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アジア・国際>東京移民街探訪〜すぐ隣にある異国を歩く
IT技術者への需要が、西葛西にインド人街を生んだ
東京にも“ガンジス川”が存在する!?
2012年6月6日 水曜日 藤巻 秀樹
人口減少社会を迎え、停滞感と閉塞感が強まる平成日本。
一部で移民受け入れ拡大論が高まるものの、政府は依然として厳しい移民制限政策をとっている。だが、移民は単に労働力不足の穴埋めをする存在にとどまらない。その異質な文化や多様性が、日本経済を活性化するのではないのか。
実際、約40万の外国人が住む国際都市・東京で、移民の多い街はどこも活気にあふれている――コリアタウンの新大久保、新華僑の店が並ぶ池袋北口。そこには高度成長時代の日本があると言ってもいい。
国際化、グローバル化が叫ばれるものの、我々は日本に住む身近な外国人のことを案外知らない。彼らは何を求めて日本に来たのか。日本でどんな暮らしをしているのか。また、我々は隣の外国人と仲良く暮らすことができるのか。
この企画では毎回、外国人の多いエスニックタウンを歩き、そこで暮らす人々の話を聞き、東京の移民事情をリポートする。外国人の目に平成の日本はどんな姿に映るのだろうか。移民は現在の日本を映す鏡でもある。移民街を探訪することで、これからの日本を考えてみたい。また日本に住む移民の話から、彼らの祖国はもちろん、今の世界が見えてくるはずだ。
東京の東端、江戸川区の西葛西に日本最大のインド人コミュニティーがあるのをご存知だろうか。地下鉄西葛西駅近くにある3カ所のUR(都市再生機構)賃貸住宅や民間マンションを中心に約2000人ものインド人が住んでいる。日本におけるインド国籍の外国人登録者数は約2万2000人。その1割がここに住む。
もっとも、西葛西に来て、ここにインド人街があると気づく人はよほど注意深い人だろう。なぜなら、インド人住民の大半は都心に通うIT(情報技術)技術者で、昼間は姿が見えないからだ。ところが最近、ここに紛れもなくインド人コミュニティーが存在することを証明する施設が現れた。
西葛西駅からバスで10分の船堀2丁目。白い建物の扉を開いて中に入ると、正面に祭壇があり、男女一対の彫像が並んでいた。向かって左の男性がインド神話に登場するクリシュナ神、右の女性がその愛人のラーダ神だという。ヒンズー教寺院「イスコン・ニューガヤ・ジャパン」である。
ヒンズー教寺院の「イスコン・ニューガヤ・ジャパン」
訪れたのは4月22日の日曜日。午前中から三々五々、インド人が現れ、祭壇に向かって祈りを捧げる。美しい旋律が奏でられ、全員が立ち上がってクリシュナを讃える歌を合唱し始めた。訪れたインド人男性は「これまでは祈る場所がなかった。ここに来ると、心が安らぐ」と話す。
建物は2棟建て。寺院がある棟は1階が礼拝所で、2〜3階が宿舎だ。もう1棟は1階がベジタリアン専門のインド料理店、2階がカルチャーセンターになっている。江戸川インド人会が中心になり、在日インド人約1万人から寄付を集め、建物と土地を購入。2011年6月に内部を改装して寺院に造り変えた。ヒンズー教寺院は、同教徒が多いインド人の精神的支柱で、各種行事をする上で欠かせない施設だ。6年前に江戸川区内に開校したインド人学校「グローバル・インディアン・インターナショナル・スクール(GIIS)」に続く、西葛西のインド人待望の施設だ。
寺院を管理するジョティ・アルケッシュさん(29歳)はITエンジニア。インド工科大学(IIT)の出身で、日本のゴルフ場管理会社でシステム開発を担当している。IITは、ここに入学できなかった人がハーバード大やMITに行くと言われるインド有数の難関大学。アルケッシュさんは同大を卒業した後、インド第2位のIT企業、インフォシス・テクノロジーズに入社した。その後、米国系のITコンサルティング会社にヘッドハントされ、2007年に、同社から日本に派遣された。「来る前は日本のことを知らなかった。日本人は親切で正直。ここでの生活は快適」と言う。
先駆者を頼って、西葛西にインド人が集まった
西葛西にインド人が増えたのは2000年代の前半から。日本でIT技術者を求める需要が高まり、IT産業が急成長したインドに注目が集まった。2000年に当時の森喜朗首相がインドを訪問して、IT分野における協力推進で合意。同国の技術者が日本に滞在するビザを容易に取得できるようにした。これをきっかけに、来日するインド人が増えた。
西葛西にインド人が集まったのは、江戸川インド人会の会長を務める在日歴34年のジャグモハン・S・チャンドラニさん(59歳)の存在が大きい。チャンドラニさんは1978年、貿易商を営む父親の事業拡大を助けるために来日。治安が良く、住みやすい日本が気に入り、インド紅茶の輸入販売を始め、日本に住み着いた。事業の拠点として選んだのが東京湾や倉庫街が近く、成田空港に行くのも便利な西葛西だった。当時の西葛西はところどころに木造住宅があるだけで、一面に原っぱが広がっていたという。
西葛西でインド人の世話役を務めるチャンドラニさん
2000年以降、来日するインド人が増えると、チャンドラニさんに住宅などの生活相談が舞い込み始めた。当時は外国人に部屋を貸したがらない大家が多かったため、みんな住宅の確保に苦労していたのだ。チャンドラニさんは不動産業者に掛け合ったり、頼まれれば保証人にもなった。当初は20世帯用のゲストハウスも用意した。バス、トイレは共同利用ながら、1日3000円で利用できた。
またベジタリアンで外食ができない人のために、野菜を中心とした家庭料理を提供する食堂も始めた。西葛西にはチャンドラニさんが経営するインド料理店が2店ある。これは、この時の食堂が発展したものである。こうして「西葛西に住めば便利」との情報が口コミで広がり、来日したインド人が集まり始めた。西葛西は地下鉄東西線で大手町まで15分と都心へのアクセスも良い。新しい街だから、外国人でも溶け込むことが容易という利点もあった。
荒川を見て、故郷の「聖なる川」に思いを馳せる
ただ、便利なだけでは、これだけ多くのインド人は集まってこない。なぜ、西葛西なのか。そう考えながら、日曜日に街を歩いていたら、いつの間にか荒川の土手に出た。女児を連れたインド人の若いカップルが向こうからやってくる。見渡せば、散歩中のインド人のグループが何組も視野に入った。
「荒川を見ると、故郷の川を思い出す」と話すのは荒川沿いのUR住宅に住むガガン・アワスティさん(28歳)。コルカタ(カルカッタ)出身で、生まれた家はガンジス川の支流のすぐそばだった。アワスティさんは独身で東京・日本橋の外資系金融機関に勤務している。平日は夜遅くまで仕事で忙しい。休日に友人と荒川の土手を散歩することで、日常の疲れを癒すという。
ガンジス川はヒンズー教徒にとって「聖なる川」だ。インド北部を横断する大河だけに、川沿いで育ったという人は多い。ヒンズー教寺院の管理人、アルケッシュさんもガンジス川沿いのバーガルプルの出身。荒川を見ると、ほっとするという。川はインド人にとって特別な存在。荒川がインド人を西葛西に引き付けているのだ。
日本の世話人も日印交流を支援
4月11日の午前10時、西葛西駅の南1キロにある江戸川区の清新町コミュニティ会館にインド人を含む8人の外国人女性が集まった。日本人の女性と向き合い、たどたどしい日本語をしゃべっている。ボランティア団体「F&Sの会」が毎週水曜日に開く外国人向けの日本語教室だ。
「ここに来ると、病院や買い物の情報など色々なことが分かる」と笑顔で語るのは近くのUR住宅に住むインド人妻のヒマニ・ゴールさん(33歳)。教室で日本語を教えるのは、大半が近所に住む主婦だ。代表の亀井雪子さん(61歳)がインド人女性と知り合ったのをきっかけに支援活動を始めた。インド人の多くは日本語ができないため、日本人との日常的な交流がほとんどない。亀井さんはこうした状況を少しでも変えようと、日本に興味を持つ女性たちとお茶会やパーティーを開くなど交流に努めている。
F&Sの会が開く日本語教室。左が亀井さん。
インド、日本双方に世話役が存在するためか、西葛西では日印の地域住民の間で大きな摩擦はない。一部のインド人がゴミ捨てのルールを守らないなどの苦情が寄せられることもあるが、それほど深刻なトラブルにはなっていない。西葛西に住むインド人は高学歴・高収入で、礼儀正しいという。ただ、2〜3年で帰る人が多いため、地域住民としての意識は高くない。
インドの優秀な人材を使いこなす力が日本企業に必要
滞在年数が短いのは、インド人のIT技術者のほとんどが日本企業の正社員ではないからだ。彼らの多くはインドもしくは外資系企業の社員で、務める会社が日本企業から業務を受託している期間だけ日本で働く。最近は不況で期間が短縮されており、1年か1年半で帰る人が少なくないという。
インドのソフトウェア産業に詳しい拓殖大学の小島眞教授は「日本ではIT技術者の位置付けが低いが、インドでは優秀な人がこの世界に行く。しかも日本企業は外国人を管理職に登用することが少ないため、彼らは日本企業に入りたがらない」と指摘する。
今、日本では、国際的に活躍できるグローバル人材の必要性が声高に叫ばれている。人口減少や企業の海外展開が進んでいることが背景にある。インドのIT技術者も有力なグローバル人材に違いない。日本企業が彼らを十分に使いこなすことができないとすれば、心配だ。
西葛西のインド人社会は誕生から10年がたち、その数は2000人規模に膨れ上がった。ただ、連続して10年いる人はごくわずかで、2〜3年ごとに人が入れ替わり、常に新陳代謝を繰り返すコミュニティーになっている。ここは日本のITビジネスがつくり出した特異な移民街なのである。
東京移民街探訪〜すぐ隣にある異国を歩く
人口減少社会を迎え、停滞感と閉塞感が強まる平成日本。
一部で移民受け入れ拡大論が高まるものの、政府は依然として厳しい移民制限政策をとっている。だが、移民は単に労働力不足の穴埋めをする存在にとどまらない。その異質な文化や多様性が、日本経済を活性化するのではないのか。
実際、約40万の外国人が住む国際都市・東京で、移民の多い街はどこも活気にあふれている――コリアタウンの新大久保、新華僑の店が並ぶ池袋北口。そこには高度成長時代の日本があると言ってもいい。
国際化、グローバル化が叫ばれるものの、我々は日本に住む身近な外国人のことを案外知らない。彼らは何を求めて日本に来たのか。日本でどんな暮らしをしているのか。また、我々は隣の外国人と仲良く暮らすことができるのか。
この企画では毎回、外国人の多いエスニックタウンを歩き、そこで暮らす人々の話を聞き、東京の移民事情をリポートする。外国人の目に平成の日本はどんな姿に映るのだろうか。移民は現在の日本を映す鏡でもある。移民街を探訪することで、これからの日本を考えてみたい。また日本に住む移民の話から、彼らの祖国はもちろん、今の世界が見えてくるはずだ。
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藤巻 秀樹(ふじまき・ひでき)
日本経済新聞編集委員
1955年生まれ。79年東京大学文学部卒業後、日本経済新聞入社。大阪経済部、同社会部、パリ支局長、国際部次長、経済解説部次長などを経て編集委員。日系ブラジル人が集住する愛知県豊田市保見団地、アジア人が集う東京・大久保、農村花嫁の多い新潟県南魚沼市に住み込み取材をするなど、移民・多文化共生問題を追いかけている。
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