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あのとき、経営は判断を誤った 会社がダメになった瞬間 ソニー NECほか
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/31779
2012年02月14日(火) 週刊現代 :現代ビジネス
日本を代表する企業であるソニーやパナソニックが苦境にあえいでいる。どうしてこんなことになったのか。どこでいったい間違えたのか。そして誰が間違えたのか。外部環境のせいにしても何も解決しない。
■いったい何で食っていくのか
「NECを電電公社(現NTT)に依存する国策企業≠ゥら、世界中でコンピュータ、半導体、通信機なども売る総合電機メーカーに成長させたのは、1980年から15年近くも社長を続けた関本忠弘氏です。ワンマン経営には批判もあったが、カリスマ的にリーダーシップを発揮して社内を引っ張った功績は大きい。
ただ、1998年に防衛庁への水増し請求事件が発覚し、関本氏が会長を退くと、新社長となった西垣浩司氏がハードからソフトへの路線転換を行い、通信機、電子部品など関本氏が育ててきた事業を次々に切り捨てていった。これに怒った関本氏と西垣氏の間で『関本vs.西垣戦争』が勃発、呼応するように社内ではコンピュータ派と通信派の派閥対立が表面化した。振り返れば危機の源流は、この時に噴き出していたといえるのでしょうね」(NECの元幹部)
2012年1月26日、東京都港区芝に立つ「スーパータワー」地下1階の多目的ホール内で、NECの遠藤信博社長が問い詰められていた。
「今回の人員削減は小手先ではなく本気のものか」
「携帯電話の海外事業の伸びが未達成であることを総括してほしい」
この日発表されたNECの決算内容が「下方修正の博覧会」と揶揄されるほど、惨憺たるものだったからだ。並べてみれば、「通期の売上高予想を1500億円下方修正」「年間の携帯電話出荷台数計画を150万台下方修正」としたうえで、「構造改革として1万人の人員削減」「従来150億円の黒字としていた通期の当期純損益予想を1000億円の赤字に下方修正」と目を覆うばかりの惨状である。
「実はNECは中間決算時に通期売上高予想と携帯電話の年間出荷台数を下方修正したばかり。それが昨年10月のことで、その時は通年黒字を謳っていたのが、たった3ヵ月で今回は1000億円の真っ赤な決算に転落すると言ってのけた。さすがの狼少年ぶりに痺れを切らした会見参加者が、質疑応答に入ると遠藤社長と川島勇取締役執行役員の両氏を詰問した」(全国紙経済部記者)
同社は2010年2月に中期経営計画「V2012」を発表し、2012年度に純利益1000億円の目標を掲げていた。しかし、今回の会見では「来年度での達成はほぼ不可能になった」との敗北宣言も飛び出したという。
かつて半導体で世界一の事業規模を誇り、国民機と呼ばれたパソコン「PC-9800シリーズ」を売りに売りまくった面影は消え失せた。半導体事業では韓国、台湾勢に大負けし、パソコン事業は中国企業に実質売却=B頼みの通信・ネットワーク事業は海外進出に乗り遅れて内弁慶≠ゥら脱しきれず、新規事業も育っていない。要するに「5期連続減収の原因は儲かる事業がほとんどなくなってしまったことに尽きる」(前出・経済部記者)。
どうしてここまでダメになってしまったのか。前出・元幹部が続けて言う。
「西垣氏、その後任の金杉明信氏とコンピュータ派が続いた後、次にトップ登板したのが通信畑の矢野薫氏。前任者たちが自社製品を売ることにはこだわらないという路線できたのを、矢野氏は『振れすぎだ』として自社製品を売っていく方針に変更した。社長が代わるたびに、方針も主要幹部の人事もコロコロと入れ替わる。さらにNECが『何で食っていくのか』を明確にできなくなり、社内もバラバラになった。
主要事業と位置づけていた『三本柱』のうちの二つ、携帯事業、半導体事業は不採算化しているのにもかかわらず改革が遅れた。やっと構造改革に踏み込めたのは2010年のことで、同じ頃に今度は『これからはクラウドサービスやリチウムイオン二次電池を儲け頭にする』とぶち上げ始めた。これらの新規事業もまだ成果が出ていないことは今回の決算発表を見れば明らか。一事が万事この調子で来たから、気付けば社内に儲かる事業がほとんどなくなってしまった」
■成功体験の呪縛
会社は内から腐る---。積み重なった経営判断の誤りが、あるいはたった一つの経営判断のミスが致命傷となる。
今期最悪レベルの赤字決算となる見込みのパナソニックにも、象徴的な「会社がダメになった瞬間」がある。長年同社の取材を続けるジャーナリストの井上久男氏が言う。
「パナソニックはいまから2年前に、総額4500億円を投資して液晶工場(兵庫県姫路市)とプラズマの尼崎第5工場を稼働させたが、これが誤った経営判断だった。すでに成熟化した国内テレビ事業への過剰投資だったからです。事実、いずれも低稼働率に悩まされ、わずか1年で減損処理に追い込まれた結果、出血を強いられることになった」
戦略の誤りを軌道修正できないのは、次のような社内事情があるからだという。井上氏が続ける。
「中村邦夫会長が長期政権で築き上げた独裁的な経営体制が原因でしょう。社内では中村会長に遠慮する空気があって、健全な議論ができなくなっている。中村会長はかつてテレビ事業を成功させた大功労者だから、なおのことテレビ事業の失敗を否定できない状況がある。社長でありながら中村会長の戦略ミスを軌道修正できない大坪文雄氏、経営企画担当の森孝博副社長の罪も重い」
NECにせよ、パナソニックにせよ、経営幹部は経営不振の理由を「円高だから」「タイの洪水があったから」と語り、外部環境に責任転嫁するが、問題は会社の内部にあるのだ。
同じ電機業界にあって3期連続赤字の苦境にあえぐソニーの「経営が判断を誤った瞬間」はいつだったか---。ソニー元上席常務の天外伺朗氏はこう語る。
「ソニーがおかしくなっていると気付いたのは、'01年に会社の心理カウンセラーが私のところにやってきて、『鬱病の社員がものすごい勢いで増えている。このままでは会社がおかしくなってしまう』と言ってきたときです。その後、社内で親しい友人たちに聞いてみると、原因は'90年代後半からコンサルタントを多用して成果主義を導入するなど、米国式の合理主義経営にのめりこんでいったことにあるとわかったのです」
当時のトップは出井伸之氏。'95年に社長に就任するや、「デジタル・ドリーム・キッズ」「リ・ジェネレーション」という旗印を掲げ、アナログからデジタルへと大きく舵を切った。
さらに米国型管理手法を相次いで導入。中でもEVA(経済的付加価値)という経営指標を使って各事業を評価するようになったことで、開発者が短期的な利益ばかりに目を奪われ、ウォークマンなどのソニーらしい画期的な商品が生まれなくなったといわれる。
■人を育てられなかった
再び天外氏が言う。
「かつてのソニーには自由闊達に議論し、一人一人が何かに熱中して取り組む『フロー経営』があったのに、それが合理主義経営で破壊された。これではまずいと思って、私はその旨のレポートを書いて、副社長以上の経営陣に提出した。大賀典雄さんは電話をかけてくださって、『あれは素晴らしいレポートだった』と言ってくれたが、ほかの経営陣からは完全に無視された。
その後もソニーは経営方針を変えることなく、独創力や好奇心といった『生きる力』を持った幹部は引退したり、会社の経営にはタッチできない立場に追いやられたりした。さらに、その少し前からソニーには一流大学卒の成績がいい社員ばかりが入社するようになっていたが、『生きる力』に乏しい者が多く、合理主義経営に拍車がかかった。そこからソニーは萎みこそすれ、膨れあがる姿を一度も見せていない」
出井氏から後継指名を受けたハワード・ストリンガー氏はもちろんのこと、このたび次期社長に内定した平井一夫氏もエンタメ、国際畑出身で合理主義経営を志向するタイプ。8期連続赤字のテレビ事業の再生、韓国や中国メーカーとのグローバル競争、次世代を担う中核事業の確立など課題は山積みで、ソニーの「これから」は予断を許さない。
経営の判断ミスは、会社を潰す恐ろしさもある。それは過去の破綻劇を見れば明らかだ。
たとえばダイエー。創業者・中内功氏のもと「流通革命」を謳って高度成長期の国民の消費を支えながら、拡大路線からの転換に失敗して2004年末に産業再生機構の支援下に入った。同社の元幹部に「ダメになった瞬間は」と聞くと、こう振り返った。
「ダイエーがダメになっていくなと感じたのは、中内社長がジュニア(中内潤氏)を本気で後継者に据えようとしたときですね。33歳にして副社長に就任させ、1989年にダイエーの次世代戦略店とされていた『ハイパーマート』の経営を全面的に任せた。経営経験に乏しい二世に大役を委ねたのは、自分の後継者としてふさわしい実績を作らせたかったからでしょう。
そして二世に権限を集めるのを急ぎ、若い社員を抜擢して重要なポストにつけていった。二世に苦言を呈しそうな実績のある役員は遠ざけられ、そうしたベテランたちは次々と辞めていった。これで企業としての力は落ちると思いました」
若手を登用して社内に活気が出ればいいが、登用された人間はジュニアの取り巻き≠ナしかなかった。議論が活発になるどころかノーといえない雰囲気が強まっていったため、「これはダメだな」と元幹部は思ったという。結局、潤氏が推進したハイパーマートも赤字を垂れ流すダイエーの失敗の象徴となり、大半は店を閉じることになった。
経営評論家の片山修氏もこう語る。
「いかに世襲をするかが晩年の中内氏のテーマだったが、うまくいかなかった。要するに後継者の育成に失敗したわけです。これは、業績不振の末パナソニックに吸収された三洋電機のケースも同じ。創業一族で社長、会長を約20年続けた井植敏氏が、息子の井植敏雅氏を社長に就けたとき、同時に元キャスターでまったく畑違いの野中ともよ氏を会長にした。三洋電機が瓦解した瞬間でした」
敏雅氏が社長に就任したのは'05年6月、新潟中越地震で新潟の工場がやられて1700億円の赤字を出した危機的状況下でのこと。敏氏が進めた金融、不動産業などの多角化経営の失敗が明らかになった時期でもある。片山氏が続ける。
「つまりこの時にこそ、社内改革という大治療のためのトップ人事をやるべきだったのに、世襲にこだわるばかりに改革が遅れた。さらに野中氏を起用し、社内外で『世襲の色合いを少しでも薄めようというものでは』などと疑われ、組織の不信感を強める結果にもなった。私が敏氏に『三洋がなくなって反省することは何か』と尋ねると、『人を育てなかったことだ』と言っていたのが印象的です」
■新聞社にリークする役員たち
会社が危機のときこそ、大胆な改革に踏み切るチャンスともいえる。逆にそこで手を拱けば、崖の下に真っ逆さま、会社は「死」に向かって転げ落ちていく。
日本航空(JAL)がその好例だろう。同社にとっての「一番の危機」は、航空史上最悪といわれる御巣鷹山の事故だった。当時のJALをよく知る経済記者が言う。
「御巣鷹山事故の前まで、JALは絶対に潰れないといわれ、親方日の丸経営≠フもとで人事抗争に明け暮れていた。社内は路線を見ている人は路線のことしか考えず、機材を見ている人はそれしか考えないという典型的なセクショナリズム。こうした問題が御巣鷹山の事故で顕在化し、立て直しのためにカネボウ会長(当時)の伊藤淳二氏が副会長として送り込まれた。
そのやり方に批判はあるものの、伊藤氏はJALの負の遺産を一掃しようと奔走したが、旧経営陣らが反伊藤攻撃で追い詰め、結局は改革するはずだった企業体質がそのまま温存された。いま考えればこの改革の失敗が、JAL破綻に向かう『その時』だったと思う」
その伊藤氏が「中興の祖」として率いたカネボウも、2008年、会社が消滅している。
カネボウがギリギリの崖っ縁に追い込まれたのが、2004年のこと。膨らみ上がった債務を一掃するには、虎の子の化粧品事業を手放すしか選択肢はなく、社内は揺れていた。「最終決断」が迫られたのが'04年1月末の臨時取締役会。役員会は紛糾した。売却交渉チームの責任者を務めた常務(当時)の嶋田賢三郎氏が言う。
「三井住友銀行から『化粧品事業を売却しなかったら、確実に潰れるぞ』と言われるほど、待ったなしの状況でした。それなのに、役員には『死んでも花王には売りたくない』『花王に売るくらいなら潰してもいい』という名門意識に凝り固まった勢力がはびこっていた。もはや取締役会で打開を図るしか術はなくなり、4対3の僅差で花王へ売却の決着がついた。ただその後に、前代未聞の事態が生じました。
取締役会終了後、決議に反対した役員の二人が、新聞社に一部始終をリークしたのです。さらに全国紙に『カネボウの化粧品事業 投資ファンド買収提案』なる記事が一面に掲載されたりして、またまた社内が大混乱。結局、花王への事業譲渡は破談となってしまった」
売却交渉をカネボウ側が白紙撤回した結果、自主再建の道は断たれ、カネボウは産業再生機構下に入った。嶋田氏は言う。
「かつて繊維業界の雄として国家を支えた会社を、国も銀行も絶対に潰さないと思った人たちがいたのでしょう。化粧品部門に傾注して、基幹産業をすでに放棄していたカネボウが救われるはずもないのに、です。あるいは花王に売却した後の人事を恐れていたのかもしれない。過剰な名門意識と、時代の趨勢を感じながらもそれを認めることができない傲慢さ、そして保身。破綻が目前に迫った状況下でも、そんな類が噴出してしまう。そうした体質こそが、本当の意味での『末期症状』だったのかもしれません」
いま日本を代表する自動車、電機メーカーは、危機の淵にありながら大胆な構造改革に徹することができずにいる。ここで判断を誤れば、先にあるのは見てきたような「無惨な最後」でしかない。構造改革のために、「日本株式会社」に残された時間は僅かだ。
「週刊現代」2012年2月18日号より
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