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【書評】
サンデル教授が新著で問う市場主義の限界
ジョナサン・ラスト
2012年 5月 9日 21:45 JST
エコノミストはプレゼントがあまり好きではない。合理的ではないと考えているからだ。プレゼントを贈る人は相手が何を一番欲しがっているか知らないのだから、どんなプレゼントも結局は無駄でしかない。贈ってよいのは現金だけ。それが最も効率的だ。
VIA BLOOMBERG
マイケル・J・サンデル教授
ハーバード大学の政治哲学者、マイケル・J・サンデル教授は、新著『What Money Can't Buy: The Moral Limits of Markets(それをお金で買いますか――市場主義の限界)』のなかで違った見方を示している。教授は、プレゼントを贈ることは経済的合理性に欠けるかもしれないが、文化的価値という点では完全に理に適っていると論じる。それは、社会的倫理に支えられてきた昔からの習慣であり、思いやりや優しさ、心遣いや気配りを最大限に表すための行為である。エコノミストが何と言おうと、最も大切なものは必ずしも最も効率的とは限らないのだ。
サンデル教授が心配しているのは、過去30年の間に、経済的必要性が他の価値をしのぐようになってきたことだ。伝統的なプレゼントを金銭的なプレゼントに置き換えた「ギフトカード」産業の隆盛を見れば一目瞭然だ。われわれは、理想よりも最大効率の追求が優先される文化へと着実に移行しつつある。サンデル教授が述べているように、「一部の物は能力によって分配され、他の物は必要性に応じて、また他の物は抽選や偶然によって分配される」。どの分配手段を用いるかは大抵、習慣によって決定されるが、社会的習慣とは非常に長い期間をかけて構築されるものである。
サンデル教授は『それをお金で買いますか』で、この静かな変化に光を当てようとしている。教授は近年、米国中のあらゆる場面において、伝統的な慣習が市場の道徳性を重視する方向へと変化する様子を観察してきた。今日、多くの遊園地では、列に並ばなくても乗り物に乗れる特別パスを買うことができる。交通渋滞を避けたければお金を払って高速車線を走ることができる。多くの学校では「インセンティブ」を活用し、本を読んだり優秀な成績を収めたりした生徒に報酬を与えている。生徒の通信簿を広告スペースとして販売している学校もある。地方自治体が公共財の広告スペースを販売するのはよくある話で、その対象は公園から庁舎、パトカーにまで及ぶ。いずれのケースでも、本来的価値や共同所有に関する伝統的な考え方が、単純な市場の道徳性に置き換えられている。こうした変化を公平さなどの面から現実的に懸念する向きもあると教授は指摘する。つまり「お金で買えるものが増えるほど、お金が豊富にあること(またはないこと)が重要になる」という懸念だ。しかし、さらに重大なのは、教授の言う「the good things in life(世の中の良いもの)」の価値をいかにして決めるかという哲学的、精神的な懸念である。
問題は、市場の価値が他の価値を退けてしまうことだけでなく、一度このやり方を取り入れたらどこまでも広がる傾向があることだ。スポーツチームがスタジアムの命名権を販売する「ネーミングライツ」の歴史を見てみよう。1988年には、企業スポンサーの名前を冠したスタジアムは米国内に3カ所しかなかったが、2010年には100社を超える企業が米国のスポーツ施設の命名権を購入している。さらにその対象はスタジアム以外にも広がった。現在、スポーツチームはピッチャー交代から球場アナウンスのフレーズにいたるあらゆる広告権を販売している。(バンクワンがアリゾナ・ダイヤモンドバックスのスタジアムのネーミングライツを購入したとき、球場アナウンサーはホームランを「バンクワン・ブーマーズ」と呼ばなければならなくなった。)
ネーミングライツの道徳性は波及的に広がった。今や企業は、一般市民の衣服や身体に広告を掲載させて広告料を支払っている。長い歴史を持つ地下鉄駅のネーミングライツを販売している都市も複数ある。地方政府は、広告収入はフリーマネーであり、納税者に利益をもたらすとしてこうした行為を擁護している。この言い分に対してサンデル教授は、後半部分は認めているが、前半部分には疑問を呈する。
生命保険の歴史に関する章はぞっとするが興味深い内容だ。この章でサンデル教授は、かつては家族のセーフティーネットとされた商品がいかにして恐ろしい投資ビークルへと変貌したかを描いている。欧州の大半の地域では、死を投機の対象にしてはならないとの理由から生命保険が数世紀にわたり禁止されてきた。米国で生命保険が合法化され始めたのは1850年代になってからで、当時は男性が早死にした場合に家族を守るための商品に限定されていた。
しかし、市場の道徳性は徐々に古い違和感を打ち砕いていった。現在、企業が従業員に生命保険を掛けることが日常的に行われている。保険契約を売買しようが保険金回収まで保有しようが、いずれにしても企業にとって大きな収益源になるためだ。近年では、投資家が高齢者から生命保険契約を買い取る「ライフセトルメント」産業なるものまで現れている。早く死んでくれるほど利益率が高まるというわけだ。これほど下劣な金儲け方法は他に思いつかない。
だが、なぜわれわれは、ライフセトルメントやその他の市場戦略に悩まされなければならないのだろうか。こうした手法は社会的功利を最大化し、個人の自由を極限まで拡大する(リバタリアンや功利主義者が市場を愛する理由はそこにある)。しかし、サンデル教授は、「市場にはモノを配分するだけでなく、売買されるモノに対する特定の考え方を表明し、推進する働きもある」と述べる。そして、「われわれはあるモノを売買してもよいと判断したとき、少なくとも暗黙のうちに、そのモノを商品として扱ってもよいと判断したことになる」と続ける。だからこそ、市民は陪審義務を逃れる権利を買ったり、投票権を販売したりすることはできず、カトリック教徒は聖体を買うことができない。多くの状況では、市場を「機能」させることにより、扱われるモノの「価値」が破壊されるのである。
サンデル教授は社会主義者ではなく、市場に対する批判は控えめだ。市場の多くの効用を認め、市場機能が必要かつ有効な場面が世の中に多く存在することも認識している。ジェットコースターに並ばずに乗れる特別パスを買えるという事実を批判するほど愚かでもない。教授が懸念しているのは、市場の道徳性はしばしば賄賂と腐敗を伴うことだ。正当な行動を迂回するという意味での「賄賂」と、確立された価値をむしばむという意味での「腐敗」である。
サンデル教授は、時計の針を巻き戻すための処方箋は示していない。優しい批評家として、われわれに目を開くよう促しているだけだ。「賄賂が役立つこともある」といい、「時に(賄賂)が適切なこともある」と述べる。だが一方で、「われわれが用いているのは賄賂だということを認識することが重要だ。つまり、より高い基準の代わりに(略)より低い基準を採用する、道徳的に損なわれた行為である」ともいう。
しかし本著は、市場の道徳性がささいなことからやがて重大な事態に発展していく実態を明らかにしている。はじめはお金を払って列に割り込む程度だったことが、死への投資へと進化したのだ。市場の道徳性が人生の終末に対するわれわれの考え方に最終的にどのような影響をもたらすのかという深刻な懸念も生じる。だが、懸念が必ずしも啓示となるわけではない。例えば、市場の道徳性が極限に至ったとすれば、なぜ大学入学を単純なオークションではなく、能力ベースの試験で決める必要があるだろうか。オークションにすれば、大学に最も高い「価値」を付けた人に確実に優先権が与えられ、よほど効率的である。しかし、大学という概念にかかわると「価値」の意味は変わってくる。
サンデル教授はまた、一見ささいなことにも思える重要な社会の変化を指摘している。わずか一世代前まで、エコノミストたちは物価や不況、失業、インフレを理解することが自らの役目だと考えていた。つまらない仕事だが、少なくとも科学的だった。ところが次第に彼らの役目は、人間行動全般を対象とするまでに拡大していった。ゲーリー・ベッカーは1976年の著書『The Economic Approach to Human Behavior』で、同業組合の権利をかなり明確に主張した。それ以降、エコノミストたちは野心の赴くままに勢力を伸ばし、「経済学」という科目は今やすべてを網羅するに至った。ベストセラー『Freakonomics(ヤバい経済学─悪ガキ教授が世の裏側を探検する)』(2005年)の序章で、著者のスティーヴン・レヴィット氏とスティーヴン・ダブナー氏は、インセンティブは現代の生活の要であり、経済学とは根本的にインセンティブの研究であると断言している。また、経済学者のグレッグ・マンキュー氏は「経済とは、生活において相互に関わりあっている人々の集団である」と説明している。
市場の道徳性を提唱する人は、信念体系を押し付けてはいないと主張するが、それは単なる偽装だ。功利の最大化を自身の信念体系の中心に据えることを選択することは、他のイデオロギー的教えを選択することと違わない。いかなる問題にもインセンティブに基づく解決策があり、いかなる緊張関係も最大限に効率的な結果を追求することで解決できると、彼らは考えている。
これは人間の経験を情けないほど侮った見方だ。人は神や国家、家族や故郷のために死ぬことはできる。しかし、最大限の社会的功利のために銃を手にとり死んだ者はいない。エコノミストはこの人間性の基本的事実を説明することはできない。それでも彼らは、過去4000年間にわたり哲学者や神学者に託されてきた社会的役割を担おうとしている。彼らはわれわれの生活をより自由に、効率的にした。だがわれわれはそのために貧しくなった。
(この書評を執筆したジョナサン・ラスト氏は、ウィークリー・スタンダード誌のシニアライター)
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