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犠牲の灯り 第1部 「ちむぐりさ」 2 父と子<上>
2013年1月4日 東京新聞[1面]
◆「豊かさ」信じ続ける
「父ちゃん」のはじめてのおんぶだった。9歳のころ。無言でしゃがんだその背に乗った。言葉を交わした記憶はない。父ちゃんは迷わず80メートルの崖下へ身を躍らせた。
よく晴れた暑い日の午前。青い海が血で染まり、老若男女、あたりにたくさんの死体が漂っていた。
太平洋戦争のサイパン島での戦いで大勢の民間人が自決したバンザイクリフ。沖縄県糸満市に住む大城武正(77)は生き残りの一人だ。
小作農だった両親が貧しさから逃れようと沖縄から移住して数年。戦争が始まり、学校で30がらみの痩せた男の先生は「神国は必ず勝つ」と笑った。
米軍がサイパンに上陸し、逃げ惑う中で出会った日本の兵はこう脅した。「米軍に虐殺されるぐらいなら、これで…」。両親に敵と戦うためではないナイフを手渡した。
◆◆
一家8人。あの日、父ちゃんは初めに4つ下の弟を放り投げた。生後3カ月の赤子を抱えた母ちゃん、全員が海へ…。自分と父ちゃんは最後だった。子ども心に死を選ぶのが「お国のため」と信じた。
大城を海から引き上げたのは青い目の兵隊さんだった。収容所で同じように助けられた兄と姉、弟と再会した。喜べない。ほかのみんなとは二度と会えなかった。
戦後、故郷の沖縄に戻るとガジュマルの木の下で雨露をしのぎ、米軍から残飯を盗んで飢えを満たした。
やがて、かやぶきの家を建て、建設会社で重機を扱う仕事を見つけた。10代で結婚し、息子と娘2人ずつ、4人の子どもに恵まれた。30代半ばにはブルドーザーやトラックを買い、那覇市に事務所を構えて独立。まともに学校通いもできず大城は読み書きができない。必要な時は友人が助けてくれた。
1972(昭和47)年、本土復帰を果たした沖縄に本土並みの経済復興を目指して建設ラッシュが始まる。3年後には記念事業の「沖縄国際海洋博覧会」も開幕した。「会場へ向かう道もつくったよ」。大城は誇らしげに口にする。
敗戦を引きずる沖縄で、大城はただ懸命に生きてきた。
博覧会の前年、大城の事務所近くで不発弾が爆発し、4人が犠牲になったことがある。「ドン」。あわてて駆け付けたら顔見知りの作業員がぐちゃぐちゃになって亡くなっていた。が、「怖い」とも「仕事を辞めたい」とも思わなかった。家族を養えなくなることが何より怖かった。
大城はウソが嫌いだ。自分のことを「おじいはホントのことしか話さない」と口癖のように話す。
◆◆
人生にあった幾つものウソ。日本は戦争に敗れた。米軍は捕虜を殺さなかった。本土並みを導くはずだった博覧会から40年近くになるが、沖縄の失業率や平均収入は全国最悪の水準が続く。
暮れの総選挙。左の掌には意中の党と候補者の名。読み書きできない大城に代わり、次女が赤いペンで記してくれた。間違えちゃいけない。鉛筆を握った右手を緊張で震わせながら投票用紙に書き込んだ。いつもと同じ「自民党の人」。
「米軍は、中国や韓国から日本を守ってくれる」 「基地がなくなったら大勢が失業する」。平和で豊かな島へ。大城にとって自民の言うことは、まだホントであり続けている。
守りたかった家族。だが、次女を除き、子どもたちは島で生きるすべを見つけられず、本土へ出た。長男は随分前から行方が分からない。次男もめったに連絡をよこさない。
だから大城は知らなかった。その次男が福島第一原発事故の現場で働いていたことも…。
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[バンザイクリフ]
サイパン島北端の岬にある崖。1944年6〜7月のサイパンの戦いで、追い詰められた民間人が「天皇陛下万歳」などと叫びながら身を投げた。自決者は1,000人以上ともされる。サイパン島では沖縄からの移住者が最も多かった。サイパン陥落後、日本本土への空爆が本格化。太平洋戦争の転機のひとつとなった。
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