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日銀がインフレ目標で「政治の圧力に屈した」と報じるマスコミの無知
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/31830
2012年02月17日(金) 長谷川 幸洋「ニュースの深層」 :現代ビジネス
日銀がインフレ目標を導入した。日銀はこれまで「物価安定の理解」という表現で政策委員が考える物価安定を数値で示していたが、今回「物価安定のめど」と言い換えて目標である点をはっきりさせた形だ。
とはいえ、数値自体は従来と変わらない。「理解」では、消費者物価指数の前年比が「2%以下のプラスの領域で中心は1%程度」としていた。「めど」に変わっても「「2%以下のプラスの領域で当面は1%」を目指すとしている。
日銀はこれまでインフレ目標を頑なに拒んでいた。米国の連邦準備制度理事会(FRB)が1月下旬にインフレ目標の導入を決めた後も、白川方明総裁は国会で「私の感じでは、むしろFRBが現在、日銀が行っている政策に近づいてきたとの認識を持っている」と語っていたほどだ。
もしも、白川が言うように「FRBが日銀に近づいてきた」のが本当なら、一歩先を行っていたはずの日銀がなぜ、いまさらFRBの後追いをするのか。事実は正反対である。FRBが先んじて動いたから、日銀が追っかけざるをえなくなったのだ。まったく厚顔というか白々しいというか、よく恥ずかしげもなく言えたものだ。
■マスコミはびこる「日銀信仰」
もっともFRBが動いただけでは、日銀は動かなかっただろう。白川が動かざるをえなくなったのは、国会で与野党が日銀の金融政策を批判し、日銀法改正が現実味を帯びてきたからだ。自民党は次期衆院選のマニフェスト(政権公約)に日銀法改正を盛り込む、と報じられている。
法改正となれば、インフレ目標の設定どころか、達成できなかった場合の責任条項まで入りかねない。少なくとも日銀総裁の解任規定をどうするかが議論になるのは確実である。そんな悪夢を避けるためにも、ひとまず妥協に動いたというのが実態だろう。
そんな展開をみて、多くのマスコミが「日銀は政治の圧力に屈した」と批判的な論調で報じた。白川の記者会見でも「マーケットの一部には、政治的な圧力に屈したのではないかという見方もある。どう考えるか」という質問が出た。これに対して、白川は「日銀が本来考えていないことをしたということはまったくありません」と答えている。
こうなるとご愛敬としか言えないが、問題はむしろマスコミのほうだ。
たとえば毎日新聞は「背景に政治の包囲網 問われる『距離感』、独立性揺らぐ懸念も」という見出しを掲げて「『金融政策の独立性が揺らぐ』との懸念も出ている」と伝えた(2月15日付け朝刊)。
私自身もかつて日銀を担当していたからよく分かるが、多くの記者は「日銀の独立性は神聖不可侵のもので、政治が圧力をかけて日銀を動かすのはとんでもない話」という単純素朴な観念を抱いている。信仰に近いといってもいい。
■中央銀行の独立性がわからない記者
日銀が巨額の赤字を抱えた政府の言いなりになってしまうと、国債の大量引き受けを迫られて、戦争直後のような大インフレになってしまうのではないか、という通説に支配されているからでもある(事実は違って、いまでも日銀は毎年、財政法5条のただし書きにしたがって、国会議決の下で国債を引き受けている)。
業界では知られた話だが、記者に対する日銀の対応は、実は他に例がないほど極めてていねいでもある。それだけでも、記者の側は日銀に対する親近感というか「悪い敵から守ってやらねば」というような気持ちを抱いてしまう。
それで永田町から日銀批判が飛んでくると、日銀担当記者はほぼ自動的に日銀側に立ってしまうのだ。「政府・政治=強くて悪い人々、日銀=ひ弱で善良な人々」というステレオタイプである。今回のインフレ目標導入でも、まさにそんな図式のような報道が渦巻いた。ちなみに日銀担当記者は経済部に所属し、政治部が担当する永田町は遠い世界である。
こうした「記者の理解」は根本を探ると、中央銀行の独立性に対する誤解ないし無知に根ざしている。
中央銀行の独立性とは、当コラムの筆者である高橋洋一があちこちで指摘してきたように「政策手段について独立性が認められている」にすぎない。物価安定を目指すインフレ目標のような「政策目標」は世界を見渡しても、必ずしも中銀だけに与えられているわけではない。
たとえば英国やノルウェーは政府がインフレ目標を示している。ニュージーランドやカナダ、オーストラリア、ブラジル、コロンビア、アイスランド、ハンガリー、トルコなどは政府と中央銀行の協議で決まっている。
インフレ目標の設定は中銀の専権事項ではなく、まして「神聖不可侵」などという考え方は完全な誤りなのだ。そこを日銀の神聖な仕事であるかのように思い込んでしまうと、先の記事のように、与党だろうが野党だろうが政治が口出しするのはけしからん、距離を保てという話になる。
だが、よく考えてほしい。物価安定は国民経済が健全に発展していくための基本中の基本条件だ。インフレもデフレも結局、国民が苦しむのである。そうであれば、国民から選ばれた国会議員が中央銀行の金融政策運営について、どんな目標を掲げるべきか、注文をつけるのは当然ではないか。
さらに議員の多数決によって構成される政府が物価安定の目標づくりに関与するのは、民主主義統治の原理原則からいって、まったく自然な姿であると思う。英国のように政府がインフレ目標を設定してもいいし、あるいはカナダのように政府と日銀が協議して決めてもいい。いずれにせよ、政府がしっかり目標作りに関与すべきなのだ。
■問われるのはマスコミの独立性
逆に言えば、政府の関与の仕方がはっきりしていないから、永田町から金融政策の議論が起きると、ステレオタイプのマスコミがすぐ「政治の包囲網」と書いてしまうとも言える。政策目標をめぐるルールと仕組みが透明、明確になれば、的外れな批判もなくなるだろう。
国民にとって、政府が関与するメリットは他にもある。政府がいつまで経っても自分たちが掲げた目標を実現できないなら、選挙で政権交代させてしまえばいいのだ。少なくとも4年に1回は成績を評価できる。大インフレやデフレを放置すれば、失格である。
政府が政策目標を自分で作るか、日銀と共同で作るようになれば、責任も分担せざるをえなくなる。いい加減な日銀なら政権の途中で政府と大バトルになるかもしれない。それこそが健全な統治の姿である。
いまのように目標作りも政策運営も日銀任せにしておいたら、国民はいつまで経っても日銀の失敗を追及できない。総裁任期は5年で、一度決まったら途中で解任もできない。総裁は辞めたら優雅な天下りが待っているが、国民はデフレで泣くだけなのだ。
こうみてくると、マスコミの責任の重さを痛感する。
中央銀行の独立性のような「大きな統治問題」は本来、政府や日銀から独立しているマスコミが広い視野からあるべき姿を考え、論点整理すべきなのだ。残念ながら実態は逆で、マスコミの仕事は記者クラブ制度の下で政府や日銀に依存している部分が多い。真っ先に議論すべきなのは、実は日銀の独立性ではなく「マスコミの独立性」であるのかもしれない。
(文中敬称略)
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