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「つらぬけばそこに」<2> みやぎ脱原発・風の会代表 篠原 弘典さん(65)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2013010302000111.html
2013年1月3日 東京新聞[こちら特報部]
3日ぶりに停電が復旧し、ようやく見られるようになったテレビから繰り返し流れてきたのは、水素爆発で原子炉建屋の外壁が吹き飛んだ福島第一原発の映像だった。
「ああいう光景を見たくないからこそずっと運動を続けてきたのに、なんたることかと。とにかく悔しくて、言葉が出なかった」
東日本大震災から3日たった一昨年3月14日。篠原弘典(65)はまだ水道もガスも使えず、電気だけが通った仙台市の自宅でぼうぜんとテレビを眺めていた。福島第一原発の過酷事故の状況はラジオを聞いて把握しているつもりだったが、初めて目にした衝撃の大きさは想像を超えていた。
「危険性を訴えるわれわれの声を、電力会社や行政は何一つ聞こうとしなかった」と語る篠原の原発との関わりは、40年以上前にさかのぼる。
1966年、仙台の進学校を卒業し、東北大工学部に入学。当時は3年進学時に学科を選択する仕組みで、志望したのが原子核工学科だった。
「Atoms for Peace(アトムズ フォー ピース)」。米アイゼンハワー大統領が53年に国連で「原子力の平和利用」を訴えてから十余年。日本でも66年に国内初の原発が茨城県東海村で運転を開始し、世の中全体に原子力を歓迎する空気が流れていた。「広島、長崎への原爆投下で悲惨な経験をしただけに、余計に原子力を平和利用して世の中に貢献することが魅力的に思えた」と振り返る。
ところが間もなく、自身の考えが間違っていたことに気付く。当時は学生運動の全盛期。学問とは何なのか、社会の中でどういう役割を持つべきかという議論が学内外で盛んに交わされていた。
「自然界に存在しない放射能を生み出し、気の遠くなるような長い年月管理しないといけない。原発で働く人の被ばくも避けられない。原子力は過酷事故を起こす危険性をはらんだ技術。平和という名の下に軽々しく利用していいものではないことが、仲間と議論をしたり本を読んだりするうちに分かってきた」
ちょうどそのころ、宮城県女川町と牡鹿町(現石巻市)にまたがる場所に、東北電力女川原発の建設計画が持ち上がっていた。周辺は静かな漁村が広がる地域。70年10月には初の大規模な反対集会が開かれ、反対派住民を支援しようと、仲間とともに頻繁に現地へ通うようになった。
2学年下には、福島事故以降、広く名を知られるようになった京都大原子炉実験所助教の小出裕章(63)もいた。小出も原子力に夢を抱いて大学に進みながら、いち早くその危険性に気付いて反対運動に転じた一人だ。
篠原は小出らとともに、地元住民の計らいで借りられた古い長屋の一室を拠点に、原発の危険性を訴えるビラを作っては漁村を歩き、住民に配って回った。
そこで見たのは親きょうだいや親戚、仲の良い住民が賛成、反対に分かれていがみ合う、どこの原発立地地域にも共通する姿だった。「単に技術的な危うさだけでなく、共同体を壊すという問題も引き起こしていた。原発が抱える、犯罪的側面の一つだと感じた。
女川の反対運動に関わりながら、「もう少し勉強したい」と5年目の大学生活を送っていた篠原にも卒業の時が迫る。同級生は東北電力や東京電力、日立、東芝などの原子力関連産業に就職していた。だが、その危うさを知った以上、もはやそうした選択肢はない。就いた仕事は、意外とも思えるとび職だった。
「社会問題に関わるには、まずは自分の生活基盤を整えないといけない。そう考えて仲間の一人がとび職のバイトを始め、自分もやってみたら妙に性に合った」
当時は高度経済成長期の建設ラッシュで、仕事はいくらでもあった。「国策でもある原発に反対する以上、さまざまな弾圧、圧力がかかる。正社員として就職したら、何もできなくなるかもしれない。準社員のような立場で働けたので、ある程度の自由さは確保できた」と説く。
だが、とび職で働いて女川に通う生活には葛藤もあった。「いつまでも原発にこだわっても仕方がないんじゃないか。親や周りの目もあるし、ちゃんと就職した方がいいんじゃないか」
そんな晴れない気持ちを引きずっていた20代の終わり、1年間青森県にも赴任。仙台に戻った後も父の死や母の病気の看護に追われ、2年ほど運動から離れた。それが逆に自らを省みる貴重な時間になったと述懐する。
「一度は、原子力を選択したものとして社会的責任がある。やっぱり捨てるわけにはいかない」
その後、市民団体の活動や、女川原発建設差し止め訴訟の支援に携わった。しかし原発建設は進められた。福島と同じ沸騰水型軽水炉の1号機建設が79年に始まり、84年に営業運転を開始。改良型の2号機も89年に着工され、95年に完成した。3号機は2002年に動き出した。
結局、20年を費やした訴訟は、00年12月に最高裁で棄却された。だが「仙台から反原発運動を無くしてはいけない」と、01年9月に発足させたのが「みやぎ脱原発・風の会」だ。東北電力の株主として、情報公開を求めたり株主提案をしたりする活動も20年以上、続けている。
今、最も力を入れているのが、子どもたちを被ばくから守る活動だ。妊産婦を含めて放射能の被害を防ぐ体制を確立するよう宮城県や同県議会などに求めている。「子どもの感受性は大人の4〜5倍といわれる。被ばくをできるだけ低く抑えるのが大人の責任だろう」
加えて「女川原発、同じ東北電力の青森の東通原発も絶対に再稼働させないこと」と続ける。
女川原発の主要施設は約14メートルの高台にあり、大津波の直撃は免れたものの一部は浸水し、火災も発生。非常用発電機は1台しか動かないなど綱渡りの状態が続いた。沖合は地震の巣だ。「03年と05年にも設計時の想定を超える地震に襲われた。どんな影響を受けたのかも分からず、動かすのを許すわけにはいかない」と力を込める。
福島事故から間もなく1年10カ月。篠原の願いは、この国の体質を根本から変えることだ。
「電力自由化や発送電分離、再生可能エネルギーなどは、ずっと前から主張してきたこと。何か事が起こらないと議論が始まらないのがこの国の現実。二度と事故が起こらないよう、全ての原発が廃炉になるまで声を上げ続けていきたい」(敬称略、上田千秋)
[しのはら・ひろのり]
1947年、宮城県塩釜市生まれ。東北大卒業後の71年、仙台の建設会社に入社し、61歳まで勤める。みやぎ脱原発・風の会と脱原発東北電力株主の会の代表。共著書に「脱原発、年輪は冴えていま」(七つ森書館)、「プルトニウム発電の恐怖2」(創史社)など。
[デスクメモ]
歩けば砂がキュキュと鳴るこの美しい海辺に「原発」が建設されつつあります〜1982春。すてきな水彩で描かれた鳴浜に今、女川原発が立つ。風の会前身の代表の賀状がネット上にあり、こう続く。「多量の放射能とは共存できない〜原子力エネを使わないですむような生活の仕方が問われている」(呂)
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