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企業・経営>河合薫の新・リーダー術 上司と部下の力学
「女ばかり増やしてどうする?」 “逆差別”を訴える男と女のすれ違い
女性の登用を増やしても、「男女平等」は実現しない
2012年5月24日 木曜日 河合 薫
何だかすごい。公約といえども、やっぱりすごい。そして、「うらやましい〜」――。
何がって? 女性たちに囲まれニンマリしている男性、いやいや、そうではなく、この国の女性たちだ。そう。新閣僚34人のうち17人が女性という「男女同数内閣」が、フランスで発足したのである。
ニンマリしている男性とは、フランスで17年ぶりの社会党大統領に就任したオランド氏。彼は「男女同数内閣」と、「女性の権利省(Ministre des droits des femmes)の新設」を公約とし、それを実行したのである。ちなみに元パートナーは、前回の大統領選で社会党初の女性候補として出馬してサルコジ氏に敗退したマリー・セゴレーヌ・ロワイヤルさん。現パートナーはジャーナリストと、いずれも「フェミニスト」と言われている女性たちだ。
そんな大統領を、「強い女好き」などと冷やかす人もいるようだし、重要閣僚は男性にしている、との指摘もある。
サルコジ政権の時は31人の閣僚うち11人が女性だったので、「たった6人が増えただけ」と言ってしまえばそれまでなのかもしれないけれど、それでも、やっぱり本当にやっちゃうところが、すごいと思うのである。
日本も女性国会議員の人数は引けを取らないが…
実はフランスと日本の国会議員における女性と男性の比率は、そう大きく変わらない。フランスでは女性が18.9%、男性が81.1%。対する日本では女性が11.3%、男性が88.8%だ(2011年11月時点)。にもかかわらず、日本の女性閣僚が最も多かったのは、2001年に発足した第1次小泉純一郎内閣の5人(閣僚の総人数は22人)。女性議員比率が45.0%のスウェーデンでさえ、22人中10人というのだから、17人はやっぱりすごい(ちなみに、2010年にスイスで「7人中4人が女性」という女性が過半を占める内閣が発足したが、同国の女性議員の比率は28.5%にとどまっている)。
「オランドは、男女平等推進に40項目を約束した。今後、男女平等が、遅滞なく、確実に推進されるよう、何週間も何カ月も、目を凝らして監視していこう!」
フランスの女性団体は、こう女性たちに呼びかけているという。「しっかりやってよ。ちょっとでも、私たちが差別されるようなことがあったら容赦ないからね!」と、目を光らせているわけだ。
「あ〜、フランスに生まれなくて助かったよ」
「日本でも最近は変わらないぞ」
「そうそう、ウチの会社でも女性管理職を増やすとか言って、女の方が管理職試験に断然受かりやすくなっているし」
「要するに、逆差別」
「大体、女性専用電車だの、女性特別メニューだの。何で“女”ってだけで、優遇されるんだよ」
こうぼやく男性は少なくないかもしれない。
逆差別、ね。
そう言えば今からちょうど1年前。九州大学が2012年度の入試から女性枠を設ける、と発表した時にも、「逆差別だ!」との批判が相次いだ。
九州大学では国際的に見ても際立って少ない理科系の女性研究者を、「まずは学部から増やしていこう」という趣旨の下、一般入試の後期日程で選抜する9人のうち5人を女性にしようと考えた。だが、結局、「逆差別だ!」、「違憲だ!」との意見に屈する形で白紙撤回したのである。
企業においては、資生堂が2007年に「2013年までに国内でグループの女性管理職の比率を、2007年時の2倍以上に当たる30%に引き上げる」との方針を明らかにして話題になったが、同じように「数値目標」を設定して、積極的に女性登用を進めている会社は増えつつある。
また、数値を明確に掲げないまでも、「同程度の実力であれば、女性を優先」として、女性登用を積極的に進めている企業も少なくない。
女性の「数」を増やすことは、逆差別か? それとも必要なことなのか? そもそも、「数を増やせ!」と女性を積極登用するのは、何のためなのか?
そこで今回は、「数」について、考えてみようと思う。
50代のバリキャリ女性が打ち明けた意外な実情
「正直な話、私のような立場でやっていきたいと思っている女性は少ないと思います」
こう語ってくれたのは、ある大手企業に勤める50代の女性である。この女性は、1年前に女性初の「役員」となった。「仕事が人生」と語るほど、仕事も、会社も、大大大好きな、子持ち、夫持ち、役職持ちの、いわゆるバリキャリの女性だ。
「うちの会社でも、女性管理職を増やそうと数値目標を掲げています。10年後までに現在の7%から、政府が目標としている30%に上げると言ってるんですけど、そんな数ばっかりにこだわって大丈夫なのかなぁと、最近思うようになりました。女性を積極的に昇進させようとすればするほど、“これで本当にいいのか?”って気持ちが、チラつくようになってきたんです」
「大体女性を増やすためには、“特例”が必要になってくることが少なくないんです。先日も、これまでは地方の支店を2年ほど経験させてから昇進させるというのが慣例だったのに、地方勤務を拒否してきた女性を昇進させることになった。当然、男子社員たちは面白くない。男性の役員たちも、本音では女性が偉くなることを望んでないから、昇進を決めている本人たちの中に、“これって逆差別じゃないか”って空気がありありなんです。もちろん、誰も口にはしませんけどね」
「それに女性の社員って、自分の仕事とか専門分野とか、自分1人の結果につながることではものすごい成果を上げるんですけど、全般的に部下を育てるのが下手。スペシャリストとして、責任を任されることは大歓迎でも、マネジャーにはなりたがらない。どんなに女性のキャリア意識を変える努力をしろって言われてもね。そんなに変わるもんじゃないでしょ。いっそのこと、今のままでいいじゃないか、なんて思うこともあるんです」
確かにこの女性が指摘するように、現実的な将来の『役員候補』の40代が、マネジャーになりたがっているかというと、なりたがってはいないと思う。同じ40代の女性の1人として、断言できる。その通り。彼女たちはマネジャーになって、男社会に挑んでやろうとは、サラサラ思っていないのだ。
何しろ今の40代の多くは、気がついてみたら「あら? こんなになっちゃった」という世代だ。「ふざけるな!」と怒られてしまうかもしれないけれど、そうなのだから仕方がない。「申し訳ない」と謝るしかない。
もちろん中には、キャリアデザインをしっかり描いて、働いてきた女性たちもいる。でも、ほとんどはふと気がついてみれば、「女性で一番年上」になっていただけなのだ。
もちろん20年近く働いてきたわけだから、仕事は嫌いじゃないし、自分の能力だってできる限り発揮したい。やるからにはそれなりに頑張りたいし、これまでだって頑張ってきた。自分の“やってきたこと”には、それなりの自負もある。
だが、その一方で、活躍する上の世代の女性たちを見て、「やっぱりすごいよね〜。あんなふうにはなれない」と心のどこかで思っている。「私には、あんなパワーも能力もないから無理」と、はなから思っている女性の方が圧倒的に多いのだ。
だから上司から、「どう?」と聞かれても、「やりたい」と、自ら積極的に手を上げることはない。「今のままでいい」とか、「私にはマネジメントなんて、無理です」と答えるはずだ。
それでも昇進したら彼女たちは必死にやる
とはいえ、「自分の居場所」がなくなることの恐怖も、同時に感じている。その気持ちは、若い女性たちを見るたびに揺さぶられ、子育てに専念している友人に会うたびに深められる。無意識に考えないようにはしている(変な言い方だけど、そうなのだ)けれど、10年後の自分が想像できないことに、得体の知れない不安を抱くことがある。
だから、もし昇進したら……。
何やかんや言いながら、ちゃんとやる。「昇進」したらしたで責任を全うすべく、必死にやる。
「これって何のためですか?」「こんなことに意味があるのですか?」などと、それまでの男性社員が言わなかった意見を言って、上司たちをイラつかせることがあるかもしれない。自分たちが、女性登用の“象徴”として昇進したことが分かっているだけに、盾突くことを恐れない。ポジションを守ろうとか、しがみつこうとか、そういう気持ちはさらさらないから、彼女たちの発言は、上司たちにとっては“文句”にしか聞こえないことだろう。
でも、ちゃんとやる。それくらいの根性と覚悟は20年という歳月の中で、ちゃんと身につけているのだ。
実際、私の友人の多くは、つべこべ言いながらも、しっかりやっている。
「オトナになって忙しい〜」などと訳の分からないことを互いに言い合いながら、忙しくてなかなか会う機会が減ってしまったり、いつ連絡しても「疲れてる」「テンパってる」「ヘロヘロ」だのと言い合ったりしながらも、それなりに「期待通り」かどうかは分からないけれども、必死にやっていることだけは事実なのだ。
「たまたま女性の中で一番年上だったから」と部長になった友人は、女性初の支店長になって地方に転勤を命じられ、ダンナを東京の自宅に残して関西に赴任した。
「大変だね」とねぎらう私に、「仕方がない。オトナって大変〜」などとケラケラ笑いながら引っ越していった。
まぁ、彼女が妻であっても母じゃなかったからできたことかもしれないし、私の周りの、実に小さな人間関係の一部分かもしれないけれど……。
それでもやっぱり、「心配しなくて大丈夫!」と確信できる。だって40歳を過ぎて「責任のある仕事を任される負担」より、「責任のない、役職もない閑職」をやらされる方が、よほどしんどいのだ。自分の居場所、存在意義がぼやけることの恐怖といったら半端じゃない。
だから、必死で頑張りますよ。役員のオッサンたちから見れば使いづらいかもしれないし、バリキャリの女性上司たちにもご迷惑をおかけするかもしれない。それでもやっぱり、どんどん役職を与えて、迷わずどんどん40代女性を登用してください!
もし、可能なら、時折ねぎらいの言葉の1つでもかけていただければ幸いです。
中途半端に人数を増やすのは逆効果
それに、もし、「女性を戦力にしないことには、いろいろな意味で会社の未来がない」と、真剣に思うのであれば、数を増やすことが一番手っ取り早いといっても過言ではないのである。
逆に、中途半端に女性を管理職や役員に登用すると、全くいなかった時以上に、多数派の規範や意見が過剰なまでに強められ、せっかく登用した女性までもが、その“色”に染まってしまう危険性がある。
この「ゼロ」より「少数」の功罪は、「数」の重要性を主張した、米ハーバード大学経営大学院教授のロザベス・モス・カンターの観察実験でも確認されている。
「男性ばかりの管理職集団」と、そこに「1人の女性が入っている管理職集団」における、男性社員たちの言動を観察し続けた結果、1人の女性がいる集団では、その女性との違いを強調することで仲間意識を強める傾向があったのである。
例えば、女性が参加しなかったゴルフのコンペの話、女性が参加しなかった飲み会の話、あるいは、女性が聞くに堪えない性的な話をする頻度が、男だけの集団よりも高かった。女性と男性の間に線を引き、女性はアウトサイダーとして扱い、女性に「男社会」への忠誠心なるものを強要する場面もあったという。「男性だけの集団」に、一時的に1人の女性を入れた場合も同じだった。男性だけの時よりも、「男を強調する会話」が増えたのである。
つまり、「女性が自分たちの集団にいる」という事実が、男性同志の連帯感を余計に強めてしまったのだ。皮肉なことではあるけれど、全く女性がいない男性集団の方が、よほど女性に寛容だったのである。
同様の傾向は女性が多数を占める集団に、1人の男性が入った時にも示された。男性が1人だけいる看護師集団の女性看護師たちは、エッチな話や、好みの男性の話を頻繁に持ち出し、自分の性的魅力をアピールする頻度も増した。時には「これは力仕事だから」といって、男性に仕事を押しつけることもあったという。
変わることへの恐怖心が多数派の連帯意識を強め、少数派への嫉妬が陰湿な言動を喚起する。恐らくそれらの感情は、無意識に呼び起される。だからこそ、根深くもあり、ややこしい。
そして、結果的に少数派は抑圧され、多数派の価値観が社会の規範として浸透していき、ますます少数派が“声”を失っていくのである。
日本の男社会を作った“数”の力
日本の女性の社会的地位が低下していった背景にも、“数”の功罪が影響しているとされている。
いまだに日本社会に根深く張り付いている「女は家庭」という価値観は、江戸後期以降に確立されたというのである。
かつて日本の女性たちは、男性と平等あるいは、それ以上に社会的地位が高かった。ところが、江戸時代以降、家父長制が制度化され、表舞台から女性が消えていった。それに伴って、「女性の社会的地位」も失われたと指摘する専門家が少なくないのだ。
証拠として、女性の識字率の高さに多くの外国人たちが驚いたことがあるという。
16世紀に日本に滞在していたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、『日欧文化比較』(訳書は松田毅一『フロイスの日本覚書―日本とヨーロッパの風習の違い 』=中公新書)に次のように記し、いかに日本の女性が男性と平等に、そして自由に過ごしているかを紹介している。
「日本の女性はヨーロッパの女性たちと異なり、自ら財産を所有し、自ら離婚を申し出、夫に知らせずして、好きなところに行く自由を持っている。また、日本の女性たちは文字を書き、彼女たちはそれを知らなければ価値が下がると考えている。これは文字を書けないヨーロッパの女性とは大きな違いだ」
また、歴史研究者として知られた、網野喜彦先生も、「南北朝時代までは女性たちは、荘園や公領などあらゆる社会的活動の表舞台に登場し、国衙や東寺の支配制度の中で、公式の職に任命され、活発に表舞台で活躍していた」としている。
“数”の平等性が、女性の発言権と、社会的地位獲得につながっていたと、推察できる史実がいくつも確認されているのである。
つまり、もし、「女性たちの意見をもっと組織の中で生かしたい」と思うのであれば、数値目標を決めて、女性管理職やら、女性役員やらを増やせばいい。かつての日本の女性たちの多くが、自らの名前で所領を保持し活発に動いていたように、経営者層の女性たちを増やせば、彼女たちの発言権は増し、その能力を組織に生かすことが可能だ。
問題は、女性と男性の機会均等の手段として、“数”を設定することだ。
数を増やすことと、機会を均等にすることは、全く違う。それにもかかわらず、「女性が役職に就く機会を増やす=男女平等」を目的として、数値目標を掲げている企業がほとんどなんじゃないだろうか。
「数を増やす」ことの目標は、あくまでも「数」を増やすこと。多数派が作り上げた見えない壁をなくし、誰もが能力を発揮できる組織、誰もが成長できる組織を作っていくためのもの。多様な価値観の共有を促し、組織の活性化につながっていくために、「数」を増やす。
一方、「機会がある」ことは、個人のモチベーション向上につながり、「機会がない」ことは、個人のモチベーションを低下させる。これまで昇進の機会がなかった女性たちに門戸を広げることは、彼女たちのモチベーションを高める手段の1つだ。
機会を増やして個人のモチベーションを高めることと、数を増やして女性たちの声を組織の運営に生かすこととは、全く別次元のことなのだ。
「数」を増やすことは、組織風土を変える試みだ。風土を変えていくには時間がかかる。「会社が変わった」と実感できるには、少なくとも5年、いや、10年はかかるかもしれない。その間に、冒頭の女性役員が心配していた女性たちの“キャリア意識”もおのずと変わっていく。「私には無理」といっていた女性管理職たちも、頼もしい存在になっているはずだ。
もし、急ピッチで変革を実感したければ、大混乱は承知のうえで「男女同数内閣」ならぬ、「男女同数管理職」くらいやってのけてもいいのかも、などと思ったりもする。
モチベーションの向上と多様性の促進は異なる
「数」と「機会」をゴチャ混ぜに、数値目標など掲げるから、「逆差別」なんて不満が出る。だって、男性たちにとっては、「女性の数を増やす=男性の数が減らされる」としか認識できていないから。
「機会が失われた」と多数派が意気消沈しないためには、知恵を絞らないとダメ。難しい課題かもしれないけれど。とにもかくにも、時代の流れに乗って女性たちの積極登用を進めるだけでは、「逆差別だ!」と萎える男性社員を、量産するだけになってしまうことだろう。
では、どんな「機会」を作ればいいのかって? それは「変わりたい」「将来のため」と願う組織が、自分たちで考えるしかない。「昇進」という機会しか与えていないことが、そもそも問題だったりするのかもしれないわけで。答えは一通りではないはずなのだ。
もっと言ってしまえば、女性に「機会」だけを増やしたいなら、管理職や役員の「数」にこだわる意味などどこにもない。
そして恐らく、女性の積極登用を訴える男女平等フェミニストたちは、「同数=男女平等」と考えているのだと思う。
個人的な意見を言わせてもらうなら、男と女は同じじゃない。男女平等にはなりえない。違うからこそおもしろいし、違うからこそ組織も社会も活性化する。そして、その違いを互いに受け入れられるようになった時、「女だから無理」とか、「男だからダメ」といった差別はなくなっていく。どんなに管理職が男女同数になっても、女性たちはオッサンには決してならない。オバサンになるだけだ。
NBO会員の皆様へ
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このたび日経ビジネスオンラインでは、当サイトの人気コラム「河合薫の新・リーダー術 上司と部下の力学」のこれまでの記事を再編集して、企業の中間管理職の方々を主な対象とした書籍を発行することになりました。発売は6月下旬を予定しております。
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日経ビジネスオンライン編集部
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