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犠牲の灯り 第1部 「ちむぐりさ」/4 マイホーム<上>
2013年1月6日 東京新聞[1面]
昨年11月下旬、東京電力福島第一原発1号機の近く。汚染水を入れる高さ10メートル余りの白いタンクを小雨がたたいていた。
「ふたを閉めてこい」。還暦近くとみえる現場の指示役がさらりと言う。放射線を遮るいつもの防護服に加え「線量が高いから」と手渡されたのは厚手のビニールがっぱ。
「こんなもんで…」。タンクを囲む黒と黄色のロープをまたぎながら上地剛立(47)の足は細かく震えた。
雨に濡れた鉄ばしごを一段ずつ。頂上に立つと2、300個のタンクが都会のビル街のように見える。ロープで引き上げたふたを手に、直径50センチほどの穴をのぞくと放射性物質を含んだ暗い水が、薄い陽を浴びてきらっとまたたいた。
◆◆
上地は昨年7月、原発作業員になった。沖縄県うるま市に妻と息子2人、娘2人の家族5人を残しての出稼ぎ。
ところどころ白壁のはげた築20年、3LDKのマイホームは利子を含め1,500万円のローンを残す。小学生の次女や次男の勉強机は居間にひとつだけ。子ども部屋をつくれたら、どんなに喜ぶか。
原発で働く前は10年近く沖縄の観光バス会社でハンドルを握っていた。二日酔いで運転する同僚たちに「いいかげんにしろ」と忠告したら、逆にいづらくなって辞めた。
「日当1万2,000〜4,000円、個室完備、三食付き」。原発作業員を募る地元の土木会社の求人広告は魅力的だった。月収にすれば運転手時代より10万円は稼げる。放射能への不安は「カネのためだ」と振り払った。
福島原発での初日。首からさげた真新しい身分証にあったのはなぜか沖縄ではなく、埼玉県にある下請け会社の名前だった。さらに、現場の班長が奇妙なことを言う。
元請けのゼネコンと面談する際の心得。「沖縄の会社名は出すんじゃない」 「雇われたのは1年以上前だと言え」。明らかな経歴偽装だったが、手にできるカネ、家族の喜ぶ顔を思えば、逆らうなんてできなかった。
6畳一間に3人がすし詰めにされた宿舎。「まずいんじゃないのか」。夜な夜な仲間とささやきあった。
◆◆
上地の仕事は主にタンクの設置。防護服を着ての作業は「まるで蒸し風呂」だ。耳をつく救急車のサイレン。作業員が熱中症で運ばれるたび「次はオレかも」とおびえた。
上地が来て間もなく。ある下請け会社が作業員らに線量計を鉛のカバーで覆うよう強要していたことが発覚した。被ばく線量を少なく見せるためで法に触れる。現場では「鳴き殺し」と呼ばれ、さほど珍しくもなかったが、マスコミに批判された東電は慌てて線量計を持つようチェックを徹底した。
作業前、防護服の首の部分のすき間に手を突っ込み、内ポケットの線量計を取り出す。「ちゃんと持ってるよ」。暑さを嫌い、すき間から肌をむき出しにしたままの作業員も多かったが、東電側が気にするそぶりはない。守りたいのは作業員の安全ではなく、自分たちの体面…。上地にはそう見えた。
「もうこんな仕事やってらんねぇ」。そう言い残し、同じ沖縄から来た仲間たちが一人また一人と原発を去っていく。
そして12月初め。突然「あと数日で仕事は終わり」と聞かされた。事実上のクビ。契約より3週間早く、解雇予告もない。
「もう決定ですか」。食い下がる上地に、班長が言い放った。「帰りの航空券はもう取っておいたから」(敬称略)
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