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犠牲の灯り 第1部 「ちむぐりさ」/8 鎮魂
2013年1月10日 東京新聞[社会]
福島県いわき市の菩提院。400年以上前の江戸初期、沖縄に民俗舞踊エイサーの起源となる念仏踊りを伝えたという高僧、袋中上人が開いた古刹だ。
住職の妻、桐原美保子(61)の実家は、事故を起こした東京電力福島第一原発の北8キロの同県浪江町にあった。
亡くなった父は反原発運動のリーダーだった。地元の原発反対同盟で委員長を20年以上務めた舛倉隆。美保子は「政治家でも学者でもない、ただの農家のおっちゃんでした」と語る。
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舛倉が怒りに立ち上がったのは、今から45年前、1968(昭和43)年の正月。美保子が高校生のころだった。年頭会見で、木村守江県知事が「浪江・小高原発立地構想」を表明。近隣の双葉、大熊町で東電が建設を進める福島第一原発に続き、東北電が舛倉たちの土地を買収し原発をつくる計画だった。
「おれら百姓にはなんの相談もなかったべ」。先祖伝来の田畑への愛着が農家を反対へと突き動かした。さらに舛倉は、慣れぬ専門書をめくるうち「ゲンパツ」というものが微量でも外部へ放射線を出し続けることを知る。
「結局、危ないから過疎地につくるんだろ。原発に子孫の命は売れねえ」。美保子の兄夫婦に長女が生まれたばかり。舛倉は、その初孫を抱きながらつぶやいた。
チラシの裏に主張をつづり、野菜を手土産にコピー機のある商店で刷って配った。稼働したばかりの福島第一原発に「様子見」と称して臨時作業員になったことも。鳴り響く線量計に被ばく労働の理不尽さを実感した。
電力側はカネや就職の世話で徐々に反対派を切り崩していった。反対同盟のトップを務める舛倉の家には、何かにつけて警官が出入りした。
美保子は思い出す。「地元で電力側に雇われ、父を説得しに来た人がこっそり告げたそうです。『あんたが反対してくれるから、こっちも仕事がもらえるわ』って」
片田舎のつつましい暮らしを肌身で知る舛倉は仲間が賛成に寝返っても、あえて問い詰めはしなかった。それどころか「悪者はおれ一人でいい」と、反対の先頭に立ち続けた。特定の政党や運動と組まず、常に仲間を思いやる姿勢に、声なき共感が集まっていいた。
計画発覚から23年後の91年、舛倉は裁判を通じ、原発予定地内に舛倉ら81人が共同所有する土地について、全員の同意がなければ売却できないという確約書を手にする。東北電は共有地を買収できず、原発計画は暗礁に乗り上げた。
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舛倉はその6年後、83歳で亡くなる。大震災と原発事故を見ることはなかったが、家は津波で跡形もなく流された。故郷は放射能に汚され、舛倉の墓参りには防護服が欠かせない。
美保子は天国の父に語りかける。「お父さんが心配した通りになっちゃったね。でも、浪江にまで原発があったら、もっとひどいことになっていたかも」
舛倉が一度は止めた「浪江・小高原発構想」は今も東北電の経営計画に残る。昨年末には原発の新増設に前向きな安倍晋三政権が誕生した。だが、美保子は、地元を愛し子孫を案じた父の人生が無駄になるとは思わない。
「3.11」から2年を迎える3月、菩提院では、地元のじゃんがら念仏踊りとエイサーの踊り手たちが、鎮魂のために舞う。
福島と沖縄、つなぐ心は「ちむぐりさ」。舛倉が生涯をかけて語ったのも、この言葉だったのかもしれない。人の痛みに心寄せ、
それを自分の痛みとできるなら、未来は変えられると。(敬称略)=終わり
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