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安富氏は、経済学の根底に横たわる深刻な秘密を暴き出していると見る。小室直樹も重大な秘密をサラリと言ってのけたが、これ程ではない。安富氏がこれを成し遂げた(あるいはまだ入り口かもしれないが)のは、彼が東洋人であるからだろう。西欧的キリスト文明とその思考法にどっぷり浸かっていては決して思い至らない境地であると思う。今や経済学は虚構の学問であったと言えるのではないだろうか。(こう書くと経済学ムラ的発想から、難癖をつけてくるものが必ず出てくる。疑念や意見のある者は、本書を一読してからにしてもらいたい)/仁王像
『「生きるための経済学』安富歩/日本放送協会‘08年から一部抜粋
第一章 市場経済学の錬金術
<市場原理の非科学性>
標準的な経済理論にもとづく経済学者の発言を、そのまま受け入れる人は少数派かもしれないが、政府も企業も個人も、そのような言説を無視することはできず、その影響力は年々強まりつつあるように見える。
このような力を及ぼしている市場経済学は、さまざまな仮定の上に成り立っているが、その仮定の多くがじつは非現実的である。多くの仮定が物理学の諸原理に反している、という意味で非現実的なのである。
本書ではそのうち、「相対性理論の否定」「熱力学第二法則の否定」「因果律の否定」という三つのテーマについて簡潔に議論し、いわゆる市場原理がどれほどの無理の上に成り立っているのかを明らかにしたい。
ただし…本章では現代の正統的市場原理の非科学性の証明にとどまらず、なぜこのような無理のある理論が広く受け入れられているのか、その魅力の源泉は何かについてまで考察する。
<標準的市場原理の二つの支柱>
現時点で標準的とみなされている経済学の一つ、ハル・R・ヴァリアン『入門ミクロ経済学』から一部引用(…で挟まれた部分)。
………
最適化原理:人々は実行可能な範囲の中から最も望ましいパターンの消費を選択する。
均衡原理:財の価格は需要量と供給量が等しくなるまで調整される。
この二つの原理を検討しよう。最初の原理は同語反復的である。人々が行動を自由に選択できるときには、望ましくないものより望ましいものを選択すると仮定する方が合理的である。
第二の原理には少し問題がある。任意の時点において需要と供給とが一致するとは限らない。一致していないこきに何かが変化すると考えられる。この変化が行き着くまでにはかなりの時間がかかるかもしれない。さらに悪い状況では、この変化が他の変化を引き起こし体系全体を「不安定」にするかもしれない。
………
本文が649ページもあるこの大部の書物のなかで、議論のフレームワークをなす収穫的な二つの概念は、たったこれだけ半ページほどで、説明らしい説明もなく導入されている。
厳密に確認したわけではないが、…「不均衡」という概念が出てくるのは一カ所だけである。ということは「調整のプロセスは、各々の財に対する需要がその供給に等しくなるまで続く」という仮定によって均衡点への到達が保証されており、それがこの書物全体の議論を支えることになる。
まとめると、標準的な市場原理には二つの支柱がある。一つ目の「最適化原理」は、人々が「合理的」であると仮定する。
二つ目の支柱は「均衡原理」であり、「財の価格は需要量と供給量とが等しくなるまで調整される」と主張する。これは、弱い主張ではない。もしも均衡が実現されていなければ、等しくなるまで調整されねばならず、それはつねに可能であるという強い主張である。
以下では、この二つの支柱が物理学の観点から見て、どれほど非現実的であるかを明らかにする。
<相対性理論を否定する「最適化原理」>
二種類の財について「買う/買わない」の選択肢は四つある。望ましい順番に並べるにも四つですむ。経済学の教科書にはここまでしか書かれていない。
ところが問題はここから始まる。これが三種類になると、八組の選択肢ができる。10種類では1024組、50種類では2の50乗となってしまう。これはどういう数字化というと、1秒に1組数え上げていって、終わるまでに3570万年かかってしまう莫大な数字である。これを「組み合わせ爆発」あるいは「計算量爆発」と呼ぶ。望ましい順にならべるには、さらに長い時間がかかる。
このようなタイプの問題は、世の中にゴロゴロしている。
ところが経済学ではこの問題がまともな時間のうちに解ける、と暗黙のうちに仮定している。これはつまり無限の速度で計算ができる、という主張と等価である。計算は物理的過程であり、物理法則を破ることはできない。…無限の速度の計算は実現できない。ところが消費者が効用を最適化できるという仮定は、無限の計算速度を要請するので、相対性理論を否定してはじめて成り立つということになる。
<熱力学の第二法則を無視する均衡原理>
個々の消費者が所与の価格表のもとで自分の需給を決定するには膨大な計算を必要とするが、(無限の速度で計算できると仮定しても)均衡価格を模索するという過程を実現するには、どうしても情報の交換が必要である。この情報交換は、初期資源の分布が変化しないように、エネルギーや物資の移動をすることなく実現せねばならない。
ところが現実の世界では、情報の交換にエネルギーの消費や物資の移動が不可欠である。これは熱力学第二法則からの直接の帰結である。もちろん、模索の過程は情報のやりとりが不可欠である。その情報のやりとりにエネルギーの消費や物資の移動が必要であれば、初期資源の分布が変わってしまう。模索は振り出しに戻る。それゆえ、模索を貫徹するためには、情報のやりとりにエネルギーの消費や移動は必要ない、と仮定せざるを得ないが、この仮定は熱力学第二法則を否定することになってしまう。均衡価格を探し出すために必要な情報のやりとりの量は半端ではない。
また、財の種類が二種類なら二次元空間の一点を探す問題であるが、三種類なら三次元空間をさまよわねばならない。財が数千種類あると、数千次元空間における均衡点の探索となるが、これはもはや想像を絶している。
このように絶望的な仕事を実現するのは、…情報のやりとりにエネルギー消費や物資の移動は必要ない、という仮定を置かなければ、標準的な市場原理を維持することができない。そのためには相対性理論(速度には光速を超えられない限界がある)を否定するだけでは不十分であり、熱力学第二法則も否定せねばならないことになる。
<因果律を破る市場原理>
フランスの経済学者エドモンド・マランヴォーは、『ミクロ経済理論講義』の最初の方で、その本の議論全体が、「社会はただ一度だけ行動を起こすと仮定しよう」という仮定に依拠することを明記している。
この仮定のように、標準的な市場理論は、経済現象を一度きりの現象とみなして理論化している。このマランヴォーの支柱がなければ、ヴァリアンの教科書で用いられているような議論は一切展開できない(現在の教科書の大半は、都合の悪い仮定はできるだけバレないように隠蔽している。ヴァリアンの教科書は、この隠蔽工作が巧妙である)。
生産・交換・消費は時間のなかで生じる過程であり、ある時点の行動は、そのあとの時点の行動に影響を与え、それが次々と継起していく。現在に影響するのは、過去だけであり、未来は現在に影響しない。これは因果律と呼ばれる原理である。こうした因果律の絡まり合いとして、現実の経済は作動する。
これに対して模索の過程は、こういった時間的連鎖とは無関係である。模索の過程は、無限の計算力を行使し、熱力学第二法則を無視すれば可能である。
しかし、因果律に拘束されつつ実行される生産・交換・消費の過程を、このような因果律に束縛されない模索の結果として得られる均衡状態と同一視することは、因果律を破ってしまうことになる。
因果律を破らないためには、理論の対象を厳格に模索過程に限定する必要がある。実際のところ標準的な経済理論は現実の生産・交換・消費の過程を語らないので、この制約を暗黙のうちに守っているとみなすこともできる。とすればマランヴォーの先の仮定は、「社会はただの一度も行動を起こさないと仮定する」とするのが正確な前提ということになる。
ただの一度も行動を起こさない社会についても精密な理論とは、実現不能なユートピアについての理論よりも、さらにたちが悪い。もしこの命題が気に入らなければ、相対性理論と熱力学第二法則に加えて、因果律をも否定する必要がある。
<市場経済論に託された希望>
ところが、このタイプの市場経済論は、20世紀後半に急速に発展するとともに、広汎な支持を集めてきた。なぜ、このような理論がこれほどの魅力を持つのかは真剣に考える必要がある。
手がかりとして、森嶋通夫がジョン・ヒッグスの『価値と資本』という書物について書いた(感想のように)、標準的市場理論は、「人間の自由の尊さを普遍性を持った厳密な論理によって明らかにする理論」というような性格を広く付与されていると見てよかろう。
<マルクス経済学と自由主義経済学の共通性>
経済理論の諸前提の非科学性は、どこにも書かれていないが、じつのところ、多くの人が薄々感じているところである。経済理論をはじめて学んだ人の多くは、なんとなく騙されたような感じを抱く。ここが経済理論の難所であり、ここのところを一回騙されてしまえば、あとは簡単に学ぶことができるようになる。
マルクス主義経済理論が、搾取なき交換システムとして提案するのは、人間の理性にもとづいた計画経済である。これを正しく作動させるには、「無限の計算速度」「瞬間的でエネルギーを用いない情報交換」「将来にわたる事前の計画策定にもとづいた経済行為」を必要とするが、この三つはそのまま、相対性理論・熱力学第二法則・因果律の否定を必要とするのである。
第三章 近代的自我の神学
スミスの言う「利己心」とは、まさにこの社会的自我の命令であり、その市場理論は、現代のその末裔をも含めて、フロムの解釈するプロテスタンティズムの世界観と整合するように構成されている。これが事実であれば、市場理論が非科学的であるのに不思議でもなんでもない。それはもともと、プロテスタント神学の論理と整合するように構成されたものであり、物理法則との整合性は考慮されていない。
終章 生きるための経済学ーネクロエコノミーからビオエコノミーへ
<自由の牢獄のなかの経済>
本書が最初に明らかにしたことは、現代の市場経済学が、相対性理論の否定、熱力学第二法則の否定、因果律の否定という、少なくとも三つの物理法則の否定の上に成り立っている、ということである。フリードマンの「道具主義」という欺瞞が、この問題を覆い隠す役割を果たしている。
このように物理法則とさえ整合性を欠いている理論が、世界中で信奉されているのはなぜか。それは、この理論が自由の守護神であり、それを放棄することは自由を放棄することになる、と人々が恐れているからではないか。
ではこの理論が守る「自由」とは何か。この理論の前提とする自由の実像は、「選択の自由」である。それは経済学に限らず、さまざまな場面で見いだされる基本的な考え方であり、西欧的文脈に通底ぢている。…選択肢が十分に与えられている状態が「自由」であり、そのとき選んだ選択肢がもたらす結果は、その人自身が責任を持って引き受けねばならない、とされる。
この物語はしかし、たんなる神話にすぎない。…選択の自由は行使不能な自由である。というのも、世界を生きる上で可能な選択肢はつねに無数にあり、しかもその選択がもたらす結果は、非線形のゆえにしばしば予測しえないからである。このようなアミダ籤を引いて、自分の運命を決めよ、と言われる状態は、「自由の牢獄」といううにふさわしい。ここから神や全体性への盲目的服従という暴走も起こる。
真にこの牢獄から抜け出すには、私たちは自らの身体の持つ「創発(ポラニーの提唱した概念)」する力を信じる必要がある。この力は生命の持つ、生きるためのダイナミズムでもある。このダイナミズムを信じ、そのままに生き、望む方向にそれを展開させ、成長させるとき、人間は積極的な意味で「自由」たりうる。
<あとがき>
私が旅に出たのは、暗黙の次元の導きによるものであった。経済学を振り出しに、歴史学、物理学、計算機科学、数理生態学、人類学、経営学、環境学、心理学、東洋思想などの分野を渡り歩き、それぞれの分野の盲点がどこにあるかを考えてきた。
本書はその遍歴の果てに見えた、アカデミズム全体、あるいは近代そのものの持つ、最大の盲点についての考察の報告書であり、またその地平からの経済学への根本的な批判の書である。
(関連)
・21世紀前半は、社会科学の中心が経済学から歴史学にシフトする…複雑系科学の成果も取り入れて/金子邦彦・安富歩
http://www.asyura2.com/12/hasan75/msg/359.html
投稿者 仁王像 日時 2012 年 3 月 10 日 14:57:57: jdZgmZ21Prm8E
・.経済学の世界でも「経済学村」という利権の構造があるのではないか。…そして経済学の終焉
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/563.html
投稿者 仁王像 日時 2012 年 3 月 12 日 20:14:35: jdZgmZ21Prm8E
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