http://www.asyura2.com/12/genpatu29/msg/574.html
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原発問題はこの問題だけ切り離して解決できない。原発問題に限らず日米同盟やそのほかの様々な社会問題に関して、多くの日本人のためにならない方向に突き進むことを積極的に推進する日本人のエリートたちがいる。この人たちが外国人ではなくて日本人なのには唖然とする。同胞に対してとる行動とはとても考えられない。時に「愛国」という言葉を使いながら、多くの民を欺くように、真逆のことを平気でやっていることに暗澹たる思いである。
拙ブログ1月1日の「この国の行く末」の「阿修羅」への投稿に対して、以下の情報をコメント欄にいただいた。
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http://www.twitlonger.com/show/kinusr
【2012年末の未来記 田中優子 法政大学教授 週間金曜日 925号】明日から日本はこうなる。参院選を待って、先ず原発は次々に再稼働する。活断層その他の情報は可能なかぎり秘匿される。コストのかかる安全対策は行わず地震で事故につながるかどうかは運に任せることにする。原発輸出も盛んになる。
非核三原則は撤廃され武器輸出も容認し尖閣諸島には国家公務員が送り込まれ、閣僚は靖国神社参拝を堂々と行い中国との関係は悪化する。関係悪化は経済に跳ね返ってくる。それを見越して日銀を抱え込み金融緩和、規制緩和を進めるが原発が継続するので新しい変革的事業への意欲は生じず経済活性化は一部の軍需産業を除いて拡大しない。一方、生活保護などの社会保障は最低限になり貧困が拡大する。非正規雇用が更に広がり若者の貧困が深刻になる。
日本の「沖縄化」が進む。米国は人口減少の進む日本を市場として期待しておらず中国に睨みを聞かせる植民地としてのみ利用する。自民党はその間接統治の忠臣であるから米国は勝たせたのである。沖縄,普天間飛行場の辺野古移転は確実になる。その費用は日本人の税金でまかなわれる。思いやり予算も増額される。自衛隊は国防軍と名を変える。
同時進行で憲法96条の改定が行われ憲法改正発議は総議員の二分の一で実施できるようになる。その成立後直ちに憲法9条の改定が発議され日本は「戦争のできる国」となる。国防軍は韓国軍と同時に米軍との軍事訓練を重ね米軍の戦争に同行する様になる。「教育」の名目のもとに韓国のような徴兵制が敷かれる。石垣島を中心とする八重山に国防軍が展開する。正規就職ができない若者達や十分な教育を受けられない若者達は国防軍に入り米軍の戦地に送り込まれる。米国は軍事負担が軽減されて喜ぶ。
日本と中国の緊張が継続し八重山や沖縄本島は警戒体制の中に置かれて観光収入が減り米軍基地と国防軍基地への依存度を高める。一方で米国は中国との経済協力を進めて市場に食い込み日本の中国市場進出を抑えながら利益を独り占めする。自民党議員や一部の企業はその利権構造にぶら下がって裕福になる。
擬似身分制度が復活する。石原家、小泉家に代表される一家の為に権力を拡張する議員が次第に多くなり忠義を誓ってそこに群がる家臣団が形成され権力闘争が私闘として繰り広げられる。政略結婚が多くなり女性が道具化され「産む性」として位置づけられる。
日本人はそういう社会を選択した。投票率は60%に満たず戦後最低の水準だった。この国を「どうでもいい」と思っている人々が40%いるのである。
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私も昨年の12月25日に拙ブログ「第二次安倍政権に関する報道で思う」
http://www.asyura2.com/12/senkyo141/msg/720.html
http://yazumichio.blog.fc2.com/blog-entry-271.html
で似た内容の記事を書いた。(一部再掲)
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「次の参院選でねじれを解消すれば、3年間はフリーハンドを持つことになる。そうなれば、ほとんど怖いものなしになってしまう。
いま公明党と連立を組んでいるが、参院選でねじれ解消がはっきりすれば、公明党を切り捨てても、憲法9条改変、教育制度の管理強化などが可能になるだろう(衆院選の結果のように)。そうなれば、日本の自主独立など向こう100年ぐらいは不可能になりそうだ。国の形態がすっかり変わってしまうかもしれない。
日本は金持ちと貧乏人(支配者と被支配者)だけになり、世界の核廃棄物の処理地となり、国防軍(現自衛隊)は米軍に組み込まれるなど、ますます米国に隷属する方向に進むだろう。許せないのは日本人の一部がこういう動きに、自主的かつ積極的に加担していることだ。不安が的中しなければ幸いなのだが。」
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同じような危機感を持っている人がいることに安堵するとともに、こういう考え方がなぜ広がらないのかの大いなる疑問である。
昨年の衆院選前は「政治」で「原発」を止めるのが、簡明で最短の民主主義の手法だと思った。ふたを開ければ、「敵」の圧勝だった。あげく、「原発」の新規建設のフリーハンドまで手にしそうである。参議院選挙後の原発推進を見据えてもう着々と布石を打っているようだ。大手メディアも効果的に協力しているような気がする。「消費増税トリック」でこの手法に自信を深めたようだ。正月明けもいつもと変わらぬ番組ばかりである。NHKも福島県会津若松の「大河ドラマ・ヒロイン」/「観光・まちおこし」で必死に原発事故を覆い隠すのだろう。日本の将来を考える番組でも「原発事故」はまるでなかったかのようだ。
かたや、「反原発」の大きな盛り上がりのひとつである首相官邸前や国会議事堂前で毎週行われている「反原発」の集会がある。私もに何回かこの集会に参加した。普段声を上げそうもない人が「反原発」の意思を持っているのに感心したり、高校生がしっかりした考え方を持っているのには心強い思いをしたりした。しかしながら、反原発の運動の中でどうしても気になってしかたがないのが「原発やめろ」や「再稼働反対」などの叫び声をあげる(シュプレヒコール)行為である。
現場で気勢を上げるのは、現場にいる人たちの一体感を盛り上げるのには、大いに効果的なのかもしれない。反対運動に立ち上がった人の行動は貴いと思うが、私は現場にいるとどうしても引いてしまう。周りの人は声を上げる人が多いのだが、一割ぐらいは私と同じように声を上げたり、こぶしを上げたりする人はいない。決して反対運動のやり方を非難しているわけではない。何故なのか自分なりに考えてみたいと思った。
間違っているかもしれないが、「反原発」の運動はスポーツの観戦のような「体育会系」のやり方ではだめなのではないかと思う。大きな声を上げ、何の邪念もなく、気持ちを一体として応援すれば、日ごろのストレスが発散でき、一種の爽快感を感じる。しかし、「反原発」運動は、大きな声を上げ一体感をもってストレスを発散させてはいけない問題だと思う。こういった絶叫のシーンが反「反原発」の材料に使われるのをたびたび見た。関西では放射能汚染瓦礫の穏やかな反対運動をした大学の助教が「不当逮捕」された。
「悪者」を糾弾することの意味はあるが、原発問題はそれで解決するような簡単なものではないようだ。多くの日本人は「原発」には反対であるが、その民意だけではそう簡単には崩れなかった。残念ながら、「敵」の作戦が上回っていたのを認めざるを得ない。原発問題は多くの日本人を人質に取ったような、いわば「ガン細胞」のように日本社会にがっちりと組み込まれた制度なのだ。簡単に除去することができない。自分の身体に「ガン」を増殖させる要因があるように、原発の「ガン」を克服するためには、自分の生活の「哲学」(=どう生きるか)の部分までたどってその方法を考えないと、「反原発」のうねりを起こすことができないようだ。
矢津陌生ブログ http://yazumichio.blog.fc2.com/blog-entry-282.html より転載
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