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“平成の鬼平”逝く…三重野氏の功罪
http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20120425/plt1204250715000-n1.htm
2012.04.25 夕刊フジ
1989年から5年間日銀総裁を務めた三重野康氏が亡くなった。三重野氏は日銀総裁当時、バブル退治をしたとして「平成の鬼平」と呼ばれた。しかし、その後の長期低迷の原因を作ったという批判もある。
私は三重野氏とは直接の面識はないが、旧大蔵省内で三重野氏の評判はよかったと思う。旧大蔵省のドンといわれた長岡実氏と旧制一高の同期だったと聞いたことがある。
どんな組織でも同じだがプロパーでトップまで上り詰める人は人間的な魅力がある。おそらく三重野氏もそうした人物だったのだろう。
ただ、そうした人間的な魅力と仕事のパフォーマンスは必ずしも一致しない。「平成の鬼平」という持ち上げはマスコミによるものだが、当時の日銀内の期待をも表したものだった。
当時の日銀には、公定歩合の上げは「勝ち」、下げは「負け」という雰囲気があった。これは大蔵省と日銀の微妙な関係を反映したものだった。
当時は、日銀総裁は大蔵省出身者と日銀プロパーとの交代で就くという不文律があり、大蔵省は財政支出を抑え税収を増やせる景気刺激策として金利引き下げを求めがちであった。
このため、大蔵省との対抗という意味合いと、中央銀行自身が持つインフレ忌避という観点から、公定歩合の上げ下げで、勝ち負けという表現をするようになったのだろう。私も幾度となく聞いたことがあった。
この表現を使えば、公定歩合については1980年8月に9%から8・25%に引き下げて以来、87年2月に3%から2・5%に引き下げるまで、日銀は10連敗だった。
それが、89年5月に2・5%から3・25%に引き上げて連敗を食い止めた。その当時、三重野氏は副総裁だった。同年12月に総裁になったが、この連勝を続けたかったのかもしれない。就任直後の12月も「勝ち」、90年3月と8月も「勝ち」、5連勝になって、公定歩合は6%にまで上がった。このときに「平成の鬼平」といわれたのだ。
ただし、その時にはバブル崩壊は誰の目にも明らかだった。私は89年12月、株価押し上げの要因とされていた「営業特金」を抑制する政策転換を行い、それを境に株価は急落した。不動産融資の総量規制も90年3月に実施された。これらを考慮すると、少なくとも90年8月の利上げは不要だったと言わざるを得ない。
しかも、問題は91年7月に6%から5・5%に下げるまで時間がかかったことだった。下げのタイミングが遅れると、その後の引き下げは後追いとなって、景気回復できない。結局、その後の失われた20年となってしまった。
後講釈かもしれないが、当時のバブルは資産市場だけの価格上昇であり、一般の財・サービスの価格上昇はなかった。つまり、カネが資産市場だけに流れ込んだので、資金規制で潰すべきで金融政策での対処が適切だったのかどうか疑問だ。
そして、バブルが崩壊した後は早く金融緩和すべきだった。(元内閣参事官・嘉悦大教授、高橋洋一)
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