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<前回投稿からのつづき>
原発収束作業の現場から
〜ある運動家の報告〜
[注]1F→福島第一原発
2F→福島第二原発
【W】原発労働の現場と反原発運動とのかい離
――原発の現場に入って、労働者の命と権利を守るための方向は見えましたか
大西:簡単ではないことが分かりました。ムラ社会の中に、労働運動をもちこむことの難しさがあります。声を挙げたら一生食えなくなる。
――原発事故という形で、この社会の根幹が揺らいでいます。住民運動・市民運動・農民運動なども大きく動き始めています。その全体の前進の力で、原発労働の厳しい現実をも跳ね返す空間を作っていく、ということではないかと考えますが
大西:そういうことも考えています。ただ、現状だと、それを一緒に作っていくという方向を、反原発運動の側が向いていない。逆に原発労働者を孤立化させるように、運動の側が世論を形成しているように感じられます。
――それはどういうことでしょうか
大西:「東電社員の賃金なんかカットしろ」といったことを運動の側が言いますよね。もちろん東電は悪いですよ。
だけど、そうすると何がカットされるかといったら、東電社員の賃金もカットされますが、作業員の賃金もカットされるのです。本当にひどい構造。
例えば、「東電を解体しろ」と言う。そこら辺までは分かります。でも、東電や協力企業を全て潰してしまったら、実は、原発が動かないという次元の問題ではなくて、収束や廃炉の作業ができなくなってしまうんですよ。
▼まもなく作業員が枯渇
――作業ができなくなるとは
大西:原発労働者が足りなくっています。
放射線管理手帳をもっている労働者は約8万人。その内の3万5千人が、もういっぱいまで浴びています。9カ月で半分に減っちゃったんです。今のペースで行くと、たぶん(2012年)夏ぐらいには、原発労働者の人数は枯渇するんです。
そうなると1F(福島第一原発)の収束作業はもちろん、他の原発の冷温停止を維持することさえもできなくなる危険があるんですよね。
まして廃炉というのは、1Fの作業で分かる通り、人数がものすごくいる。国内の54基全部を廃炉にするというなら、数百万人の労働者が必要です。
――そういう問題として受けとめていませんでした
大西:収束とか廃炉とかの作業を、原発労働者がやっているという感覚を運動の側が持っていない、身近なものとして感じていないという気がします。
「廃炉にしろ」と、東京の運動が盛り上がっているんですけど、語弊を恐れずいえば、特定の原発労働者、8万人弱の原発労働者に、「死ね、死ね」って言っているのと同じなんですよね。「高線量浴びて死ね」と。自分たちは安全な場所で「廃炉にしろ」と言っているわけですから。
原発労働者を犠牲に差し出すみたいな構造が、反原発運動に見られると思います。
そういう乖離した状況があるので、福島現地や原発労働者の人と、東京の人が同じ意識に立って反原発・脱原発の方向になることは簡単ではないと感じています。
――自らの問題として、廃炉というテーマに向き合う必要があると
大西:そうですね。廃炉という問題にたいして、みんなが少しずつ浴びてでも作業をするのか、「いや、原発反対なんだから作業もしないよ」というのか。「被ばく労働なんてごめんだ」といってしまうと、では廃炉の作業はどうするのか。東北の人に押しつけるという意味でしかないですね。
希望的理想的に言えば、1人が100ミリシーベルトを浴びるんじゃなくて、100人で1ミリシーベルトを浴びようよと。
しかし、現実的には、みんなが、そういう気持ちになるというわけはいかないと思います。
とすると、2つ道があります。
1つは、原発労働に従事するからには、被ばくするわけだから、「健康の問題について、一生、見ます。もし何かあったときは補償もします。賃金も高遇します」という風にするべきです。もちろん中抜きはありませんよ。準国家公務員みたいな形で雇ってね。
もしくは、2つ目は、徴兵制みたいに、「何月何日生まれの何歳以上の人は、ここで1週間、被ばく作業をして下さい」みたいに強制的にやるか。
後者は、すごくいやなんですけど、でも僕が、実際に原発労働をして思ったのは、これは、反原発運動をやっている人は、全員やったほうがいいんじゃないかなということです。
反原発だけではなくても、もしそこで原発の電気で恩恵をこうむっているんだったら、やるべきなのでないかという気持ちになっています。
▼東京と福島
――東京と福島の関係についても問題を提起されています
大西:そうですね。東京の人びとは、一方的に電力を享受してきた立場で、福島・新潟っていうのは一方的に作って送り続けていく側。福島の人は、一切、東電の電気を使っていません。
そこで問題なのが、圧倒的多数者の東京・首都圏の人たちが、少数の福島・新潟などの原発立地周辺の人びとにたいして、ある種の帝国主義による植民地支配のような眼差しをもっていることです。それは、権力を持っている者、為政者と全く変わらない眼差し・同じような意識です。
それは、運動の側でもそういう眼差し・意識に立っています。それがものすごくこわい。このことに思いが至らなかったら、たぶん反原発運動はおしまいじゃないか。
◇沖縄問題に通底
――これは、沖縄の側から米軍基地問題で提起されていることと通底しているのでは
大西:全くその通りです。僕も、そこにつなげようと思っています。
琉球民族の土地に基地を押し付けるというのはまさに植民地問題なんです。
――「基地を東京へ持って帰れ」と、沖縄の人たちが言います。それにたいして、本土の運動の側が、激甚に反発します。
大西:そうなんです。
琉球民族の人口が、だいたい日本民族の百分の一ですね。多数決で言ったら沖縄は一方的に蹂躙される側です。
そういう関係の中で、本土の側は、体制側であろうと反体制側であろうと、沖縄の米軍基地を引き取ろうとは絶対しないです。
そういう意味では、為政者・体制と同じ眼差しで琉球民族を支配してます。
それと同じ構造が、今度は、首都圏が福島や新潟にたいして行っています。
――そういうことが、無自覚に進められる意識構造が、近代日本の基本構造なのでは
大西:そうですね。沖縄と東北地方に矛盾を押し付けることで、帝国日本が成り立ってきたわけです。その問題が、こんな形でだけども、ようやく見え始めてきました。
この切り口をどうやって、これまでの運動の本当に反省と転換ということに持っていけるだろうか。それができなかったら、本当にもう大変なことになるなという気持ちです。
▼「ガレキ受け入れ反対」への異議
――全国で、「ガレキ受け入れ反対」が運動化しています
大西:東京や神奈川・千葉で、反原発運動が盛んですよね。
だけど、たとえば、松戸市や流山市は、降り注いだ放射性物質が濃縮された下水の汚泥やコミの焼却灰を、秋田に捨てていたんです。
もともと、首都圏は、産業廃棄物を東北地方に捨ててきた。東北地方は、首都圏のゴミ捨て場。そういう構造になっていました。
松戸市や流山市は、その汚泥や焼却灰が高濃度の汚染物質だということは分かっていたんです。分かっていたけど、国が発表する前に、秋田などに黙って送っていたという問題です。
だけど、松戸や流山の運動は、このことを問題にしていませんね。
―――たしかに、ガレキ問題は、放射能問題を考え始める契機としてあると思いますが、なぜ東京に電力を供給する原発が福島にあったのかとか、汚染と被ばくに苦しむ福島の住民や被ばく労働を担う原発労働者の存在といったことに思いをはせるということがないと、先ほど言われていた「為政者と同じ眼差し」になっていきますね。
大西:そうです。
福島の方に、クソをずーっと貯め続けていて、そのクソが飛び散ってしまった。
東京の人は、「クソが飛んできたじゃないか!」って文句を言っているけど。
「それ、あんたが流したクソでしょ」って。
自分のクソの処理ぐらい自分でやんないと。せめて「いっしょに掃除しましょうよ」というふうになりたいんですけどね。反原発であろうと推進派であろうとね。
ところが、反原発運動をやっている人は、自分たちは被害者で、まったく罪はないという風に思っていますね。
――たしかに、反原発の人でも、加害の問題を提起すると反発しますね。
大西:そうですね。そこにどうアプローチするか。
「原発を、消極的であれ、積極的であれ、推進してきた側と同じ歩調でいたんだよ」ということを、分かってもらうためにはどうしたらいいのか。
難しいと思うけど。
――逆の側からですが、原発も汚染土も東京に持って帰れという憤りが、福島の人びとも心の底にあります
大西:もしもですが、「これから第一原発がまき散らした放射能を、全部、東京湾に埋めるんで、東京の人は、気を付けてくださいね」ということをやったら、果たして受け入れるでしょうか、という話ですが、ありえないですよね。
でも、東京の人は、その逆のことを、いとも簡単にやっているのです。傲慢な力を行使していることにすら気づいていないのです。
ところで、『月刊 政経東北』という月刊誌が、福島にあります。その昨年11月号の「巻頭言」で、次のように呼びかけています。
「・・・霞が関の関心は、大震災・原発事故から年金制度改革やTPPなどに移りつつある。補償も除染も震災復興も不十分な中、抗議の意味を込めて、汚染土を国と東電に返す運動を進めたい。送り先は次の通り。・・・」
――知っています。実際、この呼びかけに応えてなのか、環境省に土が送られました
大西:そう。だからこういう意識は絶対にありますよ。ダンプに積んで永田町や霞ヶ関かに土をお返しするんだという話は、そこここでされています。
それを弾圧できるのか。それを弾圧するとなると、「そもそも放射性物質をまいた人は弾圧されないのか。おかしいぞ」という問題提起ができるわけです。
▼被害者意識から、加害の自覚へ
――被害意識から運動が始まるとしても、その意識をどう発展させられるかです
大西:そうですね。最初の意識は、被害者であっても構わない。
被害者の自覚も大事です。ただ、そこから自分は加害者でもあったということへの気付きが大事です。被害者意識に留まったら限界になります。
被害者意識から始まって、加害性に気づいていくのですけれども、実は、さらに、そのあとが重要ではないかと思っています。昔あったような総ざんげに陥ったら、今度は、責任を不在にしてしまうんですね。
本当の次の段階というのは、「自分たちにも加害責任があるんだ」と気づいたら、「では何をしたらいいのか」というときに、本当に戦争犯罪人を自らの手で裁くことだったはずです。
――そう、東京裁判ではなく人民裁判。これができなかったのが戦後の敗北の原点
大西:そうなんです。人民裁判なんです。
一人ひとりと対話して問いかけていけば、「自分たちも共犯者だったんだ」という意識にはなると思います。だけど、「では誰が悪いんだろう?」ということで、本当の原発推進派が、結局、曖昧にされてしまうということになりかねない。
そこで、3段階目。被害者意識が第1段階、加害者性の自覚が第2段階だとすれば、そこから国民総懺悔ではなくて、「本当の犯罪者をきっちりと人民の手で裁きましょうよ」という動きにもってかなくちゃいけないと思います。今は、まだ、第一段階の「自分達は被害者だ。ああ、東電ひどい」という形で進んでいる状況です。
――その点で、全国各地の運動は、福島との実体的な交流がまだ弱いという気がします
大西:そうですね。
福島のひとたちの顔や、原発労働者の顔を思い浮かべて運動をしたら、東京の運動は、被害意識に留まっていることはできないはずです。
同じことですが、廃炉というスローガンが、観念・抽象の世界にどんどん進んでいくなあっという感じがしますね。
――東京の現場の人たちと、この問題で討論は
大西:僕と意識を共有している人もいます。
その人は頭を抱えていますね。運動が、「ガレキ受け入れ反対、受け入れ反対」と、だんだん感情的になっていることに、「ちょっと違うんだけど」と言っています。
――そこで運動にかかわっている中心的な人たちの意識や大衆的な論議が重要では
大西:そうですね。
可能性はあると思っています。そもそもこれまでの労働運動のあり方自身に壁があったわけで。そういう壁を突破していく意味でも、この議論は必要ですね。
(おわり)
以上、『未来』104号、106号、107号
http://kakukyodo.jp/12mirai.htm
より引用。
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