取り付け騒ぎと同様、投機家たちがイングランド銀行に押しかけて保有するポンドを「金と交換せよ」と言いだしたのです。

 イングランド銀行の金が底をつくまでに時間はかかりませんでした。イングランド銀行はマネーサプライを裏付けるだけの金を十分に持っていませんでしたから。結局、この年、英国は「金本位制」から離脱せざるを得なくなった。「金本位制」が攻撃にさらされる中で、英国経済は激しく揺さぶられました。

 この1931年の英国の金本位制離脱を巡っては、こんな話もあります。英国財務官僚が入浴していた時、彼の部下が「我が国は金本位制を停止しました。金本位制を停止しました」と叫びながら走ってきたら、この官僚が「そんなことができるなんて知らなかった」と言ったそうです(笑)。ポンドが投機的な売り攻撃にさらされたため、英国としては「金本位制」から離脱するほか選択肢はなかったのです。

 先ほども話しましたが、米国でも「金本位制」に復帰した後も、数々の金融パニックが発生しました。つまり、「金本位制」にしたからといって、必ずしも金融の安定が保証されたわけではないのです。

金本位制の下でも多くの「インフレ」「デフレ」が発生

 「金本位制」について、最後にもう一言だけ付け加えます。「金本位制」の長所として、通貨価値を安定させることができるという点がよく指摘されます。物価の安定に役立つとされます。確かに非常に長い時間軸で見ればそう言えます。

 しかし、例えば5〜10年という短いスパンで見た場合、「金本位制」を採用してもインフレ(物価高騰)やデフレ(価格の下落)に見舞われる可能性はあります。これは「金本位制」の下でも、経済における通貨の量が金鉱脈の発見などによって左右されてしまうからです。

 例えば、米国カリフォルニア州で金が発見されて、経済における金の量が増加すれば、インフレになります。経済成長が加速して金が不足すると、今度はデフレが起きます。このように短い期間で見ると、「金本位制」の下でも数多くのインフレとデフレに見舞われてきました。それよりずっと長い期間、何十年という単位で見れば、物価は安定していたと言えますが、「金本位制」の下で、金の供給量に左右されてデフレやインフレが起きることが米国において極めて深刻な問題となっていました。

 そこで19世紀後半、米国に登場したのが演説家としても名高いウィリアム・ジェニングス・ブライアンです。彼は3度、民主党候補に指名されて大統領選挙に出馬しました*。

*ブライアン氏は、1896年、1900年、1908年の3回民主党の指名大統領候補となった。

金本位制の欠陥もFRB創設の一因だった

 19世紀後半、経済成長に比べ金が不足していました。十分に金がなかったために、経済と比較してマネーサプライが不足し、米国経済はデフレに陥りました。つまり、物価が徐々に下落したのです。これは問題をもたらしました。特に深刻な問題を抱えたのが農家と農業関連の職業についていた人々です。このことについて少し考えてみましょう。

 みなさんがカンサス州の農夫で、銀行から借金をしていて、毎月20ドル返済しなければならないとしましょう。返済額は毎月、一定です。みなさんが、この借金をどのように返すかと言えば、作物を育てて、収穫した作物を市場で売って、お金を返すわけです。

 しかし、もしデフレになれば、トウモロコシや綿花、穀物の価格は徐々に下がります。しかし、銀行に対しては毎月、一定額の返済を続けなくてはなりません。つまり、デフレになると作物の価格が下落していくにもかかわらず、借金の返済額は変わらないため、農家の人々の暮らし向きは厳しくなる。暮らしが苦しくなるのは作物の価格が下落したからです。

 やがて農家の人たちは、デフレがたまたま起きたわけではないことに気づきます。デフレは金本位制によってもたらされたのだと気づいた。その時、大統領選に出馬して金本位制に修正が必要だと訴え、これを最大の公約に掲げたのがウィリアム・ジェニングス・ブライアンでした。


3回にわたり民主党の指名大統領候補となり、金本位制の修正を訴えたウィリアム・ジェニングス・ブライアン氏
 ブライアンが特に主張したのが、銀を貨幣システムに加えることによって経済における通貨の流通量を増やし、物価を押し上げることでした。ブライアンはこの主張を19世紀の有名な雄弁家として知られるに相応しい言葉でこれを表現しました。

 「労働者に荊の冠を被せてはならない。人々に金の十字架を背負わせてはならない」

 彼が言わんとしたのは、金本位制は作物の価格の下落を招き、銀行に一生懸命、返済しようと努力している誠実で勤勉な農夫を苦しめている、ということでした。このように金本位制に問題があることが明らかになったこともFRBを創設する理由となりました。

3度目の正直でようやく設立された米中央銀行

 1913年にようやくすべての調査を終えた議会は、連邦準備法を成立させ、同法に基づいて1914年にFRBが創設されました。このスライドは、当時のウィルソン大統領が1914年に連邦準備法に署名している時の写真で、今もFRBの建物の中に飾られています。ウィルソン大統領は、FRB創設を1期目の政権(1913〜1916)における国内の最も重要な成果と見なしました。


1913年に成立した連邦準備法に署名するウッドロウ・ウィルソン大統領
 中央銀行がなぜ必要だったのか、ここで改めて確認しておきましょう。

 連邦準備法はFRBに2つのことを求めました。第1は、「最後の貸し手」となって数年おきに発生していた銀行危機の影響を軽減すること、第2は「金本位制を管理し、金利やその他のマクロ経済要因の急激な変動を回避するよう調整すること」です。

 これがFRB設立の狙いだったわけです。興味深いことに、FRBを創設する前にも、議会は中央銀行の設立を試みたことが2度ありました。1つはアレクサンダー・ハミルトン(1789〜95年まで米国の初代財務長官を務めた)が提唱したもので、もう1つは少し後の19世紀に提唱されました。いずれの場合も議会によって中央銀行設立の試みは潰されました。

 基本的な問題は、今で言うところのメーンストリート(実体経済)とウォール街の意見が大きく分かれていたことでした。例えば、農業など実体経済に携わっていた人は、「中央銀行は、ニューヨークやフィラデルフィアのお金持ちの利益を代弁する組織であり、国全体の利益の代弁者にはならない。つまり、全米の中央銀行にはならない」と、危惧したのです。

12の主要都市にFRBを作ったウィルソン大統領の狙い

 中央銀行設立の試みが2度にわたり失敗したのはこのためです。ウィルソン大統領は賢明にも、と言っていいでしょう、異なるアプローチを取りました。ワシントンに1つ中央銀行を作る代わりに、全米12の主要都市にFRBを作った。スライドはFRBがある12の地域を示しています。これは今も変わっていません。各地域にFRBが1つずつ設けられ、全体のシステムを監視する理事会がワシントンDCに置かれています。


FRBはウッドロウ・ウィルソン大統領によって、1914年の設立当初から全米12の都市に設けられ、その全体を監視する理事会がワシントンDCに置かれた
 多くのFRBが東側に集中していますが、これは1914年当時、米国の経済活動の大半が東部で行われていたためです。現在は当然、経済活動の裾野ははるかに広がっています。しか、準備銀行の所在地は1914年以来、変わっていません。ちなみにこの点について注目すべきは、FRBの構造をこうした狙いは、全米すべての地域のすべての人々の声と、国内経済のあらゆる側面にかかわる情報がワシントンまで届くような中央銀行を設立することにあったということです。

 この点は今も少しも変わっていません。FRBの金融政策は全米のFRBの意見を反映して決定されるため、我々は全国的なアプローチで政策決定を行っています。

 こうしてついに設立されたFRBですが、1929年、FRBは「大恐慌」という初めての大試練に直面します。この時のことを次は話しましょう。


ベン・バーナンキ(Benjamin Shalom Bernanke)

薬剤師の父と学校教員の母の長男として、1953年12月13日に米ジョージア州オーガスタで誕生、サウスカロライナ州ディロンで育つ。高校時代、大学進学適性試験SATで1600満点注1590点というその年の州で一番の成績を収め、1972年ハーバード大学に進学、経済学を学ぶ。1979年、年米マサチューセッツ工科大学(MIT)で経済学博士号を取得し、同年以降、米スタンフォード経営大学院で教える一方、ニューヨーク大学で客員教授も務める。1985年プリンストン大学経済学部教授に就任、この時、日銀の政策がいかに間違っていたかを研究。デフレ史の研究でも知られ、友人でノーベル経済学賞受賞のポール・クルーグマン氏とともにインフレターゲットの研究者としても名声を高める。2002年にブッシュ政権下でFRBの理事に就任、2005年同ブッシュ政権下で、米大統領経済諮問委員会(CEA)の委員長を経て、翌2006年2月1日にFRB議長に就任、2010年1月解任される。


さあ、バーナンキ議長の講義を聞こう!

この連載は、米連邦準備理事会(FRB)のベン・バーナンキ議長が今年3月下旬に、米ジョージワシントン大学ビジネススクール(同大学は学部としてビジネススクールを持つ)の大学生を対象に「米連邦準備理事会(FRB)と金融危機」と題して、4回にわたって行った講演の全文である。中央銀行が誕生した歴史的背景から、その使命、1930年代に恐慌が起きた際のFRBの対応、その後金融政策が発展した経緯、なぜ米住宅バブルが発生し、なぜその崩壊によって2008年秋の金融危機が発生したのか、何が問題だったのか、そして危機に対してバーナンキ議長を筆頭にFRBがいかに対応したのか――その全容を大学生を対象に分かりやすく説明している点がポイントで、金融危機の深層を明らかにしてくれる。


http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20120726/234930/?ST=print
 

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コメント
 
01. 2012年8月01日 10:07:44 : rNIES75056
金本位制を阪神金本の身分保証の事だと一瞬マジで思った。字面だけ見た一瞬ね。

02. 2012年8月02日 18:30:04 : FYgMwPyZvY

金融危機を発生させた張本人のバーナンキの講義を聞いて、何を学ぶのでしょうか・・・


03. 2012年8月03日 01:36:39 : Pj82T22SRI

>>02 金融危機を発生させた張本人のバーナンキ

現実を見た方がいい

彼が超緩和をしなかったら、世界はとっくに大恐慌に陥っていた


04. 2012年8月03日 01:42:49 : Pj82T22SRI

非難すべきなのは、バブルを放置し、金融危機の原因を作ったグリーンスパンだろう

ただし彼も、日本の中銀総裁と同じで、大衆(市場)や政治からの圧力に勝てなかっただけで

インフレ率が低い段階で、引き締めを行うことは、どこの国でも難しい

今、日本で消費税増税に反対しているのと同じように、大衆とは先が見えないということだ


05. 2012年8月03日 16:32:34 : 5ylSvZzAYk

 確かに金融緩和で、世界は救われましたが、一時的に では・・・

 それに、緩和で救われたのは、勝手にインチキデリバティブ商品を世界中にばら撒いて、とてつもない債務をこしらえて身動きが取れなくなったメガバンクでしょ? シティに投入されたのは100兆円を大きく超えるって話だし。

 結果、米国では中小金融機関がバタバタやられて、メガバンクはその金で債務補てんと、役員の巨額報酬に流用して 一件落着。
 
 フードスタンプで生きながらえている人たちを見てると、やっぱり救われたのは世界の人々ではなく、世界のエリートメガバンク だよね。

 これじゃあ、凄まじい量的緩和は、麻薬患者への一時的な痛み止めの モルヒネ投与 でしかないんじゃないでしょうか・・・

 これは問題の解決ではなく先送りで、近いうちに 凄まじい副作用としての”金融津波”が襲ってくると思います。


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