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スッキリ!する話に潜む毒
2012年8月31日(金) 小田嶋 隆
「日本生態系協会」という公益法人があるのだそうで、そこの会長に当たる人物が、ちょっと困った発言をしている。以下、引用する。
「――(略)――日本は福島がそうですが、これからですね内部被ばく、これがどうしようもないんでございまして、これからの放射能雲が通った、だから福島ばかりじゃございませんで栃木だとか、埼玉、東京、神奈川あたり、だいたい2、3回通りましたよね、あそこにいた方々はこれから極力、結婚をしない方がいいだろうと。結婚をして子どもを産むとですね、奇形発生率がどーんと上がることになっておりましてですね、たいへんなことになる訳でございまして。――(略)――」
「えっ?」
と言ったきり、言葉が続かない。
どういうつもりなんだ?
経緯を振り返ってみよう。
新聞各紙が伝えているところを要約すると、状況はこんな感じだ。
発言の主は、公益法人「日本生態系協会」の会長である池谷奉文氏。7月9日に「日本生態系協会」の主催で開催された「日本をリードする議員のための政策塾」という会合での講演だという。
で、件の講演を聞いた福島市議会会派「みらい福島」の議員は、後日、池谷会長のもとに、真意を確認する確認書を送付する。と、池谷会長は「そのような発言はしておらず、事実に反する」と反論し、発言を裏付ける根拠を示すよう求めて来た。これに対し、同会派の菅野輝美議員は、8月29日に開いた記者会見の中で、「メモを取っており、他市の議員も聞いている」と主張している。
一方、池谷会長の方は、同じ29日に各報道機関などに宛てた文書の中で、福島の人を差別するようなことは申し上げたことはありません」と発言を否定している。が、その後、福島民報社の取材に対し、発言内容を認めた上で「福島の人を差別するようなことは思っていない」と反論。これまでの取材に一貫して「発言していない」としていたことについては「差別発言ではないという意味だ」と答えた。 《以上、「産経新聞」8月29日、「福島民報」8月30日より抜粋》
なんだか、グダグダな展開だが、真意はどうあれ、発言はあったということのようだ。
それも、冒頭で引用した通りの文言で、だ。
こういう場合、語る側の「真意」は、重要な要素ではない。
「差別の意図はない」
「いじめるつもりじゃなかった」
「足を踏む気はなかった。靴を踏んだだけだ」
「蚊がいたから叩いたのであって、殴った自覚は無い」
「蹴っていない。足を上げたらたまたまそこに人間がいたということだ」
「酔ってない。酒を飲んだだけだ」
「酔っぱらい運転なんかしてない。運転してるうちに酔いがまわっただけだ」
問題は、「意図」ではない。
「雨じゃない。大粒の霧だ」
と言い張ったところで、洗濯物が濡れることには変わりがない。
実際のところ、多くの差別は、差別する側が意図しないところで発生している。それどころか、かなり多くのケースで、差別を実行している人々は、正義を成し遂げているつもりでいる。そして、差別は苛烈であればあるほど、差別者はそれを自覚しなくなる。
もうひとつ重要なのは、池谷会長が「内部被曝」という「量」についての検証抜きでは語れないはずの事象について、ほとんど何の説明もしないまま、警鐘を乱打したことだ。
危険性を訴えることはむろん無意味ではない。が、しっかりとした根拠は示さねばならない。それをしないと、警報はただの風評被害になる。悪くすると差別を誘発する悪魔の指笛になってしまう。
ツイッターを眺めていると、いまだに「安全デマ」という言葉を振り回している人たちに出くわす。
彼らに言わせると「安全デマ」(放射能や原発についてその安全性を強調することを目的としたプロパガンダや偽情報)は、「危険デマ」(同じく放射能や原発についてその危険性を強調するタイプのウソや誤解)に比べて、格段に凶悪だということになっている。で、彼らの中では、安全デマを流す人間は真性の極悪人だが、危険デマを流した人間はただの「おっちょこちょい」ぐらいな扱いになる。悪気は無かった。被災地の人々のためを思って安全率を高めに見積もっただけなのだ、と。
違うぞ。
どっちにしてもデマはデマだ。
うそつきには、きちんとケジメをつけさせないといけない。
でないと、デマは差別の温床になる。
内部被曝の危険性については、疫学的にまだはっきりとわかっていない部分があると言われている。とはいえ、長年の研究を経て一応の閾値が定められてはいる。すなわち、どの程度の放射性物質を体内に取り込んだら、それが人体にとって危険であるのかについては、現状で、一応の目安となる数値が提示されているということだ。
であれば、内部被曝の危険を訴える以上、どの地域の、どのポイントで、どんな食事をとって、何ベクレルの放射線を取り込んだら、どんな疾患についてのどの程度のリスクが想定されるのかを、きちんと説明しないといけない。そうしないと、良心ゆえであるはずの警報は、いとも簡単に差別のスイッチに化けてしまう。
池谷会長は「放射能雲の通過」というおよそつかみどころない雲の如き不安を根拠に、その雲が通過した地域全般を、丸ごと危険地域に指定してしまっている。
で、その危険に対処するためのアドバイスが、
「極力結婚しない方がいい」
だというのだからたまらない。なんという放言。そして、なんと典型的な偏見であろうか。
でもって、その彼のアドバイスに耳を傾けなかった場合のリスクは、
「結婚をして子どもを産むとですね、奇形発生率がどーんと上がることになっておりましてですね、たいへんなことになる訳でございまして」
である。まるでホラー映画じゃないか。
どういうアタマを持っていたら、こんな断言が可能なんだ?
驚くのは、こういう人が主催している「政策塾」に、全国から70人もの議員さんが駆けつけていたことだ。
しかも、冒頭の発言があった「日本をリードする議員のための政策塾」は、「第12回」で、ということはつまり、これまでに11回も「塾」が開講されていたことになる。
調べてみると、池谷会長は「鳩山友愛塾」にも招かれて講演をしている。
ううむ。
鳩山由紀夫さんは、高校の先輩なのだが、どういうめぐりあわせなのか、あの人には、ポイントポイントでがっかりさせられることになっている。素晴らしい理念を抱いておられることは存じ上げている。が、いかんせん人を見る目が無い。それでいつも道を誤っている。惜しい人だ。
私のような者が忠告を試みるなど、僭越この上ない所業なのだが、ここは一番、同窓のよしみで勇を鼓して言ってみることにする。
鳩山先生、まず、目の前の鏡をごらんになってください。
そこに映っている人物の顔を見て、「この人はなかなか有望だぞ」と、あなたがもしそう判断しておいでなら、あなたの人を見る目は、残念ながら、まだまだ曇っています。
ひと目見て、「ああ、こいつはダメだ。目が死んでる」と、そこのところがわからないとダメです。
お願いします。どうか、人を見る目を養って、日本の未来のために精進してください。
さて、池谷会長のために一言弁護をしておく。
おそらく、会長は、引用した発言から想像される通りの、まるっきりのアホンダラではない。
私の想像するに、会長は、話の面白い人で、だからこそ彼の講演には政治家が参集した。そういう分類のヒトだ。
ただ、会長には、話を「盛る」ヘキがある。講演芸人にはありがちな傾向だ。
今回の例も、色々な話をちょっと大げさに言ってみることでウケを取っている講演常習者が、「ついつい言い過ぎた」という文脈の中で起きた出来事なのだと思う。ご本人の自覚としては、
「内部被曝には気をつけなきゃいかんよ」
という主旨のお話を、ちょっと極端な例を引いて強調しただけなのに、と、そう思っているはずだ。
講演では、旗幟鮮明で、言語明瞭で、論旨明快な直言パーソナリティーが喜ばれる。
人気の高い話者は、「どちらかといえば」とボカすよりは「まぎれもなく」と強調し、「かもしれない」と濁すよりは、「以外のナニモノでもない」と喝破する。その方が客は喜ぶ。だから、上級講演者は、「〜の可能性がある」みたいなヌルい語尾は使わない。「〜の時代が来る」と断言する。その方が拍手が大きくなる。なぜなら、講演会のパイプ椅子に座っているのは、占い師の水晶玉の前に座っている客と同じタイプの人々で、彼らが知りたいのは科学的な分析や精緻な観察結果ではなくて、一刀両断の直言だからだ。
留保を含んだ観察や、場合分けを前提とした診断は、情報を受け取る側の人間にとって、知的負荷が高い。
だから、面倒を嫌う人々は、極端な結論を好む。
たしかに、結論が極端なら、対処は簡単になる。
「福島県はもうダメです。すぐに疎開すべきです」
なり
「放射能の危機は去りました。もう何を食べても安心です」
なり、どっちにしても、そういった検討や吟味の余地を残さない断言にもたれかかった方が、生活はシンプルになる。
これに対して、地域別の線量を定期的に調べたり、食べるものの放射線量をいちいちチェックする作業は、実に面倒くさい。
が、実際に、事態は、面倒くさいカタチで進行している。そういうものなのだ。ひとくちに福島といっても、線量の高い地域もあれば、そうでない地域もある。区分けも、簡単にまっすぐな線で分けられるようにできているわけではない。食べ物もそうだ。どの地域で収穫された、どんな食品から、どれだけの放射線量が計測されたのかは、面倒でも、ひとつひとつ個別に調べないとどうしようもない。
そういう、手間のかかる仕事に疲れた人たちの心を、単純でセンセーショナルで、飲み込みやすい、スローガンみたいな情報がわしづかみにする。そして、偏見や差別は、そういう単純化を好む人たちの中で生まれ、成長し、広まって行く。
単純化といえば、今月の27日、「尊厳死の法制化を認めない市民の会」の発足集会に顔を出してきた。
まるで別な話題のように聞こえるかもしれないが、私の中では、内部被曝の話と尊厳死の話は、ひとつにつながっている。「尊厳死法案」もまた、本来的に多様である人間の生と死の間に、単純な線を引こうとする法案だと思うからだ。
放射性物質の飛散と残存の状況は、一様ではない。人間の側もひとくくりにはできない。だから、それぞれに、自分たちの個別の環境や考え方に沿った方針を、ひとつずつ、一足ごとに作り上げて行かなければならない。それは、おそらく、気の遠くなるような手間のかかる仕事であるはずだ。
が、面倒でも厄介でも、そうするほかに方法がない。それが、ポスト第一原発事故における唯一の現実的な生活だからだ。
死も、単純に線を引いて良い話ではない。
生と死の間に境界線を設定することが困難なことはもちろんだが、「終末期」の定義も一筋縄では行かない。それらを一人ひとりの患者にいちいち当てはめていく作業が簡単であろうはずがない。
なにより、どこまでが尊厳ある生命で、どこから先がそれを失った生き方であるのかを決めることは、ほとんど不可能に近い。でなくても、患者本人が意思表示できない中で、延命治療の不開始や停止を判断することは、医師や家族にとって、とてつもなく重い決断だ。
その決断を法律に委ねることができれば、楽になることは確かだし、現実に、それを願っている人が一定数いることも事実だと思う。複雑で困難な事態に直面し続けている人間は、目の前の現実を単純化したい衝動に駆られるものなのかもしれない。
でも、法案が通れば、意思表示もできずに死に追い込まれる人が出るはずだ。患者本人が、家族の介護負担への気後れや、医療費への懸念から、尊厳死を選ぶかもしれない。あるいは、身障者やご老人には、もっと手前のところで、尊厳死への圧力がかかる可能性もある。
いずれの場合でも、元来が不可知的な命題である人の生死が、法的な整合性の中にとりこまれていく。それはとても不自然なことだ。
法案は、15歳以上のすべての日本人が、リビングウィル(尊厳死についての考え)を表明し、その決断の内容を身分証明証のようなものに表記することを想定している。そうすれば、不慮の事故であっても、速やかに延命治療の開始/不開始を決定(もちろん、その前に患者が「終末期」であることを判定する必要があるが)することができる。と、不要な(とお国が考える)治療費を節約できる。そして、それ(尊厳死の増加)は、臓器移植を待つ患者にとっても福音になる。
言いたいことはわかる。
しかしながら、私には、この法案が、「死」を効率化しようとする動きであるように思われるのだ。
あるいは、効率化しようとしているのは、「死」ではなくて単に医療費なのだろうか。
でなければ、真の狙いは臓器ビジネスの産業化なのか?
考え過ぎかもしれない。
が、こと、生死に関しては、われわれは考え過ぎなければならない。ここのポイントで思考を放棄することは、自身の死と生を他人に委ねることを意味している。
色々と、盛り込み過ぎたかもしれない。
これ以上の詳しい議論については、「尊厳死の法制化を認めない市民の会」のホームページを見に行ってほしい。
私が懸念しているのは、法制化が実現すると、死を美化する風潮がさらに勢いを増すことだ。
ただでさえ、うちの国の大衆文化は、死を称揚する物語で溢れかえっている。個人的に私は、そういうお話が大嫌いなのだ。
ツイッターで「死にたい」とか「死んじゃいたい」という書き込みを見つけると、私は心底、イライラする。
そう思うのは仕方の無いことだが、書き込むことが、他人にどういう影響を与えるかを、どうして考えないのか、そこのところに腹が立つのだ。
それもこれも、「死」が美化され過ぎているからだ。
忠臣蔵、白虎隊、新選組。時代劇はおしなべて死ぬ人間を賛美している。現代劇も似たようなものだ。生きることに執着するのはたいていの場合悪役で、主人公たる英雄や美人は、自己の生命に対して恬淡と構える設定になっている。でもって、死ぬと一気に伝説になる。太宰治、三島由紀夫、尾崎豊。どれもこれも、死んだことで二階級ぐらい扱いが上がっている。こういう評価に私は反対だ。生き続ける人間が評価されなければならない。というよりも、尊厳は、生を描写する言葉であって、死と組み合わせて良い言葉ではない。どうかしている。
若い人たちは、死に関するあれこれを遠い物語だと思っている。で、甘美な幻想を抱いている。
その一方で、老人や病人については、心のどこかで、それらを、蔑み、恐れ、侮っている。
だから、老病や、苦痛や、醜貌よりも、一足飛びの死の方がずっと美しく、シンプルで、尊厳あるものだと感じている。
私自身も、そういう若者だった。つまり、「病気になってまで生きていたくない」と考える若者だったということだ。
* * *
10代の頃は、「自分は30歳までには確実に死んでいる」と思っていた。具体的に死にたかったわけではない。進学や就職について考えるのがどうにも憂鬱で、いっそ死んだ方が得策だと考えていたということだ。考えの浅い高校生にとって、死は、呪文みたいなもので、この魔法の言葉を召喚すると、あらゆる未来を無効にすることができる。若いというのはそういうことだ。どういうことなのかというと、「行き詰まったら死んじまえばいいわけだろ?」と考えることと、実際に死ぬことの間に、とてつもない距離があることを、このクソガキはまったく知らないのである。
うまく着地することができない。
が、気に病むことはない。
きれいに落ちる結末ばかりを評価する態度は良くない。
それは、死を美化する風潮と同質の欺瞞を含んでいる。
生き続ける人間は、中途半端を恐れてはならない。
切れ味悪く終わるからこそ次がある。
という終わり方は、たしかに、実に切れ味が良くないわけだが。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
でも、読んでみると意外に切れてるんです。
かつての高校の同級生が語り合う「人生の諸問題」から生まれた3冊目の書籍、『いつだって僕たちは途上にいる』。『人生2割がちょうどいい』『ガラパゴスでいいじゃない』と主張してきたふたりと、呆れつつも暖かく伴走してきた清野由美(今回、帯でブチ切れていますが。なにかあったのでしょうか)。
しょうもない話が一気に高みに駆け上り、それ以上の速度で駆け下りる、あの対談を今回もお楽しみいただけます。心の中に永遠の中学二年生がいる皆様と、そんなオヤジたちが理解できない、もしくは理解したいと考えている健気なあなた、両方を満足させる一冊です。
重版出来!!
2冊の本になった「小田嶋隆の『ア・ピース・オブ・警句』〜世間に転がる意味不明」大絶賛発売中!
『地雷を踏む勇気〜人生のとるにたらない警句』、『その「正義」があぶない。』の2冊の単行本が重版出来! 大絶賛発売中です。2冊の内容はまったく別物。あなたのお気に入りのあのコラムはどっちに収録されているか?!
小田嶋さんの名文、名ジョークを、ぜひ、お手元で味わってください。
小田嶋 隆(おだじま・たかし)
1956年生まれ。東京・赤羽出身。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社。1年ほどで退社後、小学校事務員見習い、ラジオ局ADなどを経てテクニカルライターとなり、現在はひきこもり系コラムニストとして活躍中。近著に『人はなぜ学歴にこだわるのか』(光文社知恵の森文庫)、『イン・ヒズ・オウン・サイト』(朝日新聞社)、『9条どうでしょう』(共著、毎日新聞社)、『テレビ標本箱』(中公新書ラクレ)、『サッカーの上の雲』(駒草出版)『1984年のビーンボール』(駒草出版)などがある。ミシマ社のウェブサイトで「小田嶋隆のコラム道」も連載開始。
小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明
「ピース・オブ・ケイク(a piece of cake)」は、英語のイディオムで、「ケーキの一片」、転じて「たやすいこと」「取るに足らない出来事」「チョロい仕事」ぐらいを意味している(らしい)。当欄は、世間に転がっている言葉を拾い上げて、かぶりつく試みだ。ケーキを食べるみたいに無思慮に、だ。で、咀嚼嚥下消化排泄のうえ栄養になれば上出来、食中毒で倒れるのも、まあ人生の勉強、と、基本的には前のめりの姿勢で臨む所存です。よろしくお願いします。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20120830/236185/?ST=print
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