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ロックフェラーから、マンデラ、ヴェーダーンタからアンナ・ハザレに至るまで.... 大企業福音書の枢機卿連中は、一体いつまで我々の抗議運動を買収し続けられるのだろう?−アルンダティ・ロイ(2012年3月26日 )
(中略)
1950年代、幾つかのNGOや国際的教育機関に資金を供与していたロックフェラーとフォード財団は、当時中南米やイランやインドネシアで民主的に選出された政府を転覆するアメリカ政府の準延長として機能し始めた。
フォード財団は、アメリカ式の経済学コースをインドネシア大学に設置した。アメリカ将校によって内乱鎮圧作戦訓練を受けたエリート・インドネシア人大学生が、1965年のCIAが支援し、スハルト将軍を権力につけたインドネシアでのクーデターで決定的な役割を果たした。スハルト将軍は何十万人もの反抗する共産主義者を虐殺して恩師に報いた。
8年後、後にシカゴ・ボーイズとして知られるようになった若いチリ人学生達が、、CIAが支援して、サルバドール・アジェンデを殺害し、ピノチェト将軍と、17年間続いた暗殺部隊による支配と、行方不明とテロをもたらした1973年クーデターの準備として、シカゴ大学のミルトン・フリードマンによる新自由主義経済(J.D. ロックフェラーから寄贈された)教育を受けるべくアメリカに連れて行かれた。(アジェンデの罪は民主的に選出された社会主義者であり、チリの鉱山を国有化したことであった。)
1957年、ロックフェラー財団は、アジアの地域社会の指導者向けにラモン・マグサイサイ賞を設置した。賞は、フィリピン大統領で、東南アジアにおけるアメリカ反共産主義活動で極めて重要な同盟者だったラモン・マグサイサイにちなんで名付けられた。2000年、フォード財団はラモン・マグサイサイ新興指導者賞を設けた。インドでは、マグサイサイ賞は芸術家、社会活動家や地域活動家達から権威ある賞と見なされている。
チーム・アンナ。彼らは本当は誰の声を代表しているのだろう?
興味深いことに、昨夏のアンナ・ハザレの反汚職運動では、三人のマグサイサイ賞受賞者、アンナ・ハザレ、アルヴィン・ケジリワルとキラン・ベディが先頭に立った。アルヴィン・ケジリワルの多くのNGOの一つはフォード財団からふんだんに資金を得ている。キラン・ベディのNGOはコカ・コーラとリーマン・ブラザーズから資金を得ている。
アンナ・ハザレは自らをガンジー主義者と呼ぶが、彼が提唱した法律、ジャン・ロックパル法案はガンジー的ではなく、エリート主義で危険だった。24時間対応の商業マスコミ・キャンペーンが、彼は“人々”の声だと主張した。アメリカのウオール街占拠運動と違って、ハザレ運動は、民営化、大企業権力や経済“改革”への反対はおくびにも出していない。逆に、ハザレ運動の主要なマスコミ後援者連中は、まんまと大規模な企業汚職事件(有名なジャーナリスト達までも曝しだした)に脚光が当たらなくするのに成功し、政治家達に対する酷評を、政府から更に自由裁量権を奪い、更なる改革、更なる民営化を進めるのに利用できたのだ。(2008年、アンナ・ハザレは極めて優れた公共サービスに対し、世界銀行賞を受賞した)。
世界銀行はワシントンで、この運動はその政策と“ぴったり符合する”という声明を発表した。
あらゆる良き帝国主義者達同様、慈善団体職員は、資本主義を信じ、アメリカ合州国の覇権を拡張することが自己の利益にもなる国際的な幹部を生み出し、訓練することを自分の仕事としている。彼らは、現地エリートが常に植民地主義に仕えるような形で、グローバルな大企業政府の運営に役立つのだ。こうして、海外、国内経済政策に次ぎ三番面の勢力圏となる、教育と芸術への財団の進出が始まった。彼等は学術機関や教育に何百万ドルも費やした(し、費やし続けている)。
ジョーン・ロウロフスは名著『財団と社会政策: 多元論という仮面』の中で、財団が政治学の教え方という古いアイデアをいかに改造し、“国際”と“地域”研究分野を構築したかについて述べている。
アメリカの諜報・治安機関にとって、そこから人々を採用する外国語と文化の専門家のプールとして機能している。CIAとアメリカ国務省はアメリカの大学の学生と教授と協力を続けており、奨学金の倫理について深刻な疑問を引き起こしている。
自分たちが支配している国民を管理するための情報収集は、あらゆる支配権力にとって必須だ。中央インドにおける全面戦争の危険にさらされて、土地買収と新経済政策に対する抵抗がインド全土に広がると、封じ込めの手段として、政府は多分世界で最も野心的で費用のかかる情報収集プロジェクトの一つである固有ID番号(UID)という大規模な生体認証計画に着手した。国民は清潔な飲料水やトイレや食料や金はもらえないかわりに、有権者証とUID番号を与えられる。これは元インフォシスCEOのナンダン・ニレカニが進めている、表向きは“貧しい人々に、サービスを提供する”ためとされているUIDプロジェクトと合致し、金やや苦境にあるIT業界に莫大な金額を注入するものだ。これほど大半が非嫡出で“読み書きできない”人口の多い、国民の大多数が、土地記録の無いスラム住人、行商人、インド先住民という国で、“デジタル化”すれば、彼らを刑事罰の対象とし、非合法から、違法な存在へと変えてしまう。入会地囲い込みのデジタル版をうまくやおおおせて、強大な権力を、益々強固になりつつある警察国家の手に引き渡すのがその狙いだ。
世界の飢餓の原因が、植民地主義や、負債や、歪曲された利益指向の企業方針ではなく、まるで情報の欠如でもあるかのような、ニレカニの技術系管理者的なデータ収集へのこだわりは、ビル・ゲーツのデジタル・データ・ベース、“数値目標”、“進歩の得点票”へのこだわりと一致している。
大企業から寄付を得ている財団は、“開発学”、“コミュニティー研究”、“文化研究”、“行動科学”や“人権”といったテーマで講座や学生奨学金を提供しており、社会科学や芸術への最大の資金提供者だ。アメリカの大学が外国学生に対して門戸を開放するや、何十万人もの学生、第三世界エリートの子供達が押し寄せた。学費を払えない人々は奨学金が与えられた。現在、インドやパキスタン等の国々では上流中産階級でアメリカで学んだことがある子供のいない家族はほとんどない。こうした階層から、優れた研究者や教育者だけでなく、自分たちの国の経済をグローバル企業に対して開放するのを手助けする首相、蔵相、経済学者、企業弁護士、銀行家や官僚達も生まれる。
企業の社会的貢献活動はコカ・コーラ同様、我々の生活の一部になっている。国際金融体制はNGOを経由して抗議運動に金で取り入るのだ。ある地域が問題を抱えれば抱えるほど、より多くのNGOが入り込む。
財団に好意的な経済学や政治学をする研究者達には、特別研究員資格、研究費、助成金、寄付や職が与えられる。財団に好意的でない考え方の研究者達は資金援助を受けられず、隅に追いやられ、ゲットー化され、彼らの講座は廃止されてしまう。
次第に、一つの特別な想像の産物、、もろい寛容と多文化主義という表面的見せかけ(即座に人種差別、過激な国粋主義、人種的愛国主義や、戦争を挑発するスラム嫌悪に変身しかねない)が、単一の、包括的な、とうてい複数的と言えない経済イデオロギーの屋根の下で、議論を支配し始める。その余りの規模ゆえ、イデオロギーとして感じられることさえなくなってしまうほどだ。それが基本的な立場、自然なあり方になってしまうのだ。それが正常性に侵入し、普通のものごとを植民地化し、それに異議を申し立てることは、現実そのものに異議を申し立てるのと同様、不条理、あるいは難解にすら見える様になり始めた。ここから‘選択肢無し’となるまでは、あと一歩だった。
ようやく今、占拠運動のおかげで、アメリカの街路とキャンパスに別の言葉が出現した。学生達が‘階級戦争’あるいは‘あんたらが金持ちなのはかまわないが、我々の政府を買ってしまうのには反対だ’という横断幕を掲げているのを見ていると、圧倒的に不利な形勢を考えれば、それ自体で革命のようなものだ。
始まって以来一世紀、企業の社会的貢献活動はコカ・コーラ同様、我々の生活の一部になっている。今や何百万もの非営利組織があり、その多くは複雑怪奇な金融の迷路経由で、巨大財団とつながっている。彼らのこの“独立した”部門は約4500億ドルもの資産を有している。その最大のものは、ビル・ゲーツ財団で(210億ドル)、リリー財団 (160億ドル)とフォード財団 (150億ドル)が続く。
IMFが構造調整を押しつけ、政府に医療、教育、児童保護、開発への公共投資削減を無理強いすると、NGOが入り込んでくる。あらゆるものの民営化は、あらゆるもののNGO化をも意味している。仕事や生計手段が消滅すると、NGOの本質がわかっている人々にとってさえ、NGOは重要な働き口となる。そして確かに彼等がすべて悪いというわけではないのだ。何百万ものNGOの中には、画期的、先鋭的な仕事をしているものもあり、全てのNGOを一括りに同罪とするのは曲解だろう。とは言え、大企業や財団から寄付を得ているNGOは、文字通り株主が企業の株を購入するように、抵抗運動に金で取り入り、やがてそうした運動を内部から支配するための、国際的金融組織の手先だ。
NGOは、それに沿ってグローバル金融が流れる経路の中枢神経系上の結節のような位置を占めている。彼らは自分たちの受入国の政府を決して苛立たせることのないよう十分配慮して、あらゆるインパルスに気を配る送信機、受信機、緩衝装置のように機能する。(フォード財団は、資金を提供する団体には、この趣旨の誓約に署名するよう要求している。) 気づかずに(そして時には、意図的)、彼等は聴音哨として機能し、彼等の報告書や研修会や他の伝道活動feeding益々強固になってゆく国家の、一層攻撃的になってゆく監視体制に、データ。ある地域が抱えている問題が多ければ多いほど、その地域のNGOの数は多くなる。大半のNGO、特にふんだんに資金を得ているNGOの使命は、大企業によるグローバリゼーション・プロジェクトを邪魔するのではなく、推進することであるのを十分わかっているのだ。
何十億ドルもの金を用意し、世界中で、これらNGOが、革命家になりそうな人々を給料を貰う社会活動家に変え、芸術家、知識人や映画制作者に資金援助し、先鋭的な対立から彼らを穏やかに引き離し、多文化主義、ジェンダー、地域開発、ディスコースという言葉で表現されるアイデンティティ政治や人権の方向へと彼らを導くことを開始した。
公正という考え方の人権産業への転換は、NGOや財団がそこで重要な役割を演じた、ある種、概念上のクーデターだった。人権に焦点を絞ることで、残虐さにに基づく分析が可能となり、その中で全体像は遮断されてしまい、紛争中の両者、例えば毛沢東主義者もインド政府も、あるいはイスラエル軍もハマースも、いずれも人権侵害者として訓戒されるべき存在とされてしまう。採鉱企業による土地収奪や、パレスチナ人の土地のイスラエル国家への併合の歴史は、論議上ほとんどわずかな意味しかない脚注と化してしまう。人権は大事ではないと言いたいわけではない。人権は大切だが、人権は、それを通して私たちが暮している世界における重大な不正行為を見たり、ほんの僅かでも理解したりするのに優れたプリズムではないのだ。
もう一つの概念上のクーデターとして、フェミニスト運動への財団の関与がある。
草の根反帝国主義や反資本主義の民衆運動からのリベラルなフェミニスト運動の分封は、財団の悪意ある狙いから始まったわけではない。こうした運動が、60年代と70年代に起きた女性の急速な先鋭化に適応し損ね、取り込み損ねたことから始まっているのだ。伝統的社会においても、また左翼運動の進歩的な指導者と見なされる人々の間にさえある、暴力や家父長制度にしびれを切らしている女性達を見いだし、近づき、支援と資金援助を与える上で、財団は有能さを示した。インドの様な国では、農村・都市間にも断絶は存在している。最も先鋭的な反資本主義運動は、家父長制社会が大半の女性の暮らしを支配し続けている地方にこそ存在している。こうした運動に加わった都会の女性活動家達は、西欧のフェミニスト運動に影響を受け、刺激されており、自分たちの解放を進める活動の中で、男性指導者達が‘大衆’にうまく溶け込む為の自分たちの義務と考えていることと相いれないことが多かった。
多くの女性活動家は、自らの同志達によるものを含む、日常の抑圧と生活上の差別を終わらせるため、もはや“革命”を待とうとはしなかった。女性達は、ジェンダーの平等が、単なる革命後の約束でなく、革命プロセス中で、絶対で、緊急を要する、譲ることのできない部分であるよう望んでいた。知的で、怒って、幻滅した女性達は、そうした運動から離反し、支援と生計の他の手段を探し始めたのだった。結果的に、リベラルなフェミニスト運動は、過度なまでにNGO化していた。こうしたNGOの多くは、同性愛者の権利、家庭内暴力、AIDSや売春婦の権利などの上で重要な役割を果たした。だが重要なのは、女性がそれで最も苦しめられているにもかかわらず、リベラルなフェミニスト運動は、新経済政策に対する異議を申し立ての最前線に立ったことはないということだ。
女性運動のNGO化は、西欧のリベラル・フェミニズムを、それこそフェミニズムの旗手だと規定するようになった(最もふんだんな資金援助を得たブランドのおかげで)。戦いは、ブルカを追い出すことで、例によって女性の体を舞台に展開された。最近フランスで起きたように、女性が自分がしたいと思うことを選べるような状況を創り出すのではなく、女性にブルカを脱ぐよう強要する試みがなされる場合、それは女性を解放するのではなく、裸にするのと同じことだ。それは、屈辱と文化的帝国主義の行為る変化する。それはブルカ問題ではない。無理強いだ。女性にブルカを脱ぐよう強要するのは、ブルカを着けろと強要するのと同じ位悪いことだ。このようにしてジェンダーを見ると、そこから社会的、政治的・経済的文脈を剥奪し、アイデンティティや小道具や衣装の戦いの問題にしてしまっている。
奇妙な鎮痛剤的な言葉を案出するNGOの世界では、あらゆるものが、個別の、専門化された、一部団体のみが取り組む“主題”となる。コミュニティー開発、リーダーシップ育成、人権、医療、教育、子供を生む権利、AIDS、AIDSに感染した孤児等は、精緻化した緻密な財政支援応募要綱によって、全てそれぞれ個別サイロの中に密閉されてしまった。
財政支援は、弾圧では決して出来なかったようなやり方で連帯を断片化したのだ。
貧困も、フェミニズム同様、アイデンティティーの問題という枠にはめられてしまう。まるで貧しい人々は不公平によって生み出されたのではなく、たまたま存在していた失われた部族のようなもので、短期的には、苦情救済システム(個人的な、個人対個人ベースで、NGOによって与えられる)によって救える可能性があり、長期的復興は良き統治によるのだと。
グローバル大企業資本主義支配の下では、それが当然のこととしてまかり通る。
(中略)
プロレタリアートは、マルクスが見ていた通り常に絶え間なく攻撃されてきた。工場は閉鎖し、職は消滅し、労働組合は解体された。プロレタリアートは長年にわたって、ありとあらゆる形でお互いに戦うよう仕向けられてきた。
インドでは、それはヒンズー教徒対イスラム教徒、ヒンズー教徒対キリスト教徒、不可触民対インド先住民、カースト対カースト、地域対地域だ。それでも世界中でプロレタリアートは反撃しつつある。中国では無数のストライキや反乱が起きている。インドでは現地で、世界中で一番貧しい人々が、最も裕福な企業の何社かを押しとどめるために反撃している。
資本主義は危機的状況にある。トリクルダウン理論は失敗だった。今や噴出もまた危うい状態にある。国際的な金融メルトダウンが迫りつつある。主要国際企業は、どこに投資すべきかわからず、金融危機がどのように展開するかわからず巨大な金の山の上に座り込んでいる。
これはグローバル資本というジャガノート、止めることのできない巨大な力の大規模な構造的亀裂だ。
★資本主義の本当の“墓堀人”は、イデオロギーを信仰に変えた妄想的な枢機卿達自身ということになるのかも知れない。素晴らしい戦略的才気にかかわらず、彼らは単純な事実を理解できずにいるように見える。資本主義は地球を破壊している。資本主義を過去の危機から救い出してくれた二つの古いしかけ、戦争と買い物が、全然機能しないのだ。(抜粋)
●世界中「展望がない」・・忌まわしいグローバル化
http://www.adpweb.com/eco/
■座して死ぬより蜂起
ギリシャの再選挙・・G20やFOMCなどのイベントが続く。これらが経済に決定的な影響力を持つということはないが、市場ではその結果をまず見てからと今のところ取引が手控えられている。程度の差はあれ、経済が好調な国はない。震災の復興需要でインフレギャップが小さくなり世界の中では日本の経済は比較的良いといった間抜けな議論はあるが、日本が長期低迷から脱却する展望は全くない。
この「展望がない」という言葉が、特に欧州の人々の気持を象徴している。ギリシャを始め、スペインやイタリアなどの南欧諸国は国債の利回り上昇によって、事実上、国債発行による資金調達の道が閉ざされている。ただ欧州諸国のどの国民も、南欧だけでなく自分の国の財政状況が悪いことを承知している。
ところが緊縮財政路線を採る政権与党がことごとく選挙で負けている。この背景にも「展望がない」という人々の思いがある。国民は緊縮財政路線で事態が好転すると思っていない。緊縮策を採る政権に全く「展望がない」ことを人々は見透かしているのである。
文芸春秋7月号の「ギリシャ、フランス「欧州危機」現地報告」がこの欧州の人々の様子をレポートしている。・・副題は「座して死ぬより蜂起を選んだ」となっている。タイトルは少々大袈裟であるが、欧州の人々の今の気持や考えを端的に伝えている。
フランス人の多くは「税金を払っていないギリシャ人のためにフランス政府が自分達に緊縮財政を強いるのはおかしい」と考えている。このためサルコジ大統領は選挙で負けた。もっともサルコジ前大統領自身の成り金趣味や、お手盛りで自分の報酬を上げていたことも国民の不評をかっていた。
一方、ギリシャ人は「自分達は真面目にコツコツと働いてきたのに、こんなに給料や年金がカットされるのはおかしい」と大きな不満を持っている。一般のギリシャ人は「悪いのは公務員をやたら増やしてきたこれまでの政権党」と考えている。先週触れたように、ギリシャでは政権交代が頻繁に起り政権に就いた政党が支持者やその関係者をどんどん公務員に採用してきた。実際、公務員を除くギリシャ人の働き振りは他の欧州諸国と遜色はない。
★リーマンショックで世界中の経済が急降下したため、各国は財政・金融政策を総動員してこれに対処した。欧州でも経済政策が採られていた。ところがギリシャが粉飾を行ってユーロ加盟を果たしていたことがバレ、ギリシャ国債の暴落が起った。またこのギリシャ国債暴落をきっかけに南欧諸国などの国債も売られた。これに慌てた欧州各国は一転して緊縮財政に転換した。10/7/5(第622号)「サミットの変質」で取上げたように、これがそもそもの間違いの始まりであった。
★問題はギリシャ一国の粉飾財政だけでない。リーマンショック前まで欧州諸国でバブル経済が起っており、この崩壊の影響が深刻であった。これはリーマンショック直後の財政・金融政策だけで解決するものではなかった。
欧州の大きな経済問題はバブル崩壊によるものであり、
だんだん「住専国会」の頃の日本と似てきた。もっとも南欧諸国への支援を考えている政府の首脳達も問題の根源を理解しているわけではない。単に自国の銀行が不良債権を大量に抱える込むことを警戒しているだけである。このように一般の国民だけでなく政治家にも全く「展望がない」のである。
■ユーロの導入と経済のグローバル化
長期低迷を続けてきた欧州でバブル経済が起った。EUの拡大に伴って世界中から欧州に必要以上の資金が流入してきたことが原因である。たしかに資金の一部はEU加盟を果たした東欧諸国の建設に使われたが、かなりの部分が不動産投機などに流れた。またバブル生成の過程で銀行の信用創造機能が働き余剰資金がさらに増大し、これがまたバブルを加速させた。ギリシャでは銀行が勝手に個人の口座を作り「この金を使ってくれ」という話まであったという。
欧州ではこのバブルの崩壊が今後も続くと見られる。例えば適正値から見るとスペインの住宅価格はまだ1〜2割は下がると観測されている。さらに日本のバブル崩壊の教訓では、対応を間違えると適正値をずっと越えるような不動産価格の下落に見舞われることが有りうる。いわゆるオーバシュートである。
ちなみに都会議員で銀座のビルのオーナだった人の話では、自分のビルの評価がピーク時の10分の1まで下がったという(バブル期にとても10倍までは上がっていない)。これも橋本政権の失策があり、また小泉・竹中コンビが不良債権処理を急がせたからである。
オーバシュートによる下げ過ぎ物件を買ったのが外資である。08/5/19(第527号)「ばかげた経済政策の連続」で取上げたように、ティファニーは銀座のビルを底値で買い高くなってから売却し大儲けをした(165億円の投資で215億円の利益)。EUの首脳陣や各国政府の対応を見ていると欧州でも不動産価格のオーバシュートが起りそうである。どうも中国資本がギリシャで盛んに物件を物色していて、ギリシャ国民の反感をかっているという話である。
安全保障の話は別にして、EUは共同市場を創設することによって欧州の存在感を世界に示すということが目的であった。アジアや新興国が経済成長し、長期に凋落を続けていた欧州経済は相対的に存在感が薄くなった。これを逆転するのがEUの創設であり、EUの拡大であった。「経済を統合したEUは、人口やGDPで経済大国の米国に引けをとらない」といった具合である。しかしそれはあくまでも統計上の話に過ぎない。
ギリシャを発火点にした財政・金融危機が起りその対応を見ていると、EUは、単なる疑似国家でありとても国家と呼べるものではなかったことが明らかになったと言える。EU統合は各国の主権を脅かさない範囲の緩い統合であった。そのような国の集まりがユーロという共通通貨を導入したことがそもそもの間違いと筆者は思っている。
★何度か述べてきたように、筆者はEUというものが加盟国だけでブロック化するものと思っていた。経済規模から見てもブロック化するのに適正と考えられた。また筆者は、ブロック化しなければ欧州諸国の手厚い社会保障制度や環境保護を重視する社会を維持することは難しいと考える。
★ところがEUはむしろグローバル化を選択している。EUでは南米や韓国とFTAやEPAの締結が進んでおり、また日本とのEPAが議題に登っている。FTAやEPAを締結するということは、経済上、実質的に締結先の国がEUに加盟することと同じである。またEU統合後、中国からの製品輸入が増えている。
おそらくEUの首脳は、EUとしてまとまった方がFTAやEPAの締結交渉で優位に立てると踏んだのであろう。しかしEUの企業は、これらの貧弱な社会保障制度の国や環境保全に金を掛けない国の企業との競争にさらされるということになるのである。
★EUがもし失敗と言われるのなら、原因はユーロの導入とこの経済のグローバル化と考える。 (抜粋)
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