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犠牲の灯り 第1部 「ちむぐりさ」/5 マイホーム<下>
2013年1月7日 東京新聞[社会面]
12月の沖縄は、福島の寒風がうそのように暖かい。上地剛立(47)は福島第一原発での仕事を打ち切られ、本島中部うるま市の自宅に戻った。
夜10時半。子どもたちが寝静まった家の玄関をそっと開け、久々のマイホームを見回す。食卓の上に1枚の便箋があった。
「お父さんへ。6カ月間がんばってくれてありがと♡」。そばには、手描きの赤いクマの絵。末っ子の明里(8つ)が用意してくれたものだった。
「眠らず自分でお父さんに渡すんだって言ってたけど」。妻めぐみ(48)がほほ笑んだ。
上地にとって、家族は人生のすべてだ。
小学生のころ、上地は一家そろって当時の人気テレビ番組「3時のあなた」に出演したことがある。母幸子(76)は、上地を筆頭に5男4女を産んだ子だくさんだった。
時代は1972(昭和47)年の沖縄返還直後。「南国の幸せ大家族」は、本土のお茶の間にぴったりの話題だった。
上地は那覇市のスタジオで「お母さん、忙しい中、料理や洗たくありがとう」と手紙を朗読した。自分たちに注がれたスポットライトと会場の拍手が、やけに誇らしかったのを覚えている。
◆◆
だが、家族の幸せはあっけなく崩れた。本土復帰後の景気の浮き沈みの中で、父の営むトラック運送の事業が破綻。父は9人の子どもと妻を残し、愛人と家を出た。
上地は小学校から帰宅すると自宅のトタン屋根に上って遠くを見つめるようになった。「父が帰って来たら、最初に見つけようと思ったんだ」
大黒柱に去られ、一家には頼る親戚もなかった。母は、上地ら幼い子どもの前で「戦争さえなかったら」としばしば涙した。
今から70年ほど前の戦時中、那覇市にあった母の実家は「このあたりに大きな壕を掘る」と言う日本軍に家を立ち退かされた。日米両軍の砲火の中、母たちは本島北部の森をさまよい歩くしかなかった。
戦後戻ってみると、ばらばらにされた家は、柱2本が庭の防空壕に突き刺さるのみだったという。間もなくして代々の畑が今度は米軍に接収され、戦争ですべてを失った。
◆◆
母は蓄えがない上、9人の子育てで外へ働きに出ることもできない。一家は生活保護を受けて暮らし、上地は小さな弟妹たちのおむつを洗って助けた。
母は今、那覇市のアパートに一人で暮らす。息子が「原発に行く」と告げに来た時、止めることはできなかった。妻子を捨てた父親のようにならず、自分で築いた家庭を守り抜くという決意が分かるからだ。
「これ、あっちで使いな」。赤瓦の観音堂で息子と一緒におはらいを受け、さりげなく5万円を差し出した。
正月、家族団欒の輪に入りながら、上地は福島原発で働いた半年を振り返る。
汗まみれになって汚染水と格闘する疲労と恐怖。不可解な雇用形態。最後はモノのように沖縄に送り返された。「結局、おれたちは使い捨てだったんだ」
妻は「もう原発には行かないで」と繰り返す。だが、この小さな島では、家のローンを返し、家族を守る仕事が見つからない。
「また福島に行くしかないのか」。原発事故の処理は危険で、これからも人手がいる。よその会社なら雇ってくれるだろう。
茶の間ではしゃぐ子どもたちの歓声を、基地を飛び立つ米軍機の爆音がかき消した。(敬称略)
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