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甲状腺被曝の実態は未解明、福島県の意向で調査中止も(2) - 12/07/11 | 00:00
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政府は昨年3月下旬、いわき市、川俣町、飯舘村で1000人強の子どもを対象に甲状腺被曝状況の調査を実施。1歳児の甲状腺等価線量100ミリシーベルトに相当する毎時0.2マイクロシーベルトを超えた子どもはいなかったと発表した。ただ、簡易検査だったため、放射性ヨウ素による被曝線量を直接測ることはできていない。
精密な機器を用いて放射性ヨウ素による甲状腺の被曝状況を測定したのが、弘前大学被ばく医療総合研究所の床次眞司教授らのグループだった。
床次教授らは昨年4月12〜16日に、南相馬市からの避難者45人および浪江町津島地区の住民17人、計62人の甲状腺中の放射性ヨウ素を測定。46人から放射性ヨウ素が検出されたものの、呼吸による摂取時期を3月15日と仮定した最新の分析結果では、「乳幼児を含む全員で(IAEA〈国際原子力機関〉が定めた安定ヨウ素剤服用の基準である)50ミリシーベルトを超えていなかったと考えられる」(床次教授)という。
そのうえで床次教授は、「当時、津島地区に多くの乳幼児が避難で滞在していたと仮定すると、50ミリシーベルトを超える子どもがいた可能性は否定できない」とも指摘。「ハイリスクの子どもを特定したうえで、継続的な健康支援が必要だ」と強調する。
惜しまれるのは、被災者への個別調査を嫌う県の意向を受けて同調査が5日間で中止を余儀なくされたことだ。
国は事故直後の初期被曝の実態解明に取り組もうとしているが、放射性ヨウ素が減衰した現在では新たなデータ取得は不可能。初期に集められたあらゆる手掛かりを用いて当時の被曝線量を推計するしかないのが実情だ。
(週刊東洋経済2012年6月30日号)
※精密な機器を用いて放射性ヨウ素による甲状腺の被曝状況を測定したのが、弘前大学被ばく医療総合研究所の床次眞司教授らのグループだったが 「被災者への個別調査を嫌う県の意向を受けて同調査が5日間で中止を余儀なくされたことだ。」
鬼畜山下俊一が「又とない貴重な人体実験の邪魔をするな。」と圧力をかけて調査を止めさせたのだろう。
ろくな調査も治療もせず様子を見る所業はかつてアメリカで行われたタスキギー梅毒人体実験を彷彿とさせる。
アラバマ州タスキギーで行われたことからタスキギー研究と呼ばれる人体実験は1932年秋から1972年まで行われた。
米公衆衛生局の医師たちは被験者である貧しい黒人小作農夫600人に梅毒を注射した。
医師たちは、399人を「実験」、201人を「コントロール」に分け、「実験」の399人には治療を行わず、梅毒の進行過程を観察した。
タスキギー梅毒人体実験とも呼ばれるこの行為が40年間にわたって行われたのだ。
無料で治療を受けられるとの宣伝で集められた600人の被験者は、まず胸部レントゲン写真と心電図などを取られ、完全な健康診断をされた。血液検査が繰り返された後で、全員が「血液に悪性の病気があり、治療のため長期にわたって注射をしなければならない」と申し渡された。「治療」の名の下に梅毒が注射されたのである。
こうして始まった研究は、日常的には地元の郡保健省と公衆衛生看護婦が維持した。地元の人間で、被験者の生活を知っていた看護婦たちは、医者と被験者とのコミュニケーション役でもあった。医者と被験者たちの言葉が通じないこともあったのだ。
注射は25年間打ち続けられた。人体実験の観察は40年間続いた。人体実験の期間中、注射を打ちに来た被験者たちには食事、鎮痛剤のような付随的な薬物か偽薬が無料であてがわれた他、最終的に50ドルが渡された。そして、死亡した場合には葬儀への援助が約束されていた。もちろん、健康診断も無料だった。
実は葬儀に対する援助には裏があった。研究で重要とされたのは、梅毒の進行過程を追うことと検死だった。葬儀の援助には検死に応じるという条件がついていたのだ。
貧しい黒人農民にはこうした援助は経済的恩恵に思えた。それは、家族に金銭的負担をかけないですむという意味で、彼らにとって唯一の死後の「保険」だったのである。
それでも、検死を拒否する家族もあった。行われた検死は145だった。
研究の間、被験者が一般の医者に梅毒の診断をされても、公衆衛生局は治療を阻止した。
1950年代にはペニシリンが簡単に利用できるようになったし、実際に使用されたが、「実験」に分類された399人、タスキギー400と呼ばれる人々にペニシリンは使われなかった。
人体実験のため梅毒で死んだのは100人。これははっきりと確定できる数だ。彼らは梅毒の症状で苦しみぬいて死んでいった。
1936年には治療を受けた「コントロール」の39%が発病し、「実験」の84%が発病していた。1942年には治療を受けていた被験者の13.9%が死亡し、「実験」の24.6%が死亡していた。1952年には「コントロール」の20%、「実験」の40%が死亡していた。生きていた被験者たちの多くが病苦の中にあった。
毎年、血液検査をされていた人々が、こうした状態にあり、放置されていただけではなく、治療を阻止されていたのである。
人体実験の目的は、梅毒の進行過程の観察であった。医師たちは治療をしなければどうなるか知りたかったのだ。
1972年にAP通信のジーン・ヘラーがこの人体実験を記事にした。1972年7月26日の「ニューヨーク・タイムズ」の記事によって、タスキギー梅毒人体実験は一般に知られるようになったのである。それによって調査団が結成され、彼らは研究が不当なものであり、ただちに中止するよう勧告した。
それまでに調査がなかったわけではなかった。1969年に公衆衛生局の調査団は、タスキギー研究からは医学的な知識は得られないと報告した。タスキギー研究は、医学的には無価値であると公衆衛生局の調査団が認定したのだ。しかし、報告書にはそれでも被験者の治療はされるべきでないとあった。
1996年には、タスキギー梅毒人体実験の生存者は11人だけとなっていた。彼らや遺族たちが起こした訴訟は勝利に終わった。計1000万ドルの賠償金が支払われたのである。しかし、アメリカ政府と大統領は謝罪を拒否し続けて来た。実験そのものにくわえて、政府の姿勢が黒人や少数民族の不信を深めた。
タスキギー研究は黒人の大量虐殺だったという噂が絶えない。エイズも黒人根絶の陰謀であると言われる。また、今でも黒人たちの多くが内科治療を避ける傾向があるのも、この人体実験のせいだという。タスキギー梅毒人体実験の残した傷はあまりに深い。
1997年5月16日、クリントン米大統領は生き残った被験者5人らをホワイトハウスに招き、正式に謝罪した。
ホワイトハウスでの謝罪式典で大統領は「政府のしたことは恥ずべきことだ。明らかに人種差別的な研究を組織したことを私は申し訳なく思う」と述べた。
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