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「原発ゼロ」に見る「空気」の支配
戦前から変わらぬ日本人の思考様式
2012年10月24日(Wed) 織田 邦男
今年9月、政府は「2030年代に原発稼働ゼロを可能とするよう、あらゆる政策資源を投入する」との目標を掲げた「革新的エネルギー・環境戦略」を決定した。
「原発稼働ゼロ」の看板を掲げる一方で、使用済み核燃料の再処理事業を継続し、また工事が中断している大間原発と島根原発3号機の建設再開・稼働を容認するといった多くの矛盾点があり、実行可能性にもはなはだ疑問が残る。
原発ゼロで産業空洞化が加速
原発事故に対する国民の不信は強い。だからといって原発を止めれば国民の安全と安心が確かなものになるとは言えない。
脱原発により化石燃料の輸入増と自然エネルギーの急拡大に伴うコスト増は産業の競争力を失うのは明らかだ。電力料金は約2倍に値上がりするという。大多数の中小企業は経営が成り立たず、産業空洞化は加速するだろう。
燃料費は例年より3兆円増え、貿易収支は1.1兆〜2.8兆円悪化する。国内総生産(GDP)は2.3兆〜15.3兆円押し下げられ、就業者数も46万人減少するという(経産省推計)。これで国民の安全、安心が確かなものになるとはとても思えない。
エネルギーは国家を支える最も重要なインフラであり、楽観論や期待感で政策を決定するのは絶対避けねばならない。「国民にとって不幸なシナリオ。先の分からないものを感覚的な判断に求めるべきでない」と長谷川閑史経済同友会代表幹事が語る通りだ。
選挙を意識したとはいえ、国策を180度転換する重い決断を、衆知を集めた慎重な検討もないまま拙速に下したのは、大局を見失った政権与党の無責任さだと非難されても仕方があるまい。
脱原発を支持する某新聞は社説でこう述べた。
「国民が原発との決別を望んでいることは疑いのない現実」「ゼロというゴールは、曲がりなりにも示された。意見聴取会やパブリックコメントなどを通じて、国民の過半が選んだ道である。もちろん、平坦ではない。消費者も、電力に依存しすぎた暮らし方を変える必要に迫られている。だが、私達には受け入れる用意がある」
本当にそうだろうか。世論調査では国民の多くが脱原発を望んでいるようだ。だが脱原発を望む国民が、脱原発による負担とリスクを十分に理解したうえで覚悟を決め、「決別を望んでいる」とは思えない。
原発をゼロにするには再生エネ拡大に約50兆円、省エネに約100兆円を要するという。GDPは50兆円近く落ち込み、失業者も200万人増加するという見積もりもある。これらを果たして「受け入れる用意がある」のか。思いをめぐらせていると、ふとデジャブ(既視感)を覚えた。
昭和16年11月、日米が一触即発の情勢下、日本政府が最後の和平のチャンスを模索していた頃、衆議院では「国策完遂決議」が可決された。
「世界の動乱ますます拡大す。敵性諸国は帝国の真意を曲解し、その言動はますます激越を加う。隠忍度あり、自重限りあり、わが国策つとに定まり、国民の用意なる」決議文は続く。
「政府はよろしく不動の国是にのっとり不抜の民意に信頼し、敢然起って帝国の存在と権威を確立し、もって大東亜共栄圏を建設し、進んで世界平和を確立すべし。右決意す」
趣旨説明に立った島田俊雄代議士は叫んだ。「趣旨は読んで字の如く。これは国民の総意だっ!」
明らかにされない再生可能エネルギーの実現可能性
当時、国民は300万の犠牲者を覚悟してまで米国と戦うことを、「国民の総意」と認識していたのだろうか。日本を焦土にすることまで受け入れる「用意」があったとはとても思えない。
日本商工会議所の岡村正会頭は次のように述べている。
「国民負担や再生可能エネルギーの実現可能性は明らかにされず、到底納得できない。電力料金の上昇をもたらし、国際競争力の喪失や産業空洞化の加速で、国力が低下することに強い危機感を覚える」
負担やリスクを知らされず、実現可能性が明らかにされないまま、「用意」などできるわけがない。今回、約10%程度の電気代値上げが実施された。これだけで中小企業は青息吐息となり、国民からは既に不満が出ている。
将来、電気料金2倍値上げは不可避というが、果たして国民は耐えられるのか。具体的な痛みを国民に理解させないまま、「私達には受け入れる用意がある」とは、70年前の「国策完遂決議」と同様、無責任の謗りは免れない。
こういう日本人の思考様式を見るに、戦前、誰が考えても「必敗」と分かっている戦争に突っ走った反省はつくづく生かされていないと痛感する。
日本人は意思決定に「空気」が大きく作用する。「空気」だから後日、なぜそうしたかが分からない。昭和20年、3000人を超える兵士を乗せた戦艦大和が沖縄へ特攻出撃した。「なんてことを」と現代人は非難する。だが、当時これを決定した会議の出席者は口を揃えて「反対する空気ではなかった」と証言している。
故山本七平氏は名著『「空気」の研究』でこう述べる。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。(中略)大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない」
原発ゼロは戦艦大和の特攻出撃と同じ
太陽光、風力など再生可能エネルギーの普及をはじめ、原発の代替電源を確保する目処は全く立っていない。それを「無謀と断ずるに至る細かいデータ」は山ほどある。
にもかかわらず、各地で行われた意見聴取会では、「日本の技術力を再生可能エネルギーにつぎ込めば、何とかなるはずだ」という空気が支配していた。「無謀だ!」と言える「空気」ではなく、言っても聞く耳を持たない。戦艦大和の特攻出撃と同じなのだ。
これが床屋談義や居酒屋放談であればまだいい。為政者が責任ある意思決定を行えばいいからだ。だが、選挙間近とはいえ、今回のような重要な国家の意思決定までが「空気」に左右されるから厄介だ。
昭和16(1941)年4月、内閣に総力戦研究所が創設された。目的は国家の支柱となるべき人材養成であり、各省庁、民間企業、日銀、新聞記者等から平均年齢33歳、「人格、身体、智能に卓越し将来の指導者たるべき資質を有する」36人のベスト&ブライテストが集められた。
7月に「第一回総力戦机上演習」が実施された。模擬内閣を作って「日本が南方の石油を獲りに行ったらどうなるか」という机上演習である。到達した結論は、「日米戦争は必至」であり、その結果は「日本必敗」であった。
8月末、総理官邸で研究報告会があり、総理大臣に演習結果を報告している。
「12月中旬、奇襲作戦を敢行し、成功しても緒戦の勝利は見込まれるが、しかし、物量において劣勢な日本の勝機はない。戦争は長期戦になり、終局ソ連参戦を迎え、日本は敗れる。だから日米開戦を何としてでも避けねばならない」
精緻なデータを使っての机上演習結果は、真珠湾攻撃と原爆投下を除いては、その後に起こる現実と驚くほど酷似していた。
研究所長の講評が終了後、熱心に聴講していた当時の陸軍大臣東條英機は次のように発言したという。
「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争というものは、君たちの考えているようなものではないのであります。日露戦争でわが大日本帝国は、勝てるとは思わなかった。しかし、勝ったのであります。(中略)戦というものは、計画通りにいかない。意外裡なことが勝利につながっていく。従って、君たちの考えていることは、机上の空論とはいわないとしても、あくまでも、その意外裡の要素というものを考慮したものではないのであります」
机上演習と同じ時期、「日米戦」に備えて、本物の内閣が国力の各種見積もりを実施していた。出てきたデータは希望的観測に満ちており、分析も極めて甘い。結果的に見積もり結果はこれまでの方向性を覆すには至らず、ズルズルと日米開戦に引きずり込まれていく。
現実のデータを無視して太平洋戦争へ突入
この違いは何だろう。模擬内閣の方は、現実を直視して、各種データに誠実に向かい合い、科学的に分析して結論を出した。
他方、本物の内閣は「これならなんとか戦争をやれそうだ」という自分に都合のいい甘い見通しを盲信し、都合の悪い情報は思考から排除していった。科学的データが政策判断の根拠とならなかったのだ。
脱原発への意思決定を見る時、模擬内閣とは対照的な本物の内閣の思考様式と二重写しになる。脱原発に好都合の情報は盲信し、都合の悪い情報は「悪」のレッテルを張り、思考から排除する。メディアの記事がこれを裏付ける。
「原子力政策は、『原子力ムラ』と呼ばれる狭い世界の中で、人知れず決められていくきらいがあった。(中略)経済への影響を恐れる産業界や、日本の原子力技術の衰退が、安全保障に影響を及ぼすことなどを憂慮する米国への過剰な配慮があるからだ」と決め付け、「市民参加の仕組みが何より大切」として専門家の意見、客観的データが排除された。
科学的根拠がない非現実なことを、都合のいいように解釈することで、あらかじめ決めた結論に無理繰り持っていこうとする。まさに戦前の内閣のパターンである。
「今回の戦略で示したエネルギー革命はIT革命のような技術革新の連鎖に繋がる。エネルギー消費の総量を減らしながら経済成長が可能」
「経済の落ち込みはない。むしろ再生エネや省エネ関連で内需が発生し、国際競争力が高まる」
根拠のない空虚な言説がまかり通る。責任ある閣僚の言葉だから驚きだ。
「原発を止めると、火力発電の燃料費がかさみ、電気代が上がるという。(中略)火力発電所の燃料代は1年に約7兆円、この内4兆円分が排熱として、海中に捨てられる。この熱をはじめから活用すればいい」
「省エネ関連など消費エネルギーの小さな分野の成長を促し、産業構造を改革すれば、原発に頼らずに経済成長とCO2削減を両立できる」
科学的根拠のない空想論がこれでもかと、まことしやかに述べられる。
メディアが煽った反原発のうねりに同調した政府
こういう言辞に科学的検証を加えるでなく、輪をかけて国民をミスリードするメディアの責任も大きい。某新聞の社説は語る。
「私達はもうすでに原発ゼロを体験済みだ。今年5月5日のこどもの日、国内の全原発が42年ぶりに停止した。大飯原発3号機が再稼動するまでの2ヶ月間、私達は、未来を垣間見た」「私達は、自信をつけた。2030年までに原発はゼロにできると」「シェールガスの普及による燃料価格の下落や、電力自由化に伴う電気料金の低減で、光熱費はそこまで上がらない」
現代の日本人は決して戦前を非難できない。現実から逃避し、都合のいい情報だけを受け入れ、観念的にものを考える悪弊は、戦前と同じである。
「奇襲攻撃に成功すれば、当面はインドネシアからの石油で何とかなるし、アメリカは世論の国だから、厭戦気分が広がり、講話に持ち込めるだろう」と思い込み、大戦へ突入していった思考様式と全く変わっていないのだ。
選挙を意識し、政府が「人気取り」に走ったのは、メディアが煽った「反原発」のうねりが影響したのは事実だろう。
今は幾分下火になったらしいが、最近まで毎週金曜日、首相官邸周りの永田町ではデモ隊が「反原発」を叫んでいた。元々は会社員がツイッターで呼びかけたのがきっかけという。
某新聞社は「街頭へ」の特製ロゴまで作ってデモ参加を煽った。テレビ報道も子連れ主婦や高齢者をクローズアップし、これが国民の声だと言わんばかりのキャンペーンを張った。
官邸がデモの波に取り囲まれるのは、日米安保条約改定に反対する「60年安保闘争」以来のことである。そのせいもあってか「再稼働反対」「原発いらない」の連呼を聞くと、1960年の「安保反対」を思い出す。
1957年、岸信介首相が安保改定に乗り出した。当初は反対デモも限定的であったが、60年5月19日、新安保条約が強行採決されたのをきっかけに、請願デモは岸内閣退陣を要求する抗議デモへと先鋭化した。6月15日には国会での衝突で女子東大生が死亡する最悪の事態になる。
60年安保闘争に参加し、全学連の中央執行委員も務めた西部邁氏(元東大教授)から以前、直接話を聞いたことがある。当時、デモに参加するほとんどの人は条約の改定条文など読んだことがなかったという。西部氏はデモで3回も逮捕されたそうだが、彼ですら条文を読んだことがなかったと聞いて驚いた。
空気に動かされていた大多数のデモ参加者
メディアによって作り出された「空気」に動かされ、大多数のデモ参加者は「安保改定」の意味を深く考えることもなく「安保反対」を叫んでいたわけだ。
作家司馬遼太郎氏は生前こう語っている。
「日本人が持つどうにもならない特性の一つは時流に対する過敏さということであるらしい。(中略)それが時流だと感ずるや、何が正義か、何が美かなどの思考は全く停止し、一つの方向に向かってなりふり構わず駆け出してしまう」
官邸周辺で「再稼働反対」「原発いらない」を絶叫する人々で、「原発ゼロ」による産業空洞化、大量の雇用喪失、その結果の失業、貧困などのリスクを理解し、受け入れる覚悟を固めている人はどれだけいるだろう。
「原発ゼロ」も「安保反対」と同様、そのリスクは回り回って自分の身にどう響いてくるのかなど、真剣に考えているとはとても思えない。ただそこにあるのは「空気」であり、「時流」なのである。
今、尖閣諸島領有権を巡る挑戦的な中国の行動に対し、日本国内でも色々な意見がある。世論調査では尖閣諸島の国有化については賛成75.1%で、反対12.9%だった。尖閣諸島の領有権を主張する中国に対し、政府が「もっと厳しい姿勢で臨むべきか」との質問には、79.5%が「思う」と回答している。
中国に対する強硬な意見も、宥和的な意見も主張するのは自由である。だが「断言できないが、大声で叫ぶ者が一番害をもたらす」と英国の政治家ロバート・ピールが言うように「大声」に惑わされたり、「空気」や「時流」に流されることなく、根拠あるデータに誠実に向き合い、科学的な分析に基づいて政戦略を固めることが求められる。
政府は「最終的には世論に従う」と言う。だがそれは無責任である。情報が最も集まるのは政府である。豊富で精緻な情報に基づく科学的分析で得た結論をもって、国民に対しリーダーシップを発揮するのは政治家の役目である。
「世論」は「空気」に左右されやすい。「空気」によって形成された「世論に従う」だけでは衆愚政治である。衆愚政治に政治家はいらない。世論調査で政策を決定すればいいからだ。だがそんな政治に明日の日本は任せられない。
重要なことは国民一人ひとりが「空気」に惑わされず、常に懐疑的な態度を失わずに自分の頭で考えることである。さもなくば政治家は育たないし、メディアのチェック機能も果たせない。衆愚政治の拡大再生産を許してはならない。
混迷が続く日本。戦後67年、もうそろそろ日本人の宿痾とも言うべき「空気」の支配から脱する時ではないだろうか。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/print/36364
#反脱原発の典型的な論理
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