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年金受給者の2割超が年収50万円以下というお寒い「社会保障」の現実。
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2012/07/10 05:37 日々雑感
年金受給者の2割を超える人たちが年間50万円も手にしていないという現実が厚労省の調査で明らかになったという。これが日本の社会保障の現実だが、官僚たちは年金一元化後も手厚い公務員共済年金の3階建て部分の温存に腐心している。彼らに任せていると社会保障とは国民のセイフティ・ネットではなく、公務員の利権そのものだ。
社会保障とは何かを考えなければならない。国民が等しく文化的にして最低限の暮らしを営む権利の保障であるべきだ。それが国民年金、厚生年金、共済年金等々でげんう気時代の格差を老後にも固定化する制度であってはならない。
社会保障というのならば、まず最低限のものを一律的に保障すべきだ。医療保険はまさしく保険料の支払いは「応能負担」だが、給付は一律支給となっている。高額な保険料を負担している人が病を得て入院する際に自動的に個室に入れるわけではない。かつて国民健康保険の加入者は3割負担で会社などの保険組合加入者は1割負担だということはあった。しかし、現在では69歳までならすべて3割負担となっている。
自民党政権下で行われていた年金制度は現役時代の格差をそのまま老後の生活にも持ち込むものだった。現在の制度がそうだ。加入者全体の一人当たり平均支給額は297万円だというから、年金がいかに格差の大きな「社会保障」になっているかが窺われるだろう。もっと厳しい言い方をさせてもらうなら、年金が職業別の国民格差を老後へも持ち込む「社会悪」になっているともいえるだろう。
現役時代の職業によって、国民年金という「暮らせない」年金受給者階層を作り、厚生年金や共済年金は国民年金を「基礎年金」という踏み台の上に設置し、さらに共済年金や一部企業年金を設けている会社で働く人たちは三階部分の「職域加算」や企業年金まで受け取っている。「それは自分たちが給与の中から保険料を掛けた受給権」というのなら、基礎部分以外への「公的支出」を認めてはならない。恵まれた人たちにさらに恵みを与えるのは社会保障の基本理念に反する。
社会保障としての年金は上下の格差を拡大するよりも縮小する方向で制度設計すべきではないだろうか。2009マニフェストで民主党が掲げていた最低保障年金創設の方が社会保障の理念に合致するだろう。老後の国民の暮らしを保障するものでなければ社会保障としての年金の存在意義はないといわなければならない。それも2009マニフェストのような生活保護よりも少ない金額では話にならない。それなら国民年金加入者は掛け金を支払うよりも「無年金者」となって生活保護費を受給する方が良いと考えるのは自然だ。
一体的な社会保障を設計するなら65歳以上の生活保護を一切廃止し、年金で生活することにする方がどんなに整合性があるだろうか。国会議員が官僚の走狗となって官僚たち公務員がお手盛りの年金制度を是認してきた結果が現在の実に歪な増築に改築を重ねた旧来の日本旅館のような「本館」に「別館」がくっつき、さらに「離れ」まで用意しているような複雑な体系になっている。それが「受給権だ、財産権だ」というのなら国民年金加入者はやがて一切の掛け金の支払いを拒否して生活保護へなだれ込むようになるだろう。それが社会規範、モラルの崩壊を招かないだろうか。
国家の社会保障が国民のモラルの崩壊を促進するとするなら、常識的には制度設計がおかしいと考えるのが普通ではないだろうか。せめて最低年金受給者の受け取る金額は生活保護費を上回らなければならない。それでは年金会計が莫大に膨れ上がる、というのなら高額年金受給者の年金額を圧縮するしかないだろう。そうした方向で年金制度は改革されるべきだ。かつて加入する医療保険の相違により医療費個人負担に格差があったが、現在では一律個人負担3割に統合されたように、年金も本質的には一律支給とするのが社会保障のあり方だ。
自民党の谷垣氏が「民主党がマニフェストに謳った最低年金制度」は社会主義の政策だ、とトンチンカンな批判をしたが、社会保障という概念は社会主義の産物であることを忘れてはならない。いいとこ取りの摘み食いを続ける官僚の走狗になり果てると原理・原則まで失念するようだ。
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